エピローグ
「鷹はいいよな。自由だし……空を飛べるし、そもそも格好良いしよ」
教室の最後尾、窓際がヒロトの席であった。授業もそっちのけで窓の外を眺めていた彼は、空を優雅に舞っている鷹を眺めながら羨望の眼差しを向け呆けていた。
「よそ見してんじゃねえぞ糞ガキっ! 私の授業を何だと思ってやがる!」
飛んで来たチョークに殺気を感じ、ヒロトは咄嗟に机を持ち上げ防備に徹するのだが、構えた机は見事なまでに粉砕されてしまうのだった。
たかがチョークの投擲如きに、である。
「なにしやがる先公! よそ見してたくらいでマジになんじゃねえよ! 今日からアンタ、糞女ゴリラ2号なっ!」
「勝手にダサいあだ名つけないでくれる、君」
ヒロトのいるこのクラスを急遽副担任として受け持つこととなった女教師、仁木雫はすこぶる不機嫌と言えただろう。その容姿は美人であり推定Jカップ、それでいて長身痩せマッチョ。何処となくヒロトの義母である京子に雰囲気は似ていた。
その彼女が苛立っている理由とは、この国立富士宮学園一年の部において、優秀な学生だけを集めたSクラスを外され、最低ランクの寄せ集めであるDクラスを充てがわれたからに他ならない。
この上層部の決定は彼女の自尊心を深く傷付けたのである。
その仁木が、生徒達に問い掛けるのだった。
「彼の失態はクラス全体の責任でもあるわ。いま何故チョーク如きで机が粉砕されたか解る人がいれば手を挙げなさい。解る人が居ないなら、全員でグラウンド五十周よ。文句がある人か居るなら前に出て。この私が直々に指導してあげます」
するとどうであろうか、クラス内の男子生徒の約八割が、俺も俺もと仁木の前に押し寄せてくるのであった。
どうやら仁木を慕う生徒達は別の意味で指導してもらいたいのであろう。
その様子を見て呆れる生徒がポツリと呟く。「腑抜けた野郎ばかりだぜ、まったくよ。なぁヒロト」、と。
椅子に座っていながらでも分かるその巨体と存在感。頭には頭髪の一本もなく潔いまでに綺麗に剃り上げられており、彼の鋭い眼光はサングラス越しでも窺い知れた。
その彼の席は、ヒロトの隣であった。
ひと目で彼だと分かるその容姿。潤布豊満である。前の学校では学年でヒロトの二つ上ではあったが、ここ富士宮学園では年齢に関わらず先ずは一年の部からのスタートとなるのであった。
しかも次の年度から皆が同じように進級出来るという訳ではなく、神童としての成長度合いによってその判断は学長ただ一人に委ねられる事となるのである。
よって、同じクラスの中には様々な年代の若者達で溢れており、何年も一年の部を繰り返している決して若者とは呼べない学生も数は少ないものの複数は在籍していただろう。
ヒロトは椅子にふんぞり返ると再び窓の外を眺めながら悪態をつくのだった。
「豊満よぉ、俺はお前らみたいな特別な能力を持っちゃいねえ。なのによ、何でこんなとこで自由を奪われ管理されなきゃならないわけよ……まったく、あの鷹が羨まし過ぎんぜ」
「特別な能力が無いだって? 笑わせんじゃねえよ糞ヒロト。俺達でも歯がたたねえから、テメェは特別なんじゃねえか。それとな……あの鷹だってああ見えて自由なんかじゃないのかも知れないぜ」
「なんだそれ? 豊満に鷹の気持ちが分かんのかよ」
「これは噂だけどよ。あの鷹、俺達が転校してくるまで此処の生徒会長だった奴のペットだったって話だ。何でも俺達生徒達の行動を常に監視していて、飼い主である生徒会長に逐一報告してたってことらしい。その会長もいまや、作戦行動中に姿を消してしまい消息不明って噂だぜ。あくまで噂話だけどな」
「へえぇ、そうなんだ……」
「見えてるもんが、思っていることと同じとは限らないってことだ」
甲高い鳴き声を響かせ飛び去る鷹に、ヒロトは心の中で「またな」、と再会を約束するように呟くのであった。
仁木の重い拳骨が二人の脳天に落とされたのはその直後であった。忍びの如く気配を殺し背後に回ると、一気に叩き落とされる。
「潤布、宇童の両名にはグラウンド百周を命ずる。今すぐ走って来なさい! 他の者達はこのまま引き続き授業を受けることを許しましょう。其処に居る甲斐君が、私の問いに答え見事正解したのでね」
仁木の問いに一人挙手していたのが甲斐という青年であった。肩まで伸ばしたウルフヘアに頭のカチューシャ、男性ではあるが線が細く美しい顔立ちではある。
このクラス中の女子学生から熱い視線を集め黄色い声が教室中に飛び交う。
その甲斐が、頭を押さえ痛みに耐えている二人を見て笑みを浮かべるのだった。
(この二人……これから面白くなりそうだな。少し興味が湧いてきたよ……)
甲斐は頭を上げたヒロトと目線が合うと、ウインクをして手を振るのであった。その行動にヒロトは顔を背けると嘔吐の真似をして見せる。
そして席を立つ豊満とヒロトは、渋々教室を出てグラウンドへと向かうのであった。
次の授業が始まるまでの短い間、二階の教室からグラウンドに面したバルコニーに彼女の姿はあった。彼女の目には、上半身タンクトップ姿で汗だくになりながら走っているヒロトの姿が映っていただろう。
二ヶ月前、この学園に転入してきたばかりの遠延朱であった。
一時限目の終わり頃から走り始めていた二人に気がついたのは、二時限目の終わりを告げるチャイムを聞いた時であった。
ふと窓の外へと視線を向けてみれば、あの特徴的な短髪赤髪が目に飛び込んで来たのである。
ヒロトとはクラスが別であり、朱のクラスはより上級のBクラスであった。彼女の能力を考えれば特級であるSクラスが妥当ではあったが、その能力の効果が認知されない以上は例えBクラスであっても「彼女は優遇されている」、「何処ぞのお偉いさんに色目でも使ったのだろう」、などと陰口を叩れることもザラであった。
上層部が当初より検討していたAクラスから格下げしBクラス入りを通達したのも、そのような学生間でのトラブルに配慮したからであったが、何処に在籍していようと多少なりの軋轢は生じてしまうということなのであろうし、避けられないのかも知れない。
グラウンドを走るヒロトを眺めながら朱は思い出していた。あの時、銃弾に倒れ命を落としてしまったヒロトを。そして、自らの能力を使い彼を救ったその瞬間を、である。
「拒絶の女皇帝!」
能力発動の為に叫ぶ朱。彼女が認識しているのはヒロトが銃で撃たれたという事実。実際に遠目ではあるが銃弾が放たれた瞬間を目の当たりにしていた。
そして思うのだ、あの銃弾さえ放たれていなければ、 ヒロトを失うことはなかった筈だ、と。
能力を発動するには代償が伴う。その願いが大きければ大きいほど、要求される代償もそれに比例して大きくなってしまうのだった。
そして自分が見ていない、認識していない事象に対しては効果が無いということ。
加えて、事細かな要求は決して聞き入れられず、結果がどうであれたった一つの要求された事柄だけに作用するのであった。
その能力とは、起きてしまった事象をまるで無かった事のように出来る、現実を改竄出来る、それこそが拒絶の女皇帝の正体であった。
また能力保持者の朱以外、自然の摂理によって改竄される前の記憶も自動的に書き換えられてしまう為、誰も目の前の事象が改竄されたものなどとは思いもしないのである。
朱の持つイメージであったか、懐中時計を天に翳しながら王笏を振るう女皇帝の姿が目の前に現れると、彼女にこのように問うのであった。
『汝、望みを述べよ』
朱は願う。あの銃から弾は出なかった、と。その後で、改竄後の現実を直視するべく改めて眼下に視線を送るのであった。
朱が搭乗するヘリ、ロクマル改の眼下では、まるで逆再生で映し出された映像のように倒れているヒロトが起き上がると、銃弾が額から抜け出て湊の心臓を通過するなり傷口がみるみると塞がってゆくのであった。その銃弾がバトラー大佐が握る拳銃、M17の銃身へと戻ってきたところで、リスタートが切られるのである。
バトラーの身体が爆ぜる直前、彼は銃爪を引くのだが銃弾は放たれることなく銃本体が暴発してしまうのだ。
その理由は身体の異常なまでの膨張に伴い全身が燃えるほどの高温に達していたからであり、それが火薬に引火したものと思われる。
朱はホッと胸を撫で下ろすのだが安心は出来なかった。暴発した銃の残骸が無数、ヒロト目掛け吹き飛んでいたからだ。
その無数の残骸は必要にして十分な殺傷力を有しており、当たれば当然命の保証などなかっただろう。
次元移動してきたばかりの湊が身体を張ってヒロトを護ろうとするのだが、そのヒロトは落ち着いた様子でこのように声を掛けるのであった。
「お兄さん、それじゃも一度死んじゃうよ」
ヒロトは湊の脇腹に蹴りを入れ彼を吹き飛ばす。そして反転してガラ空きとなった背中に、暴発した銃の残骸が直撃するのであった。
走る激痛と、流れ出る血の感覚。
「大丈夫……こんなん、平気、だって……死にゃしねぇ、よ……安心、し、な……」
見えていない筈のヘリに向かって親指を立てるヒロト。直ぐに意識を失ってしまいその場に倒れ込もうとする彼を、飛び込んできた新が両腕で支え抱えるのであった。
「馬鹿野郎! ガキのクセしてカッコつけてんじゃねえっ!」
新は流れ出る血の量を見て息を呑む。そしてヒロトの身体を揺らさぬようゆっくりと地面に下ろすと、空に向かってこう呼び掛けるのだった。
「工藤ちゃんよ、其処に居るんだろ? ヒロトが危ないんだ……いま直ぐヘリに収容して病院へ運んでくれないか」
『いま降ろします。タイミング的にはギリギリ間に合ったと思ったのですが、まさか自分を犠牲にしてまで他人を護るなんて……彼は、必ず助けて見せます』
「コイツはもしかすると、自分を助ける為に母親とその兄貴が命を投げ出したこと、覚えてんのかもな。だから、誰にも死んでほしくなかったんだろうよ……」
『そうかも知れませんね。あの方の優し過ぎるところ、引き継いでいるのでしょう』
「血……かもな……急いでくれ」
校庭に降下したロクマル改は、隊員とストレッチャーを降ろしヒロトを収容するのだった。
工藤はヘリを降りヒロトの身柄を別の隊員に任せる。
第一線救護衛生員として認定を受けている足立陸三曹が代わりを買って出たのだが、自身の能力でヒロトの負った外傷を一身に引き受けようと試みたものの、何故か解らないが能力が無効化されてしまうのであった。
それでも冷静さを欠いてはいない足立は慌てることなく状態のABCD確認、つまり気道、呼吸、血液循環、心室細動の有無を確認すると、ヘリに常備してあった救命バッグからメディカルシザーを取り出すなり、ヒロトの身体をうつ伏せにし上着を切り開くのであった。
そこには銃の残骸によって生じた傷口が三箇所、残骸は体内に残ったままであった。
この傷による出血によって出血性ショックを引き起こしたものと理解する。
足立はバッグから止血パッドを取り出すと傷口に押し当て直接圧迫止血法による止血を試みるのだった。
だがなかなか血は止まらない。
いま直ぐにでも輸血が必要であったが当然ヘリには血液製剤など積んでいるはずもなく、あったとしても適応できる血液型かどうかを判断する事は困難であった。
既にヘリは病院に向かい飛び立ってはいたが、最寄りの病院へは運べない理由があった。
ヒロト自身が、機密の塊であったからである。
外部にその情報を漏らす訳にもいかず、かといって国立富士宮学園内にある病院に着くまでに容体が急変するおそれもあった。
また学園内に入れるとしても危害を及ぼす恐れがないか精密な事前検査が必要であった為、副操縦士の判断により搬送先は自衛隊富士病院に決定されるのであった。
刻一刻を、争う状況であっただろう。
「頼む、どうか止まってくれ……この子にはいま、血が必要なんだよ!」
追加でパッドを取り替え押し続ける足立が、神にも祈る思いで声を上げるのであった。
その直後である。ふと視線を上げると、目の前には女子高生が立っており、何かを決意したかのような真剣な表情でこのように話し掛けてくるのだった。
勿論その女子高生とは遠延朱のことである。
「輸血が必要なんでしょ? だったら、私の血を使ってよ」
「お嬢ちゃん……君が何処の誰かは知らないけど、輸血には患者に適合した血液でないとかえって危険を招く恐れがあるんだよ。ましてや今の時代に全血輸血なんて誰もしやしないさ。いまは成分輸血といっ」
まだ話終えてもいない足立に被せるようにして話を続ける朱であった。
「だから構わないって言ってんの。全血輸血だろうと成分輸血? どっちだっていいわ。昔ね、ヒロと私の血液はお互い完全に適合してるって言われたのよ。だから早くしてちょうだい」
足立は驚いた。このように都合良く適合者が現場に居合わせることなど普通はあり得ない。あったとしても、完全に適合した血液の持ち主などそうそうお目には掛かれないだろう。
そう考えたなら、この女子高生は始めからこうなる事を想定した上でこの場に居合わせた事になる。
いったい誰がそのように仕向けたのか、足立は恐ろしくなりそれ以上考えるのは止めることにした。
「その話……いつ誰に言われたのかな? その返答次第では対応を変えなきゃならないのでね。良かったら、聞かせてもらえないだろうか」
朱はいい加減にしろ、時間が無いんだよ時間が、と心の中で叫びながらも、当時の経緯を事細かに説明するのだった。
自分の発言を、信じてもらいたいが為に。
「ある少女が中学にあがって間もない頃の話よ。近くに出来たばかりのショッピングモールに両親と車で出かけたそうなんだけど、居眠り運転してたトラックが反対車線からいきなり突っ込んて来たらしいの。彼女の両親は即死。少女は辛うじて息はしてたらしいけど、意識は無く搬送先で一度は心臓が止まったそうよ」
「それって君の……つまり少女は、その医師によって命を救われたということだね」
「違うの。その時の彼女は大量に出血してたんだけどさ、どうやら彼女の血液型って極極稀な型らしくて、直ぐに用意出来る血液製剤がなかったみたい。仕方なく緊急で人工製剤ってのを輸血したのがそもそもの間違いだったのよ。一度は回復の兆しを見せたものの、副反応、っていうの? みるみる他の臓器が機能しなくなっちゃってさ、いよいよ後は死を待つばかりって状況だったらしいわ」
「そんな状況じゃ、助かる見込みなんてないだろ普通」
「医者が言ったそうよ。もう手の施しようか無い、って諦めかけた時、集中治療室のドアをぶち壊して一人の少年が飛び込んで来たらしいの」
「つまりヒロ……で、その少年はどうしたんだい?」
「その少年は、俺の血をやる! 全部やるからそいつを助けてやってくれ! って暴れ出したそうなの。そのあまりにも純粋な想いに医者はついに折れてとりあえず適合検査をしてみることにしたそうよ。結果は、問題なし。でもね、献血が出来る年齢は早くても十六歳。少年はまだ十三歳。決して許されるべきではないけど、その医者は輸血に踏み切ったの」
「馬鹿な……医師として許されない行為だ……」
「当然よね。その医者も始めは少年を諌めようと説得してたんだけど、彼の願いを聞いて諦めたらしいわ」
「なんて?」
「俺には親父もおふくろもいない。でも、そんな俺を実の息子のように世話してくれる人ならいる。コイツだって、近所だからってだけで友達も出来ない俺に構ってくれる優しい奴なんだ。ソイツがさ、親を亡くしたんだぜ。自分だって死にそうなのにさ、今でも俺のこと心配して私が居なくなっても泣かないでなんて夢に出てきやがんだ。俺はコイツみたいに優しくなんかねぇ。だからさ、俺は死んでもいいからコイツだけは助けてやってくれないかな。頼むよ、アンタお医者さんなんだろ。人を助けるのが、アンタの仕事なんだろ、ってね……」
そう話す朱の目には涙が溜まっていた。今にも溢れ出しそうな涙を、グッと我慢していた。
「なるほど、その医師は少年の決断に賭けたということだね。そして、その結果二人とも助かった、と。その時の適合検査によって二人が互いに適合していると分かったんだね」
「それも違うわ。少年の血液は確かに少女に適合した。でも、少女の血液はまったく、あらゆる項目で適合していなかったの」
「どういうことだ……意味が解らない。さっきまで、お互いに適合していると言っていたじゃないか……」
「それはね。彼女が回復した後の血液検査で、その血液自体が彼と同じ、まったく同じものに変わっていたそうよ。その医者が、自分の口で彼女に伝えたんだから間違いないわ。その後しばらく経って、彼は遺書を遺してこの世を去った。自分は、罪を犯してしまったとだけ書き記してね……」
足立は言葉を失ってしまう。何故ならば、あの魔神を内包していた宇童ヒロトの血を分かち、生き返ったというのであればもしかすると、とまで考えたところでその先の行動は早かった。
緊急時輸血の際に絶対行ってはならない行為、人から人への直接全血輸血である。
絶命の危機にある宇童ヒロトを救うには、この方法しか考えられない、と。朱の語った内容が確かならば、間違いなく救えるだろう、と足立は二人を横並びに寝かせ輸血の準備を手早く進めるのであった。
そしていよいよ全血輸血を始めようかというその間際、朱は足立にほんの少しで良いから時間を貰えないかと頼み込むのだった。
「ごめんなさい、怖いんじゃないの。私の命なら幾らでもヒロにくれてやるわ。でもね、その前にどうしてもしておきたいことがあるの。少しだけ、後ろ向いててくれないかしら」
「分かった。ただし急いでくれよ。いまの状態はあまり良くないんだ」
「ありがとう。分かってるわ」
朱は覚悟を決めていた。拒絶の女皇帝を発現したした時点で、朱はその願いに等しく大切にしているものを対価として失わなければならなかった。
ヒロトの命と等しい対価とは、即ち自分の命であろうと考えていたのである。
だからこうして、銃弾による死からは逃れたものの、今だ死の縁を彷徨っているのは対価を払っていないからだと理解していた。
ならば死は受け入れよう。だが最後に未練だけは残したくなかった。
目を閉じたまま、呼吸が浅くなったヒロトの耳に顔を寄せて囁く。
そして顔を重ねるのであった。
グラウンドの手前から、バルコニーに立つ朱に気付いたヒロトが両手を振ってくる。それもとびきりの笑顔で、大きく開いた口から白い歯を覗かせながら。
朱は顔を赤らめバルコニーの中に身を屈め隠れてしまう。そして口元を両手で覆い隠すのであった。
チャイムが、次の授業の始まりを告げていた。
ここで疑問がひとつ。朱は何故無事でいられるのであろうか。拒絶の女皇帝の効力によってヒロトの命が救われたのならば、対価である朱の命は失われていなければならない筈だ。
だがそうではない。
ならば朱が命に等しく大切にしていたものとはいったい何であろうか。
そう、彼女がその時が来るまで大事にしておこうと心に決めていたものを、失ったのであった。
英国、ロンドンのセントパンクラスにある大英図書館にアリスの姿はあった。
世界最大級の研究資料を保有しているこの図書館で、アリスは人を待っていた。
半刻ほど前、アリスは正面入口から入りメインエントランスを進むと、インフォメーションカウンターで係員にアリスだけが持つ特別なリーダーパスを提示するのだった。
係員はパスを確認するなり驚いた表情を見せるのだが、直ぐに平静を装いアリスにこう告げるのだ。
『アリス様、お話ならば閣下より直々に伺っております。先ずは此方に御用意した特別なリーディングルームでお待ち下さいませ。直ぐに指名のあった専門司書に資料を持って来させますので』
『あらそう、宜しく頼みます』
アリスが案内されたのはアンダーフロアの更に地下に設けられた秘密の部屋であった。
誰しもが入室を許可される訳ではない。
英国政府の偉いお役人でさえその存在は知らされておらず、知っているのは国王とその側近、また現職の首相のみであっただろう。
また入室を許されるのは国王直属の特殊な組織に身を置く人物だけであり、何を隠そうアリスも以前はそこに在籍していただけではなく、その組織における最高顧問待遇であったのだ。
ただし以前は、の話である。
アリスはある事件を境にその組織を除名され、国外追放処分となってしまうのだ。
その時に、日本から派遣された交渉人の誘いを受け海を渡った次第である。
『また此処に呼ばれるだなんて、なんの因果かしらね……』
部屋の中央には大振りなデスクがあり、壁面には英国歴代君主の肖像画が在位準に飾られていた。
アリスは片足を後ろの内側に引くともう片方の膝を軽く曲げ、カーテシーと呼ばれる伝統的な挨拶を行うのだった。
その視線の先には、王位を継承した時に描かれたであろう若き日の女王の姿があった。
アリスは、その絵に対してこのように話し掛けるのである。
『お久しぶりね、マーム。貴方がまだ小さかった頃からのお付き合いだもの。何だかとても懐かしくてよ。まるで昨日の事のよう……。それでね、わたくしが二度と戻ることはないと決めていたこの国の土を、再び踏んだのは他でもない、例の裏切り者に処罰を下す為なの。貴女ならきっと、分かって下さるわよね。ユア、マジェスティ』
アリスは懐かしさに浸りながら楽しかった過去の思い出を振り返っていたまさにその時、ドアがノックされ指名していた専門司書が入って来るのだった。
『御指名頂きましたのにお待たせしてしまい大変申し訳御座いません、マダム・アリス』
クックク、と白いグローブで口元を隠し笑いを漏らす専門司書の女性。表向きは西洋建築学、主にモダニズム建築を専門とする司書であり世界三大建築家として名高いフランク・ロイド・ライト、ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエといった巨匠が残した作品の建築デザイン画、写真、建築設計図面などの収集と保護、研究目的の為の展示など、その活動の幅は多岐に渡っていただろう。
純銀製フレームのチェーン付き眼鏡を愛用しており、ブロンドの巻き毛と知的で洗練された顔立ちも相まってか、すれ違いざまに振り返りその美しい後ろ姿に見惚れる紳士は後を絶たなかった。
アリスは司書に問う。『約束の物は手に入ったのでしょうね』、と。
礼節をわきまえていると思われた司書が突然態度を豹変させる。髪をクシャクシャにかき乱しながら、襟元のスカーフを解くと胸のボタンを二つ、三つと外し黒い下着を露出させるのだ。
淑女が、女豹に変わった瞬間であった。
『ホント、だるいったらありゃしない。何が専門司書よ。何が建築学よ。あたいはハイスクールだって中退してんだからね。この借りは高くつくと思いな、アリスの姐さん』
『呆れた娘ね、まったく。潜伏させて五年、上手くやってると思ってたのに残念でならないわ。わたくしに再会したくらいで化けの皮を剥がすだなんて、エージェントとしては失格ね。でも、その口調なら例の名簿は手に入ったってことだわね、ニーナ・シュトラウス』
鼻息荒く、ニーナは手にした分厚い本の束をデスクの上に叩きつけるのだった。
『政府の中枢に潜り込んでいる奴ら含めて四十八名。此処に奴らの本名と所在が記載されてるわ。きっと目を通したら驚くでしょうけどね』
『つまり、意外な人物が敵だったってことね』
アリスは椅子に掛け、本の間に挟まれている一枚の名簿を取り出す。アルファベット順に記された名前に目を通していくなかで、ある人物のところで自然と目が止まるのであった。
本名、イーサン・アンドリュース・ペイン。
その人物は前英国首相であり、アリスに国外追放を言い渡した張本人である。
現在は一線を退いてはいるが、未だ議会に多大な影響力を及ぼす人物であった。
そのイーサンが、闇の秘密結社サーペンス・アルバスの幹部に位置付けられているのだ。
アリスの疑念は確信に変わる。
名簿を折り畳み、懐に入れたところでアリスはニーナに告げるのだった。
『そろそろ奴らが来る頃だわ。わたくしの背中に隠れていなさいニーナ』
『なに言ってくれちゃってんの姐さん。あたいだって準備万端だってのさ』
ニーナが床を強く踏んだ反動でその一部が反転し、床下に無数の銃火器が準備されていたことが判明する。
その中から特に大型のヴィッカース重機関銃を拾い上げたニーナは、銃口をドアに向け身体を伏せると、銃爪に指を掛けるのであった。
『まぁ、なんて娘かしら。よろしくてニーナ、わたくしの出番もとっておいてね。罠に掛かった鼠を一網打尽にするのは、わたくしの楽しみなんですから』
『さぁどうでしょうかね。日頃の鬱憤が溜まってるもんで、手加減なんて出来ませんよ』
アリスは始めから罠を張っていたのである。政府内に秘密結社のスパイスがいる事は想定していたし、自分から動けば相手も行動に移すことくらい容易に想像出来た。
始めにインフォメーションカウンターの係員に声を掛けたとき、彼はニーナを呼び出す為に連絡をとるフリをして仲間に報告していたのである。
ニーナが遅れて来たのは何らかの理由をつけて仲間が到着するまでの時間を稼ぐ必要があったのだろう。
すべてが予測の範疇であった。
ドア越しに、息を殺し運ばれる無数の足音がアリスには聞こえていた。
銃のセーフティを外し、身構える、その音もである。
次の瞬間、ドアはプラスチック爆弾によって吹き飛ばされ、激しい銃撃の嵐となるのだった。
ニーナの構える重機関銃は敵を次々と挽肉に変えてゆくのだが、敵は人間では無かった。
例え肉体の一部が欠損していようとも、津波のように屍が襲ってくるのであった。
だがそれも最初のみ。
アリスの容貌が変化したと同時に、状況は一転するのであった。
アリスの背中から伸びる闇がみるみる広がり部屋中を覆い尽くすと、無数の口が現れそのどれもが開口するのだ。
人の声ではない、地の底から響いてくるかのような身の毛もよだつ低くておぞましき呻き声。
鋭い牙を剥き涎を垂らすもの。
長い舌を伸ばし波立たせるもの。
既に敵の一部に喰らいつき咀嚼するもの。
その数は数えきれない程であり、壁、天井
、床、のありとあらゆる場所に存在していた。
『さぁ、おあがり』、とアリスが発した直後には、敵の主戦力は全滅し、その遺体は跡形もなく消えてしまうのである。
この一戦を機に、英国におけるアリスの戦いが始まりを告げるのであった。
シリア北部に広がる高原地域では背の高い樹木が育たない。ステップ地帯独特の背の低い草原が何処までも続いており、砂漠までとは言わないが降水量の少ない乾燥した大地であった。
シリアの首都であるダマスカスとは、高速道路を利用し車を走らせれば五時間もあれば着くと思われるシリア最古の都市のひとつ、アレッポ。その地に、国立富士宮学園生徒会長、押井皇仁が姿を見せたのは一昨日の夜の事であった。
シリアでは在留邦人に対する避難勧告と渡航禁止が発表されてからかれこれ十五年以上は経っていたが、いまだ正規の手続きでは入国が許されなかった。
日本人だと判明したその瞬間から、身に危険が及ぶ恐れがあったからである。
だが皇仁の姿はアレッポに在る。しかも日本を発ったのはわずか数秒前の事であった。
あり得ない話ではあるが、これも神童としての彼が持つ能力の、効果のひとつであっただろう。
彼がシリアに来た目的は米国政府から資金を提供され活動している自称テロリスト集団、彼らによって拉致監禁されている邦人考古学者、森川雪之丞の救出とみられる。
だがその前にどうしても、森川が在籍していた調査チームが置かれていたこのアレッポに、足を運ぶ用事があったのだ。
ところが既に研究室は閉鎖されており、そこに収容されていた研究資料の数々もそのほとんどが紛失していたのである。
研究の痕跡を残さぬよう、何者かが室内を荒らし重要な資料は持ち去られたものと考えられる。
皇仁の手にはいつの間にやら眼鏡があり、それを掛けて室内を見回して見れば其処には眼鏡レンズを通して過去に起きたであろう情景が映し出されるのだった。
録画映像を観せられているような、そのような感覚であった。
素性が分からぬよう覆面を被った数人の男達が、研究室を隈無く調べ何かを探しているように見える。
棚にある幾つかのファイルと、パソコンから抜き出した研究データをUSBメモリに移しブリーフケースに収めると、手にしていた短機関銃で部屋中に穴を開け飛び出してゆくのだ。
「なるほどね……奴らも相当焦っているように見えるけど、どうやら例の答えには辿り付けなかったようだ。まだ僕にもチャンスが残されているってことかな……」
皇仁は研究室を後にすると現地で活動する諜報員と合流し首都ダマスカスを目指すのであった。
明け方、ダマスカスに到着した皇仁が宿の一室に通されると、其処には顔を黒く塗り潰した集団が各々、身に付けている装備の確認作業を行っていた。
彼らは自衛隊特殊作戦群のメンバー達であり、皇仁の到着を待ち待機していたのである。
作戦遂行の時間が差し迫ってくると、彼らは人目を避け複数の車に乗り込み道を走らせるのだった。目的地はゴラン高原にあるとされるテロリスト達のアジトであり、それは大地の下に張り巡らされた地下壕を拠点としていた。
この岩だらけのゴラン高原はかつてイスラエルによりシリアから占拠され併合された過去を持つ。そして現在に至るまで実行支配下に置かれていた。
国際法上ではこの併合は違法とされ、世界中の国々からは認められてはおらずその帰属はシリアとされている。
軍事戦略的にも非常に重要な位置にある為、常に軍事衝突の恐れがあり緊張状態にあっただろう。
自称テロリスト集団達はこの日、拉致監禁している森川を米国側のエージェントに引き渡す予定であった。
だがそのエージェントは約束の時刻になっても姿を現さない。
何故ならば、特殊作戦群による電撃救出作戦が既に開始されていたからである。
作戦開始時刻、ヒトサンマルマル(23時00分)。
米国側エージェントを地下壕アジトへ招き入れるべく解放していたゲートは、特殊作戦群の静かなる襲撃を受けその侵入を許してしまう。
アジト内は特殊作戦群によって徐々に制圧されてゆくのだが、肝心の森川の姿が何処にも見当たらない。
そしてアジト侵入時に同行していた皇仁の姿も、見当たらないのである。
アジト内で敵の襲撃を受けている事を知ったリーダーの男は、数人の幹部と共に森川を引き連れイスラエル側の拠点へと繋がる地下通路を急いでいた。
このたった一人の邦人考古学者を米国に引き渡すだけで、なんと二千万ドルもの報酬が約束されていたのだ。
リーダーの男がそのような好条件の獲物をみすみす逃す筈がなかった。
だがそれだけ危険であるという事も、今になって思い知るのである。
また当然、例え米国側にこの男を引き渡したとしても、自分は生きてはいないだろう、とも。
地下通路の出口が直ぐ目の前に迫っていたが、リーダーの男はその異常に気付くのだった。
出入口を護るべき兵士の姿が、何処にも見られなかったのだ。
男は幹部二人を先行させ安全の確認をさせる。二人が自動小銃を構えドアの奥に姿を消すのだが、銃声は無かった。
だが、呼び掛けに対する返事も無かった。
一旦は後ろに下がろうとするのだが、地下通路の奥から迫りくる足音と途中から途切れる銃声を耳にして、男は森川の腕を引き出口へと向かうのである。
出口のドアを抜けると、満天の星空と月明かりが辺りを照らし出しており、その足元には幹部二人が身に付けていたであろう衣服と自動小銃だけが、ゴツゴツとした岩場の上に遺されていた。
生唾を呑み込み顔を上げて見ると、其処には肌の白いマスクを着けた男が立っており、その手には武器らしきものは握られておらず、小さなライトだけが握られていた。
作戦開始と共に姿を消していた、押井皇仁である。
森川は男の手を振り払うと、皇仁に助けを求め駆け寄るのだった。
男が転がっている自動小銃を拾い上げ森川の背中に照準を向ける。大金が手に入らないのであれば生かしておく価値はない、と考えたようだ。
ところが、その自動小銃は沈黙したまま再び地面へと落とされてしまうのであった。
何故ならば、皇仁が手にしていたライトで男を照らしたと同時に、リーダーの男の身体はみるみると小さくなってゆき、ついには蟻と同じ大きさにまでなってしまうのである。
自分が着ていた服から這い出してきた男を、皇仁は無情にも踏み潰してしまうのであった。
そして現在。
地下壕から抜け出たその岩場に、特殊作戦群の隊員達は遺体となって折り重なっていた。
それらを前に、皇仁は感情を殺した声で静かにこう話し掛けるのである。
「貴方達には何の罪もありません。恨むならば……このような計画を立てた国立富士宮学園学長柴田直平と、それを実行に移したこの僕を恨んで下さい。流石に許して下さいとは言えませんが、僕はこれから一生この罪を償っていくことになるでしょう。どうか、安らかに……」
手を合わせ頭を下げる皇仁の後ろで、足を震わせへたり込む森川。その顔は酷く怯えていた。
「あんた、何者だ……なんで、なんでそんな酷いことが出来るんだ……同じ、日本人じゃないのか……」
振り返った皇仁の瞳に温かさは無い。ただただ、真実を求める決意が現れていた。
「森川教授。この僕に教えて貰えませんか……貴方が遺跡で発見された石板に、いったい何が記されてあったのか。世界にとって共通の脅威であった魔神の本当の正体が何であり、そこに我々日本人がどのように関わっているのか……神童とは、何故生まれ出てきたのか。貴方はその答えに、辿り着いたのでしょうか?」
「分からん。それが本当に正しいのかどうかはもっと先の時代にならないと答えは出ないだろう。だがね、わたしは確信しているよ。魔神、いや、日本人こそが、この世界を滅ぼしかねない脅威になるだろうとね」
「そうですか……とても残念です。貴方はもう答えを見つけてしまわれた。でもそれはあの人が決して望まない。だからこの僕に、真実を確かめ手を下すよう頼んできたのですから」
森川は怯えてはいたが覚悟もしていた。人類が踏み入ってはならない領域に足を踏み入れ、知ってはならない真実を暴こうとした。
知ることは人間の本質的欲求である。
それを止める事など誰にも出来ない。
しかし禁忌に触れたとき、その先どうなるかは覚悟しておく必要がある。
それは自分が求めたものに対する対価であるからだ。
森川は、「やりなさい。準備なら何時でも出来ている」、と言って目を閉じるのであった。
皇仁はテロリスト達が手にしていた自動小銃を拾い上げ、背筋を伸ばし胸を張る森川に銃口を向けるのだった。
「良い心構えです。どうかお達者で……」
星が天を埋め尽くす美しい夜空に、銃声がひとつ鳴り響くのであった。
この後、防衛大臣押井英駿の耳に自衛隊特殊作戦群全滅の報が入るのだが、その事実が世間に公表されることは無かった。
テロリストの手により保護対象者森川雪之丞は命を絶たれ、その後の激しい戦闘により互いの戦力が失われたものと思われる、と現地諜報員から報告があったのだ。
そもそも今作戦は記録にも残らない超極秘作戦であった為、政府としてもその関与を認める訳にはいかなったし、関係各所には徹底した箝口令が敷かれることとなる。
ただし、押井英駿は荒れていた。部下を失っただけでなく、甥であり息子である皇仁の行方が知れなかったからだ。
無事であるかどうかでさえ分からない。
柴田に詰め寄る英駿に対し、その返答は冷たいものであった。
「彼は、自由を手に入れたんだよ。喜んであげるべきではないかね、英駿君。親として、子離れする時が来たのかも知れないね」
声を失い拳を握る英駿。そのまま背中を向けると無言のまま学長室を出てゆくのであった。
国立富士宮学園、放課後の校舎屋上。
校舎屋上にはその中央に高く聳える時計塔があり、周囲は全て生徒達に解放され3on3バスケのハーフコートとリングまでもが設置されてもいた。
当然屋上は高いフェンスで囲まれており、その高さは五メートルを超えていただろう。
皇仁達が嵐の前にヘリを見下ろしていたのはこれとはまた別の棟であり、生徒会執行部棟という専門校舎であった。
ヒロトはハーフコートの中でシュートの体勢に入っていた。3on3バスケのコートではあったが、対戦は1対1であり、その対戦相手はあの身長が二メートル近い潤布豊満であった。
「おいっ、豊満ぅ! 身長差があんだからハンデの10点くらいよこせや!」
「おいおいマジかよ。たかが遊びだぜ? 正規の試合でもねえのに本気出す馬鹿が何処に居んだよ」
「目の前に居んだろボケ!」
ただでさえ背の高い豊満が腕を上げディフェンスしているのだ、シュートの体勢に入っていたとはいえ、そうそう打ち込めるものではなかった。
「くっそ、これじゃ打てねえじゃんよ」
「はい反則。ショットクロックな」
「はああぁ、ふざけろよ。まだ24秒経ってねぇし」
「ふざけてんのはどっちだよ。3on3のショットクロックは12秒だろぉが」
「知るかよ!」
ディフェンスを解いた豊満の脇を抜け、バスケットリングにボールを叩き込むヒロトであった。
「やったぜ! ハンデの10点と合わせて俺の勝ちなっ!」
「まったくよ、呆れた野郎だぜ」
コートに寝転がり天を仰ぐヒロトであった。豊満が差し出すタオルを受け取ると、上体を起こし顔の汗を拭うのであった。
何処までも続く、高く突き抜けた、青い空から、一羽の鷹が舞いながら眼下を見下ろしていた。
その鷹に気付いた豊満が、ヒロトに尋ねる。
「なぁヒロト……お前、本当にあの時のこと何も覚えてないのか?」
汗を拭っていたヒロトの手が止まる。病院で意識を取り戻した直後から、何人もの大人達から同じ質問を繰り返し受けてきた。その度に思うのだ。もういい加減にしてくれ、と。
ヒロトは少し考える素振りを見せた後で、こう答えるのだった。
「駄目だ、やっぱ全然思い出せねえや。それよりさ、なんか知ってんなら逆に教えてくれよ。何でもいいからさ」
豊満は返答に困る。知らない、とは言ってはみたものの、あのとき目の前で起こっていた現実を、ヒロトに伝えて良いものか自分では判断出来なかったのだ。
この学園での担任教師であり、あの現場で共に戦った新隣二という男は、自然に任せろと言った。
時だけが解決してくれる、とも。
いまはまだそうするしかないか、と改めて思いを巡らせる豊満であったが、疑い深そうな眼差しを向けてくるヒロトの瞳を見て、ギョっと背筋を凍らせるのであった。
その一切の曇りが無い瞳の奥深くに、もっとも暗く、全てのものを呑み込んでしまう虚無のような、絶望の闇を垣間見たのである。
それはあの時に始めて感じた、死への恐怖心であったかも知れない。
豊満は場の空気を変えようと別の話題を振るのだった。丁度、空を舞っている鷹に視線を向けながら。
「そういえばよヒロト。もう直、祭りが始まるらしいぜ。それも学園あげての盛大な祭りがよ。なんでも例の鷹の飼い主だって話をした、行方の知れない生徒会長の後任を決める催しらしい」
「祭り? なんで生徒会長決めんのに祭りな訳よ」
「転入して間がないんだ、俺だって詳しいことは知らねえよ。でもな、祭りまであと一ヶ月を切ってるって話らしいぜ」
「だったらよ、知ってる奴探して聞き出そうぜ。だって面白そうじゃん。俺もその祭りってのに興味が湧いてきたぜ」
ヒロトの瞳に一瞬だけ垣間見えた闇は消えていた。代わりに、祭りに参加して暴れてやろうと目の中で炎をたぎらせていた。
そしてこの先に起こるであろう波乱を想像し、「やれやれ」と頭を抱える豊満であった。
そのような二人の前に、突然現れ声を掛けてくる人物がいた。
ヒロトに対しウインクを送り手を振ってきた、あの綺麗な顔立ちをした甲斐繁成という男子生徒であった。
ちなみに年齢は豊満と同じ十八である。
「やぁやぁやぁ、君達随分と暇を持て余しているようだけど、もし良ければ僕が話し相手になってあげてもいいよ」
お互いに顔を見合わせた後で、甲斐を無視して話を続けるヒロトと豊満であった。
「こうなったら仁木のオバサンにでも訊いてみるか? 一応あれでも副担任だしな」
「いや、あの糞女ゴリラ2号だけには近づいちゃ駄目だって、俺の遠い親戚のお姉さんの友達の飼っているインコにいつも通学途中にバーカって教えてる男の子が言ってた」
「誰だよソイツ。お前と関係無ぇし。じゃあやっぱ、担任なんだし新のオッサンにでも訊くとするか」
「駄目駄目駄目っ! 伯父貴に話すと絶対京子さんの耳に入って大変なことになっからよ」
「だったら知ってそうな生徒つかまえて手当たり次第訊いてまわるか、だな……」
「やっぱそれしかないか……」
ロダンの考える人が屋上に仲良く並ぶ。そしてそれを鑑賞しながら、「ひとの好意を無下にするもんじゃないよ」、と何処に隠していたのか手にした巨大なハリセンで二人の後頭部をどつく甲斐であった。
無言で睨みを効かせる豊満と、言葉に出さないと気が収まらないヒロト。
「なにしやがるテメェ、女みたいな顔しやがってよ!」
穏やかにみえた甲斐の表情が一変し鬼の形相へと変貌を遂げると、彼の言葉遣いにも影響を及ぼすのであった。
「黙って聞いてりゃ良い気になりやがって。誰が女みたいに綺麗で可愛くてゴージャスな見た目をしてるだって? お前一回死んどくか? それとも、この僕の下僕にでもなりたいのかぁ、糞ガキ!」
「ああっ! 誰も誉めてなんかねぇし! こうなったらとことんやってやるよ。死ぬ気で掛かってきな、お姉ちゃん野郎よおっ!」
「また莫迦にしやがったな、お姉ちゃんってよおっ!」
この一発触発の状況を諌めたのは、豊満でもなければ教師達でもなかった。
面白いもんが見れるからと、放課後この屋上に来るよう甲斐から誘いを受けていた一人の男子生徒であった。
小柄なヒロトよりも更に背が低く、その幼い顔立ちから歳の頃は十二、三といったところかと思われる。
「お兄さん達、こんなとこで喧嘩なんてカッコ悪くないですか?」
半ズボン姿の眼鏡を掛けた少年にそう言われ、ヒロトは顔を真っ赤に染めるとソッポを向いて黙り込んでしまうのだった。
甲斐に至っては少年の問い掛けによって平静を取り戻したようで、「僕としたことが大人げなかったね。申し訳ない、巳華流君。それよりもさ、どうして君が此処に?」、と呼び出しておきながらその張本人が忘れていたようであり、それはそれで大変失礼な話ではある。
「酷いな、甲斐君が此処へ来るように言ったんじゃないか」
「あっ、思い出した……ごめん。そういえばそうだったね。ハハハ……」
豊満は呆れ顔で甲斐に尋ねるのだった。「俺達に何か用事でもあんのか? こんなとこまで押し掛けてきやがってよ」、と。
「それそれ、まさにそれだよ。君達がさっき言ってた祭りの件でさ、実は頼みがあるんだよね」
「頼み? そんな態度には見えなかったけどな。で、頼みってなんだよ」
祭りと聞いて耳をピクリと反応させたヒロトが会話の間に割って入るのだった。その話、俺にも聞かせろよとばかりに。
「俺も知りたい。お前、祭りについて詳しいのか?」
甲斐はもともとクラスの中でも特に目立っていたこの二人に興味を持ち、仲間に入れようと考えていたのであった。勿論、祭りについてはこの場に居る誰よりも詳しかったであろう。
「知ってるよ。この学園の実力者ともなれば知らない方がおかしいさ」
甲斐のこのような発言にヒロトも豊満も臍を曲げるのだが、今回ばかりは黙って話の続きに耳を傾けるのであった。
「祭りの正式な名称は生徒会役員選考闘技会といってね。だいたいこの秋の時期、九月から十月にかけて行なわれているのさ。つまり、生徒会執行部役員を決める生徒達同士の闘いってわけ。特に今回は現職の生徒会長、副会長揃って不在という異例の事態でね、いつも以上に盛り上がりを見せてるのさ。参加は自由、だけど色々と条件があってね。これがなかなか問題なんだよね」
ヒロトの目は輝きを増していた。そして早く続きを聞かせろとせがむのである。
「それでそれで! 祭りについてもっと聞かせてくれよ!」
「そう急かすなって。ここからが大事なんだからさ」
黙って聞いていた豊満も話の内容が気になり問うのであった。早く聞かせろとうるさいヒロトの口を押さえながら。
「参加は自由……ってことは俺達一年もその祭りに出れるんだよな。その条件ってのは何だ?」
「そう、それで君達に頼みがあったのさ。祭りに参加出来る条件は三つ。この闘技会はチーム戦でね。ひとつのチームは四名以上の生徒で構成されていないと参加が認められないのさ。当たり前の話だけど、この学園の生徒に限るってね。そして二つめが、祭りの開催期間一ヶ月の間に、いつ何処で闘いが始まるか誰も分からないってこと。突然互いの相手チーム名と開始日時が宣言されたなら、どのような場合であっても半ば強制的に闘いが進められてしまうってわけ。例えそれが闘いたくない相手であったとしても、ね。ただし闘わずして負けを認めた不戦勝の場合は除くんだけどさ」
「そういう事か……。テメェの頼みってのは、祭りに参加したくて俺達とチームを組まないかって誘いだな」
「素晴らしい、その通りだよ。潤布豊満君だっけ? あと、宇童ヒロト君。それと此処に呼んだ彼、巳華流圭佑君と僕の四人で、チームを結成しようじゃないか」
思い切り首を縦に振るヒロトとは対照的に、豊満は冷静に考え口を開くのだった。
「条件は三つだったよな。残りのひとつはいったいなんだ?」
甲斐の明るかった表情が、一転して陰を落とす。この祭りという楽しそうな呼び名に対し、生徒会役員選考闘技会の中身は真逆のものであったからだ。
「最後の条件だけど、この祭りに参加する者は……命を捨てる覚悟がある事を書面で提出しなきゃならないのさ。生か死か、その結果に異存はないとね」
神童達同士が本気で闘い合うのだ。相手の能力次第では命を落とすことなど容易に想像出来た。そのような闘いに勝ち抜き手にする執行部役員の席とは、やはりそれだけ重要であり、命を賭けるだけの価値があるのだった。
豊満に口を塞がれていたヒロトはその手を払い除け、甲斐の目の前まで歩み寄ると顔を上げ宣言するのであった。
「上等じゃねえか、やってやるよ。誰が最強か教えてやろうぜ。なぁ、豊満」
「誰が最強かなんて俺はどうでもいいが、お前がやるって言うならほっとけないだろ。いいぜ、俺もチームに入れな」
甲斐の口元で、僅かに口角が吊り上がる。いよいよこれで、執行部役員の席を手にするチャンスにありつけた、と。
彼の能力は強力であったが危険でもあった。危険であるが故に、その能力を知る者は誰もが恐れ近寄ろうとしなかったのである。
巳華流という、唯一人の少年を除いては。
しかし女子学生達の前では決して本性を現すことはなく、能力の秘密を知っている者達には口外すれば命の保証は無い、と脅していたようであり、それは一年の部だけに限らず上級生を含めてでもあった。
何も知らない女子達が群がってくるのはそのような背景があったからである。
ただし友達が出来ない以上はチームなど組めるわけもなく、脅して仲間にしたところで結果は見えていた。さて困ったものだと頭を悩ませていたところへ、自分について何も知らない者達が次々と転入してきたではないか。
これをチャンスと捉えずしてなんとしよう。
甲斐は同じクラスとなった二人に近づく為、真面目で目立たぬよう羊の皮を被っていたのである。
「良かったね甲斐君。これでお兄さ……」
甲斐に声を掛けた巳華流は途中で口を閉じ視線を逸らすのだった。甲斐の瞳が、これ以上喋れば人では居られなくなるぞ、と告げていたからである。
「で、でもホント良かったね。これで僕達も祭りに参加出来るんだからさ」
「そうだね。みんなには感謝しなきゃね。ありがとう」
甲斐はいつもの笑顔に戻っており、その顔を見た巳華流もホッと胸を撫で下ろすのだった。
その様子に気付いた豊満ではあったが、わざわざ問い質すことはせず、黙って甲斐から差し出された握手を受けるのであった。
ヒロトは此処、国立富士宮学園に転入して以来最高に胸を高鳴らせていただろう。
退屈で楽しみもなく、これでは軟禁も同じと考えていた矢先に、何よりも好きな喧嘩が出来るとあって喜びを噛み締めていた。
甲斐からの握手も、両手で受けると「やめろっ!」と言われるまで激しく上下に振るのであった。
空を舞いヒロト達を見下ろしていた一羽の鷹が、鳴きながら遠くの山へと飛んでゆく。
その優雅でもあり勇ましい姿は、誰かに何かを伝えに行くかのようにも見えた。
ヒロト達の物語はここで一旦幕を降ろし、次の新たなるステージへと準備を進めるのであった。
その新しいステージの名は、学園内抗争編。
国立富士宮学園の中で繰り広げられる、神童達の神童達による神童達のための闘いが、始まりを迎えるのであった。