4
背後で女神が驚いたように呟いた。
女神の冷たい手で体をひっくり返され、髪が乱れた美少女が俺の顔を覗き込んでいた。
ああ、やっぱり綺麗な顔してんな。昔話通り、どんな生き物だって彼女に心奪われるだろう。
だが、勘違いしないでほしい。美少女にほだされたわけじゃなく、こいつがいなかったらどっちにせよ俺の家族は終わりなのだ。だから仕方なくこうして毒牙から守ったにすぎない。
「全く、人間はこれだから馬鹿なのだ。私はこいつの毒では死なない」
「いいんだよ、そんなことは。ただ勝手に体が動いちまっただけだ。それよりもお前の涙を分けてくれないか……それで俺の家族はみんな暮らしていけるんだ」
女神が微かに息を飲んだのが聞こえた。瞼が重くて、狭くなった視界ではっきりとはわからないが初めて女神らしい、慈しみにあふれた笑みを浮かべていたように見えた。
「お前、まさか……」
いつの間にやら王子もこちらを覗きこみ、こちらを見て涙ぐんでいる。ふ、どうやら俺もここまでかもしれないな。
思えば賑やかな家族たちに囲まれて、貧しい生活の中での生活も楽しかったかもしれない。飢えをしのんであらゆる雑草を喰らい、狭い部屋で体を折り重ねて眠る日々。
よくわからない仕事も、いやいややった仕事もたくさんあった。あれなんかはいい思い出だ、盗賊の手伝いを持ち掛けられみなで話し合い、迷走した挙句に街角で、でかいぬいぐるみを着てダンスを踊ったんだっけ。
熱が出ている感じはないが、頭がぼっとしてきてわけのわからないことばかりを思い出し、腹が痙攣を起こしたように動き始め、口元の筋肉が強張った。
笑い声が自然と口から洩れて来た。恐怖ってよりも振り返った自分の人生の馬鹿馬鹿しさに笑いが溢れ出す。死ぬっていうのは、もしかしたらこういうことなのかもしれないな。はは……
「お前、まさか森の主の毒で死ぬと?」
……ん?
女神の声を聞き、疑問に思った時にはすでにおそし、俺の声は次第にでかくなり、洞窟内に響き渡る様な爆笑へと変わっていった。
俺は閉じかけていた目をかっ開いて、上半身を起こす。
王子は涙目できょとんとしているが女神と泣き目ウサギとそれから毒蜘蛛までもが呆れた顔で見ている。
「し、死なないって、ど、どういうことだよ……!」
俺は笑い続けて痛い腹を押さえて三人……というか一人と二匹を見た。
「森の主の毒は何千年も前は熱でうなされるものだったが今は違う。数千の時を経て、種の選択が行われて進化した結果、今の森の主の毒は永遠と笑い続けるものになった」
「何がどうなってそんな種の選択が行われたんだ!!」
本来なら怒鳴り声のはずが、顔には不自然な笑顔が張り付き、腹の底から笑いが止まらず、呼吸もままならない中で俺は命懸けのツッコミを入れる。
「にしても、お前は笑顔が似合わないな。俺様みたいに上品に笑え」
「は゛じ゛め゛て゛い゛わ゛れ゛た゛な゛、こ゛ん゛ち゛く゛し゛ょ゛う゛」
俺は歯を噛みしめどうにか笑顔をこらえようとするが、それが逆効果だったのか王子はわなわなと震え始め、吹き出した。
笑顔が似合わない人間などこの世にいないはずだとかっちゃんが言ってたはずなのにこいつときたら……ちなみにかっちゃんは俺の笑顔をみて押しつぶされたカエルみたいで可愛らしいと言ってくれた。
「こ゛ろ゛す゛。ぜ゛っ゛て゛ぇ゛こ゛ろ゛す゛」
胸ぐらをつかんだとろこで嬉しそうに頬を緩ませるだけだからなおさら腹立たしい。殴りでもしたら感謝されかねず、この怒りをどうすればいいか考えあぐねていると女神はやれやれと首を振りつつ言った。
「森の主はいつも私のところに遊びに来ては
主『ほーら、お前も笑えよ!』
私『やだよ、毒で笑うと疲れるし』
主『そんなこと言わずにほら、ぐさ☆』
私『もう、あるじちゃんったらお茶目なんだから、あははは!』
みたいなやり取りをするのが定番なのだ。それをお前ときたら早とちりしてしゃしゃりでるからこうなる」
知るか、そんな茶番。
それよりこの毒いつおさまるんだ。そろそろ腹筋が悲鳴を上げているんだが。
「ちなみにその笑い毒は女神の私で一時間。人間のお前たちなら五十年は有効だ」
「い゛や゛、し゛ぬ゛! わ゛ら゛い゛じ゛ぬ゛!!」
げらげらと腹の底から出る笑いがこれ以上続けば、確実に死ぬ。こんなコントみたいなふざけた死因は絶対に嫌だ。
女神は「は? この程度で死ぬの?」と言いたげな目をしているが、人間はか弱いから!! 神様とかほかの化け物とちがって笑い続けるだけで死ぬんだ、ぼけぇ!!
息継ぎもできず、俺は地面に横たわる。笑いすぎて過呼吸が起こり目の前がチカチカし始めている。やばい、一時間どころか十分ももちそうにない。
「仕方あるまい、なんとかしてやれ、女神」
シヴァが言うと女神は心底めんどくさそうに顔を歪めた。
「ここで死なれても困るだろう。それに何より、見ろ、森の主がこんなにしょぼくれてるぞ」
たしかに森の主はやや顔を俯かせ、長い脚を折りたたんでいる。これが反省のポーズなのかは知らないが元気はなさそうだ。
主を見て仕方ないと呟いた女神は軽々と俺をお姫様抱っこで持ち上げた。
慣れない浮遊感に俺はやめろと言いたかったが力がはいらず、笑い声以外を喉から絞り出す元気ももうなかった。
「よいっしょ」
少女の見た目に似合わない掛け声とともに女神は地面を蹴った。するとまるで重力を忘れてしまったかのように体がふんわりと浮かびあがる。
まるで雲の上にでも乗っているかのような心地よさに俺は興奮するが、やはり出るのは笑い声だけで歓声の一つも上げられなかった。
俺たちは天井の穴から外に出ると、穴の淵に俺は下ろされた。女神は数メートル離れたところにある一本の木を指さした。
「ここに生えている『命の木』からとれる果実は万能薬になるの。だから、これ一つ食べれば笑いは収まるわ」
それは下からは見えなかったが子供の丈ぐらい大きさのもので、白い木肌を隠す葉は一枚もついておらず、代わりにこぶし大の白い桃のような実がなっていた。一つをもぎ取ると、俺に手渡ししてくる。
俺は蚊の鳴き声みたいな呼吸音でそれを受け取る。が、初めてみる果実に戸惑いを隠せなかった。
感覚がズレているこいつのことだ。齧ったら笑いは収まるが、今度は頭に触覚が生えてきてクロちゃんその二になってめでたしめでたしとぬかす可能性だってありえる。
ちらりと女神をみると、目があった。寒い冬の朝日を思い出すような優しい色のオレンジの瞳は不服そうな色を浮かべ早く食べろと急かしている。
ええい! なるようになれ。
俺は大きく一口齧りついた。
すると、生ごみと昆虫とその辺の雑草を混ぜ合わせたような味が口いっぱいに広がり、思いっきりえずいた。
無理だ。今の一撃で舌の感覚が破壊されていくのが痛い程わかる。
「女神様に恵んでもらったものを吐かないでよ」
「おえぇえ……し、死ぬ、どちらにせよ死ぬ……」
「いいから食べなさいよ」
女神にヘッドロックをきめられ、無理矢理口に果物を詰め込まれる。美少女の胸があたってるとか、あれ胸固くね? とかそんな感想も抱けない程、息苦しく顔を真っ青にしながら俺はそれをなんとか果実を飲みこむ。
「どう? 良薬口に苦しっていうじゃない。すぐ効いたでしょ?」
「ど、どちらかといえば、不味すぎて笑いが引っ込んだ気がする……」
俺はようやく吸えた空気に感謝しつつ涙目で呟いた。
口の中にはいまだに掃き溜めオンパレードの味がしているが笑いは確かに収まった。これも結構、良い値がつきそうだ。もし女神がどうしても泣かなかったらこれを持って帰ろう。
そんなことを頭の片隅で考えつつ、笑いすぎてぐったりしている体を横たわらせふと目の前に広がる星霜の森を見下ろした。