8話 オオイノシシとのバトルです
フェンリルの毛皮がなければ、死んでいたな。
俺は吹き飛びながらそう思った。
俺に突進して吹き飛ばした相手のすがたは、今はもう、はっきりと見えている。
イノシシ、それも普通のものよりもはるかに大きい。
ワイルドボア、というその名前は、テイマー初心者の手引き最終章、いずれは目指せ上級モンスター、という項目に書かれていたはずだ。
時間にすればわずか。
どすん、と派手な音を立てて草の上に落下した俺は、急いで抜刀する。
体の大きさばかりではない。
鋭く大きな牙に立派なたてがみ。
ワイルドボアはそれらを俺に向かって誇示しながら、猛り狂っているようにみえた。
まずいな、と俺は思った。
初心者の手引きに書かれているとおりの上級モンスター。だとするならば、相手にするには、テイマーなりたてFランクの俺には荷が勝ちすぎる。
完全に俺に向かって敵意をむき出しにしているワイルドボアだ。
逃げる、という選択肢さえ困難なものに思われた。
ふ、と右目の視界が赤に染まる。
血、だ。
どうやら右目の上、額から、出血しているらしい。
怪我は軽いものに感じられたが、フェンリルの毛皮による防御を上回るほどの威力。
それがワイルドボアの突進にはあるようだった。
俺は剣を構えて、ワイルドボアから視線を外さないように気をつけながら、じりじりと後ずさる。
ワイルドボアは前足で下の地面をえぐるように蹴り立て始めた。
あの突進が、くる!
そう悟った俺は、なんとかそれを受け流そうと身構える。
こうなればもう一度、フェンリルの毛皮を信じるしかない。
と
音もなく、もう一つの黒い影が、俺の横にふわりと舞い降りた。
「タロ!」
俺の呼び声に応えるように小さく吠えて、タロは静かに、ワイルドボアと対峙する。
そうして、タロはちらりと俺の方を見た。
グ、ルルルル。
タロの口から、いままで聞いたことのない、低い唸り声が響きだす。
なんだ、と思う間に、タロの黒く美しい毛並みに、ばちり、と魔力の光が奔るのが分かった。
「怒って、るのか?」
タロから流れ込んでくる感情は、まさしく怒り。それはすべて、対峙するワイルドボアに向けられていた。
おそらくは、俺の流血、それが引き金になったのだろう。
周囲の空気さえ歪ませるような激しい感情が、タロからあふれ出ているようだった。
「タロ!」
タロの怒りを振り払うように、ワイルドボアが、突進を開始する。
土煙を立て、障害物をなぎ倒しながら、タロへ向かうワイルドボアは、必殺の速さと威力を兼ね備えた、一個の砲弾のようだった。
が、
それでもタロの疾さはそれに勝っているはずだ。
いつものようにひらりと突進を跳んでかわし、強烈な反撃をくわえてくれる。
その予想は、あっさりと裏切られた。
ごがっ
激しく、鈍い音がタロの方から鳴り響いた。
タロはワイルドボアの突進を、躱そうとするそぶりさえ見せず、少し落とした肩口で、ただ受け止めた。
「タロ、大丈夫……」
それは、問うまでもないことだった。
タロは全くの無傷だった。そればかりではない。突進したワイルドボアのほうが、今や傷を受け、流血していた。
「ウォフ、ウォフ、ウォフ」
タロは細かく泣きながら、今度は頭でワイルドボアをぐいと押す。
それだけでワイルドボアは体を浮かせてたたらを踏む。
ゴッ
振りかぶった前足が、容赦なく振り下ろされ、ワイルドボアに新しい傷を作った。
それからはもう、一方的だった。
タロが怒りに任せ、幾度もワイルドボアを攻撃する。
ワイルドボアのほうも幾度か突進による反撃を試みてはいるものの、ほとんど効果がないばかりか、受け止められ、受け流されれば、自分の方が傷ついていった。
「タロ、もういいよ」
言っても、タロは攻撃をやめなかった。どうやら相当頭にきているらしかった。
おかしいのはワイルドボアのほうにも言え、もはや勝敗は決したといってもいい状態なのに、立ち向かうのをやめようとはしなかった。
モンスターというくくりになってはいるものの、ワイルドボアはむしろ動物と分類できる生物だ。
負けが決まっている相手に、死ぬまで立ち向かう、なんてはなしは聞いたことがない。
俺は不思議に思って、彼らの戦いを観察する。
「もしかすると」
俺は、目標に定めたある場所に向かって、走っていった。
よく見れば、ワイルドボアの行動にはパターンがあって、どうやらその場所からタロを遠ざけようとしているようにみてとれたのだ。
はたして……
「ウリボウ、か」
そこには、ウリボウ、ワイルドボアの子供が二匹、ぷるぷると震えている。
成長すればあれほどの巨体になるワイルドボアだったが、子供のうちは普通のイノシシと大差ない大きさのようだ。
よく見れば、二匹のウリボウのうち一匹は、なにか足に棘のようなものが突き刺さっていた。一匹のウリボウが震えながらもう一匹を庇うようにし、俺を必死ににらみつける。
―――――――
「タロ、もういいんだ。」
もう一度叫んでも、タロはやはり、攻撃をやめる気配はなかった。
俺は意を決して、タロの首元に飛びついて抱きしめる。これ以上、タロにこんなことをさせるわけにはいかなかった。
「ありがとうタロ。俺のために怒ってくれて。でも、本当にもういいんだよ。」
そうしても、低く唸り続けるタロだったが、だきしめたまま何度も首筋をなでてやるうちやがてゆっくりと動きをとめた。
そうして、大丈夫、というように俺の方を見る。
「大丈夫だよ、このとおり。もう血もとまってるんだ」
タロはおれの傷をぺろりと舐めると、もうすっかり落ち着いたようにぺたりと座って
クゥン、と鳴いた。
一方で、ワイルドボアは痛々しい姿だった。
タロが傷つけたものよりも、突進によって自爆した傷がより酷い。
俺が見つけたウリボウ、おそらくは自身の子供を、守ろうとしていたのだろう。
今はその二匹が、ワイルドボアの脇にいて、心配そうに見上げている。
怪我をしていたウリボウの治療は、俺が持っていた救急キットでことたりた。
暴れるウリボウをなだめながら棘を抜き、消毒して痛み止め入りの軟膏を塗りこんでやる。
すぐに傷が塞る、ということはないだろうが、痛み止めの効果が大きかったのだろう。
なんとか歩けるようになったらしいウリボウは、もう一匹に付き添われるようにして、親の元へとやってきたのだ。
ウリボウの様子をみたワイルドボアは、ほっとして気が抜けたのか、その場にへたりこんでしまっていた。
「タロ……」
なんとかならないか?という思いを込めて、俺はタロの首を撫でた。
タロは仕方がないなあ、というように首を振ると、それから天を振り仰いだ。
「ワ、オーーーーーン」
高く遠く。
澄んだ遠吠えが、あたりに響き渡った。
フェンリルの遠吠え。
そこにはなんらかの魔力が込められているようだ。
いっしょになって聞いていた俺も、体の中から力が湧き出てくるようだった。
ワイルドボアに対しての効果はてきめんで、萎えていた足を奮い立たせ、立ち上がるだけの気力が戻っているようだった。
俺はありったけの塗り薬と血止め薬をワイルドボアに塗りたくった。
―――――――
「それじゃあ、な」
最後はされるがままになっていたワイルドボアに、手持ちの薬を全部使いきって、俺はゆっくりとそこからはなれる。
「次はいきなり、人をおそっちゃだめだぞ」
そう告げると、俺はタロのもとへ戻った。
「それじゃあ、タロ、帰ろうか」
タロもワイルドボアのほうをむいて
「わふ」
と小さく吠えた。
ワイルドボアは俺の方を見、タロの方を見て、それからウリボウの方を見た。
そうして、なにかを決意したようにもう一度俺の方を見る。
それから、ワイルドボアはゆっくりと頭を下げると、一歩一歩、俺の方へ歩み寄ってきた。
「もしかして、テイムしろってことなのか?」
ワイルドボアは肯定するように、ブフォ、と小さく鳴いた。
俺は手のひらに手早く法陣を描くと、ワイルドボアの額に向ける。
「テイマー、ロッカが其に問う。名は何ぞ。」
―ガロン―
ワイルドボア、ガロンの額に法陣の光がともった時、いつかの抑揚のない声が聞こえた。
【スキル、「暴走特急」を習得しました】