【70】救世主
ダメ、あの手鏡を開けては、絶対にダメ!
開けたら、スピアは老婆の姿になってしまう。本当の老婆に‥‥‥!
スピアの手が手鏡に伸びる。
呪文を唱えなくちゃ……!
私は焦った。
スピアが手鏡をつかみかけている。
でも今からじゃ、もう、間に合わない……!
その時、私の顔の横を白くて半透明の物が、すいっと飛んで行った。
それは、観客の頭上を翳めて滑空する。
観客たちは突然のことに驚き、その物体に目を奪われた。
それは、半透明の白い一匹の小鳥だった。
「あれは……! ……ピーちゃん!?」
アメリが私のすぐ後ろから、魔術でピーちゃんを作って飛ばせたのだ。
「ピピピ、ピ……」
観客の注目を敢えて集めるように鳴きながら、ピーちゃんは観客席の上で大きく円を描いた。それからついっと舞台を目指し、今度はパタパタと舞台上を飛び回る。
演じるアクティスもスピアも、舞台を見つめていた観客たちも、どこから入り込んだのかこの珍客に視線を注ぎ、舞台が中断した。
アメリ、ありがとう!
私はその隙に急いで呪文を詠唱した。
私が唱えた魔術で、折畳の手鏡には私の魔術の鎖がぐるりとかけられた。
これは皆には見えない。
私が黒魔術が視えるように、特急魔術者並みの魔術力を持つ者でない限り、これは視えないのだ。
そしてこの魔術が効いている間は、手鏡を開けることはできない。
開けられなければ、きっとスピアはアドリブでなんとかやり過ごしてくれるはずだ。
それでも、あの手鏡は古の黒魔術品だ。……私の術は早々に効力を失ってしまうだろう。
その時、ホール中に警笛が響き渡った。
「ピリリリリ――――! ピリリリリ――――!」
ホールの警備の者達が吹いたのだ。
あちらこちらにあるホールドアが一斉に放たれると、警備の者達は叫んだ。
「只今歌劇場にてトラブルが発生いたしました! 皆様、ホールから速やかに退出してください!」
警備の者たちが大声で案内を始めた。
観客たちは驚いて立ち上がる。
貴賓室ではばたばたと人が動き、警備の者が厳重に固めている様子が見て取れた。
さっきの三人の男とランバルドの騎士たちとが悶着を起こし、それで歌劇場の警備が動いたのだろう。
……そのきっかけを作ってしまったのは、この私なのだけど……
劇場内でのトラブル発生、慌ただしい貴賓席の様子、歌劇場にいるはずのない魔術の小鳥―――
観客は我先にとホールを出ようとドアへ動き出し、オーケストラピットの楽団員も一斉に逃げ出す。ホール内は騒然として、人で揉みくちゃだ。
私はボックス席から階下を確認した。
エルムが立ち上がり、彼女だけは舞台の方へ動き始めていた。
止めなくては!
エルムは何をするかわからない、私はとにかくエルムの行動を阻まなくては……!
私はもう一度、ボックス席の手摺りに立ち上がった。今度は、一階席へと飛び降りた。
風魔術を使って、なるべくホール前方へと飛んだ。
逃げる観客と接触しないように座席を足で二、三回蹴って体を弾ませ、それから一階の床に着地した。
逃げる人々の中には私が二階席から飛び降りたのに気が付く者もいて、目を剥いていた。
エルムは呪文を詠唱して風を起こし、オーケストラピットを飛び越え、舞台へ軽々と登っていった。
私はその様子を目にして、あの薔薇園での魔術も、やはり彼女の仕業だったのだと確信した。
その力から鑑みて、エルムが上級魔術者に近い魔力を保持していることが、私には理解った
すんなりと舞台に登ったエルムは、まっすぐにあの古の魔道具に向かい、手に取った。
私はエルムからわずかに遅れて、同じように風魔術をつかって舞台に登った。
舞台上には、アクティスとスピアが残されていた。
舞台袖からはジオツキーが肩で息をしながら走り込んできていた、楽屋からはブロディンとクララが騒ぎを聞いて駆けつける。マルコスも続く。
警備に守られた貴賓室を除き、観客はもうホールに残ってはいなかった。
手鏡を手にしたエルムは、一目散にアクティスへ駆け寄った。
「殿下! 私とあなたの大事な千秋楽の舞台だったのに、中断させられてしまったわ……! ひどいわよね? 悲しいわよね? 私も同じ気持ちよ?」
エルムは悔しそうに、その可愛い桜色の唇を噛んだ。
すると今度は、キラキラした瞳でアクティスに話しかける。
「ねえ今日はね、私たちのための、素晴らしい晴れ舞台になるはずだったのよ?」
『私たちのための』って。
……いったいエルムは何を言ってるのかしら……?
「……あなたとアクティスのためって……? 舞台は、あなたの物ではないでしょう?」
エルムは私の声に振り向くと、不思議そうに言い返す。
「あなたこそ何言ってるの? お父様が資金提供してるのよ? 私の物に決まってるじゃないの?」
そしてエルムは、アクティスだけを見ながら鼻にかかった甘え声で話す。
「今日のこの日を、私、ずっと待ってたの。 私の大好きな場面、ジュリエットが最後に魔法で姿が変わるところ。私、あそこをね、すっごく楽しみにしていたの!」
可愛い声が、次第に影を帯びて、硬く低い声へ変化する。
「……でも中断させられて。……楽しみにしていたのに。……私の大事な舞台が……観れなくなったじゃないの」
エルムは手鏡をぐっと握り締めた。
黒魔術の真っ黒な煤が張り付いた古の魔道具。
その手鏡の上には、私の魔術鎖がしっかりと巻き付いていた。
でも古の黒魔術の威力は底知れない。私の魔術鎖がいつまで効果があるか……
この千秋楽で、エルムはあの手鏡を使うつもりだったのだ。
スピアを観衆の前で、老婆に変えてしまおうとしていたのだ。
私はエルムの恐ろしい計画に身の毛がよだった。
私の身体が、ぶるっと震えた。
これは恐ろしいからじゃない。――エルムに対する怒りだ。
私はエルムの空色の澄んだ瞳を射抜くように見つめて、向き合った。
「その手鏡は、ジュリエットを元通りの姿には戻さないのでしょう、エルム? ……いえ、クイーンと呼んだ方がいいのかしら?」
いつもお読みいただきどうもありがとうございます。
次回【第71話】クイーンの企み













