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 夢を見た。

 視界は真っ赤に染まっていた。襲い掛かる火の粉に、私は立ち尽くしていた。

 幼い頃、私は火事に遭ったことがある。王都から離れた別邸に居た頃の話だ。

 母が死んで、父王は私をあからさまに王都から遠ざけた。別邸は、昔、父王が母のために作った場所だったという。湖が近くにある優雅な邸宅。内装は華美過ぎず、質素すぎず、実用的なものばかりだった。すぐに二人で住めるようにと用意されていた。

 そこで一年間過ごした。二度、毒殺されかけた。二度とも奇跡的に助かった。

 でもそれ以来、侍女が持ってくる食事が喉を通らなくなった。口の中に入れてもすぐに戻してしまう。

 食事中にこそこそと覗き込む侍女達の声が、夜な夜な聞こえてくる。

 はやく死んでくれないか。そうすればあの幻惑の王都に戻れるのに。あんな姫を生かしていてなんの意味があるの。どうしてあの毒で死ななかったの。もういっそこの手で殺してしまいたい。

 怖くて、怖くてたまらなかった。夜は寝る時間ではなかった。侍女達の怨念のこもった声を聴く時間だった。私は彼女達に迷惑をかけている。死なないことで、不利益を出している。

 今度こそ、死んであげよう。そうすれば彼女達は嬉しいんだ。それでも料理を口にしたら吐いてしまう。死んであげられない自分が不甲斐なかった。スープをすくう手が震え、胃液が喉を飛び越えて口のなかにたまる。

 侍女達の声に夜な夜な耳を澄ませる。今度はいつ毒を仕込むんだろう。次こそはきちんと死んであげなくては。

 でも、その次はこなかった。焦れた侍女の一人が、屋敷に火をつけたからだ。

 誰も私を助けに来なかった。当然だ、死んでほしくて火をつけたのだから。

 侍女達の話を聞いていた私は寝ていなかった。火の手が上がり逃げようとしたら、もうすでに階段は火だるまになっていた。部屋に引き返しても、どうしようもなかった。迫りくる炎は勢いを増している。絨毯も机も本もすべて炎に飲まれてしまった。煙が部屋のなかに充満している。火の粉は煙のなかでぱちぱちと火花を散らしていた。

 私の部屋は三階にあり、逃げる先はバルコニーだけだ。だが、そこに出ても何も変わらない。後ろは炎に呑まれている。

 バルコニーから飛び降りたら、首の骨が折れて死ぬかもしれない。そうでなくとも、地面に叩きつけられた衝撃で死ぬかもしれない。

 夜空に金泥のような火の粉が広がる。背中が熱くて、笑ってしまうほど痛い。炎の舌が這い寄って、私を舐めとろうとしていた。

 勢いをつけてバルコニーから飛び降りる。

 風の抵抗はあまり感じなかった。

 はやく死んでくれないか。その言葉を一心に、地面に落ちた。


 地面に叩きつけられ、体全体が痛む。頭が揺れた。でも、意識はまだあった。うまく死ねなかった。

 このままこうして寝ていれば、侍女の一人が私を殺してくれるかもしれない。


 ――ああ、嫌だ。


 肺が圧迫されるように痛む。口の中は血と土の味がする。

 死にたくない。

 熱いのは嫌だ。

 痛いのは嫌だ。

 辛いのは嫌だ。

 のたうち回る激痛も、吐きたくなるような気持ち悪さも嫌だ。

 殺されるのは本当は嫌だった。

 誰かに殺されたくない。ずるずると体を引き摺る。地面に爪を立てて、気力だけで前に進む。

 こんなところで死んでたまるか。どうして、私が死ななくてはいけないんだ。

 毒殺されかけて、私がどうして申し訳なく感じなくちゃいけない?

 どうして、死んでしまえと呪いをかけられて、死ななくてはと思わなくちゃいけないの。

 花壇の上に這いあがり、花をちぎりながら前進する。どこに行ったら助かるだろうか。生き残れるだろうか。生きたい。ずっとこんな痛みを伴うのだとしても生きていたい。


「ギスラン」


 この痛みが去って治ったら、まずあいつの顔が見たい。泣き虫なギスランの髪をぐちゃぐちゃにして、唖然とするあいつの顔を見て笑いたい。

 なんだ、死ぬことを考えるより、そっちの方を考える方がずっと楽しくていい。

 自分を呪う夜はもう終わりにしたい。生きてもいいのだと、少しでもいいから思いたい。死ねと他人に願われても、生きてやると力強く返したい。

 優しい希望が欲しい。

 もう、死んでしまえと自分に呪いをかけるのは嫌だ。


「カルディア姫!」


 誰かが私に駆け寄って、体を抱きかかえてくれた。

 宝石が、顔の上に落ちる。くずぐすと子供のような泣き顔をしているのに、こぼれる涙は綺麗なものに変わる。それを嫌がるのに、いつも私の前だと泣き虫になってしまう。

 私がいなくなったら、こいつは誰の前で泣くのだろう。


「生きたい」


 生きたいとこんな地獄のような現実で思ってしまった。






 ぴちゃりという水音を聞きながら目を開ける。

 不愉快な夢を見た。消してしまいたい過去を思い出させる。でも、瞬きするうちにどんな夢を見ていたのかさえ忘れていく。苦痛は早く忘却してしまうに限る。


「お目覚めですか、カルディア姫」


 私の首に腕を回し、枕のようにして支えていたのはギスランだった。安堵の表情を浮かべている。

 見惚れそうになって、はてとギスランの姿を見て思考が止まった。


「な、な、ななんて格好してるのよ!」


 ギスランは半裸だった。鍛え割れた腹筋、細いが筋肉のついた腕が晒されている。いつもは鎖骨以外見ることがない首の下がむき出しになっている。


「う、うううっ、これは夢。これは夢」

「顔が太陽のように真っ赤です。可愛らしくて、口付けしたくなります」

「私の頭を殴って記憶を飛ばす! こ、こんな、破廉恥な」


 ばたばたと腕を振り回し、水を叩いた。

 ん、水を叩くって、どういうことだ?

 周りをよくよく見てみると、私はいつの間には大浴場に浸かっていた。生ぬるい水温が心地よい。

 だが、その心地よさが問題だった。私は布一枚しか羽織っていなかった。しかもその布も水で濡れて、肌に張り付いて透けている。

 昇天しかけた。自分の恰好が淫ら過ぎて、頭がついていけない。


「わ、私が、こんな、淫猥な格好を……婚前交渉? い、いや、やはり夢。夢に違いない」

「はわはわわたわたしていらっしゃるカルディア姫も可愛らしいのですね。このまま既成事実があったことにしてしまうのも手か」

「恐ろしい言葉が聞こえたわ! これはどういうことなの?!」

「カルディア姫ったらおひどい。ギスランと過ごしたあの甘い夜をお忘れになるなんて」


 子犬のように潤んだ瞳を向けられる。演技だとしても質が悪い。信じられない男だな!?


「お前のそういうところ、私本当に嫌なのだけど!?」

「私とカルディア姫が真の意味で赤い糸で結ばれた日のことをお忘れに? ……悲しくて、泣いてしまいそう。そんなに下手でした? これでも得手であると自負していたのですが」

「なんの話をしているの!? いえ、言わなくとも構わない! 口を開かないで!」

「性技の話です。それなりに修羅場を越えてきたつもりですが、もっと磨く必要があるようですね」

「あー、あー! 私はなにも聞いていない! なにも聞こえなかったわ!」


 ぬるい顔をしてギスランが笑った。こういう話はあまり得意ではない。慣れているギスランの口からそういう話を聞くと生々しさを感じる。肉体の感触が頭に残るのが嫌だ。あの女の甘い臭いが鼻先で香るような……。


「そんなに慌てるのはいいのですが、この状況の方が淫靡では? その……カルディア姫の玉のような肌がよく見えるのですが」


 意識すると耳のあたりが熱くなる。とっさに胸を隠して丸くなる。


「顔、逸らしなさいよ」

「目を瞑った方がよろしい?」

「ええ、瞑っていて」


 はいと素直にギスランは目を閉じた。

 半裸の男が、目の前で目を閉じているという光景、きっと人生で何度も経験する機会はないと思う。ないよな……?


「思い出した。あの女を見て倒れたのよね」

「はい。意識のない状態で嘔吐しようとしたようで、吐瀉物が喉にひっかかり呼吸困難になっていました。かけつけた清族が対処しましたが、その時にドレスが汚れてしまったので今、体を清めています」

「……また気絶をしてしまったのね。自分の体ながら情けない。それで、なぜお前もいっしょに……」

「私もカルディア姫の体に触れましたので。二人で入る方が手間をかけずよかろうと思いまして。一緒に入っています」


 別に二人で入る必要はないはずだ。

 おそらくギスランは私に配慮して、この状況を作り出した部分もあるのだろう。

 起きた時に見知らぬ侍女に世話をやかれているという事態は混乱の原因になりえる。もしかしたら、そのことが心理的に負荷になり、同じように気絶する可能性もある。

 ありがとうと感謝を述べるべきか迷うところだ。完全な善意からの申し出だったとしたら、素直に感謝できるが、やりたかったからやったと臆面もなく言える男なんだよな。

 たまに見せる純情な部分をいつも出していればいいのに、普段は欲深い男であるという事実が、私からの純粋な感謝の気持ちに歯止めをかける。

 悩んだのち、髪の毛をくしゃくしゃにすることにした。浴槽に浸かっているというのに髪を結んだまま入るこいつが悪い。

 されるがままになっているギスランは猫のように目を細めて気持ちよさそうにまどろんでいた。




「それで、あの女はいったい何をしに来たの?」


 浴場から上がり、服を着替えたのち、自室に戻った。リュウは相変わらずどこかに行っていていなかったが、イルは戻ってきていた。ギスランが指示すると空気に溶けるように消えてしまったが。消える寸前、私の髪を見て青ざめていた。そういえば、髪を短くしたのだったか。変な誤解をさせてしまったかもしれない。

 ギスランはソファーに腰かけると、手を広げてきた。

 ギスランの膝の上に座れということらしい。馬鹿か! そんな頭のわいたことできるわけない!

 そっとギスランの隣に座ると不服そうな顔をされた。


「サガル様に定期的に会いに来られるようです」

「サガルに? あの女の考えることはよく分からないわ。父王様のご機嫌取りをしていればいいのに」

「陛下のご寵愛を失って久しいですからね。近くに侍るだけ、疎まれるのではないでしょうか」


 次は自分の息子に媚を売ることにしたのか。生真面目に応えるギスランにそう毒吐きたくなる。

 こんな醜い感情捨ててしまいたい。


「……よく、来るのかしら」

「学校に来られるのは稀だと聞きました」

「でも、来るのね」


 爪を噛みそうになった。苛立たしいことだ。あんな女いなければいい。顔も合わせたくない。

 私はあの女の姿を見ると、拒絶反応を起こして気分が悪くなってしまう。今回のように倒れることもしばしばある。目の前で母親を殺された事実が、無意識に私を苛んでいるようだ。


「……この学校を出て行ってしまいましょうか」

「いきなり、どうしたのよ」

「カルディア姫の御心を煩わせることが続いているようですので。王都から離れてはいかがでしょうか」

「避暑には早すぎるわ」

「避暑ではなく、私の屋敷に」


 ギスランはお湯から上がったばかりだ。湯気を纏いながら、淡々と口にする。


「お前の屋敷は王都にあるでしょう」

「あれは持っているうちの一つに過ぎません。他の領地にいくらでもあります」


 貴族だからと言ってもそう何箇所も屋敷を持っているわけではない。購入費も維持費もかかる。ギスランはいまだ爵位を継いではいないし、お金を自由に動かせる立場でもない。

 それなのに、金が途切れない。

 ギスランの涙は宝石だ。

 いつでも高く売り捌くことが出来る。

 涙は血なのだという。ギスランの血が金になっているのかと思うとやるせない。


「いつかカルディア姫と逃避行する時に使うと思い、他国にもいくつか用意しています」

「お前との婚約には逃避行が必要不可欠なの?」

「いいえ。ですが、備えていれば憂いはないかと思いまして」

「……祝福されるものがいいのだけど」

「はい?」


 私は何を言っているんだ。


「な、なんでもない!」

「祝福されるものがよいと、たしかに」


 言い淀んだのに、懊悩しながら自分の考えを口にする。口がからからで声が掠れた。


「お前との婚約よ。逃避行が必要なほど疎まれるものではなく、祝福されるものがいいと、そう思っただけ」

「いけ好かない聖職者どもを何百と跪かせ祝賀の歌を歌わせます。貴族達が異を唱えるなら、叩き潰して差し上げる」


 嬉々としてギスランが宣誓した。

 両手で手を握られる。


「カルディア姫のためならばなんでもして差し上げると言ったのは偽りではありません。私に任せてくだされば、何もかも叶えて差し上げます。――王妃の弑虐もやぶさかではありません」

「何を言っているの、お前!?」


 いくら父王様だってあの女を殺せば体面の問題で動かざるをえない。そうなれば、ギスランは処刑されてしまうかもしれない。

 王族を殺すことはいなかる貴族であっても極刑に処される。

 百年ほど昔、王に先に死なれた王妃がいた。彼女は心を病み、殺して欲しいと誰彼構わず頼んだのだという。一人の徳が高い高潔な貴族が、かわいそうだと同情して、刃でその首をはねた。その後、その貴族は一族もろとも粛清された。彼らの躯は土に埋められ、今なお罪人として恥辱を受けることになった。恩赦すら許されず、減刑もなかった。それぐらい、この国では王族を殺すことは禁忌とされている。もともと、階級意識の強い国だし、三百年前の記憶が今なお生々しく残っているのだ。

 軽々しく放っていい言葉じゃない。


「望まれることはすべてかなえて差し上げたいのです」


 叶えばならないと自己暗示をかけているような断定ぶりだった。

 焦燥感に襲われる。ギスランの私になんでもしてあげたいと思う衝動はどこからやってきるのだろう。


「愛とはそういうもの?」

「はい。少なくとも、私にとっては」


 否定することはギスランを傷つけることになるかもしれない。


「……殺さなくてもいい。殺し、殺されるなんて自分の人生だけで充分よ。それに、あの女の死体を見て、倒れる自信がある。せっかくお前が殺したのに、胸のよどみが晴れないなんて本末転倒じゃない」

「カルディア姫がお嫌でしたら、そうすることにします」


 上手く説得した気がしない。なんであんなに過激な言い方をして納得させようとしたんだ、私!


「なんの話をしていたか、忘れてしまったわ……」

「姫が私の屋敷に住むと決断されましたよ」

「そういう話ではなかったことだけは覚えているわ。……まあ、でも、今年の避暑地はお前のところに行くのもいいかもしれないわね」

「本当ですか? 夏もご一緒できるのですね」

「今でもほとんど一緒に過ごしているじゃない。お前、どこに別荘を持っているの?」


 ギスランが挙げた領地は指で足りないほど多かった。そのなかには避暑地として有名な土地も多い。温泉地もあった。娯楽とは程遠い場所もあった。


「ブラッドって、確か、草も生えない無法の地だったわよね。なんだって、そんなところに屋敷を建てたのよ」

「カルディア姫の視線を奪うものがないのはとても心地よいだろうと思いまして」

「お前の妬心が私には分からない……」


 ギスランにじっと見つめられて、困った。羞恥心を隠すためにギスランの顔ごと、ぐちゃぐちゃに揉んでみる。顔を真っ赤しながらギスランが嫌がった。


「せっかく綺麗に整えましたのに」


 髪の毛が絡まって、額や頬に銀色の髪が蜘蛛の巣のように垂れさがっている。

 上気した頬と紅く染まった目元が艶めかしかった。ごくりと喉を飲んでしまう。


「わ、私が意地悪するのはいや?」

「カルディア姫!」


 ギスランが私を抱き上げた。


「意地悪して欲しいです。でも、ギスランのことを弄んだのですから、カルディア姫を弄んでよろしいですよね?」

「え?」

「とりあえず、無断でギスランに内緒で美しい髪の毛を切ったことへの罰を与えることにします」

「私の髪よ?! お前に許可なんか必要ないでしょう!」

「うるさい、黙って罰せられること」


 ギスランの唇が近付いてくる。意地悪そうな瞳が近付いてきた。触れ合った唇の湿った感覚が生々しくて、気持ちが良かった。


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