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「さて、どうしたものかな」
死に神はさして悩んでいる様子も見せずに二人を見つめている。
「人を殺したのは、忌むべきことだろうか。それとも正直に話したのだから許すべき? それにしても、はなおとめ、人を批判できるほど、高潔な者は存在するのだろうか? 罪の一つ犯していない聖人が存在するのか。咎なくして死ぬ清廉な者が俗世に存在するとは思えない。なあ、どうして人は、己のことは棚に上げて批評し、悪し様に罵ることができるのであろうか。罪を犯した者を前にして、こうはなるまいと忸怩たる思いにかられるのだろう。同じ罪を犯していないと、犯すことはありえないと、どうして言い切れるのだろう。それほど、自分に自信があるのか。神たる身でもないのに?」
饒舌な口調は熱に浮かされたようにすらすらと語られた。
死に神の弁舌は少年がこれはなに、あれはなにと尋ねる様子とよく似ていた。無邪気に、大人にも答えられない質問をぶつけてくる。
「なあ、はなおとめ。どちらを地獄に落とすべきだろう。こう言い換えてもいいかもしれない。どちらをより苦痛から解放したいか、と」
本当にカンドをイルが殺したのか確認してもいないのに、どちらが悪いか結論を出さなければならないのか?
私は裁判を観覧した経験はない。
だが、リストやギスランから話はきいたことがある。王都にある裁判所は薄汚く、毎日のように罪人が罪を宣告される。陪審員達は王都にいる国民達だ。とはいっても平民以上の階級が席に座る。下級の身分の者は弁解を認められない。弁護士をつける権利は金が持っている。
法学を修めた清族が陪審員達の為にわかりやすく解説し、評決させる。刑は速やかに執行され、監獄か死刑台送りにされる。
死んだかも確認されていない不確定な状況で判決を出すものなのなのだろうか。せめて判決を下す前にカンドが死んでいることを確認したい。嘘をつく必要はないが、本当に殺したのか、確証はないのだ。ハルを庇ってというのはなんだか変だが、なにかたくらみがあって嘘を言っている可能性がある。
「ここは死後の世界なのでしょう? ならば、カンドがいるのではないの? 会わせてほしいわ」
「不可能だ」
「なぜ?」
死に神は曖昧にほほ笑むだけだ。
疑念の火が灯る。だが、その火がなにをあらわすのか掴めない。
「あー、あー、カルディア姫? カルディア姫? 俺の声、聞こえます?」
イルが明朗とした声を張り上げた。
「今から、ハルの過去の話しをします」
「イル、なに言ってるんだよ」
「カンド殺したこと、俺は白状しただろ。まあ、俺が殺した人間の数は鳥人間の比じゃねえけど。とと、さらに地獄に近づく告白だった。自重、自重。俺の悪い話ばっかりだと分が悪い。ハルだって綺麗じゃない。天国は似合わないってこと、暴露してやろうと思ってさ」
「それはいい。お前の暴露の内容によっては、天秤の傾きが変わるかもしれないぞ」
「それは恐悦至極でございますよ」
死に神は前のめりになって、イルの言葉に傾聴する。
イルは道化を気取るようにお辞儀をすると、ハルをじいっと凝視した。
「お前さ、人殺そうとしたことあるよな」
「……なんで、知ってる」
ハルの顔は土煙色になっていた。
こめかみを手の平でとんとんと叩く。
ハルの姿が七変化していく。花に水をやるハル、歌をうたうハル、貴族令嬢に言い寄られるハル、空賊の一員であるハル、私に噛みついたハル、そこに、私ではない誰かを殺意のこもった瞳で睨みつけるハルの姿が加わる。
私を殺すという言葉を信じていなかったわけではない。だが、ハルが手を血で汚すことを認めたくない自分がいた。
「ギスラン様はお姫様を好いていらっしゃるんだよ。病的なまでにな」
ちらりと私の方をハルが一瞥した。真っ黒な穴のように底が見えなかった。
「説明になってない」
「お姫様に近づく奴には厳しい精査が行われる。まあ、そうでなくともお前は空賊の人間だ。経歴は調べられるものだ」
お前の生まれた村を訪ねたのだとイルは淡々と答えた。
ハルの表情は苦悶にまみれていた。石像のように固まり、やがてその凝り固まった表情がほどけ、年取った娼婦が見せる艶やかな微笑を湛えてた。
「俺の汚い過去なんて暴いても楽しくなかっただろうに。ご苦労様。ま、いまさら、ばれたところでどうとも思わないけれど。……イルの言う通り、俺は人を殺そうとしたことがある。この手で、殺そうとした」
「どいつもこいつも、自分はお綺麗ですって顔して人を指さして責めることは達者だよな。まあ、俺も人のこと言えないけど。どうだ、神様。貴方ならば、俺とこいつどちらが悪いと思う?」
死に神は、頬杖をつき、足でミミズクを蹴飛ばした。
「つまらぬ」
「え?」
つまらない?
死に神は興味を失ったと指を曲げて骨をぽきぽきと鳴らしている。
「人を殺したものと人を殺そうとしたものでは、圧倒的に前者の方が悪い。自明の理だろう。いや、時と場合によるのだったか。簒奪者であれば、殺しは正義と認められ、反逆者であれば不名誉な死を賜る。人の罪の観念ほど信用できぬ価値もない。矛盾を抱え、己の罪を正当化する。残酷で幼稚だ」
そういいながらも、死に神はいつの間にか用意したらしい木槌を振り上げた。
「人を殺した者が有罪だ。地獄とやらは、つらかろうが、人が想像しうる絶望があるだけ。達者でな」
カンカンと音が鳴る。ハルとイルを照らしていた光が消えた。
光が消える瞬間、二人が私を熱心に見つめていた。ハルは縋るように、イルは諦めたように。その視線にいてもたってもいられなくなり死に神の膝の上で暴れた。けれど、腕の力でねじ伏せられた。
「はなおとめ。あまり手間をかけさせるな」
死に神はそういうとぱちんと指を鳴らした。
二人はどうなったのだろう。あんなに杜撰な評定でイルは地獄に落ちたのか? ハルは天国にのぼったの?
ただ、死に神が興味を失い、うやむやに決めたと言わんばかりなのに?
もっと死後の裁きは厳粛に行われるものなのではないのか。
これでは、善良な人間も悪辣な人間もどっちでも構わないじゃないか。
広間がまた光で照らされた。今度、その光の中にいたのはサラザーヌ公爵令嬢とトーマだった。
サラザーヌ公爵令嬢は真っ青な顔をして、トーマを悪罵している。トーマは座っていた。杖がないから立ち上がるのが難しいのか、立つ気配もなかった。
彼はまるでサラザーヌ公爵令嬢に興味を示さず、ずっと死に神を見つめていた。
「さあ、はなおとめ。次はもっと楽しめるとよいね」
わくわくとした様子で私に同意を求める死に神に悪寒が走る。
玩具で遊ぶ子供だ。地獄も天国も、死に神にとっては裁判ごっこをするための設定にすぎないのだ。
「どうしてあんな怪物を買ったの!? あんなものがいなければ、お父様は!」
サラザーヌ公爵令嬢の悲壮な声にトーマは反応を返さない。その態度に、サラザーヌ公爵令嬢の怒りが増した。
「お前が殺したも同然よ。お前がお父様を殺したのよ。かわいそうなお父様。お父様、お父様……」
嗚咽をこぼし、サラザーヌ公爵令嬢は蹲った。
「はなおとめはどう思う? 死の原因を作った相手は憎いもの? 殺していないのに、殺したと言われてる。それは正しい糾弾なのだろうか」
飄々とした問いかけに答えを返すことができない。
奴隷として買ったものが人を虐殺する怪物に変えられてしまった。それは、だれが責任を負うべきものなのか。買ったトーマか、そう怪物を作り上げたものか、それともそれを罪だと弾劾するものか。たとえ、分かったとして誰が正しいと裁きを下せる? 善良な人間か? だが、誰が善良な人間を善良だと認めるのだろう。客観性のない善良は果たして善良と言える?
そもそもあの怪物は人間だった。善悪二元論の範疇を越えている。人間を怪物と呼んでいる私達は善良なのだろうか?
死に神の指が私の喉を撫でた。氷の塊のように冷たい肌だった。鼻を押し付けられ、臭いをすんすんと嗅がれる。いいようもない恥ずかしさをまとった熱が項を駆けあがっていく。
「なぜ、触るの?」
「はなは愛でるものだろう」
「私ははなでも、はなおとめでもない」
「愛でられるのが嫌? 憎まれるより、ましだろうに」
死に神は私の肌をなぞり、髪をすくいあげた。
「そちらの白いの。お前は何も言わないのか?」
「……あなたが死に神か?」
「俺のことが気になる?」
「もちろんだとも。俺は、このような下卑た遊びに付き合うつもりはない」
「下卑た?」
死に神は小さく顔を傾げた。気分を害したというよりはなぜそんなこと言われたのか、理解できないと言わんばかりの困り顔だった。
「俺は十五になるまで死なない。こんな茶番はごめんだ」
「妖精を扱えるもの達の一人か。これは珍しい」
「死に神よ。お聞きしたい。なぜ、こんなことをする? あなたは罪人を裁くのだろう? 天国か地獄、どちらに行くか裁定する役割を持つはずではないのか?」
「お前のように若く聡いものには初めて出会った。だが、俺の遊戯の邪魔をした。それは罪だ」
死に神は木槌を取り出して打ち鳴らした。
「そのものを地獄に落とせ」
光が消滅した。
死に神は裁判を無理矢理終わらせた。
トーマと死に神の話が端的過ぎて私にはよく分からなかった。けれど、死に神が下した判決で確信を得る。どっちでもいいのだ、死に神には善も悪もない。おそらく、どちらが悪いという考えすらない。人という個に対しての客観的を越えた無関心。無関心ゆえにどちらが天国に行こうと地獄に行こうとどうでもいいのだ。
私達が虫のひとつひとつの見分けがつかず、無数に存在する一つに固執しないように、死に神もまた人の一人一人に興味はないのだ。
私が思い描いていた公平な死後の罰はないのだろうか?
この死に神は、人が起こす矛盾や葛藤、思考は好いているのだと思う。新しい知識を得ることを喜ぶダンのように、人が起こす感情の発露に体を乗り出すほど興味を抱いている。人の起こす行為を、その結果を、その矛盾を、その理想を、少しでも理解しようと努めている。けれど、それは人という言葉を辞典で調べて合致したと喜んでいるようなものだ。目の前にいる人ではなく、抽象化された、全体化された人を見つめているだけに過ぎない。
死に神は一人の英雄にも、孤児にも同じように興味を示し、同じように興味を無くすだろう。
「次だ、はなおとめ。次は面白い。俺も大変興味をひかれているのだ」
「トーマは地獄に落ちたの? トーマだけじゃない。イルも? ハルは天国にいったの? サラザーヌ公爵令嬢も?」
「そんなことはどうでもいい。さした問題でもないだろう」
屹然とした物言いには本当にどうでもいいだろうと思っているのだ。
「お前は本当に死に神なの?」
死に神が引き攣るような笑い声を立てた。
「裁判で必要なのは、善を判定することではない、正義を掲げることでもない。悪を裁くことでもない。なぜならば、善も悪も定まることはないからだ。人の世では、秩序を守るためにこそ、法はあった。なぜならば、人は、言葉を取得し、対話を覚えても血を見ることが好きでたまらないのだから。なのに、面白いとは思わないか、はなおとめ。人は死後の世界に善悪を求める。判然としない法によって裁かれることは、現では悪だとされるのに、だ」
「……それは、答えになっていないわ」
「――はなおとめ、答えが必要?」
月影のような光が注いだ。リストとカリレーヌ嬢の姿が浮かび上がる。二人はお互いに重傷を負っていた。リストは片目に血が滴るせいで目が開けない様子だった。腹部も負傷したままだ。カリレーヌ嬢は右のわき腹と肩が真っ赤に染まっている。二人は剣とナイフをそれぞれ手にしていた。
これまでの四人とは緊迫感が違う。リストもカリレーヌ嬢も殺気をまとい、お互いに睨みつけていた。
リストが剣を構えた。リストがカリレーヌ嬢のことを殺そうとしていると気が付いた。そして、カリレーヌ嬢もリストのことを殺そうとしている。
「なんで……」
ここは死後の世界ではないのか。どうして、こんなところまできて殺しあおうとしているの?
「リスト!」
たまらず、リストの名前を大声で叫ぶ。
真剣のような鋭い視線が私へと向けられた。困惑をあらわすように眉が少し上がる。唇もそれにつられるように上がった。まるで怒っているようだった。
「カルディア?」
明瞭な響きが私の耳に届いた。声には怒気は含まれていなかった。
「ばか。ばかすぎる。どうして、お前がここにいる」
「リスト」
「お前にはこんな暗い場所似合わない。さっさと帰れ」
「そうね。こんな暗い場所、お似合いなのはあなたのほう。リスト様――いいえ、薄汚い商人の息子」
会話に割り込んできたのはカリレーヌ嬢だった。
手についた血を舐めとり、うっそりとリストへと微笑んだ。
「ああ、そうかもしれないな。だが、それはお前とて同じだ。何人殺した? あの怪物を放って、どれだけ食わせた」
「知るものですか。そんなものに意味も興味もありませんわ。貧民も、平民も、あの怪物の胃袋のなかに入って己の罪を悔い改めるといい」
「気狂いめ。『聖塔』の支援者でなくとも、その庇護を受ける貧民や平民ならばだれを殺してもいいと考えている」
「宰相閣下によりはましよ。自分の不倫の罪を隠すために、ただ真っ赤な髪を持つ、ただそれだけの理由で貴方を王族として迎え入れたのだから」
カリレーヌ令嬢は何を言っているのだ。
リストが商人の息子だとか、宰相の不倫を隠すために迎え入れられたのだとか、馬鹿馬鹿しい。
「どうだったのかしら、王族として生きた時間は。誇らしかった? 嬉しかった? 幸福な日々だったのでしょうね。自分が誇らしかったことでしょう」
「そうだな。誇らしかった。自分が選ばれた人間であることを当然だと慢心していた。俺に与えられた真っ当な権利だと」
リスト?
話を合わせて、皮肉を言っているのか? なぜ否定しないのだろう。頭が混乱してきた。
リストの赤い髪の間にある額に弱々しい皺が寄った。そこを河の流れのように血が滴り落ちていく。
「だが、真実とは残酷なものだ。俺はそれを知り、隠してきた。だが、まさか、お前のようなものにまで知られていようとはな」
「サラザーヌ公爵はわが父の友でした。酒を飲むと彼はあなたや王族の秘密を暴露した……。口のかたい父はそれを決して他に話すことはしませんでした。だがわたくしは二人の会話を盗み聞いていた。軍事のことや今後の政策について聞きたかった。神から与えられた天啓の通りに人々を助けるために。人々の痛みを取り除くために。だけど気が付けば、国の黙された秘密を覗くことになったわ。知りたくもないことを知ることになった」
「サラザーヌ公爵はやはり知っていたか。まあ、ギスラン・ロイスターが知っていたのだから、大四公爵どもは俺の素性を知っていても不思議はない、か。道化のように思っていたのだろうな。影で笑っていたに違いない」
なにもかも諦めたような重いため息のあと、リストが私を一瞥した。
視線が交わったとき、記憶が釣り竿にかかった魚のように引き上げられる。
誘拐された後、突然軍に入ることを決めたこと、時たまに見せる卑屈さ、そして熱っぽく私を見つめる懇願するような瞳。ギスランの異常な敵愾心。そして揶揄するような言葉たち。
ひとつひとつはなんでもないようなことだったのに、収集され、箱に入れて並べられると意味をもつものばかりに思えた。
「嘘だ」
今更、そんなことを言われて受け入れられるはずがない。私達は従弟だ。王族の血筋を持っている。リストは傲岸不遜で、気高い。自分の血に流れる王族というものに誇りを抱いている。そうだ、私やサガルのように歌をうたうのが下手だ。もうこれは、王族の血の呪いだと笑った日があった。美しく歌うものを保護する方なのだから、自分の声で歌わずともいいのだと慰めあった。
体の中心が震えている。体中の震えがとまらない。喉の奥が痙攣をおこして、なにも喋れなくなる。
「落ち着いて。はなおとめ」
心の奥に染み渡るような凪いだ声だ。サガル兄様の声によく似ている。体の震えが声に愛撫されて徐々に平静を取り戻して落ち着いていく。腹のうちにあった怯えや恐れごと息を吐き出す。
……本当のことなんだ。
冷たい死に神の手を掴む。首筋にも同じ温度を感じだ。
「ええ、笑っていたでしょうね。だって、おかしいもの」
カリレーヌ嬢はけたけたとわざとらしく笑った。
「だから、殺してやると思ったのよ。王族の顔をして高慢に過ごしているあなたを、わたくしが殺してやると」
「……お前も、かわいそうな女だな」
リストは、憐れっぽくカリレーヌ嬢を見て、俗っぽく口の端を上げた。
「俺は憐れな奴の方が愛らしいと思うたちだ」
挑発的な言葉だった。カリレーヌ嬢は衝動的にナイフを振りかざした。
「うるさい! 穢れた血め!」
「お前の父を殺したのは、馬鹿な魔薬中毒者どもであり、空賊であり、それを支援した下層階級どもであるわけだ」
「ええ、だからこそ、死ぬべきだわ。忌まわしい男。王族のふりをして貴族を騙すペテン師!」
巧妙に避け、リストは剣を持つ手に力を込めた。
「誰が力を貸した? あの怪物や情報戦はお前だけでは不可能だろう」
「サラザーヌ公爵の子息――エド様に助力いただいたわ。その後、寝込んでしまわれたエド様に代わりサラザーヌ公爵にご尽力いただいた」
「エド、か。なるほど、ではサラザーヌ公爵令嬢の噂は本当だったわけだ」
リストが一足に間合いをつめてカリレーヌ嬢の手首をつかんだ。もがくカリレーヌ嬢の手首を捻ってナイフを落とさせた。足で落ちたナイフを遠ざけた。そして、剣を首にそえて、身動きをとれないようにしていた。
「それで、サラザーヌ公爵令嬢も殺そうとしたのか?」
「ええ」
一言一言を噛み潰すようにカリレーヌ嬢は言った。
「あの女は、わたくしを侮辱した。父を亡くしたわたくしにあの女がなんと言ったと思う? 自業自得だわと笑ったのよ。理不尽に奪われたわたくしが原因のように、大勢の前で嘲笑った! 看護婦の真似をしたのが悪いと? 人を助けたいと思って何が悪いの!? 片腕を亡くした将兵がわたくしに言った。あなたがいたから助かったのだと! その言葉に喜びを感じては、なぜいけないの?」
「看護婦の真似事だけならばよかった。貴族の女らしく、安全なところでのうのうと生きればよかった。人を助ける快楽ならば、救貧院でも味わえただろう。王都の貧民街で炊き出しにでも参加すればよかったのだ」
「神が、わたくしにそうせよとお教え下さったのです。戦場に赴き助けよと、お命じになった」
「ほう? ならば、そこの神がお前に人を救えと命じたのか?」
リストは死に神を指差し、鼻で笑った。
「お前が鳥人間を差し向けたのではないのだな」
「するものですか。お前達、卑しい血筋のものが策を巡らせたのでしょう!? ……お可哀そうなカルディア姫。高貴な方が、罪を問われるなんて!」
「理論が崩壊しているな。もう、正しいことすら分からないのか」
「うるさい、うるさい! あいつらが憎い。どうして父が殺されねばならなかったの? どうして、わたくしの地位が蹂躙されねばならないの。どうして救いに従事していたわたくしが厄介者のように扱われねばならないの。無視され、拒絶され、貧民や平民のように扱われねばならないの!」
カリレーヌ嬢は半狂乱でそんなことをリストに怒鳴りつけた。
体をよじってなんとか剣から体を離そうとしている。だがその行為が逆に首筋に刃をめり込ませる原因となっていた。しかし、カリレーヌ嬢はもはや傷つこうとどうでもいいといった風で、暴れ馬のように手足をばたつかせる。
「どうして正当な血筋を持つわたくしが卑しい奴らよりも惨めな思いをしなくてはならないのよ!」
分厚く重なった雲のように濃い影が二人から伸びている。
カリレーヌ嬢を掴むリストの腕や剣を持つ手が、影のなかでは伸び上がる枝のようだった。自殺者の森の話や木と同化した妖精の話を思い出す。陰惨な夜が二人に纏わり付いている。
「父が死んだのよ。どうして、わたくし達だけ不幸にならねばならないの。不幸になれ、汚らしいもの達すべて! 呪いあれ、侮蔑の視線あれ! 口ぎたなく罵られ、唾棄され、苦しみにのたうち回ればいい!」
カリレーヌ嬢の顔が土煙色に変わった。疲れ果てたのかぐったりとし、もう暴れ回ることもなくなった。
「殺さぬのか?」
馬鹿! なんてことを尋ねるのだ、この死に神は!
おどおどとする。リストは軍人だ。殺すと決めたら、殺してしまうだろう。だが死後の世界なのに殺せるのか?
トーマの言っていたことはなんだったか。
リストは私を見て、死に神へと視線を移す。
「真にお前が死に神というのならば、人間同士の諍いも、嘆きも、憤りも酒の肴になり得るか?」
「俺は酒は飲まぬよ。酔えもせぬ」
「……神にお目にかかったのは初めてだが、神というより俺には悪魔に見える。角が生え、蕩かすほどの美しさを持つとは」
「……そうだろうよ」
面白いことをきいたと言わんばかりに死に神は破顔一笑した。
「お前達にとっての死とは蕩けるほどに甘美なものなのだろう。忌み嫌うふりをする癖に、気になって気になって仕方がなく、魅入ってしまうもの。お前達がそう望み、俺がそうある。それだけのこと」
意味深長なことを呟き、死に神が木槌を振り上げる。
即座に反応し、死に神の腕を掴む。だが、音もしていないのにリスト達の姿は消えた。こちらを見据えたリストも、リストに抱えられたカリレーヌ嬢の人形のような姿も消えてじった。
死に神が私を抱きかかえ直した。
ハルもイルもサラザーヌ公爵令嬢もトーマも、リストもカリレーヌ嬢もいない。残ったのはギスランと軍の兵士達だ。けれど、いつまで経っても死に神が次の審判をする様子はない。
これはどういうことなのだろうか。ギスラン達の裁判は終わったということなのか、まだ始まっていないということなのか。
耐えられなくなって腰を浮かそうとした。
「死に神、冥王、地底の神、地下の魔物、死の化身。水葬するわが国では水の神であるともされる。また、種は土のなかから芽を出すため豊穣の神と同一化されることも。名前はトート、ハデス、プルート、ミノス、タルタロス。無数に存在する」
秘密事を打ち明けるようなからかい混じりの声がした。
「これは神の中でも珍しいことだ。女神には姫の名前。天帝にも恋人たる花に捧げた全き名があるらしい。死した神の名は廃れ、信仰されることはもはやない。だが、死に神は名が無数に存在する。これはいかなることか」
数秒の心地よい間が訪れた。
小柄な白髪の男がむすりと不機嫌そうな顔をして私の手を引いた。
トーマだ! 地獄に落ちたのではなかったのか!?
目を白黒させている私に構わず、トーマ死に神に向き直った。
「まったく、神というのは興味が尽きねえ。神学が専攻ではないが、気になるものは気になる」
ぎゃっと小さく悲鳴を上げたくなるほど腕に爪を立てられる。
唖然としてトーマを見つめる。
荒い息を吐き出している。頬を手で包むと、飛び上がりそうなほど熱い。すぐに警戒心の強い猫のような顔で振り払われた。
「トーマ、お前、熱あるじゃない!」
「うるせえ、さっきぶしつけな女に殴られたせいだっての」
「殴ってはないわよ!」
どうしたって、平手打ちしたからではない。死後の世界のはずなのに発熱するんだ。死後の世界にも病があるのか?
混乱しつつ、視線を彷徨わせる。トーマは興味津々な瞳で死に神をみつめている場合ではないだろうが!
熱を冷ますことに集中するべきだ。
死に神は気分が削がれたといわんばかりに美しい顔を曇らせた。
「本当に死の神か? それともただ神を語る者?」
「俺に対して無礼千万な言動であると分かっている? 容易く捻り切れる首を持っているのに、浅慮なことだ」
「おれは、十五にならねえと死なねえ」
トーマは熱を孕んだ潤んだ瞳でのそりのそりと死に神に近寄った。支えるように私も死に神に近付く。
「あんた、だれ」
「だれ?」
死に神が眉根を寄せて首を振った。
「俺は、死に神だ」
「違う。あんたの名をきかせろ。あるのだろう? 本当の名が」
襟首を掴んで、トーマが死に神を揺さぶった。衣服が乱れるのを死に神は嫌がってトーマを突き飛ばした。私も巻き込まれて倒れこもうとした。
だが、倒れ臥す前にトーマに腕を掴まれる。熱を発して汗ばんだ肌が触れ合う。
瞳にはさっきよりは理知的な光があった。
死に神の服が乱れ、生肌がむき出しになる。
「その腹にはいったい何があるのだ?」
死に神はトーマの言葉に頭を抱え、慟哭した。篠突く雨のような激しい音だった。荒れ狂う死に神の服を剥ぎ取り、トーマが驚嘆の声を上げる。その声も死に神の声にかき消されてしまう。
だが、私はきちんと死に神の腹部を見た。そこには女の顔がついていた。そして、四つの手が膝を抱えるように女の顔を隠していた。
「見るな、見るな。どうしてお前達はそのように陰部見たがるのだ。黙された秘密を覗き見たいのだろう。何もかも知っていたいと欲張るのだろう。ただ、愛玩されていればよいものを、どうして眷属どもは神の秘密を暴こうと無邪気に尋ねるのか」
「死に神」
ミミズクが騒音を撒き散らす死に神に近付いて項垂れた。
「人間は愚かだ。醜く、おぞましい。我らの美しさを理解せず、忌まわしいと切り捨てる。このような身勝手なものども、嫌いになれればよかった! なぜ、愛してしまった。……人の作り出すものには価値がある。恋情や愛情、憎しみ、悲しみ、妬み、恨み、どれと綺羅星のように眩いではないか。俺はそれに惹かれた。けれど、人間にそれほどの価値があるのか?」
鼓膜が破れてしまう。目眩がして、立っていられなくなる。耳と目を塞いだ。けれど、音の振動は肌に伝わり、骨を響かせる。
宙に浮く感覚がした。
足に青い髪が絡みついた。河の水のように清冽だった。
艶やかな髪の持ち主は私の頬を撫でた。
顔を覗き込む前に、意識が途絶えた。