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 中性的な顔立ちであってもヴィクター・フォン・ロドリゲスは男だ。浮き立つ喉仏。骨格の形が男であることを如実に表している。だが、口にするのは女性の口調。中身と外見の乖離に戸惑う。

 というか、あの名高い科学者が、まさかこんな人物だったとは。彼がこの国にーーひいては世界にもたらした大きな功績からは想像もできなかった。

 音楽家のイヴァンを責める人間の気持ちが少しだけ理解できるような気がした。

 これは反則だ。想像していたヴィクター・フォン・ロドリゲスとは違い過ぎる。


「お会いできて本当に嬉しくてたまらないのよ、カルディア姫」

「え、ええ」


 素っ頓狂な応えを返す。私とトーマは彼の研究室を巡り、死者蘇生をしている証拠を突き止めようとしているのだ。髪が切れたあの罠もこの男が設置したことになる。

 狼狽を隠せない。私は隠密行動に向いていないのだろう。目が泳いでいるのが自分でも分かった。隣でパンを口に詰め込んでいたトーマがあきれ返って肘でつついてくる。


「ねえ、姫。貴女のことをはなおとめと呼んでいいかしら?」

「はなおとめ……?」


 ミミズクと死に神が私のことをそう呼んでいた。どうしてその名前で呼びたいのか。はなおとめというのは、なにか意味がある名称なのか。

 だが、その疑問は喧騒にかき乱されてしまった。ライが血を吐いて倒れ伏したのだ。

 あたりは騒然となった。長机にはライの血が飛び散っている。血の臭いが様々な料理の臭いと混じってむせそうな異臭を放つ。


「ああ、やはりライもか」

「妹が先月、では今月か?」

「いやいや、妖精が言うにはあと三か月は持つらしいぞ」

「三か月か。ではあれとあの事業は頓挫することになりそうか。いやはて、子供も作れなかった妹御がなにもかも悪いのか」

「いやいや、歳が悪かった。ライは十七だが、妹が十二では子供を作ろうにも難しい」

「ライの血は途絶える。惜しいことだ」


 ライが倒れているのをみて、あちらこちらでひそひそと声が上がる。

 血を吐いている人間が近くにいるとは思えないほど、冷酷な会話だった。まるで、もうすぐライが死ぬと言いたげだ。

 倒れこんだライが、腕を立てて起き上がろうとする。だが、体の力が上手くはいらないのか、こてんと顔から床に飛び込んだ。


「あはは、面目ないな。ごめんね、騒がせてしまった」


 口の端を血の泡で汚しながら、懸命にライが周りの清族に謝った。囁き声は途切れた。いちはやく近づいたヴィクターが手を差し出して、転がるライを力づくで起き上がらせる。


「痛み止めをあげましょうか?」

「いいよ。そこまで痛くない。それに、前から分かっていたことだから」

「そうね」


 膝が笑っているライは私に顔を向けて申し訳なさそうに顔を曇らせた。


「みっともない姿をお見せしてしまいました」

「大丈夫なの?」

「はい、これは持病のようなものですので、お気になさらず」

「血がたくさん出ているわ。休んだ方がいいんじゃないの?」

「――無駄にしている時間はありませんから」


 ライは毅然と言い放った。口から血を吐いたというのに、そんなことは些細なことだと言わんばかりだった。


「言ったでしょう、姫。僕は心が見たいんです。そのためにはたくさんたくさん頑張らなくては」


 熱がこもった声にはやり遂げてみせるという強い決意がある。だが、そこにはさっき感じたものとは異質の強迫観念のようなものが垣間見えた。

 まるで、心が分からなければ自分の人生に価値はないのだといいそうだった。


「天才ではない人間が結果を残すにはそれしかないんですから」


 ライはヴィクターに連れられ、食堂から去っていった。さっきのことなどなかったかのように、清族達は食事を再開している。トーマも元の席に戻ってバケツのスープを傾け始めた。


「……ああいうのはよくあるの?」


 周りの反応がおとなしかった。まるでああいう事態は珍しくないみたいな反応だった。


「ギスラン様は言ってねえのか」

「どういう意味?」

「別に、なんでもねえよ」


 さっきの血。嫌な予感がする。ギスランは、夜な夜な咳き込む音を出していた。


「それよりも、どうすんだ」

「ーーああ、髪のこと? そうね、自室でやったらイルが勘ぐってきそうだし、どこか別の場所に理髪師を呼んで切らせることにするわ」

「ん、じゃあ行くぞ」

「行くって……。こら、ちょっと、お前、私の話聞かなすぎよ!」


 トーマは相変わらず、私を置いて先に行ってしまう。俺様すぎて付いていけない。トーマは私を物理的に右往左往させるのが得意過ぎる。

 後ろから追い掛けて、杖を付きながら器用に歩くトーマに追いつく。


「お前ね!」

「さっさとしろ。じゃねえと太るぞ」

「う、うるさいわね! 早歩きになったところでそうそう体型は変わらないわよ!」

「まあ、あんたはもうちょっと太った方がいいけどな。痩せすぎ」


 言い合いながら、清族棟の最上階にたどり着いた。どうやら、トーマの部屋らしい。

 部屋のなかには電線が張り巡らされていた。作業場も兼ねているようで、工具がごろごろと転がっている。扉で区切られた隣の部屋に案内された。

 部屋の真ん中には大きな革張りのソファーが置かれ、その四方を本棚が埋め尽くしている。

 生活感をみじんも感じさせない本を読むためのスペースと言っても過言ではない書庫だが、トーマはいつもここで寝起きをしているようだ。


「ここに座ってろ。理髪師の準備をさせる」

「まさか、ここで髪を切れっていうの!?」

「ここだと掃除がしやすいだろ」


 数十分後、いつも髪を整えてくれる理髪師の女性が来てくれた。本棚ばかり並ぶ部屋に最初はあっけにとられたようだが、すぐに私の髪が乱雑な切り方になっているのに悲鳴をあげて、鋏と櫛を準備し、さっそく仕事に専念し始める。

 霧吹きで髪を湿らせ、櫛をいれて結び目や癖を直していく。人に髪を触られると嫌な気分になる。頭がぐらぐらと揺れるような、肩の力が入り過ぎて固まるような、独特の嫌悪感だ。

 椅子に座ってむずむずと頭を揺らす。そのたびにやんわりと頭の位置を直される。

 落ち着かない気持ちになる。緊張をほぐすためにも、目の前で本を読み漁るトーマに声をかけた。


「なにを読んでいるの?」

「魔術理論」


 本から目線を外さず、トーマは答えた。速読をしているのか、ページをめくる速度が尋常ではない。


「ここの本、ほとんどがそういう魔術関係の本?」

「まあな。あとは機械に関する本とか哲学書、歴史書、文学書。気になったやつはたいてい読むようにしてる」

「歴史書も読むのね」

「過去から学ぶのは当然のことだろ。過去を見なけりゃ、同じことを二度やる羽目になる。それは馬鹿のやることだ」


 もっともな正論をトーマから聞くと、どうしてか納得できない気持ちになる。反骨精神のせいか?


「そうだ、エヴァ・ロレンソンって誰か分かる?」


 死に神の眷属であったイヴァンがリストに向ってそう言っていたことを急に思い出した。あの時は、イヴァンがおかしくなった。今考えると即興にしては明瞭な説明だった。彼はたしか、革命派の死んだ人間だとリストを指して言っていた。

 本当にそんな人物が存在したのだろうか?

 私には分からないが、トーマなら知っているかもしれない。


「エヴァ・ロレンソン?」


 はたして、トーマは不可解な反応を示した。引っかかってはいるようだが、どこの誰かは思い浮かばないと言いたげな顔だ。


「なにした奴?」

「三百年前の革命派の人間だと思うのだけど」

「革命派、革命派。……分かんねえ、当時の資料はあんま残ってねえし」


 そういいながらも気になったのか、本棚に行き関連しそうな本を抜き出している。


「イヴァンが――お前が使役していた奴がある人を指してそう呼んだの」

「イヴァンと喋ったのか?」

「ええ、あの死に神の空間はどうしてかイヴァンの姿を見て話をすることができたの」

「イヴァンが、か」

「そういえば、そもそもトーマはなぜイヴァンを使役していたの?」


 本の頁をめくりながら、トーマは口を開いた。


「女神信仰だけでは、真実にはたどり着けないと思ったからだ」

「どういう意味?」

「昔、この世界にはもっと多くの神がいた。男神、女神、天帝、死に神以外にも、森の神や山の神や火の神がいたという文献がある。だが、そのどれもが、神の名前を残していない。女神カルディアだけが、神としての名を持っている」


 言われてみれば、女神カルディア以外に神の名前を知らない。正しくはこれと分かっている名前がないのだ。死に神も名前はあるが、候補がいくつもあってこれと正しいものがない。それが当たり前のことだと思っていたから、気が付かなかった。


「それはなぜかというのが俺の最初の疑問だ。どうして女神カルディアだけが、特別なのか。規則性があるのか、それともただ偶然、人間がその名前だけ覚えているのか。ライドル王国は特に階級制を重視してるだろ。そのため、女神カルディアの信仰も厚い。だが、他の国、例えば砂漠の方だと、男神信仰のほうが根強い。だがそれでも、現地の奴らは神の名前を知らなかった。なにが違うのか」

「理由は分かった?」

「いいや、全然だ。だが、知りたいと思った。だから、イヴァンを使役した。死に神の眷属を名乗るあいつと絡めば、糸口を見つけられると思ったからだ」

「でも、見つからなかったのよね」

「それ以上にやべえ話をいくつも手に入れたから、それはいい。俺は名前問題よりももっと上のことに興味があったしな」

「上のこと?」


 じょきんじょきんと軽快に鋏が私の髪を切って行く。


「次にこの世界を統治する神の話だ。眉唾だと思っていたが、死に神のところに行って現実味を帯びてきた」

「死に神もそんなことを言っていたような気がする。最期には、自分が支配者になるのだと。それって、どういう意味なのかしら。水に沈む、という最期にどうしてなってしまうの?」


 頭がだんだんと軽くなっていく。そのせいか、肩こりは少しだけ緩和されていた。


「これは仮説だが、神はなんらかの勝負をしてるんじゃねえの。例えば、信仰する人間の数やその国の興隆をかけて。敗者の神々はだんだんと人々の記憶から消されていく。今、誰でも知っている神と言えば、女神カルディア、男神、天帝、死に神ぐらいだ。残っているのは、その四柱しかいないのかもな」


 手持ちの本を入れ替え、トーマはまた、ページをめくっていく。


「でも、この仮説には無理がある」

「死に神が最後に残るということよね」

「冴えてるな。その通り、結果が分かっている賭けほどつまらないものはない。死に神の勝利で終わると決まっている勝負になんの愉悦がある? まあ、少なくとも、神が徐々にその数を減らしているということと、名前が残っているのは女神カルディアだけというのは間違いないんだがな」


 後ろにいる理髪師は何も言わない。仕事熱心に私の髪に櫛を通していた。


「トーマは、女神カルディアのことを信仰していないの?」

「してねえ」

「それはなぜ? 清族は基本的に信心深い者が多いのでしょう?」


 顎をつるりと撫でる。考えあぐねていると言うよりは癖のようだった。


「ヴィクター・フォン・ロドリゲスがなんでああも声が高いと思う?」

「声が高いままの男性だっているでしょう?」

「そうだが、あれは人工的なものだ。男性器を切り取ったんだからな」


 ん!? とんでもない言葉が出た。確かに、声の高さを保つため、合唱団の少年が男性器を切り取り、声の高さを保つ話はきいたことがある。

 だが、清族のヴィクターがそんなことをする必要はないはずだ。


「ヴィクターが信奉している天帝は嫉妬深く、恋した花をとられるのではないかと疑心を抱く。だから男の身のままではいれないんだとよ。幼い頃に切り落とした。清族にとって繁殖は責務――いや、生きる意味と同義だ。それを捨ててもいいと思えるほどの厚い信仰心を、俺は持ち合わせてはいない」


 天帝が嫉妬深い。そんな話、初めて聞いた。ミミズクはたまに天帝のことを語っていたが、いつも泣いているとしか言わなかった。そのせいか、泣き虫な印象が強い。

 強烈な信仰心だ。ヴィクターだけがそうなのだろうか。天帝の信派は少数とは言え存在するのだ。全員がそうだとは限らないだろう。

 だが、その問いかけへの答えは意外なものだった。


「天帝を信奉している本物のラサンドル派の奴らは、ほとんどヴィクターのように男性器を切り取ってやがる」

「本物のラサンドル派ってどういうこと?」

「人気者に群がる蠅どもがラサンドル派を名乗ってやがんだろ。ヴィクターと近づきたい、ヴィクターのようになりたい、そんな理由でな。本当の信者達は、天帝の声が聞こえる」

「それって、泣いている声が聞こえるってこと?」

「聞いたことがあるのか?」

「ミミズクが言っていたのよ。天帝様はいつも泣いているって」


 そうだととトーマは頷いた。


「ヴィクターが最初にきいたのは涙の音だった。そうしてだんだんとこぼれる嗚咽に混じって、天帝のかすれた声を聴いた。それだけで、頭がかき回されるような思いをしたという。毎日、泣く声が聞こえる。子供ながらに共感した。恋したものがこの世にいない。それは地獄だ。たまらなくなり、なんとか助けなくてはと決意したらしい」


 信仰心というよりは献身だ。同情心から、自分の体を傷つけ、忠誠を誓っている。まるで騎士だ。

 ヴィクターに近付きたい人間達は軽率にラサンドル派を名乗る。侮辱だと、ヴィクター達は考えないのだろうか?


「天帝はなにも望まない。ただ、泣くだけだ。それでも、ヴィクターは使命を感じたと言っていた。救う方法を考え、実行に移そうとしやがった」


 天帝は目標を定めない。ただ、救わなくてはという思いだけが先行する。なにをしていいか分からない。

 解決するのは難しい問題だ。泣き止ませたい。純朴な願いだ。


「――それが、死者蘇生に繋がる」

「花を蘇らせようと思ったの!? 亡くなった花を甦らせれば、泣く必要もない」

「察しがいいな。バカのくせに。その通りだ」


 バカという言葉はこの際無視だ。天帝のために死者蘇生の研究をしている。そう言われてしまえば、悪いことだとは一概に言えない気がする。これは甘い考えだろうか?

 いや、だが、死者蘇生は実現不可能だ。死に神は死んだら人は土に還ると言った。花も同じ様に、土に還っているのではないか。

 でも、死に神に会ったなんて、普通に考えれば気が違ってるとしか思われない。頭を抱える。一度関わったことだからと介入したくなっている。これは悪い癖だ。


「俺はそこまで出来ない。身も心も捧げるなんて真似はごめんだ。女神カルディアにはそこまで尽くせねえ」


 トーマは正直にそう吐き捨てた。

 偏屈で人の話を無視する男だけど、裏表のないきっぱりとした性格でもある。

 出来るものは出来る。出来ないものは出来ないと、産まれる前から結論が出ていたような潔さだった。


「……そう言われると私もそうなのかも。女神に祈りや聖歌を捧げるけれど、身も心もなんて言われたら嫌になってしまうかもしれない」

「人と神の距離は、適当に離れてた方がなにかといいもんだろ。――ん。エヴァ・ロレンソンについて書かれた箇所を見つけた」

「本当に?」


 近寄り本の中を覗き込みたいが、今は髪を切られている。やきもきしながら、トーマが読んでくれるのを待つ。


「それほど大した情報は載ってねえな。革命派のリーダー格で、商家の出身。革命に成功し、王族を処刑台に送るも、その後独裁を敷き穏健派を排除していく。その後、独裁者として国の頂点に君臨するが数年後に怒れる民衆の手により処刑台に送られる、か。らしい最期だな」

「商家」


 廻船業を営む平民に拾われて、稼ぎがある。オークションで、我が子を落札した夫婦が頭をよぎった。仲良く落命した。その知らせを受けて安堵したリスト。

 ――何を重ねているのだ。三百年前のことだ。今のリストには関係がない。

 でも考えてしまう。イヴァンがリストを見て言った名前だ。何か理由があるのではないか。


「ねえ、肖像画は残っていない?」

「ねえな。火災で焼失してる」

「前から思っていたのだけど、どうして三百年前の革命前後の資料は極端に少ないの?」


 時代の転換期だ。混乱するのはわかる。だが、それなら尚更、記録に留めようとする人間もいるのではないか。なのになぜ、そういった資料が少ないのだろう。


「焚書だ」

「焚書って……」

「王政が返り咲いたとき、一部の貴族が気炎を上げた。我らが蹂躙された記録を残しておけるものかとな。馬鹿なことだ。歴史の闇に葬っても、起こったことは変わらねえ。だが、馬鹿の言葉でも貴族の言だ。願いは満たされ、記録は燃えた。残ったのは灰だけだ。灰からは字は読み取れねえ」


 三百年前に思いはせるように、トーマは短く目を瞑り、眉間に皺を寄せた。


「過去の馬鹿は救われねえ。文化的に価値がある文献ももれなく焚書になってるからな。歴史は繰り返さないように、俺達は清族専用の図書館を開設して、そこに世界のあらゆる本を収集してる」

「世界中の本の収集! 壮観そうね!」

「馬鹿。知識は使ってこそだろ。読まれない本はただのアンティークだ。貴族どもを見てみろよ。馬鹿が少しでも頭よく見せようと美術品のように本を飾ってる。どんだけ飾っても、頭のなかに入ってねえ。ならそれは、ただの物質でしかない」


 実用的に使用するための図書館。ますます覗いて見たいものだ。童話に関連する本を探したい。


「連れていかねえからな」

「なによ、気を惹いておいて」

「知るか」


 トーマはぱたんと読んでいた本を閉じる。

 歴史を感じさせる紙の匂いに鼻をひくつかせる。

 トーマはそのまま、先ほど見ていた本に再び視線を落とした。どれだけ呼びかけても返事をすることはなかった。

 切られ、落ちていく後ろ髪の髪の毛が顔に張り付く。それを指で弾いて床に落とした。

 切り終わり、軽くなった髪の束を掴み、厚みを確認する。理髪師は一息ついたのか、朗らかな顔をしている。首筋は熱くなっていた。それなのに背中を落ちる汗は冷たい氷のようだった。

 こっそりと臆病な私に笑う。首元を晒せば殺されるかもしれないと、頭のどこかで警戒している自分がいたからだ。その恐怖を紛らわすために、トーマに声をかけ会話を続けた。熱心に質問していたのもそういう打算があった。

 不義理を働いたように、申し訳なく感じる。安易に疑ってしまった理髪師と付き合わせてしまったトーマに。


 トーマの部屋を出たのは、月夜が上がりかけた時間だった。理髪師は私の髪を整えたのち早々に清族棟から出てしまった。私も集中するトーマに一言声をかけてから部屋を出た。

 とはいってもあの様子ではろくに私の話を聞いてはいないだろうが。

 一度中庭に出て暮れていく夕日を眺める。花壇にある夏の花たちは太陽が落ちるのを惜しむように風を受けて揺れていた。夜空に浮かんだ月が頂点を目指し夜空を淡い月光で照らしていく。

 気温は高いが、じっとりと汗が滲むほどではない。風が吹き抜けるおかげなのか、そこまで温度が高くない。


「おや」


 特徴的な男性の声に目を瞠る。


「ザルゴ公爵」

「おや、その名前で呼んでしまってはいけないよ、姫。これでも、おれはもう死んでしまっているのだからね」


 黒い紳士服に同じ色のシルクハットをかぶった男性が機嫌を取るように礼をした。


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