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 椅子に座って寝てしまった。起き上がったときにはすでに血が綺麗に拭き取られていた。

 イルがいつ来たのかも分からなかった。

 しばらくすると、ギスランも起きてきた。

 寝起きのギスランは唐突に私に浮気相手がいる夢をみたと泣き始めた。

 意味が分からない。


「褐色の肌で、銀髪。しかも黄金の目ですよ。カルディア姫にあ、あい、愛してると言ってもらっていました。ありえない。浮気です! 浮気!」

「夢のなかでのことを言われても私とは無関係じゃない!」

「カルディア姫はあのような男が好みですか? 尊大そうな顔がお好きなんですね……」

「私は顔も見たことないのに!?」


 圧倒的な理不尽にあっている。私がなにをしたというのだろうか。

 というか勝手に夢に私を登場させておいて、浮気浮気と言わないで欲しい。

 ……でも、すこしだけ、私が愛していると言った人間は気になるような。


「カルディア姫の目を見えなくしたいです。移り気などしないで、私だけを見ていて下さい」

「ばか」

「浮気はしないで下さいね。相手の男を殺したくなる」


 すったもんだのうちに、どうしてか浮気はしないと確約させられた。浮気の判定はギスランに一任されているので、基準を訊くと、声をかけることだったり、目を合わせることだったりだった。そんなんじゃ誰とも会話できなくなるじゃないか。

 抗議すると、ギスランはどうして批判されるのか分からないと言わんばかりに不思議そうな顔をした。

 挙句の果てにはギスランもそうした方がいいですかと尋ねてきた。社交界で名をはせているギスランが私との約束のせいでそっけない態度をとるということになると、すごく困る。

 他の貴族達に当て擦りされるだろうし。私が、少し嬉しいと思ってしまうからだ。


「ギスランは浮気浮気だと言うけれど、お前の方が」

「私の方が?」


 失言に動揺して、言葉を失った。私は何を言っているんだ。まるで、ギスランのように嫉妬しているみたいじゃないか。


「き、聞き間違えよ! 私は何も言っていないもの!」

「ギスランの方がと確かにいってらっしゃいましたが」

「気のせい! 私が、お前の女関係に口出ししようなんて思っていないもの!」


 墓穴を掘った。その証拠に、ギスランの頬が緩み切っている。

 ぎゃあぎゃあと怒るのも疲れてしまった。私は、赤面しながらうずくまり、にやにやするギスランの視線から逃れることにした。




「どうしようかしら」


 二日経ち、ギスランは検査のために清族のところに行っていた。なんでも頭を打ち付けている場合、後日になって症状が出始めるケースもあるのだという。

 私は学校に戻り、寮の自室で頭を悩ませていた。

 夜会で会おうと告げられていた蘭王という人物のことをすっかり忘れていたからだ。ハルのことを知っていると言った彼に結局会わずじまいだった。

 どうにか連絡を取りたいが、どうしたらいいものか。

 それに、テウとも会って話をしたい。だが、今学校に彼はいないようだ。会った場所を虱潰しに探したが、会えなかった。手紙を書いて送らせようとしたが、そもそも私は彼の家名を知らない。

 テウは何者なんだと、頭を抱えるしかない。

 ……ギスランと一緒に落ちた女の行方は分からない。

 ただ、玄関に貼られた階級表からも平民に上り詰めていた女の名前が一人消えていると噂になった。十中八九、その女があの貧民の女だったのだろう。


「暇なわけ? じゃあ、これ読んでよ」

「ちょっと、本棚をぐちゃぐちゃにしないで! 年代ごとに綺麗に配列していたのに!」


 今日もリュウが部屋にいる。私のコレクションが並ぶ本棚に寄りかかって童話を何冊も取り出して遊んでいた。

 その様子をちらりと見て、ソファーの上に横たわったイルがあくびをする。

 こいつら、自由すぎる!


「本なんて読むためのものでしょ? なのに、なんだって綺麗に配置してんだか」

「う、うるさいわね! 棚に整然と並べられていると安心するのよ」


 リュウから本を取り上げて、本棚に戻していく。


「……『女王陛下の悪徳』が読みたいの?」


 背表紙をなぞり題名を読み上げると、リュウが頷いた。


「今度オペラあるんでしょ。アンナだっけ。サガル様がエスコートしてた女。あいつが歌うってきいたから。どんなものかって」

「読んだことがないの?」

「リュウは貧民街の生まれですからね。読書なんてろくにしたことありませんよ」


 ソファーに座りなおしたイルが肩を竦めながら言った。


「そもそも学校に来るまでろくに字が読めなかったはずですし」

「……るさい。イルだって似たようなものでしょ」

「俺は知ってる。カルディア姫は、童話好きだって聞いてたから、予習した」

「初耳なんだけど!?」


 童話って予習するようなものではないのだけど。


「ふうん、じゃあ、『女王陛下の悪徳』ってどんな話なわけぇ?」

「女王陛下が男侍らせてきゃっきゃうふふする話」

「その説明だと語弊があるわ!」


 総括するとそうなるのかもしれないが、愛読者としてはそうやって一括りにしてほしくないというか……。


「歌姫はどこいったの? 歌をうたうやついるんでしょぉ?」

「あー、なんだったか、理不尽な理由でひどい目に合うんだよ」

「愛人の頼みで、女王陛下が歌姫に毒を飲ませるのよ。歌姫はうたえなくなって、娼婦に落ちてしまうの。でも、そのあと社交界で高級娼婦としてたくましく育つの。貴族の夫を得て、女王陛下への復讐の機会をうかがうのよ」

「へえ。そんぐらい性格歪んだ女の方が仕え甲斐がありそうだねぇ」

「奇特だなあ。俺としては、毒とか回りくどい方向じゃなくて、殺して来いって命令して欲しいけど」

「……もっと、善意に満ちた人間の方がいいと思わないの?」


 二人そろって私の言葉を鼻で笑った。


「高位の人間にそんな殊勝なこと、望んでないですよ」

「だいたい善意ってなに? 救貧院への支援は大人に搾取されるし、炊き出しは娼婦には配られないでしょぉ? まあ、そのお綺麗な善意とやらで、人が救われることはあるけれど、それ以上にその善意の過程に悪意が潜んでる」

「大人に搾取? 娼婦には配られない?」


 知らないと答えるとリュウに鼻で笑われた。


「救貧院は行き場所のない路上生活を収容する施設ですね。一代前の王が王都の景観を保つために作った法に、路上浮浪者の撲滅を盛り込んだものがあるんですよ。それで、そんな人間達を保護する建物が出来た。でも、そこへ来る人間達への支援はひどいものです」

「毛布はぼろぼろ、虫に噛まれるのは当たり前。無駄に寒いし、不衛生だし、あそこに戻るならば殺されたほうがいいって奴もいる。逃げ出して路上で寝る奴もいるよねえ」


 ごくりと唾をのみこむ。私は出不精なので、救貧院に行ったことはない。だが、貴族の夫人のなかには多額の寄付金を払い、見学に行く者も絶えない。

 彼女達の話を立ち聞きしたことがあるが、実際に利用する立場から意見をきいたのは初めてだった。


「炊き出しが娼婦には配られない理由は簡単です。炊き出しをする人間が、娼婦を嫌っているから。炊き出しをするのは、平民階級の女性が多かったりするんですけど、彼女達は娼婦を毛嫌いしてるんです」

「まあ、分からなくもないけどねぇ。だっていつ自分の夫が誘惑に負けて、性病に罹ってかえってくるか分かったものじゃないんだから」

「娼婦は王都のどこにでもいますからね。夫の帰りが遅い理由は娼婦達と遊んでいるからというのはよくある理由ですし」

「お前達を養っている男どもに残飯を貰えば? とこういう感じで悪罵されて、水をまかれるらしいよぉ」

「実際は、売り上げのほとんどは酒か薬に換わるんですけどね。と、こんな風に善意というのは別の悪意を呼び覚ますものです」


 リュウが髪の毛を弄りながら、続ける。


「まあ、善意がなければ生きていけない人間もいるんだけどねぇ」

「でも、善意だけの人間もいないとは思いますよ。というわけで、仕えるなら、そういう善意にまみれた人間だと言葉責めしそうなので、性悪の方がいいです」

「一緒は嫌だけど、同意かも。偽善で他人から褒められて嬉しいのお? それはよかったねえ、幸せな頭でさあって言いたくなる」


 リュウがサガルの従者なんだよな?

 サガルは慈善家としても有名だ。そんなことを言っていいのだろうか。


「二人ともひねくれているわ……」

「そういうカルディア姫だって、女王陛下のこと好きなんですよね?」

「童話に出てくるからいいのよ。他人なんて塵芥だと思っているところが素敵。自己中心的で、残酷で冷酷。そんな自分を恥じず、胸を張っているところがいいの!」

「……そういえば、『女王陛下の悪徳』ってバッドエンドですよね。歌姫の復讐は成功しませんし、革命も起きる前に潰されちゃいますしね。最期まで、改心せずに終わる」

「革命って、三百年前のことがもとになった話ってわけなのぉ?」

「そう言われてはいるわね。処刑された王女がモチーフだと。でも、その前からこの童話はあるという記録もあるし、よくは分かっていないの」

「案外、その処刑された王女の恋人が、こんな現実は認めないとか言って書いたものかもしれませんよ」


 考えたことがなかったが、そう考えると少し楽しいかもしれない。

 事実を否定するために書かれたものが、童話としたこの世に残っている。

 無念も、怒りも、憎しみも詰め込まれて、三百年の時を経てもなお、読み継がれる。

 それだけ強く、激しい想いだったのだろう。だからこそ人々が物語に触れ、心を動かされたのだ。


「ふうん。でもそうなら、書いた人間にとってはハッピーエンドなのかもね」

「どういう意味?」

「だって、最期まで改心せず、誰にも殺されずに終わるんでしょ? それは、作者の望んだ未来ってやつだったんじゃないの」

「――それは」


 物語一つとっても、たくさんの見方があるのか。

 後味の悪い物語も、誰かにとっては救いなのかもしれない。


「そうだとしたら、いつか、歴史と童話が混ざってどちらが本物かわからなくなってしまえばいいのに」

「……それは、凄いこと言いますね」

「でもきっと、書いた作者だってそうなればいいと思うわよ。本当に、現実にあったことを覆したいというならば、だけど。いつか、陵辱された日々が塗り潰されて、幸せな日々だけが残る」


 だから、私は改訂が嫌いなのかもしれない。

『女王陛下の悪徳』は物語の改変を受けたことがある。編者が内容や結末を変えてしまうのだ。その改変を受けた物語の中では、歌姫は復讐を遂げ、革命は起こり、女王陛下は改心する。編者によっては、革命に巻き込まれ、女王が惨たらしく死を迎えることすらある。それは違うはずだ。祈りにも似た思いで書かれたものが踏み躙られている。


「俺はそういうのは嫌だって思うけどねえ」


 リュウは静かな声でそう言って、私がさっきやったように『女王陛下の悪徳』の背表紙をなぞった。


「現実では負けた人間はその負けをずっと抱えるべきでしょ。歴史を改竄するような真似は許しちゃいけない。そうじゃなければ、全部が嘘になっちゃうから」


 目をゆっくりと閉じて、貴族のように品のある笑みを浮かべた。


「敗者は歴史に刻まれるべきでしょ。自分の不甲斐なさを、運のなさを、非力さを。余すところなく、記されるべきだと思う。それを書き換えられることはあってはならないはずだもん」

「……リュウのいうことも、カルディア姫のいうことも分かる気がしますよ。どっちも正しい気がしますし。ほんとはどうなんですかね。『女王陛下の悪徳』は理不尽な現実を変えるために作られたのか。それともただ娯楽として書かれたのか」

「気になるわよね! 私も、作者について図書館で探ってはいるのだけど、これという確証がなくって。ザルゴ公爵の家が関わっているというのは間違いないはずだけど。何代か前の公爵自身が書いたのか、それとも雇われた文筆家が書いたのか、よく分からないの」


 イルにくすくす笑われ、頬が赤くなる。なんで、いきなり笑い出したんだ!?


「カルディア姫って本当に童話が好きなんですね」

「昔から読んでいたもの。本だけは周りにあったのよ。それに、童話はとても魅力的だもの」

「魅力的ですか?」

「そうよ。創作童話も民間伝承が物語として形を得たものもそれぞれ違った魅力があって大好き。めでたしめでたしで締めくくられる物語が本当はとても残酷な終わり方をしていたり、救いがないものも好き。私には見えない精霊や妖精と会話できる話もあるのも好きよ。幼い頃の私にとって、童話の世界が本物の世界だったの」


 サガルと一緒に閉じ込められた塔はじめじめとした陰鬱な部屋だった。書架がずらりと並び、隙間なくぎっしりと本が詰め込まれていた。ろくに食べ物も届かない場所だった。

 暇をつぶすためにサガルがよく本を取り出して読んでいた。それに倣って隣で覗き込むうちに気が向いたときに読み聞かせしてくれるようになった。

 サガルは太陽の光を受けたら、肌が爛れてしまう。締め切った部屋のなかには光は入ってこない。

 けれど、童話を読むときだけは違った。太陽の臭いを感じた。空の広さを思った。そよ風の心地よさを肌で感じることができた。たくさんの人と交流した。たくさんの人が助けてくれて、同じぐらい意地悪された。

 部屋にいる私達は世界に出ることができない。塔の扉はかたく閉ざされて内側からは開けられなかったし、サガルを置いて一人で出るという発想がなかった。それでも、私は外に出ることができた。月に恋する貴族と一緒に水遊びをした。女王陛下とオペラを観に行ったし、王様と一緒にミミズクがいる森へと足を運んだ。

 見たこともない砂漠にだって私はいたのだ。


「本当の世界ではないと分かるようになっても、心が惹かれた。それってとてもすごいことだと思うの」

「そうかもねえ。じゃあ、そんな童話大好きな姫様にお願いがあるんだけど、いい?」

「……なに?」

「この本、読み聞かせして」


 さっき仕舞ったはずの『女王陛下の悪徳』を抜き取り、差し出される。

 口をとがらせる。長々と話をしていたせいで、まあいいかという気分になってしまった。


「ソファーに座って。読んであげる」

「ありがと」


 上手くのせられてしまった。でも、悪い気持ちはしない。

 私も椅子に座り、表紙を捲る。

 ごろりと体ごとソファーに寝転んだリュウとその隣で伸び上がっているイル。どちらもだらしのない恰好をしていたが、顔だけは私の方に向けていた。

 ごほんと咳をして、冒頭を読み上げよう――とした時だった。


「ここか」


 突然、扉が開いた。

 真っ白のローブを着たトーマが嫌そうに顔を顰めつつ、部屋を見渡す。

 私と目が合う。小さな声で舌打ちされた。


「イル、そこにいる王女様に、いなくなるなら連絡ぐらい寄越せぼけと言え」

「え。俺がですか?」

「いいから、言え」

「言ってもらわなくても聞こえているわよ」

「ならよかった。さっさと準備しろ愚図と言え」

「私に直接言えばいいでしょう!?」


 首を振って、トーマが杖をついて扉から出て行った。

 ああ、なんだっていうんだ、あいつ!


「口が悪いっていう次元じゃない! どうして私と会話しようとしないのよ!」


 連絡しなかったのは悪いと思っているが、それにしたって失礼過ぎるんじゃないか!?


「読み聞かせは帰ってからするわ! あいつには文句ひとつ言ってやらなきゃ気が済まない」

「お供しますよ」

「俺も。いっとくけど、これは義務だから」


 二人が付いてこようとしたが、扉をくぐろうとすると弾かれて部屋のなかに戻ってしまう。


「陰険な仕掛けを……リュウ、解除できない? 清族なんだろ」

「できるわけないでしょ。俺は術式の読み方だって知らないもん。簡単な術だけ使えるんだよ」

「……窓から追います。カルディア姫は先にトーマ様を追い掛けて下さい。たぶん、このままじゃ置いて行かれちゃいますよ」

「ええ、分かった」


 イルとリュウと別れると、部屋を出たところでトーマが姿を現した。透明化する術を自分にかけていたらしい。

 はあと大きくため息をついて、今度こそ、ぼとんぼとんと杖をついて歩き始めた。

 その後ろをついてまわりながら、トーマに声をかける。


「どうして私と直接話そうとしないのよ」


 沈黙。


「ああ、そう。お前がそういう風に振舞うなら、私だって考えがあるのだから!」


 沈黙。

 まるで、相手にされていない。

 会話もしてくれない人間と交流するなんて無理だ。

 その後、この間のようにヴィクターの研究室を見て回った。

 死んだ魚の茹だった白い瞳や毒々しいフラスコの群れがある研究室や魔銃らしきものを組み立てている工房を見つけたが、それだけだった。ダンが言っていた死者蘇生にまつわるものは見つからない。

 そうこうしているうちに日が暮れ、探検は終了となった。最後まで私と喋ることなく、トーマは帰っていった。

 イルとリュウとは会わなかった。トーマが有言実行して、妨害し続けたのだろう。

 玄関先を通って自室に戻ろうとして、階級盤のあたりが騒がしくなっていることに気が付いた。

 何事だろうと掲示板の近くをゆっくりと歩き耳を澄ます。


「あのバロック家の貧弱野郎がか?」

「貴族の恥さらしが上がるなんて!」

「買収でもしたのかね?」

「はは、ありえそうなことだ」


 興奮と嫉妬が言葉から伝わってきた。大袈裟なほどの騒ぎようなので、突発的に階級変動が行われたのだろうと予測を立てる。

 階級があがったらしい。それもかなり変動したのだろう。

 それにしてもバロック家? カリレーヌ嬢の家のことか?

 でも、彼女はこの学校にはいないはずだ。

 見上げる人間の視線の先を追う。

 貴族階級の横に、テウの名前が書かれたプレートが下げられていた。

 テウ・バロック。

 プレートにはそう書かれていた。

 息を詰める。カリレーヌ・バロック。テウ・バロック。バロック家の当主の夜会。

 テウはバロック家の当主だったのか!?

 だとしたら、ギスランを階段から突き落としたのは、カリレーヌ嬢の復讐ということか?

 だが、どうしてギスランに復讐を? 理由が分からない。

 もう一度、プレートの名前を確認する。

 だが何度見てもプレートの表記はテウ・バロックだった。


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