まよいが
ボクの唯一の趣味は山歩きで、大学ではワンダーフォーゲル、通称ワンゲル部に所属していた。社会人になったいまでも暇をみつけては、あちこちの山野を一人で散策していた。
今日は、とある国立公園に隣接した山岳地帯の、そこに連なる一峰に初登頂を試みた。この山は人気のスポットから外れているせいで、山小屋もなければ登山道も整備されていない。その分、思いっきり開放感を味わえるだろうと期待しての登山だった。
朝の六時から登山を開始してもう十時間。目的の山頂に到達して、存分に大自然のパノラマを堪能した後、現在、登りとは別ルートで下山の途中だった。
位置確認はスマホのGPSを使っていたのだが、迂闊にも山中では電池の消費が早いのを忘れていて、バッテリーが上がってしまった。そこでスマホをリュックにしまい、昔ながらの方法、地図とコンパスを頼りに下山していた。
山の天候は変わりやすい。天気予報では晴れ時々曇りだったはずが、俄かに霧が立ち込め濃度を増してきた。
夏のこの時期、午後の四時だとまだまだ明るいとはいえ、霧の白いヴェールが視界を遮り、疲労も相まって歩くペースも落ちてくる。こうなると地図はあまり役に立たないから、コンパスで大よその見当をつけながら、細い獣道を下っていった。
霧が出てから三十分ほど歩いただろうか、ボクは道が二股になっているところにたどり着いた。一方はそのまま下っていく道、もう一方はなだからかな斜面を上っていく道だ。下山なら下りの道が正解なのだろう。しかし、こんな山奥に何があるのかボクは俄然興味を惹かれ、少しばかり寄り道をしてみることにした。
足元に注意しながら視界が利かない坂道を10分ほど登っただろうか、靄の中から忽然と古びた鳥居が現れた。高さ三メートルばかりの粗末な木の鳥居で、切れた注連縄が片側の柱にぶら下がっている。
鳥居から奥の道は石段になっており、いまいる位置からでは立ち込めた霧で社殿は確認できない。ここまできたのなら参拝しない手はない。ボクは鳥居をくぐると石段に足を踏み出した。
年ふりて苔むした石段は存外と長く、ゆうに百段は登ったであろう、霧を透かして終着点にある建物の輪郭が明瞭になってゆく。登る前は山中の神社なので、きっと小さな祠だろうとたかをくくっていたが、石段を登り切って目の前に現れたそれは、漆喰塀をめぐらした豪壮な屋敷だった。
少しばかり混乱したボクは、開け放たれた門をくぐってフラフラと敷地内へと足を踏み入れた。
「こいつは……山小屋か?」
奇妙なことに、目前の屋敷にはサッシ窓や電灯といった近代文明の痕跡が一切ない。そもそも茅葺き屋根の山小屋なぞ聞いたことがない。見たところ、よく手入れもされていて、打ち捨てられた廃屋というわけでもなさそうだ。ボクは出入り口であろう木戸に近づきながら声を掛けた。
「ごめんくださーい、どなたかいらっしゃいますか?」
すると、その木戸がすっと開いて、一人の若い女が姿を現した。年の頃は二十歳前後か。しどけなく着流した緋色の長襦袢から、両肩と、すらりと伸びた片脚が露出して、透き通るような白い肌を際立たせていた。くしけずられることもなく伸びるに任せた蓬髪は腰まで伸び、どこやら歌舞伎の連獅子を思わせる。そこから覗く瓜実顔は、息を呑むほどに美しい。憂いを含んだ切れ長の目元が、妖艶でもあり、儚げでもあった。血の気のないやや青ざめた顔色ながら、唇だけは妙に紅い。
「あ、こんにちわ。突然すいません、この家の方ですか?」
若い女はコクリと頷くと、やおら踵を返してボクに背を向けた。
「あっ、あのう……」
呼びかけると女は振り返り、肩越しに微笑みかけた。戸を閉められたわけではないので門前払いではないようだ、中へ入れという意味なのだろう。ボクは「お邪魔します」といって屋内に入った。
ボクは彼女の後について玄関の土間を突っ切り、上がり框に靴を脱ぐと、囲炉裏がある部屋へ通された。どうやらここは居間らしい。女は囲炉裏端にある藁で編んだ円座を指し示してボクに頷きかけた。座れということだろう。促されるまま円座に腰を下ろすと、女は奥へと消え、ややあってお膳を掲げ戻ってきた。朱塗りの膳には、焼き鮎、煮しめ、酢の物、香の物、吸い物などの小鉢や椀が、きれいに並べられている。そこには酒を入れる花瓶ほどの大きさのトックリ、瓶子もある。
女は、かわらけ、素焼きの小皿のような盃を差し出し、ボクが受け取ると、瓶子を傾け酌をした。注がれた濁り酒を口に含むと芳醇な香りが口腔を満たす。濁り酒を口にするのは初めてだが、余りクセのないマイルドな日本酒といった風味で悪くない。ボクは女から勧められるままに盃を重ね、膳の料理に舌鼓を打つうち、だんだん上機嫌になってきた。高地ゆえの低い気圧も酩酊を早めた一因かも知れない。
すると、胡坐をかいたボクの膝に手を這わせる感触があり、ボクはハッとして女の方を見た。
何かを訴えかけるような双眸が熱く見つめている。紅く濡れた唇が微かに開かれ、甘い吐息がボクの頬を撫ぜた。この世の者とは思えないほど美しい……。
彼女はボクの手を取り、いざなうように立ち上がらせると、背後の木の襖を開けた。そこは寝室で、すでに二人分の布団が敷かれている。
あとは流れのままボクらは貪るように愛し合った。枕元の行灯の明かりが、ときおり揺れた――。
朝靄の中、一歩いっぽ足元に注意しながら石段を降りてゆくと、やがて粗末な木の鳥居が見えてくる。鳥居の前面に掛け渡されていた注連縄の片側は切れてぶら下がっているのが、裏側からでもわかる。
その小さな鳥居をくぐって山道に出ると、ここでようやく足を止めた。顔を上げて眼前の景色に目をやれば、徐々に薄らいできた朝靄を通し、折り重なるような山々のシルエットが浮かび上がっている。
そして後ろを振り返ると、たったいまくだってきたばかりの石段も、粗末な木の鳥居も消え去り、その痕跡すら認められない。
再び山々の景色に目を向けた彼女の顔は微笑んでいた。身を包んだ男物の服はダブダブで、ズボンの裾やシャツの袖が折り返されている。
一息ついて下山を再開した彼女は、もう後ろを振り返ることはなかった。
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