それは誰かと水中から覗く。
水泡が上がる。
人が決して到達出来ない深淵。地の底にある、海の中。
その更に下の秘部にあるはずの死に神の居住区は、主人の願いとは裏腹に静かに眠りにつこうとしていた。
死に神が無理矢理力を行使して浮上させた神聖な神の住居は、そもそも境界が揺らぐほど近くにきてはならない。それは慣例にないことだからだ。
それを跳ね除けここまで浮上してきたのは、ひとえに死に神の力故だった。
勿論、あまりにも血が流れ、人が死んだせいでもあった。学校は神聖な地であり、死に神とも由縁のある地だ。だから、無理矢理にでも浮上することが出来た。だが、それだけではなかった。死に神の人を助けたいという思いが地と死に神の居住区との垣根を超えさせた。
死に神の居住区では、時間が遅延を起こす。一秒が一時間にも一日にもなる。
そのおかげで命を長らえたものがいた。
最期の言葉を友に託せたものがいた。
死にたくない。その言葉を叫べたものがいた。
だが、それも少女達の帰還により役目を終えた。
神にとって、あるいは世界にとって、排除しなくてはならない不純物を閉じ込めることが出来なかったという最悪の結果とともに。
なせることはもうなにもない。あとは、海の底へと戻るだけである。
いったいいつになれば、この地から離れられるのか、死に神は知らない。知っているのは、死に神はまた暗い海の底に独りぼっちで時を過ごすことになろうということだ。
カルディアを見送った死に神は処刑台を一瞥だけで消した。
イヴァンへの言葉はすでに届けていた。彼のすべては少女がもっていった。残った残骸に語り掛けるつもりはない。
体を引き摺り、水中を歩く。魚達が恐れるように逃げていく。それでも構わず、鏡の間に向かう。
沢山の鏡を置いた一角は、発光し、魚も寄り付かない。カルディアは絵画だと誤解していたが、これは死に神が作り出した水鏡だった。
勿論、自分を映すためにあるのではない。フォード学校にある世界樹の模倣品を起点として、世界を覗く、死に神のためのカレイドスコープだ。
多くのものを観測し、愛でるために用意された鏡だ。
これは人々が神が持つと信じている千里眼を死に神が概念として捻出したものだった。
死に神はその鏡に手をつけて、ぐるぐるとかき混ぜる。
色が変わり、人が映る。夜が訪れ、太陽が顔を出した。貧民達の汗塗れの顔が見えた。享楽に浸る貴族達のとろけた顔が映った。清族が何度も火山の噴火を止めようと呪文を繰り返していた。平民達が朝起きて食事を取ろうとしていた。
死に神はそれら全てを愛おしそうに撫ぜる。
全て鏡面越しだ。本物を撫でることは出来ない。
そもそも死に神が降臨する際、人は死に絶えている。水の中で、人は生きられない。
「ああ、弟よ。剣神よ。せめてお前の後継者の祝福が仔らに注ぐことを」
水泡が上がる。
下へ下へと、水圧に従うように、死に神は沈んでいく。光の届かない水底へ。
魚達がようやくいなくなってくれたと体をくねらせ、ゆうゆうと泳いでいく。
海は静かに、朝を迎えた。地面の下。その下にある海の底。限られた人間しか知覚できない、謎めいた地底でのことである。