Final Operation sin do (罪を犯します)
神奈川県内全域が記録的な豪雨と暴風に見舞われるなか、私立天龍第一高等学校の敷地内だけは静寂に包まれていた。
まるでそれは巨大台風の目の中にいるようであったが、この天災級の嵐そのものがある意味外界からの侵入を拒む天然の防壁と呼べたであろう。
特に学校周辺の大気は異常な様相を呈しており、時計とは逆向きに渦を巻き上げその中には大量の瓦礫が舞っていた。
東京都千代田区永田町に居を構える首相官邸。その地下に設けられた危機管理センターに内閣総理大臣、浜田万里江が各官僚に招集を要請したのは魔神復活の報を受けた直後であった。
その報を入れたのは国立富士宮学園学長、柴田直平であり、またその柴田に第一報を入れたのは学園外に出ることの出来ない彼に代わり、目となり耳となり活動していた交渉人、工藤義正であった。
工藤が国立富士宮学園の卒業一期生であることは以前述べた通りであるが、彼が学園外で自由を手にした代償は生涯に渡り学長、柴田の手足として働くことであった。
また彼の卒業一期生の同期は他に四名おり、そのそれぞれが世界中を駆け回り交渉人として活動していただろう。
実は国立富士宮学園生徒会副会長であるアリスを英国から日本に呼び寄せたのも、工藤の同期生である交渉人、石原の働きによるところが大きかったのだが、その石原も現在は内閣情報調査室から国家安全保障局、FSS情報班へと出向しており、彼もまた総理から招集をかけられた人物の一人であった。
石原が総理である浜田にそっと耳打ちする。
「総理、ここは一刻も早く各国代表へ向け楔を打ち込んでおくのが宜しいかと……。魔神の復活を知った彼らは必ずや軍隊を動かしてくることでしょう。もしくは、核の使用も……。既に英国、フランス、中国にその動きが見られます。米国に至りましては実行部隊の投入が確認済みでもありますし、対象との接触もあったものと思われます。今後のことを考えますと、事は急を要するでしょう」
浜田は小さく頷くと内閣官房長官、本間忠嗣に視線を送るのだった。総理である浜田が絶対の信頼を寄せている男であり、前政権時代の働きに惚れ込み当時は敵性陣営に身を置いていた彼をわざわざ皆の反対を押し切り自陣へと迎え入れた次第である。
実に頭の切れる人物であり、あの柴田直平をもってして「日本国政府にとっての良心」とまで言わしめた正義感溢れる漢であった。
「浜田総理、既に各国首脳には緊急リモート会談参加への要請を打診しております。いつでも回線は繋げますが如何なさいましょう?」
浜田は今後日本国の世界における立ち位置について決断を迫られていた。
歴代の政府が戦争抑止力として魔神の確保、またその影響から生まれ出たであろう神童達を防衛の要とする計画、神童計画。
その流れを世界に知らしめる時期がついに来たのだと、彼女は確信するのであった。
だが、世界の首脳達はこのように思うだろう、とも。
日本政府は長らく継承してきた平和憲法を反故し、世界に対し宣戦布告をしてきたではないか。
奴らは、奴らの提唱する非核三原則を有していながら、それすらも越える怪物達を造り出し、いまや世界を恐怖によって従えようとしている。
これは他国に対する脅しであり、脅しこそが戦争を回避する抑止力となり得るのだ。ただし、殆どの国が大いなる脅威として日本を敵国認定してくることはほぼ間違いない。
浜田は本間に対し、各国首脳とのリモート会談を前にとある一国との非公式協議を要求するのだった。
それは総理の席だけにある直接回線を利用したホットライン通話で行われることとなる。
その相手とは現英国首相、ブルーノ・ディッキンソン氏であった。
浜田が赤い受話器を耳に運ぶと、ディッキンソンの嗄れた声が儀礼的な挨拶もそこそこに実質的な問をぶつけてくるのであった。
『親愛なる浜田総理直々のラブコールとは、いったいどのような吉報でありますかな?』
英国紳士らしく礼儀正しくも聞こえるが、その裏に皮肉が込められていることは彼の声色からも窺い知れた。
自動翻訳機を介さず、浜田は流暢な英語で淡々と答える。
『ラブコールとはご冗談が過ぎますよ、閣下。緊急の用件とは他でもありません。閣下が危惧なさっておられた例の魔神が、ついに目醒めてしまったのです。当然、閣下のお耳にも届いておられることと存じます』
『勿論だとも。我々にはボンドが居るからね』
『ボンド?』
『冗談だよ冗談。しかしながらこうも早く目醒めてしまうとはねぇ。我々が十三年前に想定していたよりも、五年も早いとは……何か目に見えない力が働いているとしか考えられんよ。マリちゃん、何か心当たりがあるのではないかね』
『実はその件もありご連絡したのです』
数秒の沈黙が流れ、ディッキンソンが口を開く。その声にはどこか確信めいたものが感じられた。
『神童の、実戦投入に踏み切ったと聞いているが、それは事実かね? それが事実だとすれば、魔神の覚醒を早めた要因とは考えられないだろうか。少なくとも私はそう考えているのだがね』
『ある意味では事実です。ですが、我々の管理する神童達は今回の案件については一切関与しておりません。ただし、現在まではと言っておきましょう。そして覚醒前の魔神に接触した神童と思しき人物は、政府の管理下にない未登録のCryptid(未確認生物)と考えられます』
『つまり……人為的なものではなく、野生の神童による介入という訳か……』
ディッキンソンは魔神の覚醒を目的に日本政府が神童を充てがい封印の弱体化を狙ったものと考えていた。
いまやあらゆる国が軍事的優位性の観点から魔神の力を欲しており、日本も須らく同じであろうと認識していたからである。
しかも日本は前大戦以降、戦勝国による搾取による搾取と、正しい歴史認識の剥奪、また脅威となり得る軍事力の無力化、更には自国内であるにもかかわらず他国の軍事基地がいくつも拠点を設けており、制空権をも奪われているといった事実。
いくら戦後の平和教育という名の下で骨抜きにされた日本人であろうと、民間人への空爆と原爆二発に対する恨みは未来永劫消えることはあるまい、と国連常任理事国各代表達は旧日本人の復活を恐れていたのだ。
魔神こそが、その日本による戦勝国への逆襲の一手となることを危惧していたのである。
浜田が英国首相に対し名指しで事前協議を打診した本来の目的はその想いとは別にある。それは世界の裏で暗躍し人類抹殺計画を進める秘密結社の存在を確認する為であった。
仮に彼がその存在を知っていながら放置しているのであれば、各国代表に向けリモート会談という公の場で英国を糾弾し、英国政府の転覆を促す覚悟であっただろう。
『閣下、私が申し上げたいのは今回の魔神覚醒を一番望んでいたのは他でもない、貴方の国の秘密結社だということをお伝えしたかったのです』
『秘密結社、だと……。もしやフリーメイソンのことを言っているのかね? しかし彼らは十八世紀から続いている歴史ある優愛団体に他ならない。もしや、魔術教団と呼ばれていた銀の星あるいは東方テンプル騎士団のことであるなら、現在の性質からみて無害であると断言出来よう。あの男、獣のナンバー666を名乗る彼が生きていたなら、別の話だがね』
『本当にご存知ないのですか?』
『知らん。何が言いたい』
『ではご説明致しましょう。その存在自体が語られることの無い秘密結社の名は、白蛇。全人類の中から依り優られた者達だけを残し、それ以外の人類抹殺を企てている地下組織なのです。我々は既にその組織の代表者が何者なのか詳細な情報を探っている最中であり、その過程で彼が魔神を復活させこの地上を焼き払うべく日本へと使者を遣わした、との報を受けたところです。つまり、魔神の早期覚醒はサーペンスアルバスの策略であると断言出来るのです』
『つまりマリちゃんが言いたいのは、わたしに彼らを見つけ出し計画を阻止しろ、と?』
『いいえ……。組織の解体には我々が動きます。閣下に了承を頂きたいのは、我々の奥の手でもある戦力を英国に派遣し、作戦行動をとる許可を頂きたいのです。それと、現在水面下で準備されておいでの戦略核使用の判断を、撤回して頂きたい』
ディッキンソンの口は再び閉じられ、短い思考の後に赤い受話器から返事が返ってくる。
『いいだろう。マリちゃんの好きにすればいいがこれだけは忘れないでくれたまえ。もしも、貴国の兵士が英国に対して害を及ぼすと判断したなら、王室の剣は必ずや日本国本土を射抜くであろう。それまでは、核のボタンに触れることはないと約束しよう』
『正しき御英断に感謝致します閣下。我々も、これで安心して魔神討伐への一手が打てるというものです』
『あの魔神を、討てるのかね……。世界の首脳の殆どが、必要悪である戦力として欲していると知っていながら。君達もそうではないのかね?』
『それを言うならば核兵器も同じでしょ、ブルーノ。其処に在るから、使わずにはいられない。これも人間の性かも知れないわね。でもね、私達は核も、魔神も必要としていないの。私達が国防の要とする神童達も兵器と言われるけど、彼ら彼女らは善悪を判断出来るれっきとした人間なのよ。撃てば死を招くだけの核兵器とは違い、正しいことに力を使うことが出来るのが神童達なの。間違えた道に進めば改めさせ、正しい道を進むなら背中を押してあげる。それが私達大人としての責任じゃなくってかしら』
『偽善だな。しかし……マリちゃんのそういうところは嫌いではない。幸運を祈る。最善を尽くしたまえ』
『ありがとう、ブルーノ。では改めて後ほど』
ホットラインを切った浜田は椅子に深く背中を預け大きく息を吐き出すのだった。緊張からであったか、その顔に安堵の色が窺えたが一瞬で両頬を叩き気合いを入れるのだった。
淹れたての珈琲を手に傍まで来た本間に浜田が尋ねる。
「どうだ? 上手く出来ていたかな」
本間は珈琲を手渡し浜田が一口嗜んだところで笑顔を浮かべこう答えるのであった。
「成果は上々でしょう。回線に聴き耳立てていた他国への牽制にもなったことでしょうし、これで迂闊には手を出せない筈です。なにせ、英国首相の後ろ盾を得たわけでありますからね。流石は日本国内閣総理大臣、浜田万里江此処に在りといったところで御座いましょう」
「なにを白々しい。あれもこれも貴方の描いた筋書き通りではありませんか。真に恐ろしきは内閣官房長官、本間忠嗣の頭脳と私は思っているのですよ」
「買い被りすぎですよ総理。それよりも、次の舞台が待っております。気合いを入れ直して臨むと致しましょう」
「そうだな。現場で彼らが踏ん張ってくれている以上、私達は私達でやらねばならぬことがある。それが彼らに報いる最善の策であると信じるしかあるまい」
「その通りであります総理。これから起きる事態に、何人たりとも介入させてはならないのです。例えそれが、人道に反することであろうとも」
黙って頷く浜田総理の正面に設けられた五つのモニター。本間が「では始めましょう」と言った直後、国連常任理事国代表の面々が一同に介し魔神討伐に対する議論が激しく繰り広げられるのであった。
特に米国代表、デイビッド・ルー・ルース大統領の反感は想定以上に強く、日本国内における米軍の関与を否定するだけでなく、海兵隊による魔神鹵獲作戦を提唱するなど、およそ日本国の提言とはかなりの乖離があったとみられる。
しかしながら他の常任理事国代表達が日本の考えに歩み寄りを見せたことで、米国大統領も渋々と軍事不介入の約束を交わすのであった。
現在作戦遂行中の、秘密の部隊を棚にあげておきながら、である。
このようにして日本単独による魔神討伐作戦は満場一致で可決したのであった。
∣
国立富士宮学園生徒会執務室内。
生徒会長、押井皇仁の席にはアリスが座しており、卓上に両肘をつき頬杖している姿は悪戯な少女にしか見えない。
クスリと微笑み、目の前に立する皇仁に視線を配るのだった。
「いつからその席は君のものになったのかな、アリス君」
皇仁の冷徹な瞳は殺意こそ孕んではいなかったが、それはまるで牙を向けた飼い犬を見下げているかのようであった。
「あらやだ。会長不在時の代理を果たすのが副会長たるわたくしの職務ではなくってかしら?」
「そんなことは訊いていない。引き出しの中に隠していた大切な資料が、何故君の目の前に広げられているのかと訊いているんだ」
アリスの細い指先が、一冊のファイルを捲り鼻を鳴らす。その顔は妖艶であり色気さえ感じさせた。
「ふぅ〜ん……。女性に興味が無いのかと思ってたけど、やっぱり会長も男の子なのね。赤髪の青年の次は、この可愛らしい女の子に首ったけってわけ?」
皇仁は机に歩み寄るなりアリスが目にしていたファイルを取り上げ表紙を閉じるのだった。
「冗談もほどほどにしておけ。君も例の噂を耳にしたからその詳細を確かめに来たのだろう、アリス。知っての通り、彼女は次世代の神童と目されている人物の一人だよ。その能力は特質にして異質。この僕でさえ敵わないだろう。今の今までその素性が明らかにされていなかったのは、その能力ゆえに誰も彼女が能力保持者だと気付いていなかったからさ」
「そうね。でもそれ以上に興味があるのは、貴方が神童達の未来を託そうとしているあの青年と、この女の子は親しい間柄にあるという点だわ。これについてなにか説明は出来て?」
「僕に訊いてどうする。いま学長の柴田は彼女の身柄確保の為にわざわざ工藤先輩を動かしたんだぞ。あの、工藤先輩をだ。分かるかい? つまり例の青年、宇童ヒロトと彼女は、学長柴田直平の野望にとって必要不可欠な駒の一つというわけさ。普通の人間、いや、我々とも違う特別な存在の二人が、無意識の内に互いに呼び合い巡り会ったのかも知れないね。もしくは……」
皇仁の瞳はアリスを見ているようで実際には彼女の姿を捉えてはいなかった。見ているのは、頭の中を駆け巡る考察の先に導き出された真実であったかも知れない。
アリスもまた、喫茶「bound to blake」を背に傘の下で柴田直平と肩を並べたおり、彼と交わした意味深な会話を思い出していた。
回想の中の柴田はこのように話し掛けてくるのだった。
『君なら分かるかと思って尋ねるのだが、君のマスターは何を想って君を創り出したのだろうね……いや、今の質問は聞かなかったことにしてくれ。歳上の女性に対してあまりにも非礼が過ぎたようだ。すまない。神は何を想い自らの血から新しい息吹を創り出したのか、少し気になったものでね』
『ほんと失礼しちゃうわ。たかだか八十そこいらの若造が何を勘繰ってるのやら。そもそも神の意向なんて神様にしか分からなくってよ。ただ……わたくしが思うところでは、神様だって友達が欲しかったんじゃないかしら。同じ刻を過ごせる、友達をね……』
『ふむ……少しばかり腑に落ちた気がするよ。ありがとう、アリス君』
アリスは先刻、柴田が何故そのような問い掛けをしてきたのか疑問であったが、回想を終えた彼女は確信を掴むのであった。
「なるほどね。会長、少し分かった気がするわ。二人の関係性と、その目的が何なのか」
皇仁の意識がアリスへと向けられる。眼の焦点はアリスの淫靡でいて艶めかしい唇にフォーカスされるのだった。
その口は、いま何と言った、と。
「君も辿り着いたのかい、真実に。それはおそらく僕達神童や、君のような特殊な存在が生まれた原点であり、想いなのかも知れないね」
「わたくしも、その考えに同意するわ。だからこそ、彼らと魔神との戦いがどのような結末を迎えるのか、楽しみでならないの」
「それは僕も同じさ。でもね、僕はもうすぐこの国を離れなければならない。だからこそ此度の行く末は副会長である君に見届けて貰いたいんだ」
「分かっているわ。でもね……そうしたいのはやまやまなんだけど、それが出来なくなってしまったの」
皇仁の顔に驚きは無い。それが出来ないということは、アリスもまた別の任務に就く必要に迫られたと判断出来たからである。
「と、いうことは僕と同じで国外案件に就かされたと考えていいのかな。それは何処で、いつ発つのかな?」
「わたくしの故郷でもある英国よ。明日の早朝、成田に向かい一般客に紛れてヒースロー空港に降りる予定なの。学園を発つのは貴方の方が早いのではないかしら」
「たった一人でなのかい?」
「そう、単独作戦よ。厳しい戦いになることは予想出来るけど、わたくしにとってこの戦いは避けられない運命の分岐点と言えるでしょうね」
「そうか、英国に……。君にとっては辛い戦いになるだろうね。なにせ敵は、あのバートリー家の末裔なのだろうから」
「その名は言わない約束よ。でもいいわ。あの子もいまや貴族にあらず、高貴なる血族から足を踏み外してしまった愚かな男に成り下がってしまった。白蛇などという組織で祀り上げられ、その代表まで務めていようとはね」
アリスの表情はどこか哀しげで、それでいながら堅い決意が感じられた。それは彼女の過去との決別を意味していたのかも知れない。
皇仁は懐に手を入れると、アリスに一通の封書を差し出すのだった。白い封書の表には「辞表願い」、と書かれていた。その文字はあまりにも汚い。何事にもトップを目指し完璧を求めてきた皇仁も、字の汚さだけは克服出来ずにいたようだ。
「帰国したとき学長に渡そうと思っていたんだが、君にいま渡しておくよ。僕が居なくなった後は、新しい会長が選任されるまでの間は君が会長だ。だから、此処へ必ず戻ってこい」
「淋しいことを言わないで。貴方も、必ず生きて帰って来るのよ。それに、会長副会長が揃って不在なんて過去になかった事例だわ。会長代理はわたくしではなく、前会長である彼に任せるべきでは?」
「彼、か……。同じ三年組でありながら会長職を辞してまで僕を推挙した男。彼が快く応じてくれるとは思えないけどね」
「それはどうかしら。貴方の頼みであれば断れないのではなくて?」
「君がそこまで言うのであれば仕方がない。彼に、頼んでみるとしよう」
「それがよろしいかと」
アリスが皇仁へと向けた眼差しには、慈愛の色が汲み取れた。余命短しと知りながら、激戦が予想される中東の地へと自ら進んで赴く彼に、忘れていた母性が働いたのかも知れない。
皇仁は差し出した封書を再び胸元にしまいアリスに背中を向けると、無言で執務室のドアへと進みノブに手を掛ける。そしてドアを開いた直後にこう言うのであった。
「行ってきます」、と。
∣
私立天龍第一高等学校の校庭に姿を具現化させた魔神は、身体から溢れ出す魔力の総量に心踊らせていた。
奈落の最下層にまで叩き落とされ、鬱憤と憎悪から造り出された魔力は吐き出す場所さえ奪われ体内に蓄積されていったのである。
霊的牢獄から解放されたこの瞬間、魔神の魔力は破壊の衝動にかられ受肉したばかりの体を破り外へと飛び出そうとしていたのだ。
腹の底から湧き上がるこの怒りの感情が、一気に爆発する。
その対象は、十三年前に自らの前に立ちはだかり、封印という名の罰を強いてきた新隣二ことフル・ライオットであり、その部下であり友人のジョエル・サイクスであっただろう。
そして初めて目の当たりにした破壊と殺戮の権化である魔神を前に、新の背後で身を寄せ合い、魔力の余波にあてられ身体を硬直させている特務隊の面々。
円卓の騎士、ローズに至っては怯え震えながら魔神を見上げていただろう。
そして神童、潤布豊満は未だ意識を失ったままであった。
魔神は新の姿を捉えるなりその口を開くのだった。牙を剥いた口元から、地の底から発せられたかのような図太い声と共に、灰混じりの呼気が吐き出される。
そして魔神が立つその足元では、地表から這い出しまるで癌細胞が増殖するかのように大地を侵食してゆく蠢く闇が窺えただろう。
『この姿を前に震えが止まらぬのではないか、宇童家の飼い犬よ。既に魔祓いの血筋は潰えたも同然。もはや我を止められる者はこの世に存在せぬ。先ずは手始めに此処にいる全員、血祭りにあげてくれよう。さぁ、命乞いをするがよい。暫し懺悔するだけの猶予は与えてやろうではないか』
体長が十メートルを越える魔神を前に、新は動揺を隠せなかった。それは怯えからくるものなどではなく、学校敷地内にいる全員の命を護るだけの担保が無かったからである。
一人も死なせない、などと豪語しておきながら、いまは自分の身を護るだけで手一杯であったのだ。
新の隣に歩み寄るサイクスは、両手で持ち上げた頭を分離していた胴体に乗せながらこのように語り掛けるのだった。
「わたしが奴を誘って隙をつくる。その間に、皆を校舎の中まで避難させたまえ」
「何度見ても出鱈目な身体してんのな、お前。まるでフランケンシュタインじゃんよ」
「それは違うぞ。フランケンシュタインは怪物を造った博士の名前であってだな、貴様の言う……」
「分かった分かった。そんなもんどっちでもいいからさ、とにかくコイツを何とかしないと。それに、校舎に逃げたところで安全とは限らないのよね」
「一分一秒でも生存確率が上がるならそうするべきだ。それにどうせ貴様のことだ、このような事態を想定した上で何か策を練っているのではないのか」
「まぁ正直予想はしてたけどさ、今の俺らじゃどうすることも出来ないのよね」
「つまり、チェックメイトということか」
「だからさ、今は無理ってこと。それよりさぁ、ほんとに一人で大丈夫なのか?」
「なに、心配には及ばんよ。此処は任せてくれたまえ」
目の前で繰り広げられる人間と人造人間による漫談、もとい会話の内容に呆れ返り意を削がれた魔神であった。
『お前達、我の話を聞いていなかったのか? これからその身を灼かれようかというその時に随分とふざけてくれるものだな。丸聞こえであったぞ、貴様らの思惑。思い通りに事が運ぶと思うなよ』
天に向け右手を掲げた魔神の指先に、学校を取り巻く渦の中からいくつもの雷が轟音と共に光の筋を走らせ集約される。
帯電したその腕を振り下ろすことで、三万度の熱量に達した雷電が新達を襲うのだった。
「走れ新!」
サイクスが叫ぶが早いか新は地べたに跪いたままのローズを抱え地面を蹴っていた。
身動きひとつ取れない特務隊員達に至っては、目の前に突然姿を現した三等陸曹、湊政時を見て瞬時に理解するのであった。
大塚、山本、人見、裸の男性の全員が互いに手を取り合い環を作る。
裸の男?
湊は叫ぶ。「飛びます! 全員目を閉じて下さい!」、と。
ほんの一瞬の出来事であった。
彼の能力は次元移動であり、所謂テレポーテーション、瞬間移動と呼ばれているそれである。
ただし彼の場合はその能力に違いがみられた。
彼の能力は別次元を介して移動は出来るもののその有効範囲は視界の範囲内のみと限定されており、しかも数秒後には元の場所へと強制的に戻されてしまうのであった。
使い方次第によってはオフェンスにも活用出来るが、主に敵陣からの退避目的に使用することを念頭に配属されており、その能力の特性故に須木戸は新に随行させていたのであった。
彼の活躍によって生命の危機を脱した特務隊員達と裸の男性は、須木戸が待つ校舎昇降口へと瞬間的に避難を果たすのであった。
次の瞬間、激しい爆音と衝撃が走り大地を揺らすと、その一面は瞬く間に燃え尽き炭化するなり黒煙を立ち上げるのである。
そして学校敷地内上空には雨雲が無いにも関わらず、黒い雨を降らせるのであった。
『驚嘆に値するぞ人間よ。我が赫怒の一撃を受けてなお立っていられるとは、褒め称えてやろうではないか。だが、其処から動けぬのならば死は逃れられぬぞ』
魔神の目にはサイクスを除いた皆が塵となり消え失せたものと映っていた。瞬時に姿を消したのだからそう思って当然ではあったし、激し過ぎる攻撃によって曝塵が生じたのだから視界が遮られたこともそのように思わせた要因と言えたであろう。
其処に残ったサイクスが無事でいられたのには訳がある。既に彼が人造人間であることは述べた通りだが、円卓の騎士、J・リーがそうであったように、彼もまたその組織の上位団体によって人体改造を施された過去を持つ。
彼の身体は死した被験体達の強靭な部位を繋ぎ合わせ、全身に防爆防雷耐高熱処理が施されていた。
初めから対魔神を想定とした兵器として開発されたのであって、スペック的には単独での大気圏突入も可能とされている。
その経緯と素性を知っているのは円卓の騎士、前団長であった新隣二のみであっただろう。
『サーペンスアルバスのマッドマン、Dr.クロウリーには感謝せねばならないな。魔神の攻撃に対し有効な肉体を提供して貰ったのだ、首を落とされたときは油断していたが、今こそ使わせてもらうぞ、最大出力の完全解放』
『思い上がるなよ、人間。人の世界の常識が、この冥界の主たる我に通ずると思うな!』
魔神の足元で蠢いていた闇が、鋭利な槍となりサイクスに襲い掛かるのであった。その数およそ数千。
触れる物すべてを腐食させる魔界の槍であった。
これに対しサイクスが放ったのはレーザーである。両手の指先から放たれた十本の光の筋は、二本の腕を動かす事で弧を描きながら襲いくる槍を薙ぎ払ってゆくのだった。
だが全ての槍を無力化した訳ではない。
ヒタヒタと地面を影のように伸びてきた闇がサイクスの手前で突然伸び上がると、その先端は彼の腹部を容易く貫くのであった。
『射抜かれただけだ! まだまだやれる!』
『クッカカッ、そのような悠長なことを言っている場合ではないと思うぞ。ほれ、見てみるがいい』
ダメージは受けたが致命傷ではない。身体が機能しているならばまだ戦える、と戦意を失ってはいないサイクスであったが、魔神の槍はその触れた面から肉体を蝕んでゆくのであった。
闇の槍を形成しているのは大量に蠢くバクテリアのようなものであり、それらが肉体を喰い荒らし腐食させていると考えられる。
『これはっ!』
サイクスは咄嗟に右の前腕から刃物を突出させ突き刺さっている槍を両断するのであった。そして肉体に残った槍の残りをレーザーで焼却し腐食の拡大を防ぐのだ。
この対処に要した僅かな時間を魔神が見逃すはずもなく、気が付けば巨大な拳が頭上へと迫っていた。
「だから言ったじゃん。一人で大丈夫かって」
サイクスの背後から新が声を掛けてくる。そして、目を閉じていろ、とも。
「湊三曹! 間に合うか!」
「なんとか!」
湊がサイクスの背中に触れた直後、二人の姿はその場から消え失せるのだった。
代わりに、サイクスが立っていた場所には新が立っていた。
「待たせたな、ヒロト。叩き起こしに来てやったぜ」
魔神による隕石の如き巨大な拳が新に直撃するのだった。あまりにも激しい衝撃波は円状に広がり鉄筋コンクリート造りの校舎をも揺らすのであった。
更に、学校敷地内を取り囲む嵐の壁はその衝撃波を相殺し決して校外に漏らすことは無かった。
外界からの侵入を拒む嵐の防壁は、内側で起きている事象さえも閉じ込めてしまう結界の役目を果たしていたのだ。
「この手をどけな、間抜けな魔神野郎。その顔、何故俺を潰せないか分かってないだろ」
魔神の拳は新の右腕一本により頭の上で止められていた。激しい衝撃波はこの拳を受け止めたときに生じたものであった。
何度も言うが、新隣二は紛れもない生身の人間である。
そのような生身の人間が、絶大なる魔力を有する魔神と対等に戦えている理由とは、やはりそれは新が純然たる人間であるからに他ならなかった。
では人間とは一体どのような存在なのであろうか。
その答えは宇童家の正統な後継者であるヒロトの中に隠されていた。それは本来彼が生まれながらに持っていた力であり、魔神を封印し同化したことによって失われてしまった力である。
しかしその力は完全に消えてしまったわけではなかった。
十三年前の魔神戦において、幼いヒロトを残し命を落としてしまった母親、宇童いおり。彼女の手からヒロトを託されたとき、新はその力の一部を譲り受けたのである。
まだ三歳にも満たないヒロトが、凛とした表情でこのように告げるのだ。
「母は僕を一人で産んだんだ。父はいないよ。神降ろしの儀式で、僕を授かったからね。だから、貴方に本心を告げられなかったみたい。本当は、貴方と一緒になりたかった、と。だから、僕が僕として戻ってくるまでの間、貴方に力の一部を預けたいと思うんだ。母が心から信頼し愛していた、貴方にね」
ヒロトから預かった力とはもともと人に備わっていた根源の力であり、それは善だけでなく悪の霊性をも有する人だからこそ持てた力であった。
すなわち、善の霊性である天使も、悪の霊性たる悪魔でさえも、打ち負かすことが出来るのが人であり、神はそのような権限を人に与え創り出したのである。
つまり人とは、現世において神の摂理代行者となるべき存在であったのだ。
ところが人は魂の純粋さ故に善と悪、そのどちらかに容易く傾倒してしまうのである。
他人を平等に愛することが出来るのが人であり、別け隔てなく他人を憎むことが出来てしまうのも人であった。
善人と悪人、その間に在るのが、人間であった。
新が預った力は魔神に対して有効であり、魔神の力を弱体化させることが可能であったが、この力を顕現出来る時間は僅かであった。
完全体としての人間ではない新にとって、ヒロトから預かっているだけのこの力を活用するには複雑な条件を必要としていたからであり、ヒロトに比べ霊力の総量が脆弱であった為である。
まず前提として、本来の持ち主であるヒロトの協力が必要不可欠であった点。
新に受けたビンタによって、魔神の中で眠っていたヒロトの人格が目醒めたことでそれは満たされた。
そしてその魂の共鳴が可能とされる閉じられた空間に在り、対象に直接触れること。
いまがまさにそうであった。
『ふざけろよ人間。未だ生物としては未完成であり、霊的進化の門前にも立てぬような貴様らが、この我を倒せると思うな!』
「思うね。だってよ、破壊と殺戮、壊すことしか知らないアンタと違って、俺達は作ることが出来るんだぜ。人間って、スゲェだろ?」
『黙れ!』
魔神が空いている腕を突き出し拳を開くと、その中に黒炎が渦巻き球体を造りだす。万物を塵へと還す魔界の火球であった。
新に止められていた右腕を引き戻し火球を投げつける魔神。流石にこれを受けて無事でいられるとは考え難い。
新に与えられた絶対的優勢時間は終わりを迎えようとしていた。
「ヒロトの頭に拳骨落とすまでは死ぬに死ねないのよね。それに、京子とも約束しちまったしな。ヒロトを助けるってよ」
舌を出しウインクする新は腰を落とし両手指を地面に着けると前傾姿勢をとるのだった。
短距離走でいうところのクラウチングスタートに似ていただろう。
魔神の掌から火球が離れたのを合図に、新は大地を蹴るのであった。
ほんの僅かなタイミングの差が生死を分かつ。
黒炎の球は新を捉えられず地面に巨大な穴を開けると地獄の業火を空高くまで立ち昇らせるのだった。
速度に乗った新は硬く結ばれた両拳を振り上げ魔神の身体を一気に駆け登ると、鬣に覆われた頭頂部へと霊力を込めた渾身の一撃を叩き込む。
その衝撃を受け流石の魔神も片膝と両掌を地面に着けるのだが、決定的なダメージには至らなかったようであり逆に新の身体は蠢く闇の触手に絡め取られてしまうのだった。
「お前に預かってたこの力、確かに返したぜ。だからよ、とっとと目を醒ましな……ヒロト」
新の絶対的優勢時間は終わりを告げる。と同時に魔神は触手を操り新の身体を地面に叩きつけるのであった。
血反吐をぶちまけ全身が軋みを上げる。いくつかの骨は粉砕され立ち上がることもかなわない。魔神に踏みつけられればまず助かるまい。
『確かに効いたぞ、いまの一撃。だが所詮は借り物の力、獅子奮迅の活躍もここまでのようだな、強き弱者よ』
立ち上がった魔神は新にとどめを刺すべく片脚を持ち上げ踏み潰そうとする。その足底には渦巻く闇があった。
魔神はプレス機の如く新を圧殺しようとその脚を下ろそうとするのだが、持ち上げたその脚は何故か同じ場所へと下ろされてしまうのであった。
これには流石の魔神も驚きを隠せない。
何故ならば、脚だけではなくいまや全身が地面へと押し付けられる感覚に襲われていたからだ。
両手両膝は地面に張り付き、必死に抗うものの胸から腰の部位も地面へと叩きつけられるのであった。
それはまるで超高重力下の惑星に放り出されたようなものであった。
『これ、は、貴様の仕業か! 人間にしては頑丈な奴と思ってはいたが……思い出したぞ。お前、かつてこの国で我の血から産み落とされた闇の子であろう。いや、そうではないな。我とは別の……奴、か……』
負傷し身動きの取れない新を抱え、魔神の前に立ちはだかるのは神童、潤布豊満であった。
疲弊していた身体の修復を終え、直前の戦闘で開花したばかりの能力を用いて魔神の動きを制しているのだった。
「何てぇ格好してやがる、糞ヒロト」
『クカカカッ。貴様の言うあの小僧ならばもうこの世にはおらんわ』
「それは違うぜバケモン。ヒロトならお前の中でピンピンしてやがるじゃねえかよ。もしかして、分からねえのか?」
『戯け者め。分かっていないのは貴様の方だ。我がこの世に受肉を果たした時点で、奴の魂は常世の闇に封じ込まれたのだ。こちらの世界に干渉できる力などあってたまるものか』
「好きに言ってな。別に俺はどっちでもいいんだけどよ、アンタをこのまま野放しに出来るほど人間腐っちゃいないのさ。それに物質としてこの世に存在している以上は、俺の能力の影響からは逃れられないと思うぜ、覚悟しなバケモン」
潤布豊満の神童としての成長には目を見張るものがあった。死を間近に体験した事による新な能力の発現であったかも知れないが、どうもそれだけではなかったようである。
それは宇童ヒロトとの直接的な接触によって能力の強制進化が促された可能性が考えられる。
では、宇童ヒロトとはいったい何者であろうか。
創造神によって造られた人間の完成形であり神の摂理代行者。
確かにそう説明出来たであろうし、現に力の一部を預かっていた新はそのように考えていただろう。
しかしそれほど簡単に説明出来るような存在ではなかった。
闇の主と自称している魔神でさえ、ヒロトの正体は神の依代であり己の魂を幽嶽に閉じ込めておく為の匣としか認識していなかった。
魔神が覚醒を果たしたからには、封印の匣たるヒロトの存在は失われ闇に葬られるのが当然と考えられる。
だが、彼の魂は闇に葬られることなく今なお魔神の中に混在しているのであった。
誰しもが、その存在を証明することが出来ず、否定する事さえ出来ない存在、それがヒロトであった。
豊満は魔神に対して更なる質量増加を付与するべく自身の精神と肉体に鞭を打つのだった。
数秒で意識を失ってしまうほどのエネルギーを費やし、魔神を押し潰そうとしていた。
魔神の身体は自らの質量を増大させるとその中心に向かい徐々に押し潰されてゆくのだった。
四肢の関節が、パキパキと音を立てながら逆方向へとねじ曲がってゆく。
『赦さんぞ……貴様。我と同格の本質的霊性を持っていながら、人間の手先、などに成り下がりおってからに。このままで済むと思う、な』
「何言ってやがる。俺はどっからどう見ても人間だろぉが。貴様のようなバケモンと一緒にすんじゃねえよ」
豊満が更に力を込めると、彼の眉間には筋が浮き彫りとなり、目尻からは血が伝い流れるのだった。
「ーーやめときな青年。奴を潰す前に、自分が潰れちまうぞ」
豊満に声を掛けたのは重篤な状態にある新であった。死をも覚悟する苦痛に耐えながら、神童の能力に翻弄され人生を終えようとしている若者に待ったを掛けたのだ。
おそらくこの青年は、全ての生命力を使い果たしてでも魔神を倒そうとするだろう。
そう考えたとき、多くの神童達にとって指導的立場にある新にしてみれば、捨て置き難き状況であったに違いない。
だからこそ、この青年を死なせてはならない、と。
「黙ってなオッサン。アンタこそ死の間際じゃねえかよ」
「俺なら大丈夫、さ。なんてったって、イケオジだから、よ」
「理由になってねえよ。ってか、ヒロトはアンタのなんなのさ。さっき助けるとかなんとか言ってたよな」
「ヒロトは、俺の甥っ子なのよね。だから、連れ戻しにきたのさ。それが家族ってもんだろ?」
「そうかい、家族か。つくづく羨ましい野郎だぜ。俺が持ってないもんを、全て持ってやがる」
「そうとも言えないんだけどさ、まぁいっか。それよりも君……いますぐ横に跳びな」
「えっ?」
豊満が視線を上げると、地面に押し付けられていたはずの魔神が上体を反らし牙むく口を大きく開けけていた。
『戯れは終わりだ。塵に還れ愚者どもよ』
突き出された長い舌先に、熱線を放った光源とは比較にならないほどの大きな光球が渦を巻いており、それは魔神の咆哮と共に電柱ほどの太さをもつ特大の熱線を放つのである。
咄嗟に跳び退けた豊満の身体を掠め、熱線は地面を溶解させながら直進すると東側校舎の半分をも溶かし吹き飛ばすのであった。
圧倒的破壊力と絶望感。
この破壊の権化たる魔神にいったい誰が敵うというのであろう。
熱線を掠めた豊満の右腕は半ば炭化していた。辛うじて原形を留めており、自己復元能力による回復が見込めることは大きかった。
ただし、質量付与の能力は使えなくなっていた。
「だからさっさと潰しときゃ良かったんだ。どうしたらいい、オッサン!」
目も開けられなくなった新は落ち着いた口調でこのように告げるのだった。
「君の能力、硬質化はまだ、使えるよね?」
「なんで知ってる……」
「いいからいいから。もし使えるなら、俺を降ろして左手を頭の上にあげな。これから、その手を銃で撃ち抜かせる。その瞬間、弾を最強の硬度に変成してもらえないかな」
豊満は新の作戦に感心する。このオヤジ、俺の能力の何処まで知っているのか、知っているからこそ能力の特性を活かした攻撃方法を考え出せるのだろう、と。
「オッサンを信じる。やってくれ!」
豊満は新を足元に下ろすと左腕を高く掲げるのであった。直後、新はインカムを通じて彼女に命ずるのだった。魔弾の射手、真備温羅陸三曹にである。
「真備! 能力完全解放! soldier of fortuneで彼の手の甲を撃ち抜き魔神を射抜け!」
真備温羅は魔神に狙いを定めたまま号令を待っていた。ただひたすらチャンスを逃すまいとタイミングを計っていたのだ。
そして新から能力完全解放と聞き、胸元に忍ばせていたアンプルを取り出すと片手で器用に開封し溶剤を一気に呑み干すのであった。
黒色の瞳の色が、白濁し瞳孔が開く。
「行け! 魔弾Danger Of Love!」
真備の放った魔弾は豊満の手を貫通するのを待って回転速度を落とすどころか逆に速度を上げるのだった。無限の回転を可能とする魔弾。恐ろしいまでの破壊力を生み出す弾丸であった。
その弾丸が、更には豊満の硬質化付与の能力で最大級の硬さをも手にするのである。
魔弾を射た後の真備は意識が薄れその場に顔を埋めてしまう。神経をすり減らし、能力の限界まで追い込んで射た一発であったのだから、気力も体力も尽き果ててしまって当然であろう。
その真備が気を失う直前、このように呟くのであった。
「危険な恋に落ちた女性のよう……に、アンタの心臓もイチコロ……よ……」
魔弾の弾道は豊満の手によって遮られていた為、魔神もその攻撃の一手を予測することは出来なかったようである。気がつけば魔弾は心の臓を貫いており、背後の景色が窺えるほどの大きな穴を空けるのだった。
これだけのダメージを受けていながら魔神は、自身に空いた穴を蠢く闇で覆い隠すと、これらを消失してしまった心臓に擬態させ臓器としての機能を復元させてしまうのだ。
なんという出鱈目な生命力であろうか。
なんという復讐への執着であったか。
なんという、化け物であっただろうか。
魔神は言葉を発せないまでも、轟き渡る咆哮と荒れ狂いながら大地を叩きつける様相とで怒りが頂点に達したことを見る者すべてに知らしめるのであった。
新が自分の脚で立つことも出来ないほど負傷しているのに、救護を求めないのには訳があった。
次元移動能力を持つ湊三曹であれば瞬時に退避させることも可能と思われたが、新が命じた内容はそれとは異なっていた。
「須木戸准尉! 聞こえているならいま直ぐ学長の爺さんに伝えるんだ。結界を発動しろってな!」
昇降口の前に身を伏せながら状況把握に徹していた須木戸は息を呑んでいた。
いままで経験したことのない化け物との戦いに、通常の戦術や戦略が通用しないことを痛感していただろう。
いまでは敵であった円卓の騎士三名を自陣に匿い、特務隊員達の能力を最大限引き出すことで命の危険までをも冒させてしまった。
それでもなお、目前の化け物相手に全滅も免れない状況にあるのだ。
そうと分かっていながら、須木戸は事細かに現場の状況を逐一報告していたのである。
相手は交渉人の工藤であり、彼を介して学長の柴田へと伝えられていた。
それこそが彼に与えられていた役目であった。
「いまがそのときなのですね」
『そうだ。奴が回復に専念している今を逃せば、二度目のチャンスは無い。それに、だから爺さんは俺に銃を持たせたんだろうよ。魔神の位置情報を、正確に送らせる為にな』
「分かりました。お任せ下さい」
須木戸の後から、京子が声を掛けてくる。新との会話が聞こえているとは思えないが、その顔には覚悟が窺えた。
「隊長さん、頼みます……」
須木戸はそのたった一言にすべてを察するのであった。この兄妹は、血の繋がらない呪われた宿命の子を、その無慈悲過ぎる過酷な運命から救うべく奔走しているのだと。
兄は力を得るために人を捨て、国を捨て、争いの中に身を投じた。
妹は女性としての愛を捨て、人生を賭けて幼子を育ててきたのだ、と。
そしてその子を前に、願うのであろう、と。
「あの子を、どうかあの悪魔から解放してやって下さい」
「大丈夫ですよ、お母さん。貴女のお兄様は必ずや約束を果たされることでしょう。そういう、お人です」
須木戸は涙を浮かべ頷く京子に背を向けると、彼だけに所持させていた衛生電話を使い工藤を呼び出す。言葉短く状況を説明した後に、結界発動の要請を伝えるのであった。
工藤を乗せたロクマル改は悪天候の為に飛ぶことが出来ず、やむなく公共のスタジアムを利用して天候の回復を待っていたのだが、須木戸からの一報を受け慌てたように飛び立つのであった。
操縦士の隊員が、インカムを通じて工藤にこのように伝える。
『任せて下さい工藤さん。例え嵐の中だろうと飛んでみせますよ。彼女を、送り届けなきゃならないんでしょ?』
彼の言葉を受け工藤も、『頼みます』とだけ返し向かいに着座する女子高生、遠延朱に声を掛けるのだった。
「お嬢さん、宇童ヒロト君をご存知ですよね?」
「ヒロなら知ってるわ。だって隣ん家だもん……。なんで、そんなこと訊くの?」
怪訝そうに怯えた顔で工藤を睨む朱であったが、この男が危険でないことだけは分かる。ただ、幼馴染であるヒロトの名前を出された時点で何かしらの意図を感じとったようだ。
「そのヒロト君を救い出す為にも、是非とも貴女の能力が必要なんです。どうか我々にご協力願いたい」
朱は驚いた。その感情の変化を悟られまいと平静を装ってはいたが、この男、交渉人工藤にはすべてお見通しであった。
「……」
「何故知ってるの、と訊きたいのでしょ? 心配には及びません。貴女も含めて、我々は助けに来たのですから。ですがその前に、いまも言ったように彼を救わなければなりません」
「救うって……いったいヒロに何があったの? まさか事故にでも遭って大怪我したんじゃ……」
「確かに事故とも言えますが、そうではありません」
事故ではないと聞き朱はホッと胸を撫で下ろすのだが、工藤の次の言葉で更なる不安と堅い決意を抱かせるのであった。
「いまはまだ無事ですが、彼に付き纏っているのは死の影です。それを取り除く為にも、貴女の能力が必要なのです」
「もし私が断ったら?」
「ご自宅に送り届けます。ですがその先につきましては我々としても責任を負いかねます」
「ーー分かりました。ヒロの居る場所に、連れて行って下さい」
「交渉は成立したものと受け止めました。ご決断に感謝致します。と言いますか、もう向かっているのですけどね。ハハハッ」
工藤の悪びれない態度に朱は少し安心を覚える。自分の能力のことを何時何処で知ったのかは甚だ疑問であったが、悪い人間には思えなかった。
仮に自分の能力を悪用するつもりであるならば、使わなければ良い、それだけだ、と自らを納得させるのだった。
国立富士宮学園学長室にて工藤からの報告を受けた柴田は、机の引き出しから四本の鍵を取り出すなり後ろに並ぶ本棚へと足を向ける。
徐ろに数冊の本を棚から下ろすと、その奥に見える隠し金庫のダイヤルを回すのだった。
かなり年期の入った金庫であり、その製造された年代は明治にまで遡ろうかと思われる。
小さいながらも重厚な扉が、不快な音を上げ開かれるのであった。
金庫の中は空であった。が、その奥には光学センサーが埋め込まれており、柴田が顔を近付けると緑色を帯びたレーザーが彼の網膜パターンを読み取るのだ。
『認証』
人工的な女性の声が反応を示すと、壁一面を占めていた本棚は観音開きの扉よろしく両サイドへと押し開かれるのだった。
その奥には、壁一面がブラウン管モニターで覆われている空間が広がっていた。
部屋の中央には円形の支柱が一本、腰ほどの高さであっただろうか大きさはマンホールの蓋にほぼ等しかっただろう。
柴田は支柱に近づくと、陸科時代における初期の被験体であり初の成功例であった四人、その彼らに託されていた貴重な鍵を、支柱の上に整然と並べ置くのである。
この鍵こそが、陸科初代所長であった森川が発案し後に開発に至った魔神捕縛用の結界生成装置、その起動の為の鍵であったのだ。
しかしながら柴田は、今作戦の立案段階から魔神捕縛などという生温い考えは捨てていた。
即ち、魔神の完全なる抹殺を目的としたものであったのだ。
そしてこの作戦にはもう一つ、重大な目的が隠されていた。
「さぁ始めようか諸君。人類創世以来誰にもなし得なかった偉業を、いまこそ成すとしようではないか」
柴田の声に反応したのか支柱の上面が光るなり置かれていた四本の鍵は支柱内部へと同化しながら取り込まれてゆく。
と同時に、日本上空三万メートルから日本本土を捉えていた人工衛星が、軌道の修正に入るのであった。
その様子が、前方のモニター上に映し出される。
いまや民間を含めた人工衛星の打ち上げは年に二千五百件を超えていたが、その殆どが通信などに利用される商業衛星であった。
それ以外であれば観測衛星や軍事利用されている衛星など用途は様々だが、いまモニター上で確認している衛星はかつて政府によって打ち上げられた気象観測用の衛星であり、旧式となり引退した現在では宇宙を漂うスペースデブリとして宇宙を漂っていた。
そのデブリと化したはずの衛星が、動いているのである。
前述の通りこれには魔神捕縛用の装置が組み込まれており、その本来の目的を隠す為にも休眠状態で地球を周回するようプログラムされていたのだ。
そしていま本来の目的を果たす為に再度火が灯されたのである。
荒れ狂う魔神を前に、新は豊満に支えられ9mm拳銃を構えていた。たかが拳銃。これで魔神を倒せるなどとは思っていない。
だがこれから放たれる銃弾は通常のものではなく別の役割を持たされていた。
それは発信装置。
直接対象に打ち込む事で、正確な位置情報を人工衛星に届けるのが目的であった。
「覚悟しなバケモン。偉い坊さんが、宙から星を降らせてくれるってよ」
身の危険を察知した魔神は怒声を轟かせる。蠢く闇を長い鞭の様に撓らせると新達に向け打ち下ろすのだった。
もはやそれは声ではなく、絶叫であった。
新は逃げない。が、彼の片目はなんとか開けていられる程度にしか過ぎず、まともに狙いを定めることは出来ない。震える腕、指先に力は入らない。気力だけでなんとか銃を構えているだけであった。
この一発を、この一撃を放つ為にこの命果ててもかまわない、と。
豊満にも分かっていた。だからこそ、その銃口を炭化している掌で覆い、狙いを魔神の額へと誘導してやるのだ。
当然、放たれた銃弾に能力を付与するつもりでもあった。
「見せてやろうぜオッサン。人間様の、覚悟ってやつをよ!」
目尻を下げ口角をつり上げた新は、力が入らない指先に折れているはずのもう片方の腕を持ち上げ手を添えるのであった。
「どっ根っ性ぉおおおおお!」
銃弾は放たれた。豊満の掌を貫通し、極限までの硬度を付与させて、魔神の額に命中するのである。
見たか馬鹿野郎、と新が呟いた刹那、振り下ろされていた魔神の鞭が二人に直撃するのであった。
闇の鞭による衝撃で岩盤は割れ土埃が空高くまで舞い上がる。校庭中の視界は塞がれ二人の安否さえ定かではなかった。
だが変化が現れたのはその直後であった。
校庭直上から光の筋が舞い降り魔神を捉えると、光で出来た二重の真円が上空で一気に広がりそれは私立天龍第一高等学校を中心として横浜市内全域を取り囲むのである。
そしてその真円の内側では、いまは亡き国立富士宮学園特務課所属、樋口陸曹長がその身を犠牲にしてまで護り抜いた例の装置、そのそれぞれが光で繋がり五芒星の図形を描くのであった。
するとどうであろう。
神奈川を集中的に襲っていた史上類を見ない最大規模の嵐が、なんと一瞬で収まり空を覆っていた分厚い雲までもが結界の中心から外縁に向けみるみると晴れ間を広げてゆくのである。
避難場所へと移動中の市民達、災害救助に励むレスキュー隊員達、病院の窓から空を眺めていた患者達でさえも、降り注ぐ太陽の陽射しと青空に、安堵と平穏とで胸を撫で下ろす者、また安心からくる溜息を漏らす者もあったようだ。
私立天龍第一高等学校の校庭に、舞い上がっていた土砂が降り注ぎ失われていた視界も徐々に取り戻されてゆく。
窪んだ大地と突出した岩盤。
半壊した校舎は見るも無惨な姿であった。
まさしく此処が、戦場であったことの証であっただろう。
空に描かれた結界の中心地点には、ギチギチと奥歯を鳴らし魔神が地面に突っ伏していた。
結界の効力により身体の自由を奪われていると考えられたが、実はそうではなかった。
魔神の脚の先端から、ほろほろと肉体が朽ちてゆくのが分かった。
魔神から少し視線を移すと、窪んでいる大地の中心が盛り上がり中から人が現れる。上半身裸の巨漢、潤布豊満であった。
彼の腕の中には、辛うじて意識を保っている新隣二の姿も窺えた。
魔神の攻撃を受けるその瞬間、豊満は能力、金剛不壊金剛力を発現、また新にも同等の硬度を付与し強大な衝撃を耐え忍んだのである。
いまの豊満は能力を使い果たし、立っているのもやっとであった。
新に至っては、目も開けられない状態であっただろう。
「君さ、俺の代わりに何が見えてるか教えてくれないかな」
豊満はどう答えてよいか迷った挙げ句、慎重に言葉を選びこのように答えるのだった。
「ヒロトの野郎、魔神と対話してやがる。でもよ……アイツは、俺の知ってるヒロトじゃねぇ……」
目も開けていられないほど疲弊している筈の新が、薄目を開けたと同時に驚きの声を発するのだった。
「嘘だろ! 本来結界の効力は魔神の霊質に作用しこの世界での実体化と力の発現を阻害するものだ。だとすれば、魔界の最下層に幽閉されているヒロトの魂が実体を取り戻す為には、魔神の即時消滅が条件となる筈……。ヒロトと魔神が、この物質世界で同時に存在していられるということは……だからか、結界の紋様が五芒星ではなく、逆五芒星でなければならない理由……。やってくれたな、柴田直平!」
国立富士宮学園学長、柴田直平の狙いは確かに魔神の駆逐ではあったが、それとは別に真の目的があったことも確かだ。
逆五芒星とは言わば封印とは対照の召喚結界でもあった。 つまり神か悪魔か、そのどちらかを物質世界に呼び出そうとしていたのである。
しかも人類に対する脅威とも呼べる魔神をも凌ぐ、最上位の存在を、であった。
目の前に直立している半透明の量子体、宇童ヒロトを前に、魔神は怯えた様子でこのように切り出す。
『あの時の幼子はやはり貴方でしたか……。何故、下等な人間の身などに憑依しておられたのです。ましてや、その愚劣極まりない人間などに手を差し伸べるなどと、我らの創造神様は決してお赦しにはならないでしょう』
『分かっているよ。君も本来は豊穣の神と崇められていたものを、まさか蝿の王などと蔑まわれることになろうとはね……。そのように歪曲して記した者こそ、君の嫌っている人間だということもよく理解しているさ』
『なればこそ、人間という存在はこの世から消し去らねばならないのです』
新達に、彼らの言葉は届いていない。その声帯が発する言葉は真理であり神の言語であったからだ。
会話を交わしていることは分かるが、その音自体は聴こえていない。
また新の目に映る魔神は熱く灼かれた鉄板の上に落とされた、水滴のようであった。
量子体であるヒロトは続ける。自分が何者であるかなど明かすことなく、ただただ消えゆく魔神に対し諭すように語り掛けるのだ。
『わたしは、これから罪を犯します。確かにそれは父なる神の怒りに触れることとなるでしょう。ですが、見てみたいのです、人間の可能性を。だって彼ら人間はね、我々と同じ霊質と神格を備えていながら、この次元で形を保っていられる特別な存在なのです。元来彼ら人間は、父なる神の一部であり、その意志を受け継ぐ肉体を持った神として創られた経緯があるのです。ですが、彼らは堕落し本来の目的を見失ってしまった……。だから父なる神は人間を滅ぼすことに決めたのですが、彼ら人間は何度も復活を遂げるのです。神と同質の力を持つが故に。父なる神は怒り、そして此方の世界に君を寄越した。わたしは父の決定に逆らい、君という存在を完全に消し去る為に呼び出されたのですよ。人に手を貸し神殺しを行う。そのうえで、あらたな価値観を備えた新人類を創り出すのです。かつて父なる神が挫折した計画を、このわたしの手によって達成させるのです。それこそが、父なる神に対するわたしの罪なのですよ』
既に魔神の身体は残すところ上半身のみとなっていた。その顔に怒りはなく、笑っているようにも見える。
『人間などに拐かされおって……。それが貴方の本心であるならば、貴方自身も神界から追放され、その絶大なる霊力も奪われてしまうと分かっていて言っておられるのでしょうな。貴方の居場所は、もう何処にも無くなるのですよ……』
『君が消えゆく前に言っておくが、わたしは別に拐かされてなどいないよ。初めから、わたしの計画通りなのさ。彼女、宇童いおりのお腹に、あの子が宿った時点で計画は実行に移されたのさ』
『我を消す為に、わざと奴に受肉させたという訳ですか……』
『そういうことになるね。だけど君の言う通り、わたしもただではすまない。父なる神から賜ったこの霊体と力の根源は、父に歯向かったと知られた時点で奪われてしまうだろうからね』
『そうと分かっておいでなら、父に対する反逆も目的を果たすことなく頓挫してしまうことを理解なさっておられるのでしょうね』
量子体のヒロトは笑顔を見せる。その余裕、いったい何処からくるのであろうか。
魔神の身体はついに、頭部を残すのみとなった。
『教えてあげよう。わたしが消えても、わたしの一部とその力は既に移しているんだよ。彼、宇童ヒロトの肉体の中にね。宇童家の血を引き、人間の完成形として生を宿した彼には、父なる神も手出しが出来ないのさ。自らが望んだ、人間の完成形であるが故にね』
感心したのか唯一残っていた頭部も消え始めた魔神は、声高らかに笑い飛ばすのであった。そしてこう告げた後、その身体は完全に消滅するのである。
『貴方の描いた計画の結末を、心の底から見てみたかった。でももう諦めましょう。消えゆく者は、消え去るのみ……幸運を、お祈りします……』
『心配には及ばないよ。わたしも直に消えて無くなるのだから。後は、彼に託すとしよう……』
魔神が跡形もなく消え去った後、量子体のヒロトは爆散し光の輪を波紋のように広げるのであった。
ことの顛末を目撃していた新と豊満は、迫りくる光の輪の衝撃に備え身構えるのだが、この光は一切の衝撃を及ぼしはしなかった。
光が、身体をすり抜け通り過ぎていっただけである。
校舎の昇降口に身を潜めていた他の者達も、身体をすり抜けてゆく光に妙な感覚を覚えるのであった。
光を受けた者達すべてが、身体に蓄積されていたダメージの回復を実感し、負傷している傷口が塞がっている事に驚くのだ。
昇降口から身を乗り出し、新を心配して向けた瞳の中に飛び込んで来た光景。それを見て京子は膝から崩れ落ち両手で顔を覆うと、大粒の涙を流し嗚咽するのであった。
「ううぅ、ううぅ……ヒロトぉ、ヒロトぉおお……」
京子の嗚咽は絶望からではない。戦いの中心地であり魔神の居た場所に、赤髪のヒロトが立っていたからである。
その背中から浮き出していた二重真円とその中にあった五芒星の烙印も、いまは見えない。
身体全体から発していた殺意も、いまは皆無であっただろう。
その姿を見て、京子は我が子が戻って来たことを確信した涙であった。
ヒロトから目と鼻の先に居る新も、身体の痛みが消えた事に驚きながらも人間としてのヒロトを前に心の中でこのように呟き喜びを噛み締めるのだった。
(君の息子は大した奴だよ。あの魔神から、自分の身体を取り戻しちまいやがった……正直心配は心配なんだが、先ずは喜んでいいよな、いおりちゃん)
豊満も炭化していた腕が元通りとなり、尽き果てる直前であった体力が回復している事に言葉を失っていただろう。
そして目の前のヒロトからは、一切の脅威を感じることは無かった。
「よぉ、糞ヒロト。いままで何処に隠れてやがったよ」
バツが悪そうにヒロトは後頭を掻きながら白い歯を覗かせる。其処に灰混じりの吐息は見られなかった。
「悪ぃ悪ぃ、全然覚えてないんだけどさぁ、誰かにビンタされたことだけは……ああっ! このオッサンだよ! このオッサンにビンタされてぶっ飛んだことだけはハッキリ覚えてるぜ!」
新はヒロトから視線を外し小声で呟く。いらん事だけはちゃかり覚えてんのな、と。
「オッサンとは失礼だな。俺はこう見えても君の叔父になるんだぜ」
「えっ、叔父さん? ってことは、京子さんが昔よく言ってた遊び人で道楽者の、隣二叔父さん?」
「いやいや、普通にイケメンで女性からモテモテだった隣二叔父さんだよ」
「なんだやっぱ京子さんの言ってた通りじゃん。女に、だらしないってよ」
この微笑ましいやりとりが永遠に続くものと思われたが、一発の銃弾によって一瞬にして奪われてしまうのだった。
「伏せろヒロトっ!」
豊満が叫ぶ。ヒロトの背後に銃を構えた軍人の姿を捉えたからだ。
『かかか覚悟ごっごしろろままま、魔神! わ、わたたたたしがが、引導をを、わわわ渡しししてやるるるうっ!』
男の正体は武装集団、ラストバタリオン達を率いていたバトラー大佐であった。が、何処かその様子がおかしい。
呂律は回っておらず、目の焦点は合っていなかった。
そもそも彼は少し前、魔神の熱線を豊満に弾き返された事で、コンテナトレーラーごと爆散したのではなかっただろうか。
否。
彼もまた、量子体ヒロトの消失に伴う光を浴びた事により、瀕死の状態から復活を果たしたのであった。
例の狂った医師、Dr.フィールグッドと、共に。
『さぁバトラー大佐、この僕に早く見せて下さいな。生まれ変わり、完成体としてのラストバタリオンと成った貴方の力を!』
いまのバトラーには誰の声も届いていない。当初の目的であった自分達の手で魔神を排除する、という強い思いが、怪物と果てた彼の思考を支配していたのだ。
ヒロトに銃口を向けるバトラーの身体に突如異変が生じる。彼の肉体が、肥大化を始め軍服が裂けてゆくのだった。
『なんだ、また失敗か。いかんせん神童の力を移植しようと試みてはみたものの、やはり素体となるべき肉体は日本人でなければならないようだな……。まぁいい、今回は良い教訓になった。実験は、次のフィールグッドに任せようではないか』
肉体の張り裂ける痛みに暴れ出したバトラーは、その横に立っていたフィールグッドを頭の先から叩き潰してしまうのだった。
そして彼自身も爆ぜることとなるのだが、残り少なくなった人間としての知性が最後の願望を果たすのである。
銃爪は、引かれた。
新が叫ぶ。いまのヒロトに銃弾は避けられない。あの魔神を宿したヒロトはもういないと分かっていたからだ。
「湊っ! 頼む、ヒロトを助けてくれっ!」
先刻まで能力の限界を迎え次元移動が使えなかった湊も、体力が回復した事により新の声に即時反応するのであった。
豊満が硬質化付与する為には対象に直接触れなければならない。質量付与の能力は失われたままであった。
新が飛び付こうにも距離がある。
大塚の霊体操作は有効範囲外であった。
真備は意識を取り戻したばかりであり、その手に狙撃銃は握られていなかった。
大塚と山本の能力でさえ、銃弾がヒロトを射抜くまでには間に合わないと判断出来た。
頼みの綱は、湊だけだった。
新は自分が間に合わないと分かってはいたが地面を蹴っていた。そうせずにはいられなかったのであろうし、湊に託し願うばかりである。
(頼む! 間に合ってくれ!)
ヒロトは目の前で爆ぜる男を見ていた。不思議と驚きは無い。ゆっくりと自分に向かい飛んでくる10mmオート弾の回転すら見えていた。
(なんだ、こんなもん簡単に避けられるぜ)
ヒロトにはそのように思えたのだが、避けようとするが身体は鉛のように重く微動だにしない。
体感速度がゆっくりと流れているだけであり、自分は避けられると錯覚したのである。
瞬きをゆっくりと一度しただけで、銃弾は彼の直ぐ手前にまで迫っていただろう。
「ヒロト君! 目を閉じて!」
湊は一瞬にして校舎昇降口からヒロトの直前にまで移動を果たす。直立したままのヒロトに呼び掛けその肩に触れようとした時、銃弾は湊の背中から心臓を貫通しヒロトの眉間を撃ち抜くのであった。
ヒロトの短い呻き声。膝から崩れ落ちる彼を抱き抱えながら倒れ込む湊三等陸曹。 その湊が新に対して「すみません、間に合いませんでし……た……」、と告げ殉職してしまうのである。
青年、宇童ヒロトの生涯はこのような終わり方を迎えてしまうのであった。それは誰も予期せぬ、悲しすぎる結末であった。
新は嵐が去り晴れ渡った空に吠え続け、京子は地面を叩きながら咽び泣く。
特務隊の隊員達だけに限らず、その場に居合わせた全員が呆然と立ち尽くすのであった。
だがこのような展開を初めから予見していた人物がこの日本の中に一人だけいた。
柴田直平、その人であっただろう。
異様な空気に包まれた私立天龍第一高等学校の直上に、国立富士宮学園所属のヘリ、ロクマル改が到着する。
否、少し前には現着しており、光学迷彩で姿を晦ました状態で高高度から眼下を眺めていたのであった。
その機内で、工藤が女子高生遠延朱にこのように告げるのであった。
「いまこそ、能力を使う時です。彼を救う為にも、この国を救う為にもね。勿論、その為の代償は貴女にとって計り知れないものでしょうけれど、その後の身の安全と保証は僕の依頼主でもあるご老人が責任をもって負うと約束して下さいました。貴女だけではなく、当然彼も含めての話です。いかがです、ご決断して頂けますでしょうか……」
朱は既に決めていた。あのヒロトが、あまりにもあっけなくこの世を去ってしまった。さようならの一言も掛けられず、大切にしていたがついには言い出せなかった想いを胸にしまったまま。良い訳がない。きちんと向き合い告げるまでは、死なせてなるものか、と。
「使うわ。あったりまえじゃないの。どうせ使ったところでアンタ達は覚えてないでしょうけどね」
「知っていますとも。その能力の効果は絶大であり絶対。本来であれば他人に知られることは決してない能力。この僕と、依頼主である爺様だけを除いてはね」
「やだ怖い。いったいなんなのアンタ。私の能力、拒絶の女皇帝を知ってるだなんて……ああ、こっわ!」
怖いと言われた工藤はそれを笑顔で受け止める。あの柴田の愛弟子でもある彼はどこか得体の知れない影を感じさせたが、いつもニコニコと笑顔を絶やさないのは周囲に対しそれを感じさせない為の覆面であったのかも知れない。
その工藤が、こう付け加えるのだった。
「では見せて頂きましょうか。能力、拒絶の女皇帝。真の名を、夜明けの王女」
「!」
朱は驚いた。能力の効果だけではなく、能力の真名まで知っていようとは。だとすればこの男には何も隠せない、すべてがお見通しなのだろうと覚悟を決めるのであった。
「そこまで知ってんならもうどうだっていいわ。見せてあげようじゃないの、拒絶の女皇帝!」
神奈川県に集中する形で甚大な被害を齎した嵐が、突如として消えて無くなった原因は誰にも説明出来なかった。
気象庁は前代未聞の出来事であり、数々の気象観測データと照らし合わせてもそのような前例は無く、その原因を解明することは極めて困難であると究明に向けた科学的アプローチを断念するのであった。
月日は流れ、嵐の日から数えること二ヶ月。工藤の運転する高機動車は陸上自衛隊富士駐屯地を出てから一路、とある教育機関へと向かっていた。
勿論その教育機関とは国立富士宮学園の事を指しており、其処へ向かうルートも公式な地図には記されていない。
この先崖崩れの恐れあり通行禁止、と表示された看板を尻目に工藤はアクセルを踏み込むのだ。
その助手席には赤髪の青年、宇童ヒロトの姿があっただろう。
いつしか道は山間の曲がりくねった険しい山道に変わっており、道幅はあるもののその表面はアスファルトで舗装はされておらず、ゴツゴツとした岩肌が車体を上下に揺らすのだった。
「なぁ、工藤のあんちゃんよぉ。俺やっぱりさ、行きたくないんだけど」
工藤はヒロトの訴えに耳を貸すと、無言のまま笑顔を浮かべ握っているハンドルを大きく左右に振るのだった。
当然ヒロトの身体はその揺れにつられ大きく傾くと、露出している車体フレームに頭をぶつけてしまう。
「ちょ、待った待った! 急になんて運転しやがる。頭打ったじゃねえかよ!」
「あぁ、申し訳ない。路面にハンドルをとられてしまってね。頭を打ったのなら何かあっては大変だ。丁度これから向かう先に病院がある。急いで向かうとしようじゃないか」
頭を押さえ工藤を睨むヒロト。お前、いまのは絶対わざとだろ、と心の中で呟くのだった。
「だってよ……俺が行くと、また何か問題が起きるんじゃないかって心配でよ。みんなを、巻き込んでしまわないかってね」
「その心配なら必要ないよヒロト君。だってね、これから向かう先には、君より強い子しかいないんだから。それに、もう既に僕を含め世界中の人が巻き込まれてるんだよ。君って存在に。だからさ、難しいことは考えず、新しい学園生活を満喫したらいいのさ」
ヒロトは面白くないと顔を背けると窓の外を眺めるのだった。其処には奥深く暗い山林しか広がっていなかった。
「あぁそうだ。それと君に吉報だよ。君のお義母さん、京子さんから転校の条件として学園側に出されていた要件。無事に受理されたみたいだよ」
「へっ? 何、その条件って。俺知らないんだけど」
「一ヶ月近くも意識の無かった君だ。知らなくて当然だけど、京子さんはかつて在籍していた職への復帰を強く希望されてね。つまり、これから向かう先での仕事に戻りたい、とね。京子さんは以前、特務課情報収集工作隊という部署に所属していたんだけど、子育てを理由に引退していたのさ。今回の復職に至っては流石に同じ部署って訳にはいかなかったようだけど、彼女にしてみればその方が都合が良かったみたい」
「冗談でしょ……。寮生活って聞いたから羽が伸ばせて良いかもって思ったけど、近くに京子さんがいるんじゃそれも無理じゃん」
「そうそう、その職ってのがね、これから君が寝食を過ごす事になる国立富士宮学園学生寮の寮母さんらしいよ」
「マジか……俺死ぬ……絶対死ぬ……羽伸ばせないじゃんよ……嫌だ、やっぱ行きたくない……」
不安と期待と絶望を胸に、ヒロトの新しい学園生活が始まりを迎えようとしていた。
彼を乗せた車は、運命の一本道をただ進むだけであった。
ー 完 ー
たった一日の内に繰り広げられた激動の戦いはこのように終わりを遂げるのだが、命を落とした筈のヒロトが何故生きているのか、残された謎はこの後のエピローグで語られることとなる。
そして人間として生まれ変わったヒロトの、新しい物語へと引き継がれてゆくのである。
それは神童達による戦いの、物語でもあるだろう。