益体もない話
何のために生まれて、何をして生きるのかを考えていたら、わからないまま11月が終わっていた。
こんなのはいやだ。
僕が毎日考えているのはそんな難しいことではなく、もっと平易で益体のないことだ。
例えば。
もしアサリを毎日摂取したらそのうち胃袋が砂でパンパンに膨れて人間アサリになってしまうのではとか、なろうエッセイはどうしてあんなに愉快なのかとか、とりとめのない思考が脳内を巡っては消えていく。
そんな感じに一日を消費する。
一日に100個物事を考えたらその内の98個は残滓すらなく失せる。
一時間前に何を考えたか覚えているか。一日前の同時刻に何をしたか覚えているか。
三日前は。 一週間前は。
一ヶ月前は。
恐らくほとんど記憶してない。
これでは、何も考えていない、何も覚えていないのと同じではないか。
一日の大半が白痴。
そういう意味で人格は存在しない。(少なくとも僕に関しては)
僕という人格を保証するものはなく、人格の礎となる記憶を約束するものもない。
確かな足場もないのに人格を盲信できるその根拠は何処にある?
自我という幻想は人間に何の解答も与えない。
あるいは檻に例えられる。肉体という檻に囲まれた空虚な檻。
鬱だ。死のう。
……気落ちしてくるのでこの話はやめます。
代わりにアンパンマンの話をします。
つまり、正義の話です。 正義とは云々、悪とは云々。みんな大好きな話題。食傷気味。やったね。
ではタイトル回収。いきます……
『正義の反対は別の正義』とは、巷でよく聞く使い古されたフレーズだ。
これは確かに正しい。
互いの主張が対立し、もはや妥協し得ない状況になったとき、主張は正義に変わり、争い、一方を淘汰するからだ。(狭義の正義の解釈)
しかし、本当にそうなのだろうか? (←評論でお決まりのパターン。使ってみたかった)
『正義』とは言い換えてしまえば『主観的正しさ』だ。そして常に、主観は争いを生む。
率直に言って、正義とは悪ではないのか? (n番煎じ、矛盾な主張する俺カッコイイ)
『悪』という表現は正確ではない。
『諸闘争の根源』といった方がしっくりくる。
正義が存在するから人は争い傷付き、不均衡が生まれる。
勘違いしないでほしいが、僕は別に争いを否定しているわけではない。
生き物は戦わずして生きることはできない。
僕らは、ママの胎内にいるときから既に競争を運命付けられている……!
……とにかく、僕が言いたいことを纏めると。
『正義』は『主観的正しさ』でしかない。
だから、正義は誇るべき代物ではない。
正義とは、寝る食う交尾するといった生き物の欲求の一つでは?
それを人間が神聖化しただけでは? だから正義を突きつけられても「お前の中ではそうなんだろう、お前の中ではな」って思えば良い。
逆もまたしかり。己が正義をかざしても、正義に酔いしれてはいけない。「僕はこう思う」ってだけでしかないのだから。
結局のところ。
大切なのは、主張が正義に変質する前の相互理解ではないでしょうか。
僕の正義はこれで終わりです。
もしここまで読んでくれたら、ありがとうございます。嬉しいです。すごく。
糞の掃き溜めで糞を曝し合い塗り合うなろうエッセイストデビューを果たしました。
まるで見世物小屋ですね。