73
悪夢が終わらない。
ハルが傷つく悪夢を繰り返し見ている。
おかげで眠ることが怖くてたまらない。まるで夢のなかの私が警告しているように、ハルがひどい目に合い続けている。助けることは必ずできない。
いつも、死にそうな叫び声を出して飛び上がる。
繰り返すごとにはっきりとしてくる現実感。手についた血が指に張りつきとれなくなる、残酷としか言えない生々しさ。
たまに見る夢とは系統が違い過ぎる。どうして何度も同じ夢を見るのか。私がおかしくなっていっている証拠なのだろうか。
ギスランは私のもう片方の腕を拘束し始めた。だが、安心できないようで、たまに舌を噛まないように口枷をつけられる。
馬鹿らしいことだが、ギスランは私が自殺するのではないかと本気で警戒しているようだった。
私はそんなことをしないと言っても聞く耳を持たない。
このままギスランの妄執が加速して行けばどうなるのだろう。足や手が使い物にならなくなるのではないか。ギスランならばやりかねない。
「カルディア姫のドレスを見て、いつも気持ちが悪いと思っていたんです」
寝物語を聞かせるような熱っぽい声でギスランは囁く。
その時私は青色のドレスを着ていた。ギスランが贈ったものだ。お揃いを好むギスランは、自分も容姿にぴったりの青い貴族服を着ている。寝るときまできっちりしなくてもいいのにと思うが、ギスランはどうしても寝間着には着替えなかった。
「地味な色。目立たない色。そんなものばかりだったので、作為的だと思っていたんです。まるで誰かがカルディア姫を染め上げているみたいだと思った」
「あれはサガル兄様が言っていたのよ。こういうのがカルディアには一番似合うって」
「……いつのことですか?」
「いつ? いつだったかしら。たしか……?」
駄目だ。頭がふわふわしてきた。ギスランと一緒にいるとこんなことが増えて困る。頭からなにもかもなくなったように軽くなるのはいいが、同じだけ考えられなくなる。
「カルディア姫はもっと鮮やかな色の方が似合います」
「そう? でも地味な色の方が落ち着くわ」
「もう! そうだ、そういえば、サガル様に夜会に誘われたとお聞きしました。ギスランはきいていないのですが?」
「お前、学校に居なかったじゃない」
「手紙を書いてくださってもよかったんですよ? リスト様には書いているのに……! あの暗号、どう読むかだけ教えて下さる?」
「当然のように私の手紙を検閲しないでくれる?」
ギスランは誤魔化すように微笑した。
「解読班を挟む手間が省けるのでいいと思ったのですが」
「……ちょっと待って。私とリストの手紙の内容、知っているの?」
「はい。リスト様は、率直に言って溶岩のなかに頭を突っ込んで殺したいです。あの手紙の内容はなんですか? 殺意しかわきません。愛しの我が姫へって、ふざけている?」
視線を逸らす。リストの手紙はすごく強烈だ。お前だけのリストより、で締めくくられている。胸が焼けそうなほど甘い言葉が多かった。
「リスト様との手紙のやり取りはもちろんこの部屋では一切禁止します。が、それ以上に、私に対して手紙がなかったことの方が問題です」
教師みたいに澄ました顔をして、ギスランが腕組した。
「婚約者である私を無視して他の男を誘惑するなんて、カルディア姫の浮気者!」
「だ、だれが誘惑してるっていうのよ!」
言いがかりに頭がくらっとした。
「リスト様に対しても、サガル様に対しても警戒が甘すぎます。この間の不埒な男だってそうです。処刑人一家から逃げ出した音楽家なんていう稀有な人間を捕まえて誘惑していた! ギスラン以外の人間は敵です。よろしい?」
「お前ね……誰もが私に好意があると思っているの?」
「……そうですね。カルディア姫はこんなに愛らしいし、可愛いし、ギスランに冷たくするのがお上手ですけど! でも、好かれるよりも大変なことがありますので」
ぎょっとしてギスランと視線を合わせる。
今まで考えたことがなかった。ギスランは私に近付いてくる奴らが悪意を持っている場合を警戒していたのか。勝手に嫉妬しているだけだと思っていた。
「カルディア姫が乗っていた馬車の馭者は、傷だらけで発見されました」
「っ!」
「命に別状はなかった。ですが、カルディア姫を捜している男達がいたと聞いています。本当?」
「……ええ。男達に襲われて逃げていたわ。だから、身に着けていた装飾品がなかったの」
はっと自嘲する笑みが浮かばせ、ギスランが私の頬に指を滑らせる。
「逃げて、それで?」
「通りすがりの正義の味方が助けてくれたの。名前は聞かなかった。なんとか商会の用心棒と言っていたようだけど」
ラーのことは言わない方がいいだろう。私も上手く説明できる気がしない。
「そいつと別れたあとにあの音楽家に会ったのよ。それでお前に会った」
「襲ってきた奴らの特徴をお聞きしても?」
「移民だったわ。土地勘もなかったから、王都に来て間もないのだと思う。誰かに雇われたのでしょうね。謝礼がなんとかと言っていたようだったけど」
深く考えこむような仕草で、ギスランが顎に自分の指を滑らせる。
思えば、あいつらは誰に雇われたのだろうか。移民に頼むような人間に心当たりはなかった。
「……怪我はされていませんか?」
「幸いね。走ったから、脹脛が今でも痛いけど」
「なら、よかった」
優しく抱き寄せられ、抱擁される。
ギスランの体が震えていた。どっと心臓が大きな音を立てて動き始める。
体中に血が巡っていき、顔に熱が駆け上がっていく。
「カルディア姫がポケットのなかに入れば、いいのに」
「持ち運ぼうとしないで」
「私と一緒にコリン領に来て下さらない?」
ギスランの提案は現実不可能だ。私は学校にいなくてならないし、婚約者とはいえ、避暑期間でもないのについていくのは、妙な勘繰りをされかねない。
ギスランはそれを分かっていて、それでもなお言っておきたかったのだろう。
「ギスラン」
「分かっています。……新聞でカルディア姫の悪評が立っている。この時期に貴女様が王都を離れれば蠅どもが騒ぐでしょうね。文屋気取りの蠅が犬にも劣る下劣さで、貴女様を食い物にする。そうはさせたくはないですが。だが、心配だ。今回は助かったけれど、また助かるとは限らない」
「今回は私がともを付けずに軽率に王都に出たのが悪かったのよ。イルは連れていくべきだったわ」
「ええ、あれはそういうものですので、連れ回して下さい。仲は深めないでいただきたいが」
イル、ギスランにまた怒られていないだろうか。私が護衛対象なばかりに、あいつには無理をさせている気がする。
「サガル様が誘った夜会もいかないでいただきたいというのが本音なのですが。男爵夫人は慈善家で有名です。その分、顔も広く、多くの著名人たちが一堂に会する。社交界としては正しい在り方ですが、カルディア姫にとっては苦痛になる可能性が高い」
「顔を出したら、折をみて帰るつもりよ。もともと、社交は嫌いだもの」
「私も連れて行って下さる? もちろん、婚約者として、ですが」
「お前、いつまで王都にいるの?」
この部屋に繋がれるようになって、たまにギスランがどこかに行ったっきり帰ってこなくなることがあった。きっと、本来の仕事があるのに、無理をして王都に帰ってきているのだ。
「心配はいりません。そもそも、社交シーズンにコリン領にこもっている方が愚策だ。夜会までは王都にいる予定ですので、パートナーにして下さるでしょう?」
「……分かった。でも、手錠で繋がれたまま行くのはなしだからね」
「残念だ」
ギスランならやりかねない。手錠で夜会に参加なんて、性癖を公言しているようなものだ。絶対に貴族でいうところの楽しい人間にはなりたくない。
「ドレスは見つけられましたか?」
「ええ、学校の方に届けてくれると聞いたわ。市井の衣服事情など知らなかったから、勉強になった」
「イルに言づけて下されば、私が用意しましたのに」
そのイルは衣装に関してあまり興味がないようだったが。
「ねえ、ギスラン。ギスランはどんな服が好き?」
「どうかされたのですか?」
「いえ、ただ、店を見て回ったからドレスにも種類があるのだと実感して。露出は少ない方が好き? それとも多い方が?」
「カルディア姫に誘惑されている……!」
いつものギスランだ。頭を抱えて真剣に悩み始めた。どれだけこだわりがあるのだろうか。
「カルディア姫でしたら、どれでも好きですが、露出は少ないほうがよいです。他の男にカルディア姫の肌が晒されると思っただけでも、頭が狂いそうになります。でも二人っきりでしたら、刺激的なカルディア姫も素敵なような?」
「言っておくけれど、背中ががっつりあいているドレスとかは着ないわよ?」
リジ―の店で見たあのドレスはいま思い出しても寒気が走る。背中が丸見えで、煽情的過ぎた。娼婦が着るとテウは言っていたけれど、あの服を着るのはもっと選ばれた人間なのではないか。
「カルディア姫ってばそんな服がいいんですか?! 破廉恥すぎる! 絶対にそんな姿で出歩かないように! あらゆる男がカルディア姫に惚れてしまう!」
「着ないって言ってるのよ。変に変換しないで!」
頭がさっきよりもくらくらと回ってきた。興奮しすぎたせいだろうか。客に眠くなってきた。体だるくなり、寝台に横たわる。床ずれを起こしはしないかと怖がるぐらいにはごろりと寝ている。
「カルディア姫、眠いのですか? では、手を握っていて差し上げる。安心してお休みください」
意識が白んでいく。瞼を閉じて、私は寝ようとした。
今度こそ、ハルのあの夢を見ませんように。
けれど、願いは届かない。残酷な夢は私に認めさせようとするかのようにまた繰り返された。
喉を切り裂いたハルが血で濡れた真っ赤な唇をひくひくと動かして笑う。
悲鳴は音楽にかき消される。悲鳴も鎮魂歌の一節に刻まれているようだった。
ぴくぴくと波打つ血肉を虐めるように、ハルは目玉を抉り出した。顔は真っ赤に濡れて、苦痛の色さえ見ることができない。
何度も繰り返されるうちに、私の嘆きは怒りに似たものになっていた。殺意に似た悲鳴をあげて、ハルに縋りつく。
ハルのナイフを持った指が私の髪を梳いた。宥めるような戯れに、ますます怒りが肥大化する。
何度も繰り返されるこの夢になんの意味があるのだろうか。なにもできないと私を絶望させようとしているのか?
ハル。ハル。ハル。
もう嫌だ。彼のことで苦しみたくない。彼の無事が分かればいいのか。それとも、ハルを飼えばいいのだろうか。私の理想はハルが傷つくことなのか?
また、絶叫で、目を覚ます。そのたびに、自分が壊れていく。ぼろぼろの自我がお前は死ぬべきだと訴えかけてくる。それの声に聞こえないふりをして、額を流れる汗を拭いた。
「どうでしたか、女将に聞けました?」
ギスランがいない部屋で、イルの声だけがする。
用事があるといってギスランはどこかに行ってしまった。
姿を見せないのはギスランに配慮して、らしい。姿を見せてくれないとこっちは困惑する。
だが、イルはお構いなしだ。
「聞けなかった」
「はあ? 本気で言ってます? 何のために一人で外出たんです?」
「服を買うためよ」
呆れたような長いため息をこぼされた。
「馬鹿正直な奴はこれだから。でも、酒場には行ったんですよね?」
「……酒場でぶつかってきた男と知り合いなの?」
「おや、よく分かりましたね」
当てずっぽうだった。だがもし、ギスランと私が遭遇したのが偶然でなければ、事前に私が酒場にはいることを知らなくてはならない。そうならば、イヴァンに絡まれる前に店を出て行った男が怪しいのではとあたりをつけたのだ。どうやら、それはあっていたらしい。
「……本当にあの店の女将がハルを知っていたの? 貧民街の裏の事情には詳しいと聞いたけれど、ハルは王都にいない可能性だってあるじゃない」
イヴァンは、ギスランによって酒場に来たこと事態、仕組まれているのではないかという風に怪しんでいたようだった。事情を知らないイヴァンの発言だが、言われてみれば酒場を教えてくれたのは、イルだ。
ギスランが、イルが個人的に教えたという体で私に打ち明けさせた可能性もある。
「ハルは王都から出てませんよ。出てたら、俺だって捕まえてる。あいつが貧民街の中枢にうまく隠れているのは確かです」
「……潜り込んでいるから、居場所が分からないのね」
「そういうことです。女将は情報通ですが、俺にはハルのことを話しませんでした。俺は貧民街で生まれましたけど、あいつはよそから来た奴です。普通なら、俺の方に気持ちが傾くはずだ。けれど、話そうとはしなかった」
「私に女将から聞き出させようとしていたってこと?」
イルの沈黙は同意と同じだった。
そうならば、ギスランが私を見つけたのも計画だったのかもしれない。私が王都に出ていく機会があれば、ハルを捜しに酒場に行っている確率が高い。そう踏んで、見張っていたのだろうか。では、この屋敷に連れてこられたのも、最初から想定されていたこと?
「イルはハルを殺したいの? それとも生かしたいの? どちらが本当なの?」
「……半々ってところですね。ハルが貴女のものになるっていうのが、一番の落としどころだとは思っていますけど、ギスラン様はそうじゃない。姫の周りの男は皆焼き払ってしまいたいらしいです」
「……私があの酒場に行ったから、ギスランはますます頑なになるわね」
「言っておきますけど、俺はギスラン様に、ハルの居場所について姫に尋ねろと言ったこと話してないですよ。でもあの人、知ってました。もうお手上げです」
「もしかしてだけど、お前が声だけしか出してないの、そのことと関係があるの?」
イルの笑い声が空しく響く。ぞっとした。いったい今、どんな姿をしているのだろうか。
ハルの叔母のように顔じゅう腫れあがっていないよな?
「それはそうと、襲われたって本当ですか? しかも移民でしたっけ? 他に依頼者に繋がりそうなものってありませんか?」
「無我夢中だったからあまり記憶が判然としてないのよね。移民だったのは確かよ。それだけしか言えることはないわ」
「弱りましたね。王都は移民だらけですし。せめて喋り方でどこの奴なのかが分かればいいんですけど」
「それは難しいと思うわ。変な抑揚はあったけれど、流ちょうな言葉遣いだったのは間違いないし」
「ですよねえ……。まあ、一応捜査はしてみますよ。ギスラン様は怒髪天を衝いていらっしゃるから、見つかったら殺されるどころの話ではないと思いますけど」
上手く言葉を返せなかった。
「なにはともあれ、今回は無事でなによりですよ。でも次王都に行くときは俺を頼って下さいね。じゃないと俺の首が飛びます。今回だって、流石に死ぬかなって思いましたよ?」
「……悪かったわね。次からは気を付ける」
「俺も、リュウにあんまり挑発されないように気をつけますよ。リュウの奴、俺に突っかかって、貴女を一人で外出させる気だったみたいで、やられました」
「……リュウが?」
てっきり、私が酒場に行くようにイルが誘導していたものだと思っていたが、違うのか。
リュウに私を一人にさせる利点があるのだろうか。
「俺のことよっぽど気に入らないんですかね」
「イルはリュウのこと嫌いなのよね」
「あんな嫌みな男、好きっていう方が稀だと思いたかったんですけどね。なぜか好かれているんですよね、あいつ。他人のこと塵屑以下にしか見てないくせに、どうしてか周りから人が途絶えないんです。何物にも執着しない質だと思っていたら、サガル様に心酔してるし、わけわからないですよ」
「そういえば、ハルもリュウを慕っていたわ」
ハルという名前を呼ぶと心臓が疼いた。毎夜見るおかしな夢からくる罪悪感なのか、それとも、恋い慕うような寂寥感から来るものなのか、明確にしたくない。
「なんでも助けられたことがあるらしいですね。俺は詳しくは知らないですけど。リュウは性悪なので、俺はあいつが貴女に近付くのあんまり容認できないですけど」
「そもそも、あのリュウはなぜ私の部屋に入り浸るようになったのかしら?」
「サガル様に聞いて下さいよ。あの野郎、軽く流しやがったので」
サガル様に、訊いてみるしかないか。
次の夜会で会うのだ。その時に訊けばいいだろう。
しばらくして、ギスランがかえってきた。ギスランは甘い声を出しながら、私に口づけてきた。
イルの声はもうしない。
食事の準備がされていく。今日の料理は何だろうか。期待に胸が躍った。
両手が拘束されている状態にも関わらず、順応してきている自分が少しだけ恐ろしかったが、見ないふりをして、楽しそうなギスランに笑いかけた。
そうすることで、少しでもなにかから、現実から遠ざかりたかったのかもしれない。