知恵の実
この作品はフィクションであり実際の事象や人物、団体名等とは全て無関係です。
「今夜は月がきれいだね」
いつもよりも遠い月の下で美花が言った。やっぱりルナは死んだんだ。彼女の真似をするかのように人懐っこく甘えてくる事はもう二度と無い。
「今度こそ月になって見守っているよね!」
ずっと黙っていた美花がこちらに振り返って寂しそうに笑った。それと同時に彼女が泣いている姿が不思議と脳内へ流れ込んできて、どこかで見た事のある光景の中で白い泡となって人魚姫は消えていく。
僕は次から次へと浮かんでくるルナの記憶の水槽に落ちてしまったようだ。あまりに自分がこの世界では無力すぎて、その苦しみから解放されていくのをただじっと目に焼き付ける事しかできない。
どんなに代わってやりたいと思っただろうか。それが叶わない現実だと言う事は美花も理解していたはずなのに――。
「それでもルナは最後まで本当の姿を見せなかった」
最初こそ真っ黒な招き猫さんと呼ばれ、みんなに幸せの象徴として大事にされてきたはずの月下家の飼い猫。でも、その魔法のような力を利用されないか心配する人達もいた。
お家にルナがいるだけで不幸になるなんて信じられない。そんな噂を耳にする度に僕は耳を塞いだ。
「少なくとも私達にとっては幸せを運ぶ福猫だったよ」
そう言って、お墓の前で横たわるルナを美花が抱き上げた。今は静かに目を閉じて幸せそうに眠っている。
本当は苦しかっただろうに無理をさせてしまった。せめて安らかな夢の中でゆっくり休んでほしくて、僕は冷たくなった手をそっと握り締める。
「でも、それは目で見て、耳で聞いて、手で触れてきた光輝が一番よくわかっているんじゃない?」
更に美花が確信をついたように言葉を続けた。その手には確かにあの絵本が見える。それは、誰かさんのために作られた『お星様』と書かれた物語だった。
「……どうしてまだ読んでもいないのに物語の結末がわかるの?」
僕は一瞬言葉に詰まった。いや、まだ何も語っていないのにこれははったりだ。そんな事はわかっているのになんだか心の中を見透かされているようでうまく言葉にできない。
「本当に心から幸せだと感じる事ができたら二人目を生む勇気を出せたのかもしれない」
その瞬間、真っ黒な天使のような姿をした女の人が夜空の向こうへ飛び立っていくのが見えた。本当に僕はなんて馬鹿なのだろう。やっぱり僕達は知恵の実を食べてしまったんだ。




