2 修羅の竜 2
娼婦のゼナ……彼女の過去。
ジダン侯爵家は名門だった。古くからの家柄だし、ナーラー国全土を治める天王の遠い親戚筋でさえある。
国のために戦った聖勇士を何人か血統に入れており、英傑の血筋を誇る武家でもあった。
ゼナイドはそのジダン家の一人娘だった。
切れ長の目に大きな瞳が生来の勝気を醸し出す娘。流れるような髪を長く伸ばし、紅いドレスを好んでいた彼女は、ジダン家の薔薇と異名をとっていた。
花の異名をとりはしていたが、彼女にはやや気性が激しい所もあった。
ある貴族家の夜会で、美貌で浮名を流すプレイボーイの貴族からダンスを申し込まれた時。ゼナは人々の面前ではっきりと拒絶した。
腕の立つ冒険者が侯爵家から仕事を受け、実力を鼻にかけて敬語も使わず父を「あんた」呼ばわりした時、報酬の金袋を投げつけて追い払った。
だが一方で、自分が認めた相手には好意を露わにした。
見目の良くない貴族の子息が彼女を乗馬に誘った時。少しおどおどしながらも丁寧に誘ってくる彼に笑顔で応え、背中ではなく胸に抱かれて相乗りし、乗馬の腕を誉めた。
貧しい人のために僅かな報酬で働くせいで、腕の割に儲からない冒険者が領内の民を助けた事がある。彼女は半日だけ自分を護衛するよう改めて依頼し、相場からは考えられない報酬を出させた。
ゼナは彼女の考える「高貴な淑女」であろうとしたのだ。
立派な武人である父と、聡明な母のもとで。
彼女の転落は、その両親を一夜にして失った時に始まった。
生まれ育った家であり、難攻不落とまで言われたジダン侯爵城が陥落したのだ。
父は魔王軍の侵攻に敗れたのである。
母の機転で辛くも隠し通路から逃げ出せたゼナ。
だが城下町さえ廃墟にされる戦火から逃れ、離れた町に辿り着いた時――彼女はたった独りになっていた。
頼る物全てを無くしたゼナ。
だが真に落ちるのは二日後だった。
その日……彼女は体を売った。
敵の目を欺くため、彼女を逃がそうと兵達は囮になったため。
ゼナは独りで一文無しだった。
食い扶持を稼ぐための技能は何も無かった。
生まれて初めての空腹を堪える忍耐も無かったし、有ったら死んでいただろう。
親戚の領を頼ろうにも、飲まず食わずで歩ける距離ではなかった。
有るのは己の身一つ。
敵の目を恐れて裏路地に入り、空腹でぼんやり座り込んでいるゼナに、勘違いした男が声をかけたのは幸運だったのか不運だったのか。
「お嬢ちゃん、これでいいかい?」
男は硬貨を、一晩安い女を買う金を出しながら訊いた。
空腹の苦痛と餓死への本能的な恐怖。
それに対して、理性など——無力だ。
男は黙っているゼナの手を牽いたが、彼女は抵抗しなかった。
廃屋に連れ込まれても抵抗しなかった。
脱がされ、男が欲望のままに求めだしても、それでも——抵抗しなかった。
生まれながらにして人の上に立つ、高貴で穢れない体。いずれ上流の貴族から夫を選び、その男にのみ許すはずだった清らかな体。
それをこの日、下層で生まれて暮らす名も知らぬ男に与えた。
ゼナの中に思うさま吐き出し、一息つくと、男は感激して叫んだ。
「俺が初めての……! そうか、そうなんか!」
男はみすぼらしい財布をゼナの手に叩きつけるように渡すと、また求めて来た。繰り返し、繰り返し。
「もうできねぇよ……はあぁ、ここまではりきっちまったのは初めてだ。あんた、痩せてはいるけどスゲエ奇麗で気持ちいい肌だなぁ。なぁなぁ、名前は?」
果てきってなおゼナを抱き締めて離さない男に、ゼナは何も答えられなかった。
己の名前を口にできなかった。
「へへ、あんたもバテちまったか。まぁいいや、また来るよ。俺、常連になるからな?」
夢心地でそう言うと、男は口づけしてきた。
ゼナの唇に。品無く、浅ましく、貪るように、好意は有っても悪意は無く。
服を着て、未練がましい男と別れ、裏町の傾いたパン屋で一切れ買って、それを食べて……ようやく空腹から解放されたゼナ。
ふらふらと人のいない路地へ入り、彼女は頭を掻き毟って泣いた。
泣きながら呻いた。呻いたが、言葉にはならなかった。
男は悪人では無かった。対価をちゃんと払った。思った以上の商品に喜び、最初の約束より多く払った。おかげでゼナは食事にありつけたし、金はまだ残っている。
身分卑しい相手に、粗末な食料をちょっと多めに買える程度のつまらない額のため……ゼナは取引に応じて自分の体を提供し、売買は成立したのである。
無理強いや嘘は無かった。暴力を振るわれも、騙されもしなかった。
ゼナはこの日、それが自分の価値だと認めたのだ。
ゼナは——この日から娼婦となった。
食べるために相手をとって体を売る仕事を、この日の後も続けた。
彼女は物覚えが悪いわけでも不器用でもない。
最初の食事にありつく方法が、売り子だの呼び込みだの清掃だのなら……それを続けて食を確保しただろう。
だが、最初に覚えた手段が体を売る事だった。
他の職は探さなかった。
他の職についても、昔の自分が戻って来る事はもう無いのだ。
本当のゼナイド=ジダンが戻るためには、どうすればいいのだろう?
「父が……母が……生きていてさえくれれば……」
それが、ゼナが独りでいる時の口癖になっていた。
武人の父と聡明な母、真の貴族たる二人が生きていてくれたら、ジダン侯爵家はきっと立ち直る事ができるだろう。その時にはこの間違った現実は正され、ゼナイドはジダン侯爵家の薔薇として蘇る筈なのだ。
仕事の無い日、独りで眠れる日には、ゼナは口癖とともに両親の事を想い続けた。
ゼナは町から町へ、渡り歩いて暮らした。
万が一にもゼナイド=ジダンを知る者に、安い娼婦のこの女を見られるわけにはいかなかったから。侯爵領の中心から端に向かい、徐々に渡って行った。
娼館や裏の組織に属さず単独で仕事をしている身には、妙な連中に目を付けられる前に移動を繰り返す暮らしの方が都合も良かった。
途中で体調を崩して行き倒れかけた事もあったが、辛くも今日まで生き延びたのだ。
いつの間にやら領の最果て、シインの町にたどり着き、そこで代官の部下が娼婦を募集している所に出くわした。
旅の後で懐も寂しくなっていたゼナは、それに応募した。
そしてゼナは魔王軍残党の元へ連れて来られてしまったのである。
ここで自分がさらに落ちていく事など、知る由もなく。
逃亡奴隷の女にする案もあったが、最近の美少女奴隷はすぐ助けられて寵愛されるようなので、助けが間に合わなかった嬢にしておいた。