2話 フェンリルと旅に出ることになりました
「よーし、いくぞ、タロ」
俺は右手に持ったおおぶりの骨をタロに見せた。
左右がきれいにふくらんだその骨は、適度に重さがあって、投げてよし、咥えてよし。
長い間タロの遊び相手をつとめてきた、タロお気に入りのひと品だ。
タロは骨に興味がないふうにしながら、そのあたりを飛んでいる蝶がひらひらとしているのを鼻先で追いかけている。
「フェンリル、だよなあ」
そうしている姿は今までのタロと変わりない。
けれども姿形は、今まで俺が見聞きしてきた伝説の神獣、フェンリルそのものなのだった。
俺の視線をうけながら、タロはいまだ、知らないふりを続けている。
それでいながら、ぱたばたと高速でしっぽを振り続け、こころの中を隠しきれていないのも、やっぱりいつものタロだった。
「そーれ!!」
俺は思い切り、手にした骨を空に投げる。
骨は大きく弧を描いて、目印にしていた樹へとめがけて飛んで行った。
と、
横目に見ていたタロの背中が、一瞬、ぶれたように見えた。
「え?」
俺がタロの方へ向き直る頃には、タロはもうそこにはいない。
遠く、投げた骨が地面に落ちるわずか前、タロがそれを受け止めるのが、かろうじて見えた。
「え、え?」
驚きの声をあげる間もなく、次の瞬間には、タロはもう俺の目の前に現れている。
ぶおん、という大きな風切り音があとから続き、遠くの樹と、それからそこから俺にいたるまでの雑草が、残らずなぎ倒されていく。
「はは、凄いなタロ」
ことのついでの風圧でしりもちをついた俺に、タロはくわえていた骨を渡した。
それからめちゃくちゃに俺の顔をなめ回す。
神獣フェンリル。
身体の大きさ、見た目だけではなく、実際にタロはそれにふさわしい性質を備えつつあるように思えた。
それでも、俺にとってはかわいいタロに変わりはない。
大きなタロの頭に手をまわして、わしわしと撫でてやりながら、俺は強くそう思った。
――――――――――-
「それは、どうなのでしょうな」
宿屋に戻るや、俺は宿の亭主を訪ねた。
元冒険者だという初老の亭主は、俺の提案を聞くと、渋い顔でそう返す。
しつらえこそ粗末な宿屋だが、この亭主が本当の動物好きであることは、数か月の滞在でわかるようになったことだ。
だから俺は無理をのんでもらおうと、もう一度頼んでみることにした。
「お金のことなら、なんとかします。だからもう少し、広い部屋に変えてほしい」
つづけた俺の言葉には答えずに、亭主はタロの方を見た。
それから興味深そうに、彼はタロの周りを一周する。
「あの子犬が、ここまで大きくなってしまった、と」
「あ、いや、それは……」
なにか返そうとする俺を片手で制して、亭主は続けた。
「確かに、ここまで大きくなってしまっては、今のお部屋では手狭でしょうな」
「そうなんですよ。だから、」
「タロ様が入れる部屋をご用意することは可能です。どうしてもというなら、厩舎の一室をお貸ししてもよろしゅうございます」
よかった、と笑おうとした俺を、亭主はもう一度片手で制した。
「ですが、よくお考え下さい。今より広い部屋に移ったところで、大きさには限度があるのです。はたしてそこで、タロ様は満足できるのでしょうか?」
言われて、おれははっとする。
確かに、大きくなってからのタロはその身体をだいぶ持て余しているように感じられた。
「そうだよな、タロ。ごめんな。」
タロは気にするな、というように、鼻先で俺の背中を軽くつついた。
「老婆心ながら、この街で同業の宿屋をしている皆様方も、タロ様に充分満足いただけるお部屋は、用意できないでしょう」
「そうですか」
それはきっと、宿だけの話ではない。
タロを連れ出し、いっしょに遊んだ道すがら、様々な人々がタロに注目しだしているのははっきりとわかった。
それらがすべて、好意的な目ではないというのも、薄々感じてはいるところだ。
この街はもう、タロには狭すぎるのだろう。
「ありがとう。参考になりました」
「いえいえ、貴重なものを見せていただいた、お礼のようなものでございます」
亭主は頭をさげながら、こっそり続ける。
「それにしてもフェンリルとは。媚びず懐かずとうかがっておりましたが、一体いかにして……」
俺はひとつの決意を胸に、タロの首を抱きしめた。
「くぅん」
とタロが、うれしそうに鳴き声を上げた。
――――――――――-
勇者パーティーに所属していた時、俺がやっていた仕事はほとんど雑用に近かった。
リーダーの勇者アドルフは、かつては面倒見がよく『いいやつ』で、パーティーメンバーも皆似たようなところがあった。
だから自分の立場に不満を抱くことはほとんどなかった。
一方で、冒険に出て戦闘に巻き込まれても、俺の任務は後方支援がせいぜいだった。
今、ゴブリンという最下級のモンスターを目の前にして、いくらかの緊張を覚えざるを得ないのは、そんな理由があるからだ。
タロとの今後を考えた時、俺が選んだのは冒険者として復帰をすることだった。
街への定住が難しいと分かった時点で、俺にできることは限られている。
それならば、経験のある冒険者の道を選ぶというのは、いくらか良い方法に思えた。
幸いにも、タロは俺といっしょに過ごすことが第一で、他のことはそれほど気にはしていないようだ。
宿を引き払うときになっても、特に嫌がるそぶりはなかった。
冒険に出るにあたって、どこかのパーティーに参加する、というのは当然選択肢として考えられた。
のだが、タロが俺以外の人に全くなつかないところから、当面はソロ、というよりはタロとのコンビでやっていくのがいいだろう。
そうして、街を出て森を分け入る……までもなく、ほとんど森の入り口で、俺たちはゴブリンに遭遇したのだった。
最下級のモンスターとはいえ、こんな人里近くにゴブリンがいるのは珍しいことだ。
おそらく、群れからはぐれてこんなところにまで迷い出てしまったのだろう。
ゴブリンのほうも俺に出会って驚いたようで、手にした棍棒を構え、牙をむいてうなりをあげている。
敵意を感じたタロが、俺の前に歩み出て、ゴブリンと対峙しようとする。
俺はそれを腕で制した。
俺たちの初陣だ。ここは俺に譲ってくれ。
思いが通じたのか、タロはゴブリンに注意をはらったまま、すこし下がるようにする。
俺は買ったばかりのショートソードをさやから引き抜いて正面にすえた。
勝負は長くはかからなかった。
棍棒をめちゃくちゃにふりまわすばかりのゴブリンの、攻撃を避けるのは難しいことではない。
俺の剣技も褒められたものではないのだが、それでも技、とついているぶんだけ上等である。
切りかかった数だけゴブリンは確実に弱っていき、五回目の袈裟切りが致命傷になった。
倒れるゴブリンから気を逸らさずに、俺はタロの方を見る。
『どうだ』という心の声が顔に出ていただろう俺に、タロは
「わふ」
と、嬉しそうに一言吠えた。
瞬間、
タロの体が宙を舞った。
なんだ?と思う間もなく、飛んだタロは俺の頭上を越えて着地する。
続けて俺にのしかかるように押し倒すと、そのまま覆いかぶさるようにした。
もふもふとしたタロの毛を顔に感じながら、俺はヒュンヒュンという風切り音と、ぴち、ぱし、とそれが弾かれるような音を聞いた。
矢、か?
俺に覆いかぶさったタロに向けて、矢が射かけられていた。
タロの下から顔だけ出して周囲を見回し目を凝らすと、あたりの樹の上にゴブリンが数匹、弓を構えているのがかすかに見える。
地上のほうに目をやれば、そこかしこの木陰から、ゴブリンが沸いて出てきている。
囲まれた?
どうやら、最初のゴブリンは斥候かなにかだったようだ。
ゴブリンの群れがこんな街の近くに沸いて出る、というのは単体でいるということ以上に特殊な事態であるといえたが、今はそれについて考えている暇はなかった。
ひゅん、と風切り音が続いている。
「タロ!」
俺が心配の声をあげると同時、タロの体に放たれた矢が突きたたる。
かに見えたが、それらはあっさりと、タロの毛に弾かれて、地に落ちていった。
撫でてやればしなやかに、抜群のさわりごこちをもつタロの黒毛。
それがひとたび防御にまわれば、なまなかな刃では傷のひとつもつけられない。
三度目に放たれた矢も防ぎきって、タロはくすぐったそうにぶるぶると体を震わせた。
「グル、ル」
低く、唸り声が耳に届く。
直後、タロの重さが俺の上から飛んで離れた。
俺は跳ね起きて矢を避けるように木陰へと身を寄せる。
それから、瞬きをする間に、戦闘は終わっていた。
気づいた時には、地面にはゴブリンの死骸が四つ、転がって消滅しかけている。
がさごそと樹の上で音が続き、どすんどすんと弓を持ったゴブリンが落ちてくる。
とさ、と軽やかな着地音とともに、タロが地上に降り立った。
口には最後の一匹と思われるゴブリンが、今まさに首の骨を噛み折られていた。
そのゴブリンを遠くに投げ捨てると、タロは俺がやったように『どやっ』というような顔をした。
「さすがだ、タロ」
俺はタロの頭を思い切りなでてくしゃくしゃにする。
タロは気持ちよさそうに腰を下ろした。
ふたりの初めての戦闘は、大勝利の一言だ。
俺はさらにタロの顎下に手をやって撫でてやる。タロはますます目を細める。
ひゅん
小さく、風切り音が再度響いた。
目の端に、死体に見えていたゴブリンの一匹が、跳ね起きて矢を放ち終えた姿がうつった。
矢は狙い過たず、俺にむけて一直線に飛んでくる。
しまった、とおもうまもない。タロですら、反応ができない最悪のタイミングで、その矢は放たれていた。
俺の体に矢が突き刺さる瞬間。
「きゃうん」
悲しそうなタロの悲鳴を、俺は確かに聞いた気がした。
【テイマーのスキルが発動しました】
声が聞こえた。
タロの悲しそうな声とは違う、まったく抑揚のない声だ。
びりびりと、体がしびれる感覚があった。
はじめは、矢を受けた傷のせいかと思われたが、しばらくするうち、それがかつてタロに噛まれたときに感じた、あのしびれと同様のものであると気が付いた。
【スキル発動にともない、ステータスが強制開示されます】
ぱっと、目の前に光の文字が展開される。
絶対・使役
どのような魔物もあなたに使役する。
さらにあなたは使役した魔物の能力を得る。
【スキル、「フェンリルの毛皮」を習得しました】
声が続いた。
光の文字に新たな列が現れていく。
防御力+100
ぴし
という音で、俺は我に返った。
いつのまにか、目の前にあった光の文字列は消えている。
目の前には、俺につきたたったはずの矢が、矢じりの元で折れて転がっていた。
「ギ」
後方で、ゴブリンが訝しがるように声を上げた。
見れば、倒された他のゴブリンとは色も、そして身に着けているものも異なっている。
この集団のなかでも特別な存在かなにかだろうか。
「ギ、ギギ」
それを確かめるより先に、ゴブリンはもう一度、弓に矢をつがえようとした。
ぶわっと、タロの巨体が軽やかに舞う。
他のゴブリンと、多少の違いがあったにせよ、タロの牙に区別はなかった。
ゴブリンの首をたやすく跳ね飛ばすタロを見ながら、俺は体を触ってみる。
背中の中心から少し外れたあたり、ちょうど心臓のあるあたりの、服が少し、破れていた。
けれどもその下、俺の体のほうには、傷のひとつもみられなかった。
「これもタロのおかげ、なのかな?」
ゴブリンを倒しきり、うれしそうに駆け寄ってくるタロをみながら、そう思う。
光の文字がほんとうなら、雑用がせいぜいの冒険者だった俺も、ちょっとは強くなれるのだろうか。
それになによりタロのことだ。
タロの圧倒的な能力は、俺の想像をはるかに超えている。
とびついて、いつものようにじゃれてくるタロの相手をしながら、俺はいままでかわいがるばかりだったタロのことを、たのもしく感じるようになっていた。