それは金だと彼女は笑う。
「サラザーヌ公爵令嬢は美しい方だ」
貴方の方が美しい。
「どうされたの? また、泣いていらっしゃる」
母が亡くなってできた心の穴が、まだ癒えないの。
「大丈夫、サラザーヌ公爵令嬢。貴女には私がいる」
だから、とギスランは優しい微笑みを浮かべて言うのだ。
「貴女はなにも心配されなくていい」
ミッシェル・サラザーヌ。
大四公爵家のサラザーヌ家の一人娘である彼女は恋をしている。
この世で一番、天使に似た男。ギスラン・ロイスターのことを、幼少の頃から。
ギスランには、同い年の婚約者がいた。第四王女カルディア。根暗で傲慢。社交嫌いで、いつだって本を読んでいるような地味な女。
社交界では彼女が気狂いだともっぱらの噂だった。
幼少の頃から不気味な言葉を口にして周囲を混乱させていたらしい。他にもぬいぐるみ相手に「サガル兄様。お部屋に帰りましょう」と言っていたという話もある。
ミッシェルは彼女が大嫌いだった。
ギスランはいつもカルディアを優先させる。王族だから、それだけの理由で、人格も性格も容姿も優れていない女がちやほやされるのだ。
カルディアがギスランのことを愛していれば、まだ耐えれたかもしれない。
二人は相思相愛であれば入り込む余地はどこにもないのだと納得できたかもしれない。
だが、カルディアは違った。優越感と支配欲を満たすためだけにギスランを跪かせる。
ギスランを捕らえて、離そうとしない。
興味ないふりをして、誰よりもギスランに執心している癖に。誰よりも、愛してはいないのだ。
なぜ、選ばれないのか。
そればかり考えた。結局、身分という壁にぶち当たる。貴族より王族の方が上だから。流れる血の高貴さが足りないから。サラザーヌ公爵家は由緒正しい家柄だ。それでも。王族という血筋には敵わない。
日々、悶々と悩んだ。
自分が、姫になってしまいたいと思ったことが何度もある。
カルディアを殺そうとしたことも。
けれど、いつも、邪魔をされてしまう。カルディアは、生きている価値がない人間なのに皆が尊ぶ。
ミッシェルはそれが我慢ならなかった。
自己愛が強い、かまととぶった女。
なぜ、あの女が、ギスランの最愛の人なのだろうか。
薬を服用し始めたのは、初潮を迎えた頃からだった。
三年上の貴族令嬢から勧められたのだ。
貴族は悦楽を好む。愚直さや正直さは、無粋だと言われる。怠惰をむさぼってこそ、貴族。
ミッシェルは一も二もなく飛びついた。そうでなければ、悪評が立つ。あいつは、生真面目で面白みにかけると揶揄される。
一度失墜した心象を復活させるのは難しい。
たとえ、公爵家の女であろうとも、除け者にされるのだ。ミッシェルにはそれが我慢ならなかった。
薬はすぐにミッシェルを酩酊させた。ゆらりゆらり、幻灯のともった世界では、必ずギスランがミッシェルを選んだ。傅き、崇め、宝石のように扱う。
ミッシェルが愛をかえすと、蕾が綻んだような初々しい顔をみせる。
それを悔しそうな顔をして睨む女がいる。カルディアだ。なんと、胸がすくことだろう。女とは、他人を蹴落とし、男を手に入れることに深い愉悦を感じる。ミッシェルとて、例外ではない。
と、いつも、悦に入ったところで夢から覚める。まるで、そんな妄想に浸っている場合かと叱責するように。
ミッシェルにとって、平民を虐げるのが、この世で何よりも楽しいことであった。貧民もいいが、彼らは卑屈すぎる。自尊心が残る平民の心をズタボロにすることがなにより、夢中になれる。
平民の女達はみな、卑しい獣の性を持っている。
賢く、綺麗であれば、貴族に取り立てて貰えると考えているのだ。
たしかに、一部の酔狂な令嬢が、平民の女を持て囃すことはある。だが、それはお遊びだ。本気で貴族と同列に扱って貰えるなどと思うこと自体、おこがましい。
ミッシェルは、平民のなかでも、商家の娘達と縁を結んだ。表面上、とても親切にした。一週間もすれば、娘達はミッシェルを尊敬と羨望の眼差しで見つめるようになる。ミッシェルが話しかけるだけで、頬を紅潮させ、まるで女神のように讃える。
ミッシェルにとって満足のいく時間だった。年長の令嬢のなかでも主たる女がミッシェルを可愛がってくれたことも、その幸福に拍車をかけた。
まるで学校で一番の価値ある女のようだった。カルディアさえも屈服させられるような。
やがて、調子に乗り始めた娘達に、ミッシェルが囁く。
わたくしの悪口を言っていたときいたわ。
平民の娘達は、他の娘を追い落とそうと、あることないことまくし立て、自分はそんなことを言わない。むしろ私こそが一番の味方だと主張する。
ミッシェルには、虫が共喰いをしているようにしか見えなかった。利己的な彼女達は馬鹿馬鹿しく、滑稽でさえあった。
そんな姿を他の令嬢達とせせら笑いながら眺めるのが、ミッシェルにとって一番の悦楽だった。
母が死んで、父はおかしくなってしまった。
こないだなぞ、酒に酩酊し、売女のようにしなをつくって、ミッシェルに迫った。
近くにいた清族の従者が止めに入らなければ、あの場で父はどうなっていたのだろうか。
ミッシェルは、父に同情した。そして同じだけ、自分を憐憫した。父が正気を失ってから、使用人が次々と姿を消した。母の形見であるドレスや宝石を盗んで。残ったのは、長年仕えている老ぼれ達と清族の従者だけだ。
大四公爵。数百年前に王政復古に尽力した貴族。栄華を極めたのは、昔のことだ。
今や、サラザーヌ公爵家は没落一歩手前。王都にいる商家にさえ負けてしまうほど資金不足だった。同じ大四公爵家でも、ロイスター家は今なお、王族の信任もあつく、魔石の山を持ち金銀財宝でその身を着飾っているというのに。
こちらといえば今では仕える人間さえ不足している。
必ず復興させるのだと、ミッシェルは誓っていた。
そしてそれには愛おしいギスランの存在が必要不可欠だ。ロイスター家とサラザーヌ家が組めば、怖いものなど一つもない。
ミッシェルはギスランに恥ずかしくない女になるために、嘘で身を固めて、彼に迫る。
かならず手に入れてみせる。ミッシェルは固く決意を固めた。
夜会、夜会、夜会の日々。
社交シーズンは忙しい。夜は友だ。母が死んだ時は夜が怖かった。来るたび、来るたび泣いていた。
兄はその頃から病弱で、頼りなかった。
頼りになるのは父だけだった。
けれど今は違う。夜はミッシェルの遊び相手だ。
学校にいると忘れてしまうけれど、この世で最も怖いのは、暇な大人達だ。
学校を卒業し、子供を産み終え義務を果たした貴族達は揃って退屈そうにしている。
だからいつもハイエナのように眼光を光らせ、他人の不幸話がないかと探している。
その大人達になるべく気に入って貰えるように振る舞う。
顔や身体つきが崩れ始めた年増ども相手は、ミッシェルにとって苦痛だ。そうでなくとも同じ話を何度も何度も繰り返す話題性のなさに飽き飽きする。
それでも、大四公爵家の一人であるミッシェルが無礼を働くような行為があってはならないし、家名を貶めるような真似は出来ない。
生まれてから、ここまでずっと教え込まれてきた。サラザーヌ公爵家がどれほど偉大か。高潔であるか。
矮小なこの身に与えられた重荷だが、ミッシェルにとっては誇りでもあった。
決して、その誇りを汚すまいとこれまで尽力してきたのである。
そのための努力をしてきた。
ーーなにも努力していないあの女とは違う。
頭に思い浮かべた忌々しい顔を搔き消し、朗らかな笑みを浮かべる。
ある夜、訪れたのは第四王子の派閥の集まりだった。
第四王子であるサガルはその類稀なる美貌を王妃から受け継いでいた。
完成された究極の美。その前には、あらゆるものが屈服する。
主催した伯爵夫人は、この日のために大金を叩いたのだろう。豪奢な飾りつけを屋敷中に施していた。
ーー羽振りのいいことで。
貴族より平民がお金を持っている時代である。王都にいる商人どもは、分不相応にも金や銀の成金趣味で身体中を加飾する。
今や、貴族の方から金を貸してくれと乞う始末だ。
戦争があった場合、王に助力するのが臣下の勤めである。軍事費は自腹が常だが、先の大戦でサラザーヌ家は太っ腹になり過ぎた。武具も人も一流を雇おうと躍起になったのだ。その借金は転がりに転がり続け、ぶくぶくと膨れ上がっていった。
それに比べて、伯爵夫人はどうだ。
未亡人だが、一人で生きていくのに苦労するどころかこうやって豪奢な夜会を開けるほどには金があまっている。
金はあるところにはあるのだ。
どうにも憎らしい。金などという俗物的なもののせいで、劣等感を覚えるなど、高貴なこの身にはおかしなこと。
「――おや。ミッシェル?」
甘い砂糖のような声で、名を呼ばれ、振り返る。
溶けるような金色の髪。潤んだ水色の瞳。完成され、額縁にいれて眺めたくなるような姿が、ミッシェルに笑いかけた。
ぽおーっと呆けてしまう。
人の究極地点は、この人のことを指すのではないだろうか。完璧な美が、ミッシェルの目の前に当たり前のように存在する。
「ミッシェル? 困ったな。僕のことが見えていない?」
顔を覗きこまれ、慌てて、返事をする。目が焼き潰されるかと思った。
「もう。皆、そういう反応をする。僕だって、人の心があるんだよ。無視は堪える」
「も、申し訳ありません、サガル様。ご臨席されるとは夢にも思わなかったものですので」
「それは僕に来てほしくなかったということ? ミッシェルは、いつからそんなに意地悪な子になってしまったんだろう」
「そうではありませんわ!」
勢い余って首を振る。冗談だとわかっていても、サガルの悲しい顔は見たくなかった。サガルを落胆させたり、悲嘆に暮れさせるのは嫌だ。
「うふふ。冗談だよ。いつも、ミッシェルは一生懸命だね」
「一生懸命など、嫌ですわ。そんなの退屈な人間の証ではありませんの」
「そう? 僕は面白いと思うけれどね。この頃は、怠惰で、堕落したものしかいなくって、まるで判を押したようだよ。享楽も、皆で浸ってしまえば平凡だ」
サガルの言い方は、退屈した貴族らしい倦怠に満ちたものだった。
「それに、一生懸命というのは、初心さの象徴でもあるのさ。老練な人間は、手練手管がうまいだけの愚物だよ。一度味わったら、飽きてしまう」
妙な色気に胸がどきどきと跳ねる。同じような年頃にも関わらず、サガルはあらゆる快楽を一通り味わったかのような、妖艶さを持っている。
それでいて、味わった快楽のすべてが下らない、塵芥のようなものだと見下している。薬に溺れ、そこから抜け出せないミッシェルにとって、サガルは崇拝にも似た感情を抱くに足りる人間だった。
「……まあ、そんな話はどうでもいいね。ミッシェル。お前のお遊びについて、少し話がしたいんだ。いいかな」
遊び。それは、先輩より受け継いだ麻薬の売買のことだ。
少しでも、サラザーヌ家にとって益になればと始めたことだったが、これが非常に利益を出した。今では、遊びという範疇を越えて、熱心に売り込んでいる。
もっと精力的に動けば借金の利息分は払えるはずだ。
「ええ、どうしましたの?」
「麻薬の入手先を失ったと聞いてね」
「ええ。あいつら、治安の悪化を理由に価格を釣り上げてきましたの。足元を見られるわけにはいきませんでしたので、一度契約を切っております」
一度、お灸をすえてやろうと思い行った対策だったが、奴らめ、これ幸いと自分達で売買ルートを確立しようとしている。これだから、金を神だと思っている意地汚い商人どもは嫌いなのだ。
このまま商人達の好きにさせれば、いずれ売値で買うしかなくなってしまう。売価より、安値で出されたら、そちらに流れるのは明白だ。
「それのことなのだけど、どうだろう。いっそのこと、ランファの奴らを切ってしまって、新しい契約先を探すというのは」
「それは……でも、劣化した麻薬では満足できませんわ」
「正式には麻薬ではなくてね。少し、僕も聞きかじっただけだから、詳しいことは知らないのだけれども、魔薬を売っている奴らがいるらしくてね」
「魔薬ですの?」
魔力を増強されるとされる薬だ。ミッシェルは麻薬を嗜むが、魔薬を試したことはない。
ぞくぞくと体が疼いた。新しい快楽が、体を支配すると思うと、すぐに手に入れたくなる。
「本当ですの? サガル様はお試しになった?」
「人並みにはね。種類によるが、麻薬よりも気持ちよくなれるよ」
「本当ですの!? うふふ、それならば、試してみたいわ」
頬に手を当てて胸に訪れたときめきに体が躍りそうになる。
「サガル様、ご紹介いただいてもいいかしら」
「勿論」
サガルに手を引かれる。こうなることを予測していたのだろう。交渉相手を用意しているらしかった。
来賓客達が、サガルと、エスコートされるミッシェルを見ていた。興奮が襲ってくる。優越感に揺れる。世界の中心にミッシェルがいた。
だが、世界の崩壊は、予兆もなく訪れた。
いや、予兆はあったのかもしれない。ただ、ミッシェルはそれに気が付くことはなかった。
売女のように体を売ることになった。愛しいギスランの手によって。醜い子爵はミッシェルの体を舐め回すように見つめて、にやにや笑っている。
これは夢なのだと逃げられたらよかった。けれど、そんなことではミッシェルの心は壊れなかった。
これは、なにかの間違いだ。ギスランはミッシェルの味方だ。幼い頃にそう約束してくれた。
くすんだり、穴のない綺麗な思い出だ。ミッシェルの心の支えでもあった。
ともかく、金を集めなくてはならない。子爵がどれだけ、ミッシェルを買うために貢いだかは知らない。知りたくもない。薄汚れた欲望を金に変換して、この体を買おうとしたあの男のことなど考えたくもない。
必要なのは、金だ。
売れるものはなんでも売った。ドレス、宝石、髪留め、指輪、腕輪、化粧品、香水。淑女として必需品のものも売りに出した。従者、馬車、大きな姿見、壺、絵画。貴族として必需品のモノもミッシェルの一存で決めれるものは売りにだした。
けれど、足りない。全然足りない。
金を貸してくれと方々に頼み込みに行った。けれど、もう十分貸していると言われて門前払いされる。確かに、借金を返していないのに浪費癖が止まず、親類からむしり取っていた。だが、この緊急時に、そんなこと言っていいと思っているのか!
恥を忍んで、サガルを訪ねた。すると、どうだ、慈悲のない奴らとは違い、ある仕事を斡旋してくれた。自分の体で稼ぐのがいい。そうでなければ、また家財のように使用人達に持ち逃げされてしまう。そうやって説得された。なるほど、道理だ。
他人など、信用できない。自分より地位の低い貧民や平民は特にだ。やつらは、あさましいネズミと同じで、あちらこちらを泥のついた足で走り回り、家のものをかじっていく。
金。金。金。金。
金さえあれば、屈辱から抜け出せる。地獄が天国に早変わりするはずだ。
そのために、体を売る。これは手段である。それ以外にない。
家に泥を塗った。取り巻き達には、使用人のように扱われ、恥辱を受けている。ミッシェルは気が狂わんばかりの仕打ちを受けている。
だが、大丈夫。こんなことではミッシェルは心が折れたりなどしない。
いつか、のうのうとギスランを使役するカルディアの代わりに、自分があの人の寵愛を受ける。
ミッシェルと蕩けるほどの声色で呼んでもらうのだ。
その時になれば、あの女はミッシェルのことを羨望の眼差しで見つめるに決まっている。
サラザーヌ家の威光に怯え、ミッシェルの偉大さに気が付き、畏怖するだろう。
「うふ、うふふ、うふふふふふ」
「おい、薬吸わせ過ぎたんじゃねえのかよ」
「いいんだよ。こいつがばがばだろ。飲ませると、よく締まるんだ」
「お貴族様なのに、遊んでたってことかよ。商売女と同じじゃねえか」
「はは、違いねえ。でもよお、このやべえ胸、すげえよ」
頭が蕩ける。男が皆、ギスランに見える。
「ギスラン、ギスラン、ギスラン……うふふ、はあ、はあ」
「そうでちゅよ。ギスランでちゅよー!」
「あはは、くっそ、笑わせるなよ」
「ギスランがお貴族様のこと犯してあげますからねえ」
唾液がこぼれ、体が快楽を求めていた。
金が欲しい。ギスランが欲しい。
カルディアが憎い。貧民や平民どもが憎い。
ミッシェルこそが世界のすべてだ。ミッシェルの思うがままに世界が回ればいい。
そうすれば、悲しいことなど何もない。