【67】逃走 その1
私は、眼鏡で小柄なお姉さんに案内された貴賓室の左隣のボックス席で、ジオツキーとアメリを待っていた。だがいつまで待っても、二人は帰ってこなかったの。
何か変だわ。
そう思っていた時、ボックス席のドアが、カーテンの向こうでギイ……と開いた音がした。
その音は、慣れ親しんだ者が遠慮なく開けるものではなく、そろそろと気が付かないように開ける音だった。
そして金属の擦れる音が――――鞘から刀を抜いた音だ。
絶対に変だ。
私は素早く音を立てないようにして、カーテンが取り付けられている壁際に身を潜めた。
カーテンが無遠慮にザッと開けられると、二人の男が現れた。男たちが見ているのは椅子の方向。すぐ横の壁に張り付く私にはまだ気が付いていない。
誰もいない空のボックス席に、男たちは怪訝な顔になる。
私は小声で詠唱した。
吊っていた重厚なカーテンが外れて、私の声に気が付いた男たちの上から被さった。ずっしりと重いカーテンが男たちの全身に圧しかかる。
今だ!
私はボックス席を出ようとした。しかし敵は今の二人だけではなかった。ギラリと光る長剣を握った、一際大きな体の男が一人、ドアのところに立っていたのだ。
なんで三人もいるのよ? たかが、か弱き女子一人なのに!?
大きな長剣男が私を見つけて、ほくそ笑む。
ボックス席から逃げるにはこのドアしかないのだけれど……この男がいる。
しかも縦にも横にも大きな男だから、ドアを占拠するように立ちはだかっていた。
……いいえ、もう一つ、逃げ場はあるじゃないの?
私は閃いた。
――観客席側に!
私はボックス席へと後退った。
長剣を持った縦横大男が私に迫り振りかぶった。私は魔術で男の長剣を手から落としてやった。そして急いで、まだカーテンを被ってもがいている二人の横を通る。
前列の手摺りから下をちらりと見ると、一階までけっこうな高さがある。観客たちは皆、舞台に夢中だった。
私は自分を鼓舞して、息を深く吸った。
よし! 行くわよ!
席に足をかけて、ボックス席の手摺りによじ登った。
背が高くて幸いだったわ。二階席は突き出した造りになっていたので、両手で席天井の出っ張りの縁ギリギリをつかむことができた。でももしも、手摺りに乗せた私の足がバランスを崩したら、一階席へ真っ逆さまだ。
小さな縁をしっかりとつかまなきゃ、と手に力を入れた時だった。
ズキンと右腕に激しい痛みが走った。
「……っ!」
あの時の怪我だ!
思わず痛みで右手を離してしまった。
離した勢いが強くて、その揺れが全身を伝わって、手摺りに乗せていた両足がズルリと滑った。
落ちる……!
支えるのが左手一本だけになり、私の身体が振り子のように大きく揺らぐ。
私の視野も揺れに合わせて大きく動く。ボックス席から一階に座る大勢の観客たち……!
落ちたら、駄目よ……!
左手だけで縁をなんとかつかみ続けた。
揺れた身体が右へと持ち上がった時、必死で伸ばしていた右手の指先が縁に当たった。瞬時に右手で縁を握る。
びりびりと痛みが走るのを、私はぐっと耐えた。
耐えながら、自分の足で手摺りを探り当て、両足を手摺りに乗せなおす。
自分の居たボックス席の奥を見れば、縦横大男は長剣を拾い直しており、もがく二人の男たちもカーテンから顔を出し始めていた。そして当然、私に気がつき目が合った。
私は一秒でも早くと、隣の貴賓室へと伝い歩く。
私はこう考えていたの。
貴賓室というのは、王族や魔術聖殿長、外国の要人が来訪しなければ使われないから、大概は空いているものなのだ。だから私は、そこから廊下に出ようと思ったの。
貴賓室との境にある美しく彫られた円柱に、私の手が届いた時、カーテンを逃れた男たちも縦横大男に加わって、前列に近づいていた。
私は足払いの魔術を一人に放った。こちらも精一杯だ。術は縦横大男の足をもつれさせた。そのまま前へつんのめって倒れると、巻き添えを喰らって一人が下敷きになった。しかし残った男が、私の足に手を伸ばしてきた。
捕まってたまるもんですか!
私は円柱を両手で抱いた。腕の痛みには耐えるしかない。
そして手摺りを勢いよく蹴った。
その反動で私の体は円柱を中心にぐるりと回り、貴賓室の手摺りに無事足を乗せた。
私の視界はその時、貴賓室のもう一つ向こうの部屋に、親しみのあるツインテールを捉えた。
アメリだ!
あそこにアメリとジオツキーはいたのだわ!
私はつかまっていた円柱を手放して、貴賓室に飛び降りた。膝のクッションを使って床にしゃがんで着地した。
やったわ、見事に成功!
……あれ?
私はなんだか沢山の視線に取り囲まれていた。
誰もいないと思っていた貴賓室には、……なんと人がいたのだわ!
その人たち全員が、しゃがみこんだ私に視線が釘付けのような……?
そりゃあそうよね。
観劇していたら、来るはずのない所から人が降って来たんだもの。
……あれ? ちょっと待って?
貴賓室でもしそんなことあったら……!
や、やだ! 私、まるで暴漢じゃないの!!
ていうか、暴漢そのものだわ!
私の背中から、冷汗がどくどくと流れたわ。
隣から追ってくる男たちのことも気になったけど、この貴賓室にいる警護の者たちに捕まるわけにもいかなかった。
座席に座っていた貴賓席の人々は、一斉に警戒態勢になり、立ち上がりかけていた。
私のすぐ隣に座っていた人も、立ち上がり様にスラリと剣を抜き、私の首元にピタリと刃を当てた。
あまりに素早い動きで、私は呪文を唱えるどころではなかった。
「動くな」
有無を言わさぬその男の冷たい声が、今度は私の頭上から降って来た。
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次回【第68話】逃走 その2













