Operations 15 魔神復活
新隣二一等陸尉の前には、かつての旧友であり戦友でもあった円卓の騎士、ジョエル・サイクスの変わり果てた姿があった。
首から下の胴体だけが直立したままの姿勢を保ち、その肝心な首はと言えば、まさに空中を回転しながら新の足元へと転がり落ちてくるのだ。
そして半壊した体育館の骨組みを背に、新は眼を見開いたまま最期を迎えたサイクスを拾い上げると、どこか悔しげでやりきれない想いをぶつけるのだった。
「何やってんだよ、馬鹿野郎……」
二本の指でそっと瞼を下ろした直後である。耳を劈く悲痛な叫びが、豪雨の中に響き渡るのだ。見れば空中を飛び跳ねるようにして翔けてくる女性の姿があった。
潤布と対戦していた筈の円卓の騎士、ローズである。
『団っ、長ーーーっ!!』
自ら投じたダガーの上を足場として伝い跳んでくるその姿はまるで戦乙女を彷彿とさせたが、その身に纏うメイド服は随所に渡って破れており、傷を負った褐色の肌と、白色の下着とが露わとなっていた。
豊満との闘いが如何に激しいものであったかを如実に物語っていただろう。
新の前に着地したローズは迸る怒りを直にぶつけてくるのだった。おそらくは新のことを、サイクスを手に掛けた張本人だと思っているに違いない。
そしてその両手には、空中での足場として投じていたダガー、フェアバーンサイクス戦闘ナイフが握られており、サイクスと同じ名が付くそのナイフを愛用している辺りからも、父親を知らぬローズにとってサイクスは慕うべき対象であったに違いない。
『貴様、よくも……よくも団長を! その代償、貴様の命だけでは足りないと思え!』
新は、「やれやれ、こりゃ参ったな」とサイクスの頭部に語り掛けると、ローズに向かって彼を放り投げるのであった。
ローズが手にしていたダガーは地面に刺さる。代わりに彼女のその手は、サイクスの頭部を優しく抱え小さな胸の中に受け止めるのだった。
彼女の殺意を孕んだ視線が、新を射る。
『許せない。コイツ、団長の亡骸を物のように扱いやがった……』
サイクスの頭部を片手で抱えたまま、ローズは足元に刺さるダガーの一本を拾い上げ飛び掛かろうとするのだが、既に新の姿は視線の先には無く、一瞬にして彼女の背後をとっていた。
『君、円卓の騎士にしては動きが遅過ぎるんだよね。そんな反応速度じゃ、俺に触れることすら敵わないよ。ましてやサイクスを殺ったアイツにかかれば、瞬殺だろうけどね』
冷や汗と悪寒がローズを襲う。ただしそれらは背後をとられた新に対しての反応ではなかった。
翼をもがれた小鳥が、牙を剥く野獣の群れの中へ放り込まれたようなものだった。
いままでに体験したことのない絶望と恐怖で足が竦み、その存在を確かめようと振り返る勇気さえ奪われてしまうのだ。
圧倒的殺意と混沌。
ローズはそのあまりにも強大な闇に飲み込まれようとしていた。
(嫌だ……まだ、死にたくないよ……マミ(ママ)……)
赤子のように怯え震えるローズの腰に手を回し、回転しながら投げ飛ばす新であったが、彼もまた襲い来る殺意から逃れるため全力で地面を蹴るのだった。
まさに二人が立っていたその場所に、隕石でも落ちたのかと思わせる衝撃が走り地面が裂ける。
「久方ぶりに再会した叔父に対する挨拶がそれかよ……お痛が過ぎるぜ、いおりの倅よぉ」
あまりの衝撃に空中でバランスを失った新は、受け身が間に合わず右肩から地面へと叩きつけられるのだった。
痛みは問題ない、骨も折れてはいないだろう、と自己診断に要した時間は僅か一秒にも満たない。
しかも、投げ飛ばしたローズの身が無事であることの確認まで含めてである。
「よっこらしょ」、と前転倒立から起き上がった新は右肩をぐるぐると回しながらポキポキと首を鳴らすのだった。
その視線の先には、赤眼のヒロトが立っていた。
その身体に纏わりついている蠢く闇は打ち付ける雨を遮り薙ぎ払う。まるで生き物のようであり、立ち昇り揺らめく黒炎のようでもあった。
そしてその顔の半分を占める大きく開き牙剥く口が、こう語り掛けてくるのだ。
『また貴様か。その顔、その匂い、憶えているぞ。たかだか十三年という寸時の間に、何故こうも貴様の血族は邪魔ばかりするのだ。のぉ、呪われた血の子らよ』
「そうかよ、憶えててくれたんだな、俺達のこと。それはそれで嬉しく思うぜ……馬鹿で間抜けな魔神殿。確かにあん時のアンタは恐ろしいほど強かった。そう、強かった。けどな、ヒロトの肉体を完全に掌握出来てないところを見る限り、俺達にも勝ち目があるってことじゃないの?」
魔神ヒロトは嘲笑う。蟻が象に勝てるのか、と。遥かなる昔、罪深き人間共は神との約束を反故し知恵の実を食した。そしてそのようにして得た恩恵により、人は神を虐げ地上の王を名乗るのだ。
神は怒りはしない。
見捨てただけだ。
幾度もの災いが人類を襲うこととなるが、神が救いの手を差し伸べることはなかった。
人が復活を成す度に、過ちは繰り返され、新たなる災いが降りかかるのだ。
滅亡を運命づけられた種族、それが人なのだと。
そして我こそが、運命が遣わした災いのひとつに過ぎないのだ、とも。
新はふむふむと頷きながら舌を出す。「だからなんなの」、と。そして大きく息を吐き出した後に真新しい空気で肺を満たすと、「歯ぁ食いしばれよヒロト!」と叫び飛び掛かるのだった。
魔神ヒロトが腕を振り下ろすと同時に、腕から伸びた闇が鞭のようにしなり地面に叩きつけられる。
しかもそれは魔神の腕力によって振り下ろされた闇の鞭なのだ、大地に触れるが早いか地盤を割り、更に強大なソニックブームまでもが新に襲い掛かるのだった。
「反則級のヤバさだな。俺じゃなきゃ、怪我してるとこだぜ」
直撃したソニックブームは新の肉体を四散させた、かに思えたがそれは吹き飛ばされ霧状となった雨水に投影された新の残像であった。
気付けば彼の姿は魔神ヒロトの側面にあり、視線が向いたと同時に神速の平手打ちが頬を捉えるのだった。
魔神ヒロトの身体は宙を舞う。
これが平手打ちの衝撃であっただろうか。
ほんの一瞬、宇童ヒロトとしての意識が戻りその茶色の瞳は叔父である新の姿を収めるのだった。
(誰だ、このおっさん……ん? 地面? なんで俺、飛んでんの……)
纏わりつく闇が消えたヒロトの身体は、コンテナトレーラーの追突により残骸の山と変わり果てた単車の上へと背中から叩きつけられ、崩れ落ちる瓦礫の中に埋もれるのだった。
「知ってるか? この世界には、象の死体を喰らう蟻だっているんだぜ。人間様を舐めんなよ」
完全覚醒ではないまでも、あの魔神にスピードで勝ったのだ。人体改造を施された特務隊員達とは違い、生身の人間であるはずの新が、である。
それこそが、円卓の騎士元団長、フル・ライオットたる由縁であっただろう。
間髪入れず、爆炎天使の破壊された単車達は、活火山の噴火よろしく四方八方へと吹き飛ばされるのであった。
当然、中から現れたのはヒロトであったが、再び魔神の意識に侵されており、その小さな身体には蠢く闇が纏わりついていた。そしてその魔神の証でもある赤眼は、ヒロトに戻った状態から受けたダメージにより視線を上げられず足元に向けられたままとなっていた。
『いいだろう。ならば全ての蟻を燒き払ってくれるまでよ』
指をパチンと弾いた直後、魔神ヒロトの赤い瞳の一寸先に、眩い閃光を伴い高速で回転する二つの光玉が出現するのだった。
その青白く発光する二つの玉が回転を終え収縮するなり、白みを帯びた薄黄色へと変色し、コンタクトレンズに似た容貌へと形を変える。
まさにその美しき造形と色彩に視線が奪われた直後であった。眩い閃光はレンズの中心に向かい集約されると、細い光の筋となり前方の新に向け照射されるのだ。
まるで軍用レーザーを想起させるがそうではない。
レーザー自体は熱を帯びてはいないが、その光は実に摂氏3000℃に及ぶ超高熱の熱線であった。
流石に新であろうと光速で迫る熱線を避けられるとは思えない。
ところが、熱線は直に新を狙った訳ではなく、足元に向けられていた視線から顔を上げる動作により時間的ロスを生じていた。
そもそも新の常人離れしたスピードは攻撃に転ずる初期動作の予測によるものであり、攻撃の前には既に回避行動に移っていたのであった。
今回も、新は自分が狙われていると察した時点でどちらに回避すべきか答えを導き出していたのである。
熱線が走る軸線上に、新の姿は既に無かった。
海難事故捜索船の投光器が海面を照らしながら光を伸ばすように、魔神ヒロトの眼前から放たれた二本の筋も同様に、大地を走り校舎の壁面を駆け上ると一気に上空の雲を突き抜けるのであった。
一直線に伸びる熱線の経路は炭化しており校舎の壁面は寸断されていた。更に天を覆う分厚い雲に至っては、貫いた箇所から半径150mにも及ぶ巨大な穴を生じさせるのだ。
何を隠そうこの熱線こそが、サイクスの頭部を胴体から切り離した犯人であった。
(流石にやばいだろコレは。俺はともかくあの嬢ちゃんじゃコレを避けきれるとは思えん……)
新はローズの保護に向かおうとするのだが、既に間に合わないことも理解していた。魔神ヒロトに近接攻撃を仕掛け攻撃の的を逸らせようにも、予測される次の熱線を避けるだけで手一杯なのだ。
親友の部下を目の前で殺されてみろ、夢見が悪いってもんじゃないだろう、と考えていた矢先。
サイクスの頭部を護るように抱え跪くローズの背中に、淡い黄色の熱線が襲い掛かるのだった。
(悪いな嬢ちゃん。どうやら助けてやれそうにないが……このチャンスは無駄にはしないよ)
熱線がローズを狙っている隙をつき、新は殺気を絶ち魔神ヒロトの背後へと回り込む。
同時に、魔神ヒロトの攻撃の的はローズに向けられていた筈であったが、ある人物の介入によって変更を余儀なくされる。
その人物とは、上半身裸で特徴的なドレッドヘアーを振り乱しながら飛び込んできた、潤布豊満であった。
「俺との決着もついてないのに突然何処へ行くのかと思っていたら、よほど大切な人だったんだろうな、その男……。そのまま動かずジッとしてな」
ローズには理解出来なかった。日本語が、といった理由ではなく、豊満のとった行動が、である。
曾祖母から娘に、そのまた祖母から母に、代々受け継がれてきた日本人の血と魂はローズにも流れていた。そして日本語も多少であれば理解出来るのだった。
ローズは考える。
つい先程まで命の取り合いをしていた相手が、今は覆い被さるようにして自分を護ろうとしているなどと、信じられる訳がなかった。
「お前、なにしてる。僕は敵だぞ……」
「いいから黙ってろっ!」
豊満の超硬質化された背中に熱線が直撃すると、肉体の表層組織は徐々に変色しながら灼かれてゆくのだった。
照射の継続時間はおよそ二秒、その間貫かれることなく、血を流すことも無かったが、摂氏3000℃に及ぶ照射熱量は豊満の肉体を焦がすに十分値した。
あのダイヤモンドでさえ高熱には弱く、摂氏900℃もあれば酸素と結合し炭化を始めてしまうのだ。
この攻撃をあと数回もまともに受け続けていれば、やがては炭と化し粉砕されてしまうことだろう。
「冗談しゃねえ。こいつが、あの糞ヒロトに感じていた違和感の正体だってぇのかよ……」
豊満には分かっていた。このヒロトが自分の知っている喧嘩好きなだけの悪童ではなく、得体の知れない悪意に取り憑かれた化物なのだと。
そして豊満の本能は、そのような化物こそが人類共通の敵であるのだと語り掛けてくるのだ。
その背中に、次なる熱線が浴びせられる。
「爆炎天使初代総長、潤布豊満を舐めんじゃねえよ!」
振り返った豊満は両腕を伸ばし正面から掌で熱線を受け止めるのだった。
本来であれば自殺行為である。
一時的に防げたところで、超硬質化された肉体であろうと紙屑同然に灼かれてしまうことは明白だ。
例え熱線を避ける手立てがないにしろ、受け続けること、それは死を意味していた。
だが、豊満に策が無かったのかと言えばそうではなない。
「知ってる、か? 炎もよ……光の性質を……もってる、以上……跳ね返せるんだぜ……」
豊満の灼けて爛れ落ちた皮膚の下から、もうひとつの皮膚が姿を見せる。
それは綺麗に磨きあげられた鏡のようであり、掌全体が反射板として機能していた。
そう、豊満の狙いは鏡面反射であった。
灼熱の熱線はそれを放った魔神ヒロトへと矛先を変え襲い掛かるのだ。
『ほう、なかなか面白い余興ではないか』
魔神ヒロトは向かってくる熱線を片手で払い除けると豪快に笑い飛ばしこの闘いを楽しんでいるかのようであった。
そして弾かれた熱線の向かった先はといえば、要塞と化しているコンテナトレーラーであり、その劣化ウラン装甲で強固に護られた手前の一台をいとも容易く爆散させてしまうのである。
それほどの破壊力、これに耐えていた豊満もやはり化物と呼べたであろう。
ただし肉体の損傷は想像以上に激しくその修復の為に意識が飛んでしまうのだった。
豊満の潜在能力に惹かれた魔神ヒロトは、自らの破壊衝動を彼に向けるのだが、もうひとつの破壊対象者の存在も忘れてはいなかった。
『どいつもこいつも、死を恐れぬ愚か者めが』
闇に覆われた魔神ヒロトの背中を掠め、新隣二の鋭い手刀が地面を刳る。
「おいおい冗談だろ。なんでこれを躱せんのよ……」
完全に避けたつもりでいた魔神ヒロトであったが、やはり素体は人間の肉体である。自分が思っている以上に筋電の伝達速度にロスを感じていた。
『この身体、いまひとつ馴染めぬのはコイツの潜在意識が邪魔をしているということか……』
魔神ヒロトの肉体自体に損傷はないものの、破れた上着の合間から背中に掘られた二重真円と五芒星がその一部を覗かせ、発光していた印は更に色濃く増強するのであった。
休む間も与えず、新は素早い打突の連打を浴びせるのだが魔神ヒロトは最小限の動きでその全てを躱しながら自在に伸縮する闇の腕でカウンターを放つのだ。
そして新もまた、その重過ぎるスレッジハンマーの如きカウンターを片手でいなしながら一度距離をとるべく地面を蹴るのだった。
ところが新の顔前には魔神ヒロトが離れることなく逆に距離を詰めてきており、地に足を着けるまでの僅かな間に打撃の応酬が繰り広げられる。
攻防の末に地に脚を着けた新は反撃に転じ、距離をとれないこの状態から最大限の威力を放つべく魔神ヒロトの腹部に的を絞り寸頸を放つのであった。
丹田で練り込められた氣は内功により伝播し一気に掌へと流れ込む。
「これを喰らっても立ってられるかよ、化物!」
僅か一寸の距離からの攻撃である。しかも新の動きは人間のそれを超越していた。
避けられるはずがない、と新は考える。
その激しい衝撃は彼らの周囲に降り注ぐ雨をも霧散させるのだった。
だが、魔神ヒロトはその一撃を受けても微動だにしなかった。
彼の腹部は咄嗟に闇に覆われ、氣の流入を寸断したのである。
『認めよう。お前は強い……世界を埋め尽くす百億に近い人間の中では、最強の部類であろうよ』
新の顔に叩きつけられる雨に混ざり、眉間から顎にかけて一筋の汗が伝う。
身体が、十三年前の恐れを思い出していたのかも知れない。
「まじかよ……覚醒前ですらこの強さとは……」
この状況、互いに直撃は避けていたが人である以上は新にとって分が悪い。
人でありながら化物と互角に渡り合えていることには驚きだが、体力の消耗とダメージの蓄積は隠せなかった。
新は息があがり、上下に肩で呼吸をしていた。
「ちょ、ちょいタンマ。一旦煙草休憩でも、って
俺いま禁煙中だったわ」
容赦なく魔神ヒロトの闇の腕が新を縊り殺そうと襲い掛かるのだった。
新は手刀でそれらを薙ぎ払うと中段の蹴りを入れ間合いを広げる。
この蹴りが入ったということはまだ魔神ヒロトにも隙がある証であった。
畳み掛けるように突きと蹴りを繰り出す新だが、蠢く闇に遮られ直撃させることが出来ない。
魔神ヒロトから、油断が消えていた。
闇の拳を腕で受け新の身体は後方へ弾き飛ばされてしまう。
新は魔神が徐々にヒロトの肉体を掌握し、完全覚醒に近付いていることに懸念を覚える。
なぜならば、拳を交える度にその破壊的攻撃力が増していたからだ。
だがそれも、魔神ヒロトにとってみれば物質世界から隔絶され鈍っていた感覚を取り戻す為のストレッチ運動に過ぎなかったようである。
殴り掛かる新の拳を片手で受けとめたかと思いきや、背丈のある新を意図も容易く頭上へ高々と持ち上げ地面へと叩きつけるのだった。
新の頭が地面に触れるか触れないかの僅かな瞬時、彼は身体を捻り足から着地するとその反動を利用して魔神ヒロトの手首を軽く反らせる。
ただ手首を捻っただけであったが魔神ヒロトの身体はまるで魔法にあてられたかのように回転し背中から地面に叩きつけられるのだ。
合気道で言うところの回転投げに似た動作であり、その動きは流麗であり気品さえ感じさせた。
ダメージこそ与えてはいなかったが、次なる一撃を投じる布石にはなった。
『なんだこのぬるい攻撃は? 我を倒したいのならば殺すつもりで来い。悪鬼羅刹が呪われた宇童家の飼い犬よ』
足元からからかう様に挑発してくる魔神ヒロトの顔に焦りの色は無い。次は何を見せてくれるのか、とこの死合を楽しんでいるかのようでもある。
逆に新の顔には躊躇いの色が窺えた。
「そうしたいのはやまやまなんだけどさ、間違ってもコイツは俺の甥っ子なのよね」
『だから人は人を超えられんのだ、強き弱者よ』
「弱くて結構!」
新の全体重を乗せた拳が空気との摩擦で炎を纏い魔神ヒロトの顔面へと振り下ろされる。
裏新滅心流秘奥義、羅漢封殺拳。
迷いなど微塵も感じられない、殺すつもりの一撃であった。
宇童京子が継いだ現代新滅心流が相手の殺意を失わせ武道を通し人間としての成長を促す表の流派だとすれば、新隣二のそれは裏であり純粋に殺人の為だけに研ぎ澄まされた一子相伝の殺人古武術であった。
が、本来発揮されるべき威力の半分も出し切ってはいなかったようである。その理由としては、ヒロトが血の繋がりこそないものの、かつて自分が唯一想いを寄せていた女性の息子であり、実の妹である京子に育てられた甥子であったからに他ならない。
本来人は脳内リミッターによって能力の二割から三割程度しか発揮出来ないように出来ている。
何故ならば能力の完全解放をしてしまうと骨は砕け肉体は甚大なダメージを負ってしまうからであり、自己保護プログラムが無意識の内に働きかける為だ。
ところが新隣二に限っては、このパーセンテージを自らの意思で変化させる事が出来た。
これが、これこそが人でありながら人を超えた戦闘力を備える理由であっただろう。
いま彼の脳内リミッターは五割まで解放されていた。
『ほぉ、ついに人をやめるか……』
「こんなもんでヒロトは死なねえよ!」
新の一撃は魔神ヒロトの顔面を捉えその頭部を地面の下へと沈めるのだった。
しかもインパクトの瞬間に、激しい爆発音を伴いながら。
そのあまりにも強い衝撃波は彼らを中心にして校庭の隅々にまで到達すると、校舎前に並ぶ樹木は根元から折れ曲がり校舎の窓枠に至っては変形し吹き飛ばされてしまうのだった。
激しく叩きつける雨の中、立ち上がる新の足元で魔神ヒロトの手足は力無く伸びていたが、それもほんの一瞬、閉じられていた瞼が天に向け見開かれたとき、彼の赤い眼の前にはレンズ型の光源が再び出現するのである。
触れたものを焼き尽くす万死の熱線。
この至近距離である。
避けられるわけがない。
(やべえ……俺死んだかも……)
魔神ヒロトに与えた一撃は流石に手加減していたとはいえ最大規模の技であることに変わりない。いまの新に熱線を防ぐだけの手立てもなければ、全身の筋肉という筋肉は疲労しきっており避けるだけの余力も失われていた。
だが、その表情に諦めの色は見られない。
何かに、気付いていたようである。
熱線は下方から新の顎に向けて放たれようとしていた。その激しい熱量が眩い光で周囲を明るく照らしだす。
と同時、叫ぶように呼び掛けてくる声が新の鼓膜を揺らすのだ。
「新一尉、ぶん投げますのでどうかお許しを!」
校舎側から駆けてきた男は新の補佐役として随行していた大塚二等陸曹その人であった。
痩せていて手脚が長く何処か髑髏を彷彿とさせる容貌であったがかなりの美男子である。
地面に突っ伏す大男と、人の頭を抱え踞る女に視線を向けるのだが、一瞥したのみで素通りすると新の元へ視線を戻すのだった。
その彼が自身の能力を使役し新を絶対絶命の危機から救うのである。
「我が願いに従え幻影の民達よ!」
大塚の腕から放たれた数体の白い靄は光の速度を超えていた。それは現代科学や量子力学をもってしても解明出来ない存在であり、物質世界の住人とは異なる世界から呼び出された存在であった。
皆が良く知る幽霊と呼ばれる存在であったかもしれないし高次元の存在である精霊であったかも知れない。 だが敢えて、ここでは霊体と表したい。
複数の霊体は新の身体を取り囲むと一瞬にして姿を消し去るのだった。そして其処からは、新の姿形も消えていた。
直後、魔神ヒロトから放たれた二本の熱線は遥か上空の分厚い雲を広範囲に渡って消し飛ばしてしまうのであった。
それに伴い激しい雨は一時的に止み、太陽の光を校庭全体へと降らせるのだ。
姿を消していた新は大塚の傍らへと上空から落ちてくる。そして地面へと激突する直前に再び白い靄が地表を覆い緩衝材の役目を果たすのだった。
新は、何故俺は助かった、と驚きを隠せない様子。
それはそうだろう。
何故ならば新にこの霊体達は見えていないからであり、突然身体が投げ出された原因についても説明がつかないからであった。
だがこの大塚という男によって危機を脱したことだけは理解していた。
「ご無事でなにより、と言いたいところですがこの状況は極めて最悪ですね。奴がここまで力を具現化出来ているということは……覚醒までの猶予はあと僅かといったところでしょうか」
「君の予測は正しいよ。俺が本気の一撃を喰らわせてれば少しは違っていたかも知れないが、もう既に、当初予定されていた再封印という選択肢は却下されたも同然だ。残された手は、我々の部隊全戦力をぶつけて覚醒までの時間を引き延ばすのみ。後のことは、工藤ちゃんとその親分である学長の爺さんに委ねるしかないだろうね」
「では一尉、我々特務隊に改めてご指示を」
「その必要はないさ。あの准尉さんは良く分かってらっしゃる。彼が君を補佐役につけたことで俺は助けられた訳だし、次に何をしなければならないかも理解してると思うんだよね」
新がそのように告げた直後であった。イヤホンから須木戸の声で特務隊員達全員へと檄が飛ぶ。
『隊長の須木戸より各員に告ぐ。もはや対象の保護は困難な状況とあいなった。こうなっては脅威と成りうる対象の排除が最優先事項となる。よって能力抑制の為に施されたリミッターの解除を超限定的措置として各自の判断に委ねようと思う。これは自衛隊組織において最高指揮権を有する現内閣総理大臣、浜田万里江女史の意向でもある……。ただし、戦いたくない者は逃げても構わん。逆にわたしの決心に従う者は遠慮はいらない。思う存分暴れてこい!』
須木戸からの指導を聞き、その場から逃げ出す者は一人もいなかった。
イヤホンから聞こえる須木戸の声に対して皆が声を揃える。
『了っ!』
新の顔はニヤついていた。自分が言いたいことをこの男は全て代弁してくれる。そう思えばこそ彼への信頼は益々厚くなるのであった。
ふらつきながら立ち上がる新を大塚が肩を貸し支える。「まだやれますか?」と問う彼に、新は「当たり前だろ。俺を誰だと思ってやがる」と苦痛の浮かんだ笑顔で返すのだった。
その二人の前に、魔神ヒロトが立ち上がるなり赤い眼を向けてくるのだが、彼に纏わり付いている蠢く闇はその体積を当初の倍以上へと肥大化させていた。
ヒロトの肉体に施されている封印の網目が広がったことで、抑えていた魔力の流出量が増大したからだと考えられる。
瘴気を含む邪悪な氣が、魔神ヒロトの遥か頭上で渦を巻き、雲に空いた大きな穴を埋めると再び校庭には薄暗い闇のベールが降りてくるのだった。
ただこのベール内だけは雨を降らせていない代わりに、激しい雷鳴を轟かせるのであった。
『いまの一撃は良かったぞ、褒めてやろう。だがまだまだ足りぬ。もっと楽しませろ人間共よ』
魔神ヒロトに纏わりつく闇が、まるでコンドルが翼を広げたように左右に広がりを見せた次の瞬間、大塚のイヤホンに真備からの怒声が飛び込んでくるのだった。
『大塚さん邪魔! 頭を下げてっ!』
魔神ヒロトの頭を狙っていたのであろう真備温羅の射線上に、背の高い大塚の頭が邪魔をしていたようである。
『退け退け邪魔だ! 俺様の名はhighway Star。俺の進路を塞いでんじゃねえよボケカス野郎!』
大塚が咄嗟に身を屈めた直後、頭髪を掠め一発の銃弾、口の悪いsoldier of fortuneが魔神ヒロトの眉間を貫くのであった。
自ら回転を増強させ貫通力を極限まで高めたsoldier of fortuneの威力は凄まじいものであったが、結果としては逆に悪い方向へと舵を切る形となってしまう。
新はヒロトの眉間に穴が空き、噴き出す流血を見て舌打ちをするのだった。「いまはまずいって」、と。
魔神ヒロトの広げられた闇の両翼は一気に閉じられ自身の身体を幾重にも包み込む。
その様子はまるで、蝶に羽化する前の繭のようであった。
そして暫くのあいだ沈黙が続くのだが、強い瘴気に阻まれ誰一人として近寄ることが出来ない。
其処へ、「拙者にお任せあれ」と横から割って入って来た人物が一人。
腰に長物を下げ独特な走り方で瘴気の中へと向かう姿は戦場から戦場へと駆け巡る侍を彷彿とさせた。
その人物、雷に撃たれ生死不明の状態にあった山本恭一二等陸曹であった。
右前方から瘴気に脚を踏み入れる寸前、その腰のもの「数珠丸」が進行方向の瘴気を一閃し進路を切り開く。
そして破邪の太刀は魔神ヒロトを覆っている闇の外郭に向け振り下ろされるのだ。
斬ることに特化した居合ではなく、力でかち割る剛の太刀であった。
闇の外郭に小さな亀裂が走る。この繭が魔神覚醒前の保護膜だとしたならば、完全体と成る前に壊してしまえば良いと考えていたようだ。
小さな突破口を開いた山本はすかさずその場を離れ仲間に次撃を託し叫ぶのであった。
「人見二曹! 後は頼みます!」
山本の後方十メートルの距離をおき、瓦礫の山となった体育館の屋根材の下から、人見玄武二等陸曹が立ち上がり姿を現す。
山本も人見も、須木戸からの檄を受け意識を取り戻したのだが、状況の把握に幾分か時間を要した。
分かったことは、校庭の中ほどで悪意に満ちた混沌が佇んでいること。
隊長が言っていた排除の対象が、その異型の物体そのものであると理解したのだ。
人見は異能の力を最大限引き出すべく呼吸を整える。焦ることなく、イメージとして肺に取り入れた酸素と血液とを結合し、心臓へ送り込まれた血液は全身の抹消血管を巡り全ての細胞に活力を与え再び心臓へと戻されてゆく。この過程を繰り返すことにより、細胞の一つ一つが活性化してゆくのだった。
生物としては当たり前の呼吸動作であったが、この当たり前のことが効率良く行えないのが人間であり、この呼吸を極めた者こそが超人と呼べたであろう。
それを齎す為に必要なことが、平常心なのであった。
「やめろ人見! いま奴を、封印の箱を破壊したならそれこそ奴の思う壺だ! 奴は初めからそれを狙ってやがったんだ!」
人見が最大規模の大技を放とうとしていると知った新は、それを辞めさせようと叫ぶのだが彼の耳には一歩及ばなかった。
人見は渾身の力を込めて声帯を震わせるのだった。
「shock waves!!」
人見の身体より前方の空気全てが互いに干渉しあい振幅を増してゆく。その爆発的な勢いは更にエネルギー量を増大させ破壊的音の津波を引き起こすのであった。
それは音速を超えた時に発生するソニックブームでさえ足元に及ばぬほどの破壊力を有していた。
蠢く闇が固まり造形された繭は、まともに音の直撃を喰らい亀裂を拡大させると、最後には木っ端微塵に粉砕されてしまうのだ。
その衝撃波の影響により、半壊したものの造形を留めていた体育館でさえ、完全に跡形もなく消し飛んでしまうのだった。
力を使い果たし、両膝を地面に着ける人見であったが、今になって自分のしでかした過ちに気付くのである。
確かに闇の繭は消し飛んだ。だが、その繭が座していたその場所に、その地面に、二重真円に囲まれた五芒星が浮かび上がっていたのだ。
新が呟く。「奴が来るぞ」、と。肩を貸す大塚もそうと聞き生唾を呑み込むなり新から離れ身構えるのであった。
直後、天を覆う瘴気の雲から雷鳴を伴い激しい雷が五芒星を射るのであった。
地面の灼け燻る煙の中から、漆黒の人影が現れる。人の輪郭はしているがその背中には二枚の翅と感覚器官に退化した二本の平均棍があり、その見た目は蝿の翅を彷彿とさせた。また身体と同じ長さの図太い腕がありその顔は獅子のような鬣を有していただろう。
『この刻をどれほど待ち侘びたことか。貴様らには感謝してもしきれんわ。礼といってはなんだが、痛みすら与えず殺してくれよう。クカカカカカッ』
魔神の完全覚醒が成された以上、新達に出来ることは何も無かった。
あるのは、これから人類に対する虐殺が繰り返されるであろうことを憂慮しながら、後悔の念を抱き死んでゆくのみと思われる。
否
新は、まだ諦めてなどいなかった。
そして彼は、古い友人に語り掛けるのだ。
「さっさと起きろよバーカ。いつまで死んだふりしてやがる。これからが本番なんだからよ、俺達に手を貸したらどうなんだ」
あまりの混沌ぶりに跪き怯え震えているローズの腕の中で、死んだと思われていたサイクスが答えるのだった。
「新隣二……いや、前団長フル・ライオットの命ならば断る訳にもいくまいな」
円卓の騎士、団長ジョエル・サイクスは死んでなどいなかった。その理由はどうあれ、彼らにはまだやれる事が残されていたようである。
こうした状況も、国立富士宮学園、学長柴田直平の想定内であり、その対策も随分と前から計画されていたのであろう。
果たして、彼らはどのようにして覚醒を果たしたこの魔神に対抗するのであろうか。
いつの間にやら関東中の空を覆い尽くしていた分厚い雲は、ここ神奈川県の横浜上空のみに限定された形で滞在していた。
観測史上このような天候が記録されたことは一度も無かっただろうが、いま、実際にこの日本という島国ではあり得ないことが起きていた。
また、起きようとしていた。
世界のいくつかの国家は、その行く末を固唾を呑んで静観していただろう。