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 部屋を飛び出すと同時に、イルが私と並んだ。

 部屋の中に入っては来なかったものの、扉の前で聞き耳を立てていたのだろう。

 何があったのだと不思議そうな顔をしているところを見ると、覗き見はしていなかったようだ。


「イル、テウが飛び降りたの!」

「はい!?」

「清族のだれでもいいから、呼んできて! バルコニーの真下に……!」

「俺、一応、貴女の護衛なんですけどね!? 今だけ、人命優先します。くれぐれも変な奴についていかないで下さいね!」


 壁を蹴って、イルが飛び上がる。屋上の梁を足場にして駿馬のように駆け去っていく。

 私も負けじと足を動かした。

 足に絡みつくスカートをさばいて、廊下を走る。すれ違う人に変な目で観られようとかまうものか。

 つるりと滑る大理石の手すりにつかまり、階段を駆け下りる。

 人を押しのけて、二階まで降りると、一階の様子が異様だと気がついた。大勢の人が群がっている。

 熱気を帯びた人々の吐息が落ちる。甘ったるい香水の臭いに、吐き気がしそうだ。

 ――あの女!

 先日来たばかりなのに、懲りずにまた来たらしかった。

 喉の奥に、さっき食べた羊肉がせりあがってくる。

 どうして、こんな大切な時に来るんだ!

 テウのもとに行くには正面玄関を出て校舎の外周を走った方が早い。中庭を通る道もあるが、あそこは入り組んでいて、迷う可能性がある。

 だが、正面玄関から行くにはあの女と鉢合わせしなくてはならない。

 百合の花と円環のタイルのデザインを手すりに寄り掛かりながら見つめる。階下にあの女の靴が見えた。


「サガル!」


 サガルを呼ぶ歓喜に満ちた声は蜂蜜のように甘い。


「寂しかったわ」


 ぞっと鳥肌が立った。舌なめずりをする獣が目の前に現れた。

 最後の階段をゆっくりと降りる。目の前には修道者のような白い服を着たサガルがあの女の目の前に立っていた。まるで、生贄の羊のように無防備に、あの女を見つめている。

 白い腕がサガルの頬に伸びて、触れた。


「母上」


 サガルの声が揺れた。その声も、周りの人間達の歓声や悲鳴にすぐにかき消される。

 正体不明の痛みが体に走った。

 蕩けるように美しいあの女の顔が、悪魔にしか見えない。

 誰であろうと手にかける残虐な生き物だ。

 もう、こうなれば、自分の思考とは別のところの反応だった。理性は死んだ。感情が暴走した。考えもなく、後ろから走り寄って、サガルの手を掴んでいた。

 情けないことに、膝はがくがくしているし、今にも泣きだしてしまいそうだった。


「サガル、逃げましょう」

「カルディア?」


 サガルが、私を瞳いっぱいに映している。サガルの瞳に映る自分を見て、初めて自分をよくやったと褒めたくなった。

 あの女の隣をすり抜けて、玄関の扉を開く。

 抜けるような青空に、目が眩む。後ろから、制止する声が聞こえる。あの女の悲鳴のような怨嗟の声も聞こえた。

 なにもかもを無視して、サガルの腕を引っ張った。今、私が気にするのは一つだけだ。


「兄様、肌は痛くない?」

「うん」

「ならよかった」


 うんと鼻声交じりで、サガルが頷いた。


「私ね、サガル兄様とこうやって青空の下を走ってみたかったの」


 大勢の人間の声が、サガルの笑い声にかき消された。




 しばらく走り続けると疲れたのか、サガルが足を止めた。私もそれに合わせて足を止める。

 今頃になって、事情も聞かずに連れ去ったことを後悔し始めていた。私が勝手な真似をしたせいで、サガルが窮地に陥らないだろうか。

 おずおずと覗き見るとサガルは青空を見上げていた。

 初めて、青い空を見たと言わんばかりに、食い入るような視線を向けている。


「こんなに簡単なことだったんだ」

「サガル?」


 眩しそうに眼を細めながらサガルが私へ視線を移す。


「こんなことなのに、誰も助けてはくれなかったのか」


 繋いだままの手を強く握りしめる。サガルの顔は綺麗なのに泣きそうだと思った。


「ありがとう、カルディア」

「そういってもらえるなら、嬉しい。……あのね、サガル、こんな時に、申し訳ないんだけど、まだ歩ける?」

「どうしたの?」

「テウが自殺を図ったの」


 信じられないと言わんばかりに驚愕の表情を浮かべた。サガルも、テウがそんな行動をとるなんて思いもしなかったのだろう。


「すでにイルが――護衛役が清族を呼んでいると思うけれど、目の前で落ちたから、どうしても私も確認したくって」

「分かった。急ごう」


 サガルが息を整えて私に走るように促した。



 玄関に人が集まっているせいか、テウを見つけた人間はほとんどいない。イルが連れてきた清族が必死にテウを運び出そうとしていた。その中には、トーマの姿もある。

 私の姿を認めると、イルはそそくさと近寄ってきた。手を繋いでいるサガルに気がつくと、困った様子で眉を下げる。


「かしこみ申し上げますよ、姫。今、テウ様をトーマ様にお頼みして運んでもらっています」


 気安さはあまり抜けないが、イルなりに慇懃であるつもりらしい。サガルの前だから、かしこまるつもりのようだ。


「テウの容態は?」


 一歩進み出て、サガルがイルへ尋ねた。

 イルは眼鏡を上げ強張った表情のまま口を開く。


「覚悟はした方がよいとのことです。生存できても後遺症は残る可能性があるそうです」

「……そうか。バロック家に使いを出さないといけないな。カルディア、お前はどうするの?」

「トーマ」


 他の清族にテウを運ばせていたトーマの意識がこちらを向く。

 私は、なるべく平然を努めて口を開く。


「付き添いたいわ」

「邪魔だ」

「目の前で落ちたの。止められなかった。側にいさせて欲しい」

「……勝手にしろ。こんだけの高さから落ちたんだ。生きてる方が不思議だ。全身打撲、脳挫傷、頭から血が出てやがったから、縫わなきゃいけねえし、足の骨は砕けてやがった。助けられなくても、ごちゃごちゃ文句言うんじゃねえぞ。予後不良も考えとけ」

「予後不良って、なに」

「後遺症が残る可能性があるってことだ。運動機能障害、失語、視力障害。下半身麻痺。最悪、死ぬケースもある」

「……それでも、ついていたい」


 トーマは振り返らず、歩き出した。その後ろをついていく。サガルは繋いでいる手を強くつかんでくれた。途中、血がついた地面を踏んだ。近くに、テウの眼鏡が落ちていた。それを拾って、一緒に持っていく。


「姫、俺はギスラン様に報告したらすぐに御身の前に戻るので、それまで攫われないで下さいよ!」



 清族の棟にある一室で、縫合手術は行われた。一室の隣でテウの無事を祈る。聖句を唱えながら、女神に懇願する。こういう時、無意識に女神カルディアを奉ってしまうのは、長年の癖のせいだ。助かるのかは医者の腕とテウ次第だ。そこに女神への信仰は関係ない。祈ることしかできない、というのはある意味諦めに近い。何もできない無力さを祈りで誤魔化している。

 神はここから生まれたのかもしれない。無念や憤りのはけ口として、人間より上の存在に怒りをぶつけるために。もともと、神は人にとって都合がいいものではなかったのではないか。死に神も、人間が勝手に押し付けたと苦労していると言っていた。

 ――テウ。

 あいつは贖罪のつもりで私の目の前から飛び降りたつもりだろうが、とんでもない。あれでは、ますます許せなくなってしまった。

 だいたい、謝るなら、ギスランにするべきだ。私ではなく。

 それに、家族になりたかった人達に名前を呼んで欲しかったという言葉が遺言では空しすぎる。

 生きて。生きて。


 数時間にも及ぶ長い静寂が、破られる。

 扉が開き、清族の男が大きくため息を吐きだす。私とサガルを見ると軽く会釈して、成功しましたと告げた。どっと安堵と喜びが胸に溢れる。

 今良くても、死ぬ可能性があるとトーマは言っていた。だから、喜んでばかりはいられない。でも、今は素直にテウの生存が嬉しかった。


「よかった」


 サガルの疲労の濃い顔にも、悦びが射しこむ。私が祈っている間中、サガルも同じように祈ってくれていた。


「少し、カルディアも休んだ方がいいよ。今まで、ずっと祈り続けていたのだから」

「……そうね」


 サガルに促されたので、絨毯の上から立ち上がり、椅子に腰かける。ずっと、膝を立てて祈りをささげていたせいで、腰から足首が痺れていた。


「付き合ってくれて、ありがとう、サガル」

「気にしないで。僕が一緒に居たくて居ただけだから」


 隣に腰かけたサガルは大きくあくびをした。


「あー、変なところ見せちゃったね。この頃、よく眠れていなくって」

「疲れているなら、休んだ方がいいもの……」

「そういってもらえると嬉しい。膝を貸してくれる?」


 サガルの頭が私の膝の上に乗る。

 金が溶けたような美しい髪に指を通す。つい、視線がサガルの首元に行ってしまう。赤みは和らいでいるものの、やはり跡は残っていた。


「ねえ、サガル。私は母様に童話を読んでいただいたことがあるわよね?」


 じっとりと水気を含んだ瞳でなぜと見つめられる。

 テウの話を聞いていて、分からなくなった。私の記憶が正しいのか、間違っていたのか。心を守るために、なにか重要なことを書き換えていないのか。


「――あるよ。僕も一緒にいただろう?」

「そ、そうよね。サガルも一緒にいた。どうして忘れていたのかしら……」


 言いながらも、違和感は拭えない。本当のことだとは思えなかった。


「昔のことだからね。覚えていなくとも、無理はない」


 碧い瞳が隠れてしまった。目を閉じてしまうと、途端に心細くなってしまう。

 自分がいなくなってしまうような恐怖が迫ってくる。


「サガル」


 怖くて名前を呼ぶ。もう一度、目を開いて私を見てくれないだろうか。


「なあに、カルディア」


 サガルは閉じたまま微睡むような声で私の名前を呼んだ。自分の浅はかさに赤面し、泣きたくなる。サガルの邪魔をしてはいけない。


「……ううん、なんでもないわ。お休みなさい」

「うん、お休み、カルディア」


 数分も立たずに、サガルの寝息が聞こえてきた。だいぶ疲れていたらしい。唇にかかる髪の毛を払いのける。

 規則正しい寝息につられて、私も眠気が襲ってきた。こくりこくりと船をこぐ。

 意識が真っ白になる直前。太ももから重さが抜け、生温かい何かが唇に触れた、気がした。



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