59
「……泣くな」
ゆっくりと目蓋を開けると、悲しげに目を細めたリストがいた。
「頼むから、泣かないでくれ。俺は、お前を泣かせたかったわけじゃない」
真っ赤な睫毛がぱちぱちと動揺に任せて何度も開閉される。
「くそ……」
投げやり口調をこぼし、リストが唇を噛んだ。荒々しい動きで、頬を擦られる。
「分かったから。俺の身分があらわになって、触られるのも嫌なのだな。貧民の男を、お前だって気に入っていただろう。あいつはよくて、俺はいけないのか」
泣いていないと文句を言おうとした。けれど、凍ってしまったように体のどの部分も自由にできなかった。
「あの男のかわりでもいい。俺に慈悲を与えてくれ。お前を与えてくれ。身分不相応であとで殺されてしまってもかまわない。今さえよければ、それでいいんだ。……お願いだから」
泣かないでくれ。
俯いて、リストが切なく呟いた。
その哀願を聞いても私の体は動かなかった。喉を震わせることもできなかった。
身勝手な大人達が自分の罪を隠すために重ねられた罪。その罪の罰をリストは背負わされている。リスト自身が重ねた罪ではないのに、どうして責められるだろう。
その体を抱きしめて慰めたいと思う。私よりもより深く傷ついたその胸のうちを優しく愛撫したいとも願う。だかこれは、優越からの見下しだ。ハルを傷つけた施しだ。
それに、体は拒絶するように固まってしまっている。これは肢体から差別者であることの証のように思えた。
リストが貧民の生まれだったから怖いのか、それとも貧民であることを知りながら王族の血を希求することが怖いのか、そのほかになにか感じるものがあるのか。自分でも理解が出来なかった。
「……もう、いい。何もしない。だから、泣きやめ。お前に泣かれると、だめだ。俺が壊れそうになる。リストが壊れて、名前も分からない男がお前を……」
リストは早口でそういうと、素早く私の上から退いた。
私のそばを離れると、服装を整えた。その流れるような動作がこの目の前の男が私の知っているリストだということを改めて認識させた。
くっと目元を擦る。リストの言う通り、大雨が降ったように泣いていた。
「俺は、なにをしているんだ」
「本当に、どうかしていたわよ」
軽口のようにら文句を言った。リストはそれに乗ってくれた。
「そうだな。さっきまでのことは、なかったことにしろ。お前は俺になにもされていない」
「……お前が貧民の出であるってことも聞かなかったことにしていいの?」
リストの瞳が、また熱っぽく熟れる。
曖昧な顔で笑うと、リストは私に手を差し出してきた。
「お前が決めていい。俺の息の根を止めたいなら、吹聴してもかまわない」
「そんなことしないわ」
「してもかまわない。俺は、国王陛下の命でサラザーヌ公爵が治めていた領土の補佐として赴任することになった。王都にはそうそうに帰れない」
「はあ!? でも、学校があるでしょう!?」
「別に、学ぶことがあってあの場にいたわけじゃないからな。お前にもいろいろと打ち明けられて、心残りもない」
リストは無理矢理笑っていた。
ぎゅうっと心臓が握りつぶされた心地だった。
「それでいいの、リストは」
「別に、不満ではない。南はこの頃きな臭い。部族衝突の可能性があるんだ。そうでなくとも、公爵の代変わりで大赦が行われる。農民達もこれ幸いと減税を求め争いが起こるだろう。俺はいずれ土地を貰うか、軍の要職に就くのだし、知っていて損はない」
そういうことを尋ねたいのではない。
リストは意図して質問の的を逸らしている。
唸りたくなるのを抑え、どうしたら感情を引き出せるか考える。
ぐるぐる考えたがろくなものを思いつくことが出来なかった。
「お前は俺をリストと呼ぶことが嫌ではないのか?」
「……お前は嫌? リストと呼ばれることが」
「物事着く頃からリストと呼ばれているんだ。そう呼ばれるのには慣れている。それに、安心するな、俺はまだリストなのだと」
「名前も分からない男にならないから?」
「……そうだな」
自分は王族ではないと知った後、リストが自分の名前をどんな気持ちで聞いていたのだろう。
私達が生きるこのライドルは階級制度が根深く食い込んでいる。
もし自分が貧民だったら。
昔はなりたいと思っていた。ハルを見ていたら、貧民も悪くはないと思えたからだ。
けれど、今は、なってしまうのが怖い。
「私、リストの名前、とても好き。呼ぶのも、お前がこっちを見て応えるのも」
「小さい頃もそう言っていた。お前は小さい頃から構われるのが好きだから」
「か、構われるのは、それは好きよ?! な、なに、悪いの!?」
「いいや」
リストが苦笑した。
「お前が呼びたいなら、リストで構わない」
「そ、そう。……あのね、リスト」
「今度なんだ、カルディア姫」
リストの茶化すような物言いに変な汗が出てきた。もごもごと口ごもってしまう。
目を瞑って、大きく深呼吸した。
「て、手紙のやり取りをしましょう」
「手紙?」
「そ、そう。いきなりその、肉体関係に至るのは、官能小説だけでいいと思うの! たしかにリストに対する恋愛感情はないし、ギスランがいるからそういう関係には絶対になれないけれど。その前に、お互いのことをもっと知る期間が必要だと思うのよ」
「はあ。……はあ?」
「な、なに? もしかして本当にあれなの? 私の血だけが目当てで他はいらない? それとも王女だったら誰でもいいの? そういえば破談になったけれど王女との結婚話があったわよね」
「俺はお前一途だったわけだが。確かに前に王女と結婚話が持ち上がったが、あんなの、政略結婚以外の何者でもないだろう」
一途と言われると、無性に照れるのだけど……!
「お前、襲われそうになった相手に手紙のやり取りから始めましょうって、子供でもやらないぞ」
「う、うるさいわね!? 普通にさっきのは怖かったわよ?! でも、リストとここで会えなくなるのも寂しいじゃない!」
「寂しいって……お前何歳だ」
「そう思うことはいけないこと?」
リストを真正面から見つめる。数秒間視線が絡む。
先に目を逸らしたのはリストだった。
「……甚だしく遺憾だが、お前の好きなようにしろ」
「本当?」
「ただし、汚い文字を寄越したら返事はなしだからな」
むっと眉を上げる。
別にそこまで字が汚いわけではない、はずだ。
「あと、ギスラン・ロイスターから検閲されても問題ないようにしなくてはいけないな。あとで暗号でも決めるぞ」
「探偵小説みたいね」
「そちらの方が面白いだろう? 俺達だけの秘密だ」
ああと嘆息したくなる。
こうやって、リストと手紙のやり取りをして、どうするつもりなのだろうか。
自ら泥沼にずぶずぶとはまっていく。リストと離れたくないという感情のあまり、曖昧模糊な繋がりを持とうとしている。リストをその気にさせて、目の前に希望という餌をぶら下げて離れなくさせるつもりなのだ。
これは十分ひどいことなのではないだろうか。
リストはさっきから、私が望むならば、と卑屈な対応をしている。
そのことは、私に悦びの感情を芽生えさせる。
これではだめだとわかっているのに、どうして、こうなったのだろうか。
「後日、改めて連絡する。可愛いお前の体に、重い体が乗って悪かったな」
「い、いえ。大丈夫」
リストは嫣然と微笑んだ。
「ああ、そうだ」
目をぱちくりと瞬かせる。リストの顔が突然明るくなったのだ。
「あの貧民と平民どもが虐殺された日。貧民の一部が避難を率先的に行った。おかげで、被害が防げた。それで、慰労も兼ねて奴らを訪問したのだが。奴ら、俺の名に助けられたというじゃないか。話を聞くと、花のように美しい女性に俺の名前を出して逃げるように言われたらしい」
それは、もしかしなくとも、あの夜会の時に助けた貧民達のことだろうか。
よかった。きちんと、逃げられていたのか。
それにしても、あの混乱した場面で被害を防ぐだなんて、すごい奴らだ!
並みの貧民ではなかったのではないか。
「お前に助けてもらった命だから、報いようと思ったらしい。あの方にくれぐれもよろしくと言われた。誰もお前のことを悪辣に罵るが、お前の軽率な行動によって、たくさんの人間が救われた。ならば、俺がこういっても構わないだろう。卑しくも、俺はあの場で軍人を名乗っていたのだから。……感謝する、カルディア姫。皆を助けてくれて」
リストは静かな声で続けた。
「お前の行動で、人が動いた。大勢の人間が死なずに済んだ。お前が人を救ったんだ」
空を見上げる。霧がかかっていて、何も見えない。
すべてが朧だった。
リストは帰った。使用人達は近くにいない。
立つのに手伝ってくれたリストには悪いが、その場にへたり込んでしまった。
いろいろと思うことはある。けれど、そのどれもまとまらず、欠片のようにばらばらだ。
組み立てるのは、容易ではない。安定したときに時間をかけて繋ぎ合わせなくてはならないと思う。
そうして、また分かりやすいように整理し、事実を掴む必要がある。
けれど、今、それをできる気がしない。
この場には、私一人しかいなかった。
間違いばかりしてきた気がしていた。実際、間違いばかりだ。正しいことなんて、一つとしてやってきていない。地図で確認したら私の歩んできた順路は崖だらけだろう。
けれど、その間違って、正しいことがなにひとつできない人生でも、少しは人を助けるために選択できていた。ずっと迷って、馬鹿みたいに悩んでいたけれど、あの時行動したことは後悔しなくていいのだ。
きっと、ごめんなさいと呟く日々は終わらない。責められる苦難は消えない。
貧民達が自主的に行った、彼らが褒められるべき事柄なのに、私が満足感を抱くのはよくないことだというのに。そのことを救いを見出している自分がいた。
「私が、人を救った」
その言葉に私の心の方が救われた。
それから、何日か天候が悪かった。霧雨が降り、深夜になると霧に隠れて何も見えなくなった。
たまに警邏のものだろうか、見回りの洋燈の光が朧月のようにか細い光が霧を照らしていた。
そして、ようやくの晴天の日。
ギスラン・ロイスターがやって来た。