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純白のフードを目深にかぶったトーマが顔を上げた。
手には本があった。終盤らしく、残りの頁は少ない。
目を合うなり、舌打ちが響く。
約束の十五分前だ。いつから待っていたのだろう。
トーマは何も言わずに動きにくそうに歩き始めた。
ぽつりと頬を水滴が濡らした。見上げると、図書館の尖塔の先から、濁った水が落ちてくるのが見えた。
雨が降り始めている。
私は、トーマのあとを追いかけることにした。
トーマは私が話しかけても、無視してさっさと先を行く。
話しかけるのは無駄だ。そっちがその気ならば、こっちだって話しかけたりするものか。
図書館を通り過ぎて、校舎に戻る。
城の玄関先には噴水があり、その噴水を軸にすると北側に清族の専用の棟があり、南側に貧民達が住む棟がある。
城は左右対称に作られている。
今日はその左側の一階を歩いているようだった。比較的低年齢の平民達のための教室が多く、元気がいい返事が聞こえてきた。
トーマとの距離は数十メートルだ。姿は見えるが、声をかけても届かないだろう距離。
テウが言っていたこのレゾルールの規則を私はどうとらえればいいのだろう。
あのお遊びを正直恐れていた。上手く振舞える自信がない。失敗するに決まっている。
たとえば、『女王陛下の悪徳』の女王のようにふるまうことが正しいことだと言われたらどうする。
飽きることない悪行、善意を失った行動、愉悦に任せた惨劇。
愛人のために人を陥れ、それを大声で笑う。喉を潰して、その声を肴に酒を浴びるほど飲み干す。
身の回りをあらゆるものを豪奢に着飾り、とっかえひっかえにして遊ぶ。
私は『女王陛下の悪徳』が好きだ。善意は否定され、正義が振りかざされることはない。けれど、同じようなことをしろと言われたら、絶対に無理だ。だが、無理だと言っても、それが正しいと言われたら、階級が落ちる。
誰かが正しさを決めるというのは、自分のなかの正しさが消費されるということだ。
けれど、そもそも、私にはこれが正しいことという明確な基準がない。
あるならば、こんなに悩みはしないだろう。
あるのは、そういうものがいやだという我儘な思いだ。自分の気に入らないものに対する拒否感。
左手で右手の甲を叩きむしゃくしゃした気持ちを発散する。
サガル兄様達がどんな楽しみを見出してあんな遊戯をしていたのかがまったく分からなかった。
手の甲は赤くなってきた頃にはすうっと気持ちが晴れてきた。
トーマがある教室の前に立つと、ノックもなにもせずに扉を開けた。
慌てて追いかけ、中に入る。
頭に当たった。フードの奥から不気味な光を放ったトーマが睨みつけてくる。
あたりを見渡す。蜘蛛の巣が張った掃除道具部屋だ。
箒やバケツ。雑巾などが乱雑に置かれている。
こじんまりとしていて二人はいると、いっぱいいっぱいになってしまう。
外観と内観が違いすぎる。
トーマが人差し指を突き出した。
指先で描くと、白く発光した文字が現れた。
ライドルの現在使われている文字ではない。
突如、発光していた文字達が、部屋中を鳥のように飛び回った。
蜘蛛の巣に頭から突っ込んで糸を頭につけながらも旋回している。
狙いを定めたように空中で文字がぴたりと止まった。そのまま加速しながら床に向かって突進していく。
床に激突した文字達は火花を散らしながら消えていった。
屈んで力尽きて最後に倒れ込んでいる文字を拾い上げる。
もうだめだというみたいに体をしぼませている。
少しだけ可愛い。
よしよしと撫でてやると、ぴんっと文字が伸びた。
少しだけ明るさも上がる。
現金な文字だな。生きているのだろうか。
しげしげと観察していると、横からトーマに文字が拐われた。
あんまりだと言わんばかりに文字が点滅している。
トーマはまるごとそれを無視して勢いよく床に叩きつけた。
容赦ない……。
文字がキラリと光って消えた。すると、部屋の中は一変した。
大きな水槽が部屋の中心を陣取っていた。
部屋の広さは先ほどの十倍ほどだろうか。四方の壁はずらりと水槽が置かれていた。
水槽の中には鹿や猪がまるごと入れられていた。
鹿も猪も水中にも関わらず、動き回って水草を食べている。
つーんとする磯の香りが漂ってきた。海の水のようだ。
術によって隠されていたのか。それを術によって、トーマが詳らかにした。
トーマはくるりと体の向きを変えた。そしてそのまま部屋を出て行ってしまう。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ」
入ってきた時と同じようにいそいそと追いかけた。
ダンに頼まれていた死体群ではないが、あの動物達は一体何の研究に使われていたんだ?
トーマは私の言葉を聞かず、廊下をかつかつと馬車のようにせわしなく歩く。不自由そうに歩く癖にその足取りはよどみない。
追いつくのだって一苦労だ。
「あれ、なんだったの?」
沈黙。
「鹿とか猪って水の中で息できないわよね?」
無視。
「なんの研究をしていたのかしら」
答えない。分かっていたことだが、私のこと、全く相手にするつもりがないらしい。
ダンに頼まれたから仕方なくというのが節々に現れている。
いつまでも喋る気のない相手と見て回るって苦行ではないか。勿論、仲良くなることが目的ではないが、だからって愛想がなさすぎる。
頑なな態度を見せるのは何故なんだろうか。女嫌いとか?
「やっと見つけた」
後ろから大声で叫ばれる。
ぎこちなく振り返ると、強張った顔をしたリュウが大股で近付いて来た。
「いい度胸してるよねぇ? この俺に城中走り回らせたんだからさぁ」
「カルディア姫、逃げるのは流石にびびりますよ」
ひゅっと頭上からイルが軽やかに降り立った。
さっき視界の片隅で見えたが、柱や小さな窪みを足場にして空中を飛んでいたぞ、こいつ。
「しかもトーマ様と一緒とか。間男問題はまじで勘弁してください。俺がギスラン様に殺される」
先を行っていたトーマが肩を竦めて戻ってくる。
イルは非難するようにトーマを見遣った。
「間男じゃねえし」
「ギスラン様って恋は盲目を体現したような方なので見境ないですよ」
「ギスラン様云々よりも、あんたは俺を撒いたことを謝ってよねぇ。あんたのせいで時間を無駄に過ごした! 俺の貴重な時間がさ」
リュウの激しい感情を灯した瞳が私に向けられた。
なんでこいつ偉そうなんだ?
「このくそリュウのことなんて無視して大丈夫ですよ。それより俺と一緒にギスラン様に説明するか考えて下さい。つーかなんで二人一緒なんです? 仲良しでしたっけ?」
「違う」
「ちげぇよ」
「声が揃ってるとこがますますその疑惑を深めるんですけど。間男ならまじで言って下さいよ。覚悟決めますんで」
イルがなんの覚悟をするんだ。
「馬鹿言うなよ。俺にだって選ぶ権利はある」
「ちょっと、それはどういう意味よ」
都合よく無視しやがった。トーマは本当にいい性格をしている。
「……そこの出来損ないも、ギスラン様の手の奴?」
リュウは侮辱されたといわんばかりに眉を寄せて憤りを睨みつけることで現した。リュウが清族の血を引いていると一目で分かったのか。
「違いますよ。サガル様の手下らしいです」
「へえ。サガル様の、ねえ。あの人の下の奴って、顔よくないとだめなのかよ。古今東西の美形ぞろいだよな」
「いやあ、あの美貌でしょ? 普通の顔だとウジ虫に見えるんじゃないんですかね」
リュウが拳をぎゅっと握りしめたことに気が付いた。イルも気が付いたようで、少しだけ体を前に倒して、いつでも迎撃できる体勢で構える。
「まあ、いい。この馬鹿で暇で暇で一日中ぼーっとしてる姫を案内するように、俺はダン様から命令されてる」
「案内なら俺がやる。忙しくて仕方がない清族様はさっさと帰ったら?」
リュウの挑発に、フードで陰ったトーマの唇が上がった。
「俺だってそうしてえのはやまやまだが、ダン様の命令だ。どうしようもねえ。あんたがダン様のお気持ちを変えてくれるなら喜んで代わってやるよ」
「ダン様ですか。清族のトップですよね。交渉できるかな……」
「無理なら付いてくんな。俺は騒がしいのが嫌いだ。見つけたら容赦なくまくぞ」
リュウとイルは二人して黙り込んだ。お互いを牽制するような、出方を伺っているようなそんな沈黙だった。
「言っとくけど、この城の防御術式の理論は俺が構築してる。俺の魔術との親和性も高い。雑魚清族もどきじゃあ、相手にならねえよ」
「……へえ。俺を挑発してるつもりなわけえ?」
「事実を言ってるだけだ。つーか、俺に勝てねえだろ。負けてもいいってんなら相手してやるよ」
「トーマ様って、好戦的ですよね……」
ふっとトーマは笑って、さっききた道を戻り始めた。
慌ててついていこうとするとついてくるなと手を振られる。
「興がさめた」
トーマはそういって、本を小脇に抱えたままどこかへ消えていった。
「むかつく! あんな傲慢な餓鬼にコケにされたなんてさあ」
リュウはぐちぐちと一人腐っていた。
感情を外に出すと落ち着く性格なのだろう。道端に落ちている石を見るような気持ちでぼんやりとその声を耳に入れていた。
イルは私の少し後ろで、首の後ろで手を組んで弱ったように天井を見上げている。
城の玄関口にやってきた。さきほどテウと一緒に見た階級表がある壁を見てみないふりをして通り過ぎる。
このあと、どうしようか。図書館に寄って本を借りてくるか、それとも自室にある童話の続きを読むか。だが、外は雨が降っているんだよな。図書館に行くために濡れるのも億劫だ。
「サガル様、わたくしめのものをお使い下さい」
「いいえ。俺のを。こちらの方がサガル様のお体にぴったりです」
「いいえ、いいえ。こいつらはなにもわかっていないのです。僕のをご利用下さい」
自室に帰る決意をした私の耳にリュウの愚痴とは違う変なものが入り込む。
声の元を探るために視線を巡らせると、私とは反対側の通路からサガル兄様と取り巻きが歩いてくるのが見えた。
すとんと上から下まで覆う純白の衣。帯で腰を締めている。鹿と猪のレリーフが描かれた金のポルパイで肩は止められていた。古代の服装なのに、サガル兄様にとても似合っていた。だが、周りと見比べるとちぐはぐだ。
今から、仮装舞踏会でもあるのだろうか。
サガル兄様が私と目が合うと、助かったとばかりに破顔した。
「カルディア、よければこちらに来て、どれがいいか決めてくれないか」
「は、はい」
いそいそと近づくと、サガル兄様の取り巻きがすがるような目で私を見ていた。
私にファッションセンスを求められても困るのだけど。
ファーがついた赤のマントと椅子の生地に似た硬めの生地で作られた茶色の外套、そして、はちみつ色の軽そうな素材の上着。
うーん。困った。イルとリュウを振り仰ぐと、イルもリュウもサガル兄様に視線を注いでいて、こちらを見ていなかった。
私は指を伸ばして生地を確認したあと、茶色の外套を選んだ。
外は雨だ。この生地だったら撥水性がある。そちらの方が便利だろう。
「ありがとう。お前に選んでもらえてうれしいよ」
「サガル様。お手伝いさせていただきます」
「ありがとう、リュウ」
リュウは外套を受け取ると恭しくサガル兄様に着せた。
慈しむよう眼差しをサガル兄様に向けている。親愛の情に満ちていた。
従者なのだと傍目から見ても分かった。
「この間はよく話せなかったね。時間が取れなくてすまない」
「いえ」
「今度シルヴィーヌ男爵夫人が開く夜会があるんだ。よかったらカルディアもどうかな。皆、カルディアに会いたいと思うのだけど」
「そんな……。バロック家の夜会にも出れなかったのに」
サガル兄様はいたわるような瞳をして私を見ていた。
「バロック家の夜会については心配しなくても構わないよ。あの家の夜会は出向く価値がなかった。お前はこなくて正解だよ」
「え?」
「それよりも、カルディアの気持ちが重要だよ。僕と夜会に行くのは嫌かな?」
「そんな。そんなことはありません」
「なら、よかった」
ぎゅっと手を握られる。指先が触れ合った場所からじわじわと熱が高まって、発火しそうなほど熱くなる。
「僕と踊ってね。他の誰とも踊ってはいけないよ」
サガル兄様はリュウに目配せをすると、優雅に私に一礼して外へと出た。
私が選んだ外套の人間だけがそれに続いた。残った二人が私の機嫌を取ろうと話しかけてくる。お近づきになりたいと思っていた。かわいらしい、地に咲いた一輪の花のようだ。よろしければこのあとお茶をしませんか。
二人の目は野心でぎらぎらと油のように滑っていた。がつがつとした欲望には、貴族らしい余裕がない。
「お前達、平民なの?」
二人の唇の動きが止まった。次に追従するように二人は笑った。
一瞬の羞恥が、二人が平民であることを如実に表していた。
それに、懐中時計のチェーンが平民を表す赤色だ。
そうか、彼らもまた遊戯の参加者なのか。
少しでも上に昇りたい一心なんだ。こういうときに取るべき態度は何だ?
「いい加減にしろ。カルディア姫の邪魔なんだけどぉ。それともなに、あんたらは姫に平民だって看破されたぐらいに卑しいのに、相手できると思ってるの?」
「なっ、無礼な!」
「リュウ、お前煽る専門家かなにか?」
「イルはうるさいから黙ってればぁ? だいたい、姫に名乗りもせずにいるのは礼をかいてると思わないわけ? それとも、利用する気満々すぎて忘れてたとか?」
「サガル様の下僕だからと調子に乗るのもいい加減しろ! 私達の力でお前を処分することだってできるんだからな」
「なら、して見せればぁ? 俺はリュウ。貧民だよぉ。ほら、やって見せてよ」
二人はぐっと歯を食いしばると覚えておけと言って去っていった。
「ははっ、来月の査定楽しみにしててねぇ」
リュウは悪人の笑みを浮かべ、手をひらひら振った。
「ええっと」
「あ、勘違いしないでよぉ。あんたを助けたわけじゃないんだから。うざすぎたから追っ払っただけ」
「大丈夫なの?」
「何心配してるの。当たり前でしょ。あんな奴ら、掃いて捨てるほどこの学校にはいるんだよねぇ。平民だってのに、偉そうにしちゃってさ」
「それにしても、夜会かあ、本当に参加する気ですか、カルディア姫」
「サガル兄様に言われたら、どうしようもないじゃない」
「ギスラン様、報告したら腸煮えくり返るだろうなあ。報告したくないな」
今度はイルがぐちぐちと独り言を言い始めた。この貧民コンビ私が言うのもなんだが、情緒不安定すぎないだろうか。
「あいつら、来月は貧民落ち確定だから。そう言えば、その説明をするためにあんたのもとに来たんだった。部屋戻ったら、その話するからねぇ」
「その前に食事ですけどね」
どうしてだろう。トーマと校内を散策していたほうがまだ楽しかったような気がする。
近くにいるのに、どちらとも壁を挟んでいるように遠い。
……そういえば、バロック家の夜会、なにがあったのだろうか。
サガル兄様が辛辣に言っていたのはなんだったのだろう。