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 血の繋がったものは、糸にからみとられるように惹かれ合うのだろうか。

 首筋が熱を持ったままだ。逃げるように玄関の先にある階段の横で蹲る。

 顔から熱がひかない。痛いぐらいにずっと熱いままだ。

 サガルがどうして首筋を噛んだのか分からない。

 だが、それよりも自分の心が分からなかった。

 驚きと恐怖があった。だが、それよりも嬉しいと感じていた。

 こちらの気持ちなどまるで無視で、嬲られるように噛まれたことに快楽を見出していた。

 自分のことが分からずに頭を抱える。


「カルディア」


 顔を上げると、なぜか目の前にイヴァンがいた。

 水色の髪を緩く後ろで束ねている。身なりが整えられ、貴族の男だと言われても疑いは抱かないような雰囲気を醸し出している。


「俺の姫はこんなところで壁の華を? なんてくだらない。可愛い子はダンスを申し込まれるべきだろうに」

「ど。どうして、こんなところに?」

「俺は音楽家でね。カルディアの前でも上手いピアノを弾いただろう? この夜会を音楽で彩りにきたというわけさ。言ってしまえば、夫人に雇われたということになるね」


 あっけらかんとした態度に目を丸くしてしまう。

 夫人が楽しい余興を用意していると言っていたのは、彼のことだったのか。

 イヴァンのピアノは確かに上手だった。酒に酔いながらあれだけのものが指から奏でられるのだ。素面ならば、どれだけの人間を極楽に連れていけるのだろう。


「出番はまだで、暇をしていたところだ。俺と一曲踊ってはくれないかな」

「……いま、ここで?」


 オーケストラの音楽は聞こえるが、ここは階段の下だ。しかも壁際で、踊る場所には似つかわしくない。


「だって、会場にも戻れないだろう」

「さっきの、見ていたの?」

「社交嫌いの姫が久々に社交界に顔を出したんだ。注目の的になるに決まっている。しかも、近くには婚約者のギスランと兄君がいるとなれば、衆目を集めるだろう?」

「……私、本当に、社交がへたくそなのね」

「というよりも不器用に生きているという感じだと思うけれど」


 うっと変な声を上げてしまう。違うと否定したいが、上手く生きているとはいいがたい。


「それで、カルディア。俺の手を取ってはくれないの? 男の尊厳を保たせてくれると助かるのだが」

「……ダンスは嫌い」

「俺が好きにしてあげる」


 無理矢理腕を取られて、音楽に合わせて踊る羽目になる。


「力を抜いて。どうせ、ここではだれも見ていないんだ。貴族達の格式ばった馬鹿らしいものではなく、貧民達が躍る面白いやつを踊ろう」

「え、ちょっと、イヴァン!?」


 急にイヴァンは足で拍子をとる。オーケストラのゆるやかで華やかな曲が忙しない音楽に聞こえてきた。体を密着して、すぐ離れる。離れ離れで無茶苦茶に踊ったあと、また近寄って、今度は二人で動きを合わせて踊る。動きが激しくて、だらだらと汗をかいてしまう。貧民の家で踊ったはちゃめちゃなダンスよりももっと動きのある踊りだ。


「ドレスでやるものじゃないでしょう、これ!」

「じゃあ、サガル様とお揃いのそのドレス、脱いだらいいんじゃないかな」

「サガルとお揃いになんかしてないわよ!」


 でも、言われてみればサガルが来ていた夜会服と色合いが同じだ。これはテウが選んだものだから、偶然なのだが偶然だとしてもひっそり嬉しい。


「そうなの? 俺はてっきり二人で合わせてきたものだとばかり思っていたけれど」


 首を振る。イヴァンはそうなのかと上の空気味に言った。


「兄様はアンナの衣装と真逆にしていたのだと思っていたわ」

「歌姫ごときが本当にサガル様に手を引かれてくるとでも?」

「え? どういうこと。サガル兄様の恋人ということ!?」


 焦った私の顔を見て、イヴァンの足が止まる。

 急に止まったせいで、体勢が崩れイヴァンの胸に寄りかかるような格好になる。


「ごめんなさい。お前が立ち止まるものだから、つい勢いで……。イヴァン?」

「カルディア、君はもしかして」


 じっと見つめられる。イヴァンは私が殺してしまった彼によく似ている。そのせいでつい目が泳いでしまう。


「どうしたのよ。アンナとサガル兄様は恋人だと言いたいの?」

「……そうじゃないよ。サガル様を支援しているマレージ子爵が彼女のことを後妻に迎え入れるらしいんだ。その子爵は箔をつけるためにサガル様に彼女のエスコートを頼んだのだとか」


 サガルと一緒に一夜を過ごしたとなれば、その名前は社交界に響き渡るだろう。他国出身であるアンナのいい宣伝になる。だが、サガルの行為は軽率とも言える。

 他国出身の歌姫とはいえ、アルジュナの貴族ではないはずだ。平民階級か、あるいは貧民階級の彼女を側に置いたとなれば多少なりとも批難があるはずだ。


「アンナとはダンスは踊らなかった。それがサガル様の意思だろうね。どんなに頼まれても、身分の釣り合わないものとは踊らない。そうするとカルディア、君とは全く違うね」

「どういう意味?」

「俺は元とはいえ処刑人の家系だ。君は俺とは踊らない選択をするべきだった」

「無理矢理お前が腕を引っ張ったんじゃない!」


 片目を瞑り、イヴァンは茶目っ気たっぷりな声で言った。


「それはそれだよ。無理矢理迫ってくる男も拒めるようにならなくちゃ本物のお姫様とは言えないよ」


 舌を引っこ抜いてやりたい!

 饒舌に語るその口が憎い。


「次、お前と絶対に踊らないんだから!」

「じゃあ今のうちに嫌って言うほど踊らなくてはね」


 イヴァンは足の動きを再開した。だが、踊っているというよりもただ左右に体を揺らしている程度だ。

 さっきの動き回るものは息切れした。こっちならば、動き回らず素朴でいい。

 私の体力を心配してくれたのかもしれない。


「イーストン辺境伯やゾイディック辺境伯に申し訳ないな。君と踊りたがっていたから」


 イーストンもゾイディックも王国にとっては特殊な家だ。

 二つとも伝統と格式で言えば大四公爵家より勝る。三百年前の革命の際に腐敗しきった貴族の代表格として民衆から袋叩きにあっていたほど歴史がある名家だ。

 現代においても、その発言権は大四公爵家に次ぐと言われているほどである。

 私との因縁も深い二家である。一時期、その二つの家の跡取り息子達が私の婚約者候補になっていたことがある。

 勿論、数年だけで、すぐに消えた話だ。今では婚約者はギスラン・ロイスターただ一人だ。

 それでも、学校に入学してから数年は彼らのことも婚約者候補として見ていた。

 特にイーストン家の跡取り息子、トヴァイスは、私が社交界に顔を出さなくなった間接的な原因だ。

 あの子憎たらしい既婚者の顔を見るぐらいならば、壁の花をやっている方がまだましだ。


「イーストン辺境伯はともかく、ゾイディック辺境伯もいたの? 珍しいわね。悲観主義者で、人と踊れば手が溶けると思っているような男なのに」


 ノア・ゾイディックはトヴァイス・イーストンとは別の意味で曲者だ。

 私と並ぶほどのヒステリックな人間で、被害妄想が激しく自殺未遂を繰り返している。

 情緒が不安定で、麻薬を常用して、トリップしていた。幼い頃からそうなのだから、成人し、父親から領土を継いだ今でも、彼はとても危うい均衡で生きていそうだ。


「……はたから見てそういう風には見えなかったけれどな。貴族の世界は摩訶不思議だね」

「両方、私は見かけていないわね。挨拶をしたいような、絶対にしたくないような……」

「結論が出ていないなら、俺とそのまま抜け出しても構わないかな?」

「このあと仕事があるんでしょう?」


 まさかこのままほっぽり出すつもりかと睨み付ける。


「もともとこの仕事に乗る気がなくてね。金に困っていなければ、受けたくなかったんだ」

「どうしてお金に困っているのよ。王都でも指折りの音楽家なのでしょう」

「宮殿付きではないものでね。音楽家などパトロンがいなければ、野生のカナリアとまるで変わらない。俺は才能はあるが、人には嫌われているんだよ」


 あっさりとした言い方だ。怒りや不満がなかった。

 まるでそれとは別のところに人生の意味を見出しているような達観したものを感じた。


「鮮やかな才能に、健全な精神が宿っていればよかったのにと人は言うよ。俺が酒や賭け事、魔術に傾倒することなく生きていければどんなによかったかとね」


 下らないとイヴァンは一蹴した。


「人は清廉に生きる人形じゃない。どんなにお綺麗な顔をした人間にも、欲望は詰まっている。善良な精神なんてまやかしだ。善良な人間もまた、善良でありたいという薄汚い欲を持っている。真実、善人であっても、人間であるかぎり健全な精神など得られない。そもそも、誰が健全を見出すの? 測定する者だって健全ではないというのにさ! ……だが、こんなことを言うと皆が変な顔をする。どうしてそんなに捻くれたことを言うのかとね。まったく、自分の頭で考えたこともない朴念仁達にはほとほと呆れるよ」

「人に嫌われる理由がわかる気がするわ」

「だろう? だが、なぜかな、俺の音楽は皆聞くのさ。俺の曲で皆が一喜一憂する。天使が乗り移っているのかもね、この手には」

「ただ、お前の音楽がとても優れているだけではないの?」


 しばらくして、目を閉じて反省する。

 冗談に真面目に答えてしまった。天使が乗り移っているなんて本気で言っているわけがない。

 けれど、イヴァンがあまりにも真剣な声で言うから、悩み事なのだと思って真剣に返答してしまった。

 くすりとイヴァンが笑い声を立てた。

 頬に熱が集まる。


「天使だなんて、馬鹿馬鹿しいと思っただけよ。才能というのは磨かれたものなのだから、女神に与えられたとしても、それを活かすのは努力が必要なものだと、そう言っているだけで……!」

「なに必死になっているんだよ。俺はなにも言っていないだろ」

「お前の顔が笑ってるもの! どうせ、ろくに知らない癖にとか思っているのでしょう!?」

「その通りだよ」

「……よかったわね! 少なくとも私よりは人付き合いが上手いわよ、お前は!」


 こんなことになるならば、なにを言われても口を開かなければよかった。口に蓋をしておけばよかったのだ。


「冗談だよ、カルディア。嬉しいことを言われて照れ臭くなっただけだ。俺の才能は俺だけのもの。周りに何を言われたところで、それは変わらない。まあ、でもお金が必要なのも変わらないのだけどね」

「お金が必要ならば、夫人の機嫌をとっておけば間違いはないでしょう。出なかったら違約金を払うことになるかもしれないし、きちんとやりなさいよ」

「それもそうだ。じゃあ、俺のエスコートでホールに帰るとするかい? でもその前にもう一曲、踊って下さい。お姫様」


 恭しく頭を下げて、イヴァンがせがんできた。

 悪い気はしない。手をとって、勿論よと答える。

 漏れ出る音楽に合わせて、貴族らしい踊りをする。固まっていた体が解れたのか、今までで一番、動きやすかった。

 重ねた手をたどって、イヴァンの肩を通り、顔を見つめる。ふっと唇の端が動いた。嬉しそうな顔をしていることに満足して、彼と同じ方向を進むために視線を戻した。




 曲がひと段落したとき、階段を誰かがのぼる足音がした。二人分だ。

 頭の中で閃くものがあった。もしかして、ラーの雇い主である蘭王とやらがやって来たのではないだろうか。

 会場には仮面をした人間はいなかった。遅ればせながら、夜会に参加しようとやってきたのではないか。

 姿を確認しようと壁から離れ、階段を覗き込もうとした。

 だが、先に私を探していたらしいギスランの姿が目に入った。

 遠目でもわかるほど顔が歪んだ。

 イヴァンと手を結んだままだ。あいつまた盛大な勘違いをしてそうだ。

 イヴァンと手を離して、ギスランに身振り手振りで誤解を伝える。だが、ギスランには全く届いてはいなかった。

 階段の上から私を覗き込むと、すぐさま降りてこようと階段を駆け下りてくる。

 また手錠をされる羽目になる……!

 慌てて、私も階段をのぼろうとした時だ。

 前をのぼっていた男女二人のうち、女性がぐらついた。

 ギスランが彼女を避けて私に駆け寄ろうとしてくる。

 だが、ぐらりと体の傾いた女性は手を伸ばすようにギスランの服を掴んだ。そのままギスランを巻き込んで階段の下まで落下する。


「――は? ギスラン?」


 頭を強かに打ち付けたギスランが階下で、小さくうめき声を上げる。

 あまりのことに、体が動かなかった。しばらくしてやっと、なにが起こったのか理解できた。

 ギスランが階段から落ちてしまったのだ。

 私も滑るように階段を降りて、ギスランの体にしがみつく。

 頭から血は出ていない。だが、脳震盪を起こしているようだった。うめき声はあげるのに、意識はない。


「ギ、ギスラン! ギスラン!」


 どうしたらいいか分からず、とりあえず苦しそうな首元を緩める。


「清族を探さなくちゃ!」


 立ち上がった私をイヴァンが諌めた。とっさにイヴァンのことを怒鳴り返したくなってしまった。

 彼はギスランの手首の脈をはかり、胸に耳をあてて心臓の音を確認した。


「俺は処刑人の家系に生まれた。並みの医師よりはこういったものに詳しいよ。……カルディアはそこの女性を見てやってくれ」


 ギスランを巻き込んで落ちた女性は無事だった。かすり傷ひとつ付いていない。ギスランが庇いながら落ちたからだ。あの一瞬でギスランは咄嗟に彼女を庇ったのだ。

 頭が痛くなる。目の前の女への憎悪で理性が飛びそうになる。


「お前、テウに乗っていた貧民じゃない……?」


 焼けた肌。黄ばんだ歯。香水を振りかけているのに取れない臭い。綺麗なドレスを着込んでいるのに、チグハグなその姿に、一瞬で貧民だと気がついた。

 それに彼女の顔を見たことがあった。ドレスを選びに行く日、テウに乗っかっていた女だ。

 どうしてこいつが、夫人の夜会に来ているのだろう。


「……は、は」


 女は気の抜けた笑い声をこぼして、床をずるずると這うように移動しようとした。だが、膝が笑うのかすぐにぺたりと突っ伏してしまう。

 頭上が騒がしくなり、階段の上を見渡す。

 音に驚いて顔を覗かせた貴族達の驚愕の眼差しがそこにはあった。サガルも目を丸くして階下にいる私達を見つめている。

 その中に、テウの姿を探していた。

 しばらく視線を彷徨わせて、彼を見つけてしまった。

 彼は私と目が合うなり、小さく手を上げた。そして口角をいやらしく上げると、口をぱくぱくと動かす。


「――邪魔者殺しに失敗しちゃった」


 信じられない気持ちで、口の動きを追って言葉を捻り出す。

 にこっといつもと変わらない笑顔でテウが笑う。

 穢れを知らない純粋な笑みに狂いを感じた。

 ばいばいと振られた手が無邪気な子供のようだった。


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