17歳、なりゆきで父になる
それは学校からの帰り道だった。寄り道をしてゲームショップで念願の限定品を手に入れた僕は上機嫌で家路についていた。
(うん?……)
電柱の下で制服姿の少女がうずくまっていた。素通りするのもアレなので近づいていく。
「あの、大丈夫――」
声をかけると、少女が顔を上げた。目が合った瞬間、うっと声を洩らしかけた。
「二宮?……」
同じ2年C組の二宮沙耶だった。とっさに手に持っていたアニメキャラがプリントされた紙袋を背中に隠す。
見るからに体調が悪そうだ。顔は青ざめ、ほつれ毛が汗で額に張り付いている。
「……どうかしたの? 具合でも悪いの?」
ほっといてよ、とでも言ってもらえれば、喜んでその場を離れたのだが、少女はむすっと黙っている。
(困ったな……)
辺りを見回した僕の目が、ふと近くにあった突き出し看板でとまった。
杉村産婦人科――
お産なんかを扱うのだろうが、医者は医者だ。体調の悪そうな女子高生を追い返したりはしないだろう。
「そこの病院で診てもらう?」
少女は返事をせずに自力で立ち上がった。よろっとバランスを崩し、電柱にもたれかかる。
さすがに放っておけず、僕は少女の黒い学生鞄を預かり、腕を支えた。沙耶は特に抗いもしなかった。よほどつらいのだろう。
病院に入ると、革の長椅子に2、30代ぐらいの女性たちが座っていた。お腹の大きな人もいる。
制服姿の僕たちは視線を浴びながら空いている場所に座った。
「ここで待ってて」
僕は受付に行き、カウンターの向こうにいる事務の女性に声をかける。
「すいません。彼女が体調が悪そうで……診ていたただくことはできますか?」
思えばこのときの「彼女が」という表現が悪かったのだ。「友達が」と言うべきだった。
「先生にお伝えして早くお呼びします。先に問診票の記入をお願いします」
バインダーに挟まれた紙を渡され、長椅子の沙耶に持っていく。少女がボールペンで書き込む間、僕は隣でぼんやり座っていた。
正直、帰るタイミングがあるとすればここじゃないかとも思ったのだが、なんとなく〝なりゆき〟で残った。
(なんで二宮は、こんな家から離れた場所にいたんだろう……)
学校からも自宅からも遠い。たまたまゲームショップに寄らなければ、遭遇することもなかった。
沙耶とは家が近所で、幼稚園や小学校も同じだった。親同士も知り合いで、子供の頃はお互いの家を行き来していた。幼なじみと言えるかもしれない。
だが、中学に上がった頃から徐々に疎遠になった。沙耶は学業も優秀でスポーツ万能。なんといっても美少女だった。
一方、僕はといえば、顔も十人並みで、スポーツが得意なわけでも、絵が上手いわけでもない。趣味は読書とアニメ鑑賞という平凡な17歳の高校生。
同じ高校に進学し、何の縁か二年になって同じクラスになった。クラスメイトになるのは小学校の四年以来だ。
離れていた五年近い月日で、沙耶はいっそうの美少女に、僕は陰キャ路線をまっしぐら。教室内でのカーストが違いすぎ、ほとんど言葉を交わす機会がなかった。
「二宮さーん、診察室へどうぞー」
名前を呼ばれ、少女がよろよろと立ち上がり、ドアに向かった。僕は腕を支え、沙耶を連れていく。
看護師さんが出てきて、僕から少女の体を受け取る。
「お連れの方はそちらでお待ちいただけますか? 後でお呼びしますので」
待合室のソファを手で指し示される。
「あ、いえ、僕は――」
たまたま居合わせたクラスメイトなんです、そう言いかける目の前で、ぴしゃっと診察室のドアが閉められる。
(しかたない、待つか……)
スマホでソシャゲをやっていると、やがて診察室のドアが開いた。看護師さんが顔を出し、「お連れの方、こちらにどうぞ」と呼ばれる。
僕は長椅子から腰を上げ、奥の部屋に入った。
沙耶の姿が見えなかった。奥に水色のカーテンで仕切られた場所があるので、恐らくあの向こうにいるのだろう。
白衣の女性に椅子をすすめられ、僕は腰を落とした。女医さんは30代ぐらいで、眼鏡をかけたちょっと怖そうな人だった。
「なんでこの状態になるまで、病院に連れて行かなかったんですか?」
「へ?」
女医さんが険しい顔で僕を睨み付けてくる。
「妊娠20週目です」
バカな僕でもようやく状況を理解できた。沙耶はどうやら妊娠しているらしい。
たまたま産婦人科の前でうずくまっていたのではなく、最初からこの病院に来るつもりだったのだ。
あ然とする僕に女医さんが、だから高校生はダメなのよ、という顔をする。しっかりしてください、と諭すように言った。
「あなたはお父さんになるんですよ」
◇
病院を出たら外はもう暗くなっていた。僕と沙耶は駅までの道を無言で歩いた。
あの後、女医さんに事情を説明した。僕は父親ではないこと、たまたま病院の前で体調の悪そうなクラスメイトを見かけ、付き添っただけだと。
彼女は誤解を平謝りし、沙耶に向かって次は本当の父親を連れてくるようにと伝えた。沙耶は何も答えなかった。
「あのさ……」
遠慮がちに僕は切り出した。
「なに?」
「親は知ってるの?」
「知らないに決まってるでしょ」
ぶすっと不機嫌そうな顔で少女は言った。いつもの沙耶のノリだ。薬を与えられ、体調も回復したのだろう。
当然ながら次の疑問は相手は誰なのか、だ。まさか援助交際とか。沙耶に限ってそんなことはないと思うが……
「立ち入ったことを訊くようだけど、相手って……」
ダメもとで尋ねた。いちおうは幼稚園からの付き合いだし、なんせ〝お父さん〟にされかけたのだ。教えてもらってもいい気がした。
「高遠先輩――」
あっさりと沙耶は白状した。
「ああ、テニス部の……」
沙耶の所属するテニス部のキャプテンだ。背の高い爽やかなイケメンで女子人気が凄い。成績も学年トップクラスだった。
たしか父親が医者で、祖父母の代から続く病院を営んでいる。親戚には大学教授や県議会議員などもいて、この界隈では高遠家と言えば名士として知られている。
「先輩はなんて?」
「自分の子供かどうかわからないって……」
ひどい話だった。だから沙耶は妊娠を誰にも言えず、ひとりで悩みを抱え込み、あんな体調になって病院を訪れたのだ。
二人でとぼとぼ歩いていると、やがて駅が見えてきた。
「私、スーパーで夕飯のおかずを買っていきたいから」
沙耶の家は母子家庭だ。夕飯の用意も彼女がするのだろう。だが、それは口実で、暗にここで別れたがっているように感じた。
「今日は付き添ってくれてありがとう。中井君を巻き込んでごめんね。あの……お願いがあるんだけど……」
「わかってる。誰にも言わないよ」
口止めだ。それぐらい僕だって心得てる。普通に考えれば、子供の父親を、よくも他人の僕に明かしたものだと思う。
たぶん、ずっと一人で悩みを抱えて沙耶は苦しかったのだ。たまたま通りがかった人畜無害な幼なじみに、つい気を許したのだろう。
◇
授業中、僕は離れたところにある無人の机を見ていた。
そこは沙耶の席だった。3時限目が終わった頃、彼女は担任教師に呼ばれ、教室を出て行ったきりだった。
あれから何事もなく数日が過ぎていた。沙耶と教室で目が合っても素知らぬ顔をされた。僕も彼女との秘密を守った。
がらっと教室のドアが開き、担任の進藤が顔を出した。
「中井、ちょっと来てくれるか――」
連れて行かれたのは学校の会議室だった。
大きなテーブルの向かって左側に教頭先生と二宮沙耶が座っていた。右側にテニス部キャプテンの高遠先輩、隣に上品そうな年配の夫婦がいた。なんとなく先輩の両親なのではないかと思った。
「そこに座ってくれ」
進藤に言われ、僕は沙耶の隣に座った。進藤自身は、長方形のテーブルの短辺に座った。教頭が目でうなずき、進藤が切り出した。
「中井、これからする話はここだけにとどめて欲しいんだが……実はな、二宮は妊娠している。その件で高遠のご両親が学校にお見えになられたんだ」
どうやら急に押しかけてきたらしい。だから二宮は一人なのだろう(母子家庭でお母さんはフルタイムで働いていた。急に対応するのは難しい)。
「あの、僕はなんで……」
ここに呼び出されたのか。話の筋が見えない。
「二宮は子供の父親は高遠だと言ってる。ただ、高遠は自分は違うと言っててな」
進藤は困ったように頭をかき、僕の顔を覗き込む。なんだか嫌な予感がした。
「それでな……落ち着いて聞いて欲しいんだが、相手がおまえなんじゃないかという話が出てるんだ」
「はぁ!?」
さすがに変な声が洩れた。
「おまえと二宮が産婦人科にいるのを見たという人がいる」
あ然とした。いったいどこからそんな情報が? 病院の関係者か? 待合室にいた患者の誰かが学校に密告?
「で、実際のところどうなんだ。単刀直入に訊くけど、おまえがその……父親なのか?」
進藤は上目遣いで僕の顔を覗き込んでくる。
恐らく先生も半信半疑なのだろう。そりゃそうだ。クラスの三軍男子で陰キャの僕が女子を妊娠させる器量などあるはずがない。
違います、と否定しようとしたときだった。高遠先輩の隣にいる四十年配の女性が口を開いた。
「先生、その子が正直に言うわけないじゃないですか。たぶん口裏を合わせてますよ」
ため息交じりに続ける。
「だいたい話がおかしいと思ったんですよ。ウチの息子が後輩の女の子を妊娠させるなんて……」
蔑むような視線をテーブルの向かいにいる沙耶に向ける。
「おおかた、そちらの中井さんとおっしゃる生徒と付き合っていて、妊娠がわかった途端、急に恭一の子供だって言い出したんですよ」
「違います!」
沙耶が顔を上げ、強い口調で否定した。
「中井君は関係ありません。たまたま、私が病院の前で気分が悪そうにしていたら、連れていってくれただけです」
勢いを得た僕がそれに続こうとすると、突然「僕の子供じゃない!」とヒステリックな声が会議室に響いた。
高遠先輩が青ざめた顔でわめく。
「勝手に彼女が言ってるだけだ。二宮さんは僕と付き合いたがっていた。だから僕の子供だと思い込んでるんだ。ぜんぶ彼女の妄想だ!」
頬が神経質そうにヒクヒク痙攣している。女子生徒たちの憧れの先輩の面影はそこにはない。
「でもな、高遠――」
進藤先生が言いかけると、それを遮るように叫んだ。
「いいかげんにしてくれ! 僕はこれから大切な受験なんだ。妊娠だとか、子供だとか、そんなことをやってる場合じゃないんだ」
高藤先輩の母親が冷たい視線を沙耶に向ける。
「この子、母子家庭だって言うじゃないですか。恭一の子供だって言って、高遠の家に入り込もうとしてるんですよ。先生、あんまり言いたくないですけど……片親の子の言葉なんて信じちゃいけませんよ」
「お母さんそれは――」
さすがに進藤が苦虫を潰したような顔をする。僕は隣にいる少女の顔をちらっと見た。沙耶は唇を噛みしめ、屈辱にじっと耐えていた。
ふと僕の脳裏に子供の頃の記憶がよみがえる。それは小学校一、二年の頃、病気で亡くなった沙耶のお父さんの葬儀だった。
喪主を務めるお母さんは泣きはらして目が真っ赤だった。小さな沙耶は母親の手を握り、歯を食いしばって涙をこらえていた。
黙っていた高遠先輩の父親が口を開いた。
「とにかく恭一は心当たりはないと言ってるんです。私と妻は息子の言葉を信じます。ですので、彼女のお腹の子供を恭一の子供だと認めるわけにはいきません」
間に立たされ、進藤は困った顔をしている。
「あの――」
僕が遠慮がちに発言した。緊張で声がかすれていた。進藤が顔で先をうながし、唾を呑み込んで続けた。
「僕は二宮さんとは付き合ってません。ほんとに彼女を病院に連れていっただけなんです」
「そう言うように彼女から頼まれたのね?」
妙に優しげに高遠先輩の母親が言ってきた。
「頼まれてません。沙耶は……二宮さんはそんなことを言うコじゃありません」
心を落ち着かせるように言葉を切り、それから続けた。
「僕は〝なりゆき〟でこの場にいるだけです。でも部外者だからこそ、わかることもあります。病院で先生に聞きました。二宮さんは妊娠20週目です。お腹の赤ちゃんをどうするのか、決断を迫られています。なのに、みなさんは父親を探そうとするだけです」
あのね、と苦笑いしながら母親が諭すように言った。
「それがいちばん大事なのよ」
「違います。今、いちばん大事なのは妊娠している二宮さんの身体です」
高遠先輩の母親が鼻白んだような顔になる。
「あの……みなさんは彼女のお腹の子供が誰なのか、をはっきりさせたいんですよね? でしたら……僕でよければ、子供の父親になります」
テーブルにおかしな空気が落ちる。進藤もこいつは何を言ってるんだ、という顔をしていた。
高遠先輩の母親が眉をひそめる。
「父親はあなただって認めたってこと?」
そうじゃありません、と僕は強い口調で言った。
「僕が子供の父親なんじゃなくて、僕は子供の父親になりたいと言ってるんです。彼女は今ひとりで悩みを抱えています。だったら僕がその助けになります。彼女が父親を必要としているなら、父親になります」
言った後に急に恥ずかしさがこみ上げ、二宮さんが望むならですけど……と消え入りそうな声で付け足した。
◇
その日の昼休み、僕は二宮沙耶に呼び出され、校舎の屋上にいた。空は快晴で、陽光が降り注いでいた。
「ありがとう。あのとき、味方になってくれて……」
沙耶に言われ、僕は照れたように頭をかいた。あの後、話し合いは変な空気になり、気勢をそがれた高藤先輩の両親は引き上げていった。
「ごめん……父親になれるわけないよね、俺、17歳で……ただの高校生なのに……」
経済力も甲斐性もない。勢いで父親になると言ったものの、その後のことはノープランだった。
「うん、でも、ちょっとかっこよかったよ。あのときの中井君」
沙耶が思い出したように笑い、頬にかかったほつれ毛をかき上げる。
「あのね、私、子供を産もうと思うの」
驚いたように僕は少女の顔を見つめた。
「調べたの。産んだ子供を養子に出す仕組みがあるんだって。NPOの人が、子供がいない夫婦の人との橋渡しをしてくれるの」
僕は何も言えなかった。平凡な高校生にはあまりに遠い世界の話だった。
「……私ね、本当は産みたかった。でもまだ高校生でしょ。やっぱり堕ろした方がいいのかなって迷ってた。でもあのとき、中井君が父親になるって言ってくれって……ああ、私は一人じゃないんだって……」
「…………」
「お母さんとも話し合ったよ。たくさん言い争いもした……最後には認めてくれた。勝手にしなさいって感じだけど」
彼女の母親は18歳で沙耶を妊娠して、夫を亡くしてからはシングルマザーで子育をしてきた。若くして子供を身ごもる大変さを誰よりも知っている。
屋上のフェンス越しに少女は青空を見上げた。
「正直すごく不安。この後、お腹が大きくなっても学校に通えるのかって……お母さんにもさんざん言われた。考えが甘いって。でも、大変さがわからないし、想像もできないから逆にいいんだと思う」
若さの弱みは経験が不足していることだが、一方でそれは最大の武器だ。
「僕に手伝えることがあったら何でもするよ」
学校を休んだとき、ノートを届けるなど、できることはあるだろう。もっとも沙耶は僕よりもはるかに頭が良かったけれど。
「ありがとう。じゃあ、子供が生まれるまでの間だけでいいから、赤ちゃんの父親になってよ」
「え?……」
「なってくれるんでしょ。言ったじゃん」
「まあ……」
高遠先輩の両親の言い草に腹を立て、つい勢いで言ってしまった。だが、彼女が父親を必要としているなら僕は助けてあげたかった。
「わかった。やるよ。父親になる」
沙耶がふふ、と目を細めた。
「中井君ならそう言ってくれると思った」
少女はいたずらっぽく笑い、「本当は中井君が父親だってみんなに言っちゃおっかなー」と言った。
勘弁してくれ、と僕は思った。童貞のまま、クラスメイトたちから「パパ」と冷やかされるのはつらい。
こうして、17歳の僕はなりゆきで父になった。
父親として、妊婦の母親に何ができるのか、どんなことに気をつければいいのか、勉強しなくちゃならないことはたくさんある。
でも、わからないことを怖がらなくてもいい。僕たちには若さがあり、未来は無限の可能性に満ちている――少なくとも僕はそう信じている。
(完)