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 死んだことになっていた大四公爵の一人。軍人であり、天才画家とも言われていた教養深い男。

 褐色の肌を月光に照らせば透けてしまいそうな薄水色の長い髪。老練とした瞳の奥に、息を飲むほどの熱がこもっていた。


「お前、なんでこんなところに……」

「花が見たくなってしまったのでね。そういう姫も花見かい?」

「ええ、急に花が見たくなってしまって。見とれるほど、美しいから」

「お母上とは違うのだね。あの子は花と見れば染物や食糧のことを考えていた」


 母のことを話題にされたのははじめてだった。

 郷愁を込めた顔で、ザルゴ公爵は私を見た。


「花を美とは捉えなかった。なんというか、実用的な考え方をしていてね。おれには夢も希望もなく、風情もないように思われたが、陛下にはそれが美しく思えたらしい」

「――母のことが嫌いだったの?」

「いいや。だが、苦手ではあったね。あの子はおれの好きな人を疎んでいたから」


 母はザルゴ公爵のことが好きだった。ザルゴ公爵は王妃のことが好きだった。そして王妃は自分を顧みない父王を慕っていた。

 だれも救われない好意の連鎖。

 ザルゴ公爵は好きな人を疎んでいたからだと言った。ならば、王妃と私の母は憎み合う関係だったということか。

 殺してしまうほどに。


「母は王妃のことを嫌っていたの?」

「ん? 王妃? ああ、そうか、噂ではおれは彼女に懸想しているのだったか」

「違うの?」


 ザルゴ公爵は言葉を探すように王都の街並みに消えていく太陽を見つめた。


「違うよ。おれが好きな人はすでに亡くなっているんだ。とても前にね。死ぬ前に、また会おうと約束した。おかしなことだろう? 死ぬ前に彼女は今度こそ私を助けてといったんだ」


 死ぬ前に次の生を想定して語ったザルゴ公爵の想い人、か。

 おかしなことだろうと言ったザルゴ公爵は笑わない。残された言葉のせいで、心が錆びついてしまったように、怖いほど表情は変わらなかった。


「王妃はおれの好きな人と似ていてね。もしかしたら、彼女こそ、生まれ変わりなのではないかと盲信していた時期もあった」

「顔が綺麗だったの? その人は」

「いいや。普通だよ。驚くほど普通だった。でも、美しさも、醜さも、移ろうものだよ、姫。おれは彼女を愛していた。きっと大切なのはそれだけさ」


 愛していたと語るザルゴ公爵は、やはり無表情のままだった。

 その無機物さに困惑する。普通の人間ならば、愛おしいものについて語るときもっと熱を放つはずだ。

 ザルゴ公爵からはそれが感じられない。氷のなかに熱を閉じ込めてしまっている。

 ザルゴ公爵自身が、理解されたくないと思っているかのようだった。


「姫のお母上は、おれのこの恋煩いに同情した。不毛だと何度も言われたよ。死人は蘇らない。あなたは今を生きていないとね。おれにはその説教が鬱陶しくて、邪険に扱ったものだ」

「……なんだか、想像が出来ないわ。そういう人だったのね」

「ああ、妙に正義感が強くて、意固地だった。冷めていて、現実主義者。なのに、おれのことが好きだと聞いた時は驚いた。散々おれのことを趣味が悪いと言っていたのにね」


 振り向いて欲しくてわざときつい物言いをしていたのではないだろうか。

 母の恋の話はどうも甘酸っぱくて聞いてむず痒い。


「なんていう名前なの、好きだった人は」

「……おれのことが気になるのかな? ませているのだねえ」

「そうではなくて。貴族の女なのでしょう? どの人だったのかと思って」

「貴族ではないよ」


 きっぱりと断言される。ということは平民か? それとも貧民?

 意外だ。身分違いの恋なんてしないように思えたのに。


「名前、か。はは、それがね、残念だけどもう覚えていないんだ。昔の、とても昔のことだから」

「ではどうやってその人ともう一度会う時に確認を取るのよ」

「二人の間でしか分からない魔法の暗号があるんだよ」


 煙に巻くような言い方。これでははぐらかされているのと同じだ。もしかして、好きな人というのは嘘なのではないかと疑ってしまう。

 というか、死んだことになっていたザルゴ公爵が生きているという状況もおかしいのに、彼から亡くなった母の話を聞くというのもおかしな話だ。


「日が暮れてしまう。夜はあまり好きではなくてね。夜目が利かないからかもしれない」


 唐突に、ザルゴ公爵はそうこぼした。視線を移動させると、確かに太陽は今、落日を迎えようとしていた。

 煉瓦造りの家々や教会の塔、煙が上がり続ける工場、公園。巨大な橋。すべてが夜に包まれていく。茜色の空は紺碧に変わり、やがて、その色を暗くしていく。


「それでも毎日、夜が訪れる。多くの時間を費やしても、まだ慣れない。一生、慣れはしないのかもしれない。理不尽なものだね。人の手ではどうにもならないというものは」

「それでも月は美しいわよ。欠けて、満ちて、そしてまた欠ける。それを繰り返すのに、人を惹きつける。だから私はそこまで夜が嫌いではないわ」

「まるで『月と貴族』のようだね。姫も貴族と同じような愚を犯すつもりかな」


 刺々しい物言いに瞠目する。

 まるで『月と貴族』に出てくる貴族を恨んでいるようだ。


「彼は愚を犯したの?」

「月に魅入られ、溺れ死んだ男だ。愚者としか言いようがない。おれならば、月ではなく、人を見た。現など抜かさなかった」

「――お前が好きだって人はお前のことを好きではなかったの?」


 今度はザルゴ公爵の方が瞠目した。すぐに表情を消したが、動揺は隠せなかった。


「なぜ分かったのかな?」

「どうしてかしら。なんとなくよ」

「女の勘というのはこれだから! 奇天烈なものだ。恋も愛も分かりはしない姫だとばかり思って侮っていたが、いつの間に手練手管を覚えたのだか」

「どうしてそういう言い方しかできないの? 殴られたいの?」


 こわやこわやと嘯きながら、ザルゴ公爵が吐息を落とす。


「二人、愛していた。だが、どちらもおれではなかった。おれもまた、彼女のふしだらさを厭うていたよ。春の花のようにあれは男を呼び込む。色香を放ち、男を誘う。淫売だとな。でも違った。それは真実ではなかった」


 そうして、酷く臆病そうに笑った。

 ザルゴ公爵が好きだった人の生まれ変わりだと王妃を指して言ったのは、その人が男を呼び込む魔性の女だったからなのかもしれない。


「目の前で泣かれ、くらりと落ちた。ああ、真に落ちたのだと思ったのだよ。恋は穴のようだった。手を伸ばしても、手元は崩れ崖になり登れはしない。おれは泣き顔を見たくないと思った。その時にはもう夢中だったよ」


 泣き顔。その言葉から、ギスランの顔が浮かんだ。かき消そうとしてもなぜか消えない。泣き顔を見たくないと私もあいつが泣いているといつも思うような……。

 う、うわぁと呻きそうになる。い、いや、その感情に他意はないはずだ。

 それでも顔にだんだんと熱が集まる。

 ザルゴ公爵の話に赤面しているのだ。無理矢理自分を納得させる。


「それでも相手に全くされなかったがね。死ぬときも、慰めるような声かけだった。あれを真面目に覚えて、待っているなど思いもよらないのだろうが」

「そ、そう」

「これは惚気ではないから、誤解しないで欲しい。いわゆる片思いと言うやつだから、すごく恥ずかしいな」


 それにしてはあまり恥ずかしがってないような気がする。

 むしろ私の方がどぎまぎしているぞ。


「日が落ちてしまったね」


 ザルゴ公爵の顔が一瞬、闇にのまれて見えなくなる。

 すぐに近くのランプが点灯し、褐色の肌を暖かく照らした。


「恋の話はここまでにしよう。姫もはやく中に入るといい。外は存外、冷えるからね」


 静かな声に頷いた。でもどうしてか、行かないでと引き止めたくもなった。



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