Operations 2 標的
本牧埠頭での乱闘騒ぎから数えること三十六日と八時間。郊外の住宅地に埋もれるようにして建つ古い日本家屋では、女性の怒鳴り声がその周辺に朝の訪れを告げていた。
隣りの家に住む女子高生は、騒々しい隣家を眺めいつものことかとバッグを前カゴに押し込むと、溜息ひとつ自転車に跨がりペダルを踏み込む。
こりゃいかん、練習試合の時間に完璧遅刻だわ、と考えながら。
そんな彼女の視線の先にあった玄関先の表札には、宇童の文字が覗えた。
「いま何時だと思ってんの! 早く起きて仕度なさい!」
階段を駆け上がりながら喚き散らすこの女性。名を宇童京子といい、あの宇童ヒロトの義母でありヒロトにとっては血の繋がりこそないものの唯一の家族と言えた。
その京子が朝から怒鳴り散らすのはもはや日常茶飯事となってはいたが、この日に限っては態度だけでなく暴力をも伴っていた。
京子は階段を登りきると突き当りのドアを勢いよく蹴破る。
蹴破るとは言ったが、その表現は些か間違いであり正しくは破壊する、であった。
ドアを固定していた金具は弾け飛び、肝心のドアそのものは叩き割られ、砕かれた木片は壁面にぶつかり床へと落下する。
齢三十五にしてモデル並みの身長とスタイルを兼ね備えていたが、最も秀でているのは何を隠そう彼女の格闘技術であった。
おそらく、この日本国内において本気の彼女に比肩し得る者は僅か数名のみ。
それは日本古来より伝わる秘伝武術を習得していることと、引退こそしてはいるが彼女の生業に関係していた。
京子の怒りの矛先は、未だベッドの上で寝息をたて夢の中にあった。ドアが粉砕されるほどの騒音でさえ目を醒まさないのだ、なんと図太い神経の持ち主であろうか。
「あふぅ……もう……食えねぇよ京子さん……うにゃむにゃ……」
ヒロトの寝言が、京子の次なる一撃を誘発させる。わなわなと全身を震わせる京子の右腕は、頭上へと高々と振り上げられた。
「なぁにが、もう食えねぇだこの糞ガキがぁ!」
勢いよく振り下ろされた手刀はヒロトの腹部に狙いを定めていた。
無意識のうちに身の危険を察知したのか、ヒロトは眉間に皺を寄せると逆さ倒立の要領で飛び起き床へと着地する。
伸身の後方三回転半捻り、H難度の見事な着地であった。
そして、今しがた横になっていたベッドは無惨にも、折り畳みベッドよろしく中央で分断されその両端を跳ね上げた。
肌でも感じられる殺気が夢の中からヒロトを覚醒させる。寝惚け眼から一転、大きく見開かれた瞳は血走っていた。
「なんか物凄え殺気を感じたんだけどさぁ……京子さん、いまマジで殺ろうとしたよね?」
「だからなに? アンタを起こすにはこうするしかないじゃないの」
「起こすもなにも俺はいま停学中だぜぇ。いつ起きようと俺の勝手じゃねえの?」
ヒロトのひと言を受けて、京子が放っていた殺気は消し飛んでしまう。そして呆れたように後頭部を掻き毟りながら、京子は溜息をつく。
「はあぁ……ヒロト、まさか忘れたなんて言わないでよね。今日は貴方にとって、とってもとってもとーっても大切な面談があるんじゃなかったかしら?」
ヒロトは腕組みをするなりその場に座り込むと、記憶の断片を拾い集めるべく大脳皮質に働きかける。が、学習能力の極めて低い彼は海馬にて一時保存されたその情報をすでに消去していたのであった。
「うぅーん……むうぅ……やっぱ無理だわ思い出せねぇよ京子さん。いったい何の日だっけ?」
「ほんっと呆れた子ね。いい、今日の理事長との面談であんたの停学処分を解くか継続するかが決まるんじゃないの」
「おっ、そういや教頭の白河がそんなこと言ってたっけな。それならそうと早く起こしてくれりゃいいのによ」
「起きなかったのは誰よ。いいから早く着替えて下りてらっしゃい」
改めて部屋の惨状を見たヒロトは呟く。この糞女ゴリラが、と。
そしてふと、窓の外へと視線を移したヒロトの眼には、電柱から飛び立つ一羽の鷹が映り込んでいた。
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京子の愛車、ホンダS600はすこぶる快調であった。もちろん、心臓部であるエンジンをAS285EからバイクであるCBR1000RRの物へと換装していたことにも起因はしていたが、それだけで説明の出来る走りではなかった。
快調故に京子のアクセルに乗せた右足は限度を知らない。
更にはハンドルを握るその手も、随分と軽快に左右に振られていた。
続けて、路面との摩擦で生じたタイヤの悲鳴、スキール音が、一つ、また一つ。
快調どころか、走っている車という車の間を縫いながら国道バイパスを爆走しているのだ。
「ちょ……ちょいタンマ! 幾ら何でも飛ばし過ぎだっての!」
「しようがないでしょ! アンタが寝坊したりなんかするからよっ!」
オープンにされたS600は風を巻き込み、大声で叫ばなければ会話もまともに行えない。
それでも京子は冷静なようで、マニュアルミッションを扱うその手つきはプロのレーシングドライバー級であると言えた。
前方を走る運送トラックの荷台が目の前に迫ると、ギヤを二つ下げハンドルを切るなりアクセルを蹴り飛ばす。
エンジンが吠える。
更に吠える。
そしてスピードに乗ると同時に運送トラックは視界の後方へと姿を消してゆくのだ。
いやいや、街道レースの実況などしている暇はないのだが、それだけ京子は急いでいたと言いたいだけだ。
理由としては、既に理事会の始まる時間はとうに過ぎていた事と、偽装ナンバーを付けた黒塗りのセダンが数台、距離を置いて後をつけていたからであった。
京子には身に憶えが無かった。無いと言えば嘘になるが、このやり方は自分に対してのものではないと結論づける。そうであるならば、ヒロトを狙っている輩に違いないと考えられた。
もとより宇童ヒロトとは、そのように運命づけられた若者であり、京子はそんな彼を幼少期より護り続けて来たのであった。
だからこそ、その者達から逃げる必要があったのだ。
バイパスから一般道に抜ける出口が見えて来ると、京子は信号が赤に変わるタイミングを見計らって右に急ハンドルを切る。
交差点に鳴り響くクラクションの嵐。
急ブレーキを踏み、衝突を避けようとした車輌達で交差点は不通となってしまう。
当然、黒塗りのセダン達も追跡を諦めるしかなかった。
セダンの助手席では、黒いスーツ姿の男が無線を使い何処かへと連絡していたが、その相手が誰であるのかまでは分からない。
だが、男は無線の相手にこのように伝えていた。
「上手く撒かれてしまいましたが、ターゲットは予定通り学校へと向かっております」
交通機動隊の到着を前に、黒塗りセダンは早々と向きを変え走り去るのだった。
一方、左の片輪を浮かせながら京子の駆るS600は脇道へと侵入してゆく。其処が一方通行であると知りながら、である。
危やうく対向の原付バイクと衝突しそうになりながらも、抜け出た先は目的地とは目と鼻の先であった。
つまり、ヒロトの通う高校である。
正式名称は、私立天龍第一高等学校。
通称天高、知る人ぞ知るその道の登竜門だ。
勿論、その意味は分かって頂けるだろう。
「わ、わ、分かったからスピードだけでも落とせって!」
身の危険を感じたのか、ヒロトの必死の訴えに京子はアクセルを弛めるのだった。此処まで来れば大丈夫、そう思っていた。
商店街からほど近い対向2車線道路を進んでいると、高いフェンスで囲まれた鉄筋コンクリート造りの校舎が右手に見えてくる。
此方側の道に面した窓という窓には鉄格子がはめ込まれており、目につく外壁にはスプレー塗料による落書きか、何かをぶつけたのであろう焦げ茶色の跡が無数に残されていた。
此処を学校と呼ぶには、如何にも物騒極まりない様相であった。
近隣の住人達は天高の事を監獄と呼び揶揄していたが、其処に通う生徒達の大半が卒業後暴力団関係の下部組織に就職しているのだから、あながち間違いではなかっただろう。
それと、ヒロトがこの高校に進学したのは他に受け入れて貰える学校が無かったからであり、それはヒロトに貼られたレッテルのせいでもあった。
だからこそ、こうした素行不良の生徒でも受け入れてくれる学校は大変稀有であり、京子は卒業までなんとしてでも通って貰いたかったのだ。
停学であるならまだよいが、退学とあってはヒロトの為にならない。
そう考えていたからこそ、今日という日が特別大事であったのだ。
正門前を通り過ぎ次の通りを右折すると、職員、来客用の専用駐車場がある裏口へと繋がっていた。通いなれた京子からしてみれば、見慣れた景色ではある。
ところがどうも様子がおかしい。
いざ駐車場へと車を乗り入れてみれば、普段埋まっているはずの駐車スペースのそのどれもが空車であった。
教師や生徒達が使う駐輪場もまた然り。
いくら夏休みとはいえ、当番の教職員であったり部活動に励む生徒や顧問の教師、補習授業を受けに来た生徒達など、そのどれもが無人であるなど考えられない。
しかし、学校敷地内のどこからも、まるで人の気配が感じられないのである。
京子とヒロトは同時に何かしらの違和感を抱くのであった。
車から降りて二人は玄関口へと向かう。屋根付きの渡り廊下を横切り、生徒達の靴箱がずらりと並んだ昇降口を越えたところに、来客用の正面玄関があった。
入口の前に、一人の男が立っていた。長身で痩せており、禿げ上がった頭部と削げ落ちた頬からまるで骸骨のような印象を受ける。
更に、皺だらけのスーツはクリーニングに出してはいないのであろう、袖口はチョークの粉で汚れたままとなっていた。
ヒロトのしでかした不祥事により、度々呼び出しを喰らっていた京子からしてみれば、すでにその男は顔馴染みとなっていた。教頭の、白河である。
「宇童さん、約束の時間は遵守してもらわないと困ります。ただでさえ御子息、ヒロト君の立場は危ういのですから」
「大変申し訳御座いません。それが道中事故に巻き込まれてしまいまして、迂回をしていたらいつの間にやらこんな時間に……」
「言い訳でしたら後ほどゆっくりとお伺いします。先ずは取り急ぎ会議室へ参りましょうか。理事長は、大変ご立腹ですよ」
京子の顔に焦燥感が滲み出る。それはそうだろう。最悪の事態を避けんが為にやってきたこと全てが、仇となって返ってくるのだ。
最早ヒロトの停学解除は望めそうにない。
しかしなんとしてでも退学処分だけは避けねばならない。
そう考えたなら、自ずと頭は下がっていた。
白河に案内され職員会議室へと向かう京子であったが、未だ違和感の正体は掴めていない。
前を歩く白河の背中に、どこかしら緊張した様子が見てとれるのだが、それが何に対してなのかまでは分からない。
歩く速度を落とし、京子は後ろに続くヒロトへと囁くようにして話しかけるのだった。教頭の白河には、悟られぬようにして。
『静かに聞いて頂戴ヒロト。何だか、嫌な予感がするわ。私より先に、絶対に手を出さないと約束してくれる?』
『やっぱ気付いてるよな。でも、約束は出来ねぇよ京子さん。いまこうしてる間にも、ビンビンと伝わってくんだよね……殺気が……』
『そう言うと思ったわ。だけど、今回ばかりは私に任せてちょうだい。貴方が出ると、事が大きくなっちゃうんだから』
ヒロトの感情は昂ぶっていた。その先に、自分より強い奴がいるかもしれない。そう考えただけでわくわくしてくるのだ。
だが、いつもの京子と違い今の彼女から出た言葉には、不倶戴天の覚悟が垣間見えた。
ならばと、ヒロトは短く『分かったよ』とだけ返すのだった。
先を行く白河が、理事会の会場となる職員会議室の前で立ち止まると、後ろを振り返り手招きをして催促してくる。
「宇童さん、何やってんですか。お、お願いですから、い、急いて下さい!」
白河は焦っていた。また極度の緊張からであろう、その顔面から血の気は失せており、大量の脂汗が顔から床へと滴り落ちていた。
会議室のドアに伸ばされた指先も、僅かではあるが震えていた。