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残酷描写あり
「カルディア姫もいらっしゃるの?! って、そっちがお父様を拐った賊ね!」
まくし立てるような早口で唾を飛ばすとサラザーヌ公爵令嬢は弓矢をつがえようとした。だが、はたりと月光に照らされたハルの顔を見て、私を振り返る。
「この貧民は、あなたが寵愛していた下男じゃないの! 最低、貴女、この男に頼んでわたくしのお父様を拐わせたのね!? なにがそんなに憎いっていうのよ!」
ずんずんと口付け出来そうなほど近付いてきたサラザーヌ公爵令嬢の迫力に呆気に取られる。
こんな令嬢だったか? 少なくとも、弓矢を担いでいるような女性ではなかったように思うのだけど。
「ま、待って、サラザーヌ公爵令嬢。誤解よ。落ち着きましょう。深呼吸して。もし拐うのを頼んだのが私ならば、ここにいたら、馬鹿でしょう?」
「貴女は超弩級の馬鹿じゃない」
即答された答えにいらっとした。落ち着けと、自分に言い聞かせる。
普通に考えれば、命令を下した人間と実行した人間がこんな夜に一緒に行動しないだろう。冷静になって欲しいと睨み付けると、頭が冷えてきたのか、サラザーヌ公爵令嬢は目線をハルへと戻した。
ハルは事の成り行きを見守っている。カンドはやっと、立ち上がろうとしていた。
「ま、まあ、こんなところで言い争いをしている場合ではないわ。もうすぐ、あの怪物が来るもの。もっと奥へ、森へ行かなくてはいけませんの」
「怪物?」
その言葉に鳥人間の姿を思い浮かべ、戦慄が走る。
「それは、鳥人間のこと?」
サラザーヌ公爵令嬢は首を振った。その頬には血がこびりついていた。
「……違いますわ。もっと、貪欲で、獰猛なもの。……貧民や平民をむしゃむしゃと食べる怪物ですわ」
「貧民が?」
ハルの怯えた声を無視して、サラザーヌ公爵令嬢は説明を続けた。
「地震がありましたでしょ、そのあと、大雨は降るし、そうかと思えば花が降ってきて。大パニックになりましたの」
うんうんと頷く。カンドに会った頃のことだな。……置いてきてしまった部下達は大丈夫だろうか。気になったが、まずは怪物の詳しい話が先だ。
「わたくしは召使いから、お父様が拐かされたときき、つい、弓矢を手に賊を成敗しにいこうと思いましたの」
「女が一人で賊を成敗になんて、馬鹿なの?」
「馬鹿に馬鹿と言われたくありませんわ! 召使いの他に手を貸してくれる知り合いがいなかったのだから、しかたがないじゃない。私の下僕はどっかに行っていたのだし! ……まったく、あいつは、いざというときに使えない奴だわ」
「周りの貧民や平民達に頼めばよかったじゃない」
「……わたくしはいま、この学校で、一番力のない貴族なのよ!? 誰が力を貸してくれるっていうのよ!」
よくよく見ると、サラザーヌ公爵令嬢は縞模様の赤と黄色のマントを羽織っているが、胸元は肌蹴ており、谷間が見えた。首筋には噛み跡が残っている。
サラザーヌ公爵令嬢がさっきまで何をしていたのか気付き、体が固まる。
ーーサラザーヌ公爵令嬢は、体を売っている。
あの噂は本当なのだ。10万ベリーで一晩を共に。
「……だからって、一人で、なんて」
サラザーヌ公爵令嬢の月明かりに照らされた顔が強張った。
「まあ、話をきいてくださいませ。流石のわたくしも、そこまで無謀ではありませんわ。そこらへんにいる気がいのない奴らは無理でもリスト様達を頼れないかと思いましたの。リスト様は軍の方ですし、腕っ節もたちますから。それでリスト様を探してーーあの怪物に遭遇してしまったの」
その怪物は周りにいた貧民や平民の頭を齧るとむしゃむしゃと美味しそうに食べていたのだという。サラザーヌ公爵令嬢は最初逃げようと思ったものの、恐怖で逃げられずにいるところ、その怪物に目をつけられ追いかけられてしまったらしい。それで森まで逃げてきたのだという。
「人が多い場所に逃げ込むわけにも行きませんもの」
「……それでここまで逃げてきて、私達に出会ったというわけね」
頷いたサラザーヌ公爵令嬢は背後を振り返りその怪物が追ってきていないことを確認すると、額を拭った。
「あの怪物、森が怖いのか、途中で歩みが遅くなりましたの。このまま森に逃げこめば、勝機はあるものではないかと思いますわ」
「怪物がこちらに来ている……」
「ええ。だから、森に潜らなければ。お父様を中心にして進むべきだわ。わたくしが先頭に立ちますわ」
「俺達も同行せよ、と?」
カンドの声だった。サラザーヌ公爵令嬢は冷酷に一瞥すると、まさかと鼻から息を吐いた。
「同行させましょう」
「ぼんくら姫は黙っていて下さる? これは、お父様を拐った賊なのよ。背中を任せられないわ」
「男手は必要でしょう。それに、貧民よ。私達より森を熟知している」
「……詭弁ですこと。見下げ果てた女だわ。ギスラン様がいながら、他の男に熱をあげるだなんて」
なぜここでそんな話になるのだ。きちんと話をきいていたか?
「サラザーヌ公爵令嬢」
「私の母は、賊に殺されたのはご存知? 貴女のそういう無神経なところが大っ嫌いなのよ」
うっと呻く。不謹慎なことを言ってしまった。サラザーヌ公爵令嬢の心を踏み躙る言葉だった。
「……ごめんなさい」
謝罪するとふんと、サラザーヌ公爵令嬢が鼻を鳴らした。
だが、実際問題、案内役は必要ではないだろうか。
ミミズクに目線を向ける。カンドの背中でまだ眠っているようだ。呻いたのに起きなかったのか。道案内を頼める様子ではないよな。
「俺達の意思を聞いていただきたいのだがね」
「黙っていなさい」
「あんた達が囮になっているあいだ、俺達が逃げるってのはどうだ?」
「そこに座りなさい。卑しい貧民」
サラザーヌ公爵令嬢を慌てて止める。
化物が迫っているのに、説教をしている場合ではない。
そういえば、なぜ、サラザーヌ公爵はさきほどから黙り込んでいるのだろうか。サラザーヌ公爵令嬢よりも苛烈に怒りそうなものだが。
「鳥人間の時は俺らにそう命令しておきながら、命令されるのは好きじゃないときたもんだ。貴族とはなんと傲慢な生き物なのか」
「命の価値が平等とでも思っているの? お前達の小さな鼓動は、私が魅せる一夜の夢にも劣る価値しかないわ」
「売女風情がよく吠えるもんだ! 蹂躙されたお前の体など珍しいから高値なだけだ。数ヶ月後には俺の片目ほどの価値もないだろうよ」
「なんですって!?」
掴んだ手を振り払われる。二人とも熱くなって、状況が見えていないのだ。
助けを求めハルを見るが、ふいっと顔を逸らされてしまう。
ハルの馬鹿!
このなかでたった一人の大人であるサラザーヌ公爵に救いの手を求めようとして、瞠目する。
「ふふふ」
サラザーヌ公爵は唇を手の甲でおさえて笑っていた。
あまりの事態に気が変になってしまったのかもしれない。
女神よと、天を仰ぎたくなる。私に人を説得できる能力を今だけ付与させて下さい。あるいはここにいる人々に理性を返して下さい。……現実逃避している場合じゃない。私がしっかりしなくては。
「サラザーヌ公爵、気をしっかり」
「その女に、そんな価値はないよ。馬鹿なお前」
くすりとサラザーヌ公爵は場違いにも穏やかに、そして意地悪く笑った。私に言われたのだと思い、一度激情にかられそうになったがサラザーヌ公爵の視線は明らかに私を素通りした。
「お父様?」
いまにもカンドを弓で射抜こうとしていたサラザーヌ公爵令嬢がきょとんとして公爵を見つめた。
「馬鹿な貧民。階級を嫌い、差別を憎むくせに本質を理解していない」
「なんだと?」
「お前の眼前にいる女が貴族に見える? 無教養な人間は、これだから困る。身につけているもので、高貴さが分かる? 話す言葉で高尚さが判断つく? それは張りぼての貴さでしかないというのに」
「何言ってんだ、あんた。頭でも狂ったか? この女はあんたの娘だろ?」
歯を見せて、サラザーヌ公爵は婉然と微笑んだ。
「その女は私の娘ではないよ。我が妻に恋着したあげく殺し、私が殺した賊の血をひく穢れた子。お前達と同じ、貧民の血をひく不浄な子だもの」
ーーあの子は殺さねばならない。
サラザーヌ公爵がこぼした言葉が時間遅れで私の耳に届いた。
「な、なにを言ってらっしゃるの、お父様?!」
「何を驚いているのだ、ミッシェル。お前とて、自分が我が家で疎まれているのは知っていただろう?」
「……お父様?」
「それはね、お前が不義の子だったからだ。お前の母親は淫売でね、特になにがいいのか、破落戸どもの逞しく泥臭い胸に抱かれるのが興奮するのだと言っていたよ」
サラザーヌ公爵令嬢の顔が真っ青になっていく。ハルが小さく身震いした。意を決して守るようにサラザーヌ公爵令嬢の前に立つと、公爵を睨みつける。
「今、話すことじゃないでしょ。化物が迫ってるって」
「私は化物など怖くない。貧民は黙っているがよいよ」
「あんたの娘、血の気がひいてる。今じゃなきゃ駄目なの、それ。違うだろ」
「私の娘ではないよ。一滴たりとも私の血は混ざっていない。なあ、貧民風情が私とその女の語らいを邪魔する権利があると思っているのか?」
ハルがサラザーヌ公爵令嬢を庇ったことはそんな時ではないと分かっているが苛立つ。さっき私から顔を逸らしたくせに。
サラザーヌ公爵令嬢が貧民の血をひいていると分かった途端露骨に態度を改めるのか。そんなやさぐれた感情を持ってしまう。
頬を叩く。個人的な感情は後だ。ハルの言葉は正しい。化物が迫っているのが本当ならば、逃げなければならないのだ。
「サラザーヌ公爵。貧民ではだめならば、私の言葉はきいてくださる? ここは、私的な話し合いをしている場合ではないわ。逃げるべきよ」
「……心配されずとも、私達に危害は加えられない」
「それは、どういう意味?」
「黙って。今は説明しているときではない。あの子に全てを教えてやらねば」
大きく息を吸うと、サラザーヌ公爵はハルを押しのけた。
「その男と妻が出会ったのは、息子が生まれたあとのことだっただろうか。どこから見つけ出してきたのか、定かではないけれど、とても醜い男だったことは覚えている。賊の男は、すぐに妻に惹かれた。野心、恋情、憧憬……様々な感情を満たす理想の女だったからだろう。やがて、彼女はお前を産んだ。賊の男を彼女も憎からず思っていたようだ。貴方の子として育てて欲しいと言われた。私は頷いた。私と彼女の関係は決して恋愛ではなかった。政略結婚だったからな。私には他に思う方もいたのでね」
サラザーヌ公爵はこっそりと妖しげな笑みを見せて私に顔を寄せた。
「王妃殿下のことですよ」
楽しげに鼻を鳴らして、サラザーヌ公爵の顔が離れていく。彼の横顔は舌なめずりをする野獣のようだった。
魔性の女の笑い声が耳の中で騒いでいた。私の知らぬところであの女は沢山の悪意の卵を植え付け、羽化させているのではないのか。知らず知らずのうちに、私はあの女の掌の上で、踊っているのでは。
サラザーヌ公爵はわざと私を揺さぶるようなことを言ったのだ。みるみるうちに頭に血がのぼる。馬鹿にされている。貶されている。嘲笑われている。色々な屈辱が私を蹂躙した。たが、奥底にあるのはわざと挑発されたことへの恐怖だった。
サラザーヌ公爵は私が冷静な判断を下せぬようにしたいらしい。それは、なぜ?
「話がずれた。私は子供はよいと言ったよ。だが、血は貧民の卑しい子。どうにも、なあ。かわいくはない」
「愛していただきましたわ! わたくしはお父様の血を引いているのだもの!」
頭を振ってサラザーヌ公爵令嬢は否定する。けれど、その声では遮れなかった。
「時が経ち、お前は育ち、賊の男が屋敷を訪れた。久しぶりのことであったよ。己の子が見たくなったのか、それとも懐古によるものか。あるいはゆすりにきたのか。それは知らない。妻はその男に会った。美しい思い出は、男の精悍な肉体が衰えていたことにより醜悪に塗り替えられた」
サラザーヌ公爵はサラザーヌ公爵令嬢の頭をがっしりと掴んだ。
「当時、付き合っていた男に入れ込んだせいでもあるだろうがね。もはや、相手するにあたわずと思ったのだろう」
つれなく屋敷を追い出された男はどんな醜悪な感情を抱いたのだろう。その後も男は夫人に会いに来たが、取り合われることはなかった。そして、あの日。劇を観に行ったが、夫人だけが先に帰ってきてしまった。夫人に冷遇され続けた男の愛は憎しみに変わり、凶行に及ぶ。
そして、その男を公爵が殺した。
「間男に殺されたとあっては貴族の女として可哀想だと思ってね。賊に殺された、としたのだよ」
「嘘よ!」
金切り声を上げてサラザーヌ公爵令嬢が腕を振り払う。
「嘘なものか。……可哀想な子。純愛を望んでいた? そんなもの、この世にあるはずがない。そうでなければ、お前のような子は生まれないよ」
月の光に照らされるサラザーヌ公爵令嬢の顔を見つめる。彼女は、賊の血をひく子?
ギスランが言っていなかっただろうか。サラザーヌ公爵令嬢は公爵のひたむきな愛を信じている、と。両親は仲睦まじい夫婦だったのだということを。
それを最悪の形で裏切られた。父親に、自らの忌まわしい出生とともに。
頬を叩くような強い風が吹いた。一瞬、息を忘れる。風に乗ってやってきたのは、嗅ぎ慣れない異臭だった。油のような、肉のような、どろどろとした液体を想起させる澱んだそれは、まるでサラザーヌ親子の関係をあらわしているようだった。
サラザーヌ公爵はサラザーヌ公爵令嬢のことを殺したいのだ。物理的にではなく、精神的に。
なぜ、そんなことをする?
今更だ。彼女が賊の血をひいているということをここで明らかにして、どうなるというのだろう。このおかしな打ち明け話の意図はなに?
衝撃的な話のせいで、失念していた。化物はすぐそこまで来ていた。空にぽっかりとあいた穴のような満月だけが醜悪な化物の存在を確かに知っていた。
化物の到来に気が付いたのは、異臭がまったく風に流れていかなかったからだった。固まっていたサラザーヌ公爵令嬢の肩がぶるぶると上下に震える。
ああああという唸り声がどこからか聞こえてきた。それは歯と歯が擦れる音に似ていた。その音がだんだんと大きくなっていく。
がさがさと茂みが揺れた。生白い肌が飛び込んできた。四つん這いのそれは、大きい乳房をだらしなく垂れ下げながら花冠を踏みしめる。たっぷりとした贅肉がついた腹は、うっすらと汗がにじんでいた。月に照らされたミルク色の肌は動くたびに蛇の皮膚のように光沢が浮かび上がる。
――それは、人間だった。
太った全裸の貴婦人が獣になった遊戯をしている。
そういわれれば、納得できるほど、それは人間の女であった。
これが、怪物なのか?
伺うように、サラザーヌ公爵令嬢へ視線をやる。だが、その途中でハルがごくりと大きく喉を鳴らしたのが見えた。憑りつかれたように視線を注いでいる。
その熱心さは異常だった。ハルと、小さく名を呼ぶ。聞こえなかったのか、ハルは反応を示さない。
四足歩行で女がぬるぬると近付いてきた。ハルが歓喜の身震いをして、女に近寄ろうとした。熱に浮かされた足取りだった。とっさに腕をひく。くちゃくちゃの前髪に隠れた瞳は熱っぽくうるんでいた。ハル、と再び名を呼ぶ。
痰が絡んだみたいに息を吐き出してハルが私を見た。潤んだ瞳は静かに理性を取り戻し始める。
はっとしてハルは女を仰ぎ見た。
「カンド!」
さきほどのハルと同じように、カンドは誘いこまれるように女のもとへ歩んでいっていた。ミミズクが邪魔になったのか、いつの間にか背中が空っぽだ。視線を彷徨わせるとミミズクは転がり落ちていた。ぐうぐう鼾をかいている。
陶酔したままカンドは、贅肉と巨大な乳房に押しつぶされるように女にひざまずく。実った柔らかな胸を揉み、晒された陰部に口づけようとする。女は優雅にカンドの体を観察すると、肩に手をおいた。カンドの体が喜びに跳ねた。
女は誘うように、カンドの首筋に顔を近づけ、そしてそのまま、大きく口を開けて腕に噛み付いた。ごりごりと石で骨を砕くような音がした。次の瞬間、カンドの右肩から先は、女の口のなかにおさまっていた。
血が吹き出し、壮絶な悲鳴がカンドから上がった。女は押し潰すように体重をかけて痛みに喚く男を組み伏せた。
緩んだ笑みを浮かべて、肉の断面をぺろぺろと美味しそうに舐めている。
人間が、人間を食べているのか?
「ーー姫、奥へ行きましょう! お父様も! 仕方がないから、そこの貧民も一緒について来なさい!」
「いいや、カルディア姫、私達は死にはしない。安心するとよいよ」
「お父様!」
「正しい階級をこの美しい怪物は区別できる。貧民達よりは審美眼があるのだよ」
屈託なく笑うサラザーヌ公爵にぞっとする。この状況で笑っていられるなんて、正気の沙汰じゃない。それに、なぜ、この怪物のことを理解しているという風な物言いをするのだろう。
まるで、最初からこの怪物のことを知っているような口振りじゃないか。
「サラザーヌ公爵、まさか、あなたが怪物をけしかけたの?」
サラザーヌ公爵は口元を緩めたまま、何も言わない。
「それ、貸して!」
ハルがサラザーヌ公爵令嬢から弓矢を奪い取ると、一心不乱につがえた。一度目はあらぬ方向へと飛び去った。
気持ちを沈めて、冷静にひきしぼる。すると今度は矢が流星のように飛翔し、女の肩を射抜いた。女はどたばたと大地を揺らすように暴れ回った。弓矢を放り投げ、ハルがカンドに駆け寄る。
カンドは女の下から引きづり出されると必死の形相で駆け出す。顔面は涙と唾液でびしょびしょに濡れていた。
なくなった右腕を庇うように、カンドは体を丸めた。強烈な血の臭いに気圧される。止血しないといけない。でないと死んでしまうーー。
カンドは死んでいない。母様のように殺されてはいない。大きく息を吸って吐く。血が沸き立っている。うなじあたりからきゅるきゅると変な音が出ていた。全身の毛が逆立つように身震いする。誰もまだ死んではいない。落ち着け、落ち着かなくては。
「死にたくねぇ! 死んでたまるかよ、死ぬなら、てめぇが死ね!」
すれ違ったとき、大声でまくし立てながらカンドがどんとサラザーヌ公爵令嬢の肩を強く押した。
「ひっ」
顔面からサラザーヌ公爵令嬢が前に転がった。幸い、花冠のおかげて怪我はしていないようだが、恐怖からか、うまく立ち上がれず、小さな背中が小刻みに震えている。
カンドは森へと消えていった。血の道が点々と月光の届かない不気味な森の門に続いていた。ぐいっと腰に手を回される。体が宙に浮く。しっかりと私を担いで、ハルがカンドの後を追おうとしていた。
「ハル!?」
こんな時でも、人質として私を連れて行く気なのか!?
ハルの行動ひとつひとつが、私を困らせる。どんどん、ハルがどんな人間だかわからなくなる。なぜ、同じ人間でいてくれないのだ。どうして、違う顔を見せるのだ。
布越しに伝わるハルの体温が憎い。
じたばたと手足をばたつかせる。サラザーヌ公爵令嬢のこともおいていけないが、すやすや眠っている馬鹿ミミズクも置いてはいけない。あいつ、捨て置いたら、丸呑みになるまで不用心に眠っていそうだ。
「おろして」
「無理。だめ」
「サラザーヌ公爵令嬢を助けなくては。それに、少年も」
「あの女は、父親に任せておけばいいよ。あのミミズクは……心配だけど、野生だし、自分でどうにかする」
やはり、ハルもあのミミズクだと気が付いていたのか。
「公爵は、サラザーヌ公爵令嬢のこと見捨てる気だわ。さっきまでの会話が聞こえていなかったの!?」
「だったら、なおさらだ。俺はあんたを抱えるだけで精一杯だよ。お貴族様まで救えはしない」
「じゃあ、私ではなく、サラザーヌ公爵令嬢を担いで! 私は走れるもの」
「……あんたの歩みは遅いでしょ。すぐに捕まるに決まってる」
「じゃあ、なんで私は助けるの?」
ハルの歩みが止まる。凝然と見つめられる。さきほど浮かべていた熱っぽさとは違い、切実な色を瞳のなかに内包している。
「まだ、合図を出していないから」
「合図?」
「気づいていないと思った。あんたって、にぶい」
ハルは私を抱えなおした。体を横倒しにされ、ハルの胸の前で固定される。ハルの腕は太腿と腹部に回っていた。
「あんたの首は俺のものなんだから、いまここで死なれちゃ困る。あんたの骸の上で王族としてふるまう遊びを楽しみにしてる。だから、連れていく」
ハルの言葉からはそれが真実そう思っていることなのかどうなのかもわからなかった。額面通りに受け取ったら、危機的だ。どっちみち、殺される。けれど、ちぐはぐなことに、ハルはまた、今殺そうとはしない。いま死なれちゃ困ると、私を助けようとしている。ハルの心はどこにあるの。
ハルは、何を思っているの。
心を覗き込み、分かればいいのに。そうすれば、こうも名や悩まなくて済む。
「ハル」
「だから、諦めて。あの女を置いていこう。カンドの言うように、犠牲になってもらおう」
ハルの唇がきゅっと吊り上がる。覚悟を決めたように、また走り出す。
私は、ハルの首に手を回した。
悲しげな揺らぎを一瞬だけ表情にのせて、ハルが目を細めた。