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どうやら私はバッドエンドに辿りつくようです。  作者: 夏目
一章 『夜の女王とミミズク』
32/104

32

 

 青が支配するリストの部屋。目を覚ますと、私は彼の寝台に横たわっていた。むくりと立ち上がり、寝室の扉を開ける。リストは、続きの部屋で、堂々とした体を斜めに倒し、王座の上に腰掛けるように肘をついていた。

 目が据わっていた。隣の椅子を叩かれ、誘導される。

 甘えを一切消し去った、上官のような顔つきだ。軍人のリストの顔。

 きゅっと目を瞑り、覚悟を決める。

 椅子に座った私に、リストの雷が落ちた。



 がみがみと叱りつけられたせいで、精神的に滅入る。リスト、怒りすぎだ。

 それだけ、ハルと会っていたことが気にくわないらしい。

 しかも、それだけではなくギスランの部屋で寝泊まりしたことにも言及された。ふしだらで、男漁りが好きなカルディア! と屈辱的な言葉まで浴びせかけられた。

 ココについての情報は、不愉快だと一蹴され、聞き出せなかった。リストはココに対して敵意以上の感情を抱いているようだった。

 貧民達の死についても尋ねた。だが、やはりリストはどこ吹く風だった。


「卑しい奴らの情報をお前の耳に入れて、どんな利点があるというのだ」


 この調子だ。

 リストのなかでは貧民や平民の死は、空気のように軽く、重さがない。

 いくら、私にとって重要だと述べても、俺には関係ないと澄まし顔をされる。

 ……本当は、うすうす感づいている。

 貴族以外を贔屓にすれば、諍いが起こる。それを、リストは危惧しているのだ。実際、ココはハルが、私の寵愛を受けていると勘違いし、殺そうとまでした。階級による差別。それが、心の支えになっているものもいる。

 おぞましいことだ。虐げられた人間が、さらに弱い人間を虐げる。負の連鎖ではないか。



「カルディア、お前はたった一人の貧民の言で惑わされるのか」


 リストは、ハルの言葉に、私が強く影響されているから気になるのだろうと断言する。だが、それは私が貧民の被害者達を知らなかったからだ。ハルの言葉だから、と言うわけではない。……そう、思いたい。


「カルディア」


 リストが私の髪を引っ張り、真剣な面持ちで私の額を撫でる。

 憎い瞳だった。私を心配するような労りの色が色濃く映っている。


「もう、関わらないでくれ」

「なぜ」

「身分というのは厄介なものだ。誰しも、高貴さを望む。己が汚れた存在だと認めたくはないからだ。誰よりも美しく、価値あるものがいいだろう? それは誰も、変わらぬ。お前は、王族だ。この国でもっとも美しい者の一人」


 違うと首を振る。

 私は、誰よりも、汚く、穢れ、醜い。

 頭の先からつま先まで、大嫌いなものが詰まっている。

 それは私利私欲だったり、煩悩だったり、驕慢、強欲といったりした人間の陰の部分だ。私には、そんなものしかない。

 自己嫌悪が虫になり、身体中を這っている気分だ。リストと話していても、気を抜くと虫達に食い殺されそうになる。


「あの貧民とて、変わらない。お前が第四王女だと知り、化けの皮を剥ぐぞ。人の面を被った野獣どもは、人皮を被り獣の臭気を殺してしまう。なあ、カルディア。お前が王族だと知って、態度が変わらない人間がいると思うのか?」


 リストは目敏い。

 私とハルの関係を、短い時間で掴んだらしい。ハルが私を王族だと知らないことを勘付ていた。

 ゆっくりと指先が首へと降りてくる。

 気がつけば、首筋にじっとりと汗をかいていた。甲斐甲斐しく、リストが指で汗を拭いてくれた。肌に痺れが走る。

 真っ赤な睫毛に縁取られた瞳は、爛熟した果実だ。

 リストは、なぜか、恐ろしいほど執拗に私を凝視していた。瞬き一つすら惜しいと言わんばかりに、偏狂的な視線が顔に注がれている。

 ぬるりと滑った舌が、艶かしく動く。リストの舌が、悪魔の持つもののように官能的な代物に思えた。邪婬を招き、人を誑かす、人ならざるものの魔性の引力があった。


「よく思い出せ、お前の母が死んだあと、誰がお前に毒を盛った? 誰がお前をバルコニーから突き落とした?」


 リストの言葉に、体が乗っ取られたかと思った。びりびりと四肢が波立つように痙攣し、過去の記憶が頭で何度も繰り返される。

 リストの腕を掴んだ。


「人は皆、裏切るぞ。もし会いたいならば、殺される準備をしておけ」


 額に口付けを与えられた。聖者の祝福のように。

 いや、祝福ではない。これは邪婬の使徒の呪いだ。

 リストは、私をどうしたいのだろうか。

 老朽化した漆喰のように、ぼろぼろと嫌な記憶が顔を出す。

 自分がどれほど疎まれているのか。何度確認すればいいのだろう。






 リストが用事があると部屋から出て行き、数時間経った。私はこそこそと盗人のように隠れて部屋を出た。

 警備の人間は、なぜかいなかった。

 花園へ走る。この時間ならば、ハルがいるはずだ。

 会って、話がしたかった。弁解をするつもりなのか、有耶無耶にするつもりなのか、自分でもわからなかった。


 ーー誰がお前に毒を盛った?


 忌々しい記憶がほじくり返る。あの邪婬の使徒め、嫌な記憶を蘇らせてくれる。


 ーー誰がお前をバルコニーから突き落とした?


 過去の残滓を振り払い、花園をくまなく探す。


 ハルはすぐ見つかった。

 いつものように水遣りをしていた。

 渇いた声で歌っている。聞き取りづらい、喉の奥から響く悲鳴のような声。ガマガエルの鳴き声だって、この声よりましに聞こえる。

 振り返ったハルの瞳は真っ赤だった。

 しわくちゃなシャツ。不清潔なズボン。

 しとしとと、泣きながら歌っていた。鼻がつまるのか、たまに息苦しそうに呼吸をしている。

 私はリストの言葉を振り払い、ハルに近付いた。


「ハル」


 彷徨う焦点が、ぴったり私に定まる。

 瞳が揺らいだ。暗い、翳りを帯びたものに変化する。


「来る気がしてた」


 咳をしながら、息苦しそうにハルが呟いた。

 どうして来たのか。ハルの姿を見て、ようやく気がつく。

 リストがここにいたら、殺されに来たのかと嘲笑うだろう。幻夢のリストに頷いた。私はカルディアを殺しに来たのだ。


「俺は……」

「私は」


 目を細めて、私は笑った。不敵に見えるように。傲岸不遜なリストを真似て、偉そうに。


「全部、知っていたわ。貧民も平民も、沢山、人が死んだと。だけど、それがどうしたというの」


 射殺されるかと思えるほど、強烈に睨みつけられた。

 腕を組む。そうしなければ、立っていられない。


「ハル、お前達は人間ではないわ」

「ーーーー」

「だから、私が悼む必要はどこにもないの」


 ハルは真っ白になるぐらい、唇を噛み締めていた。

 拳が震えている。怒りにたえるように。


「カルディア、姫」


 絞り出すように、名前を呼ばれた。

 気高い血がこの肉体には流れている。私は、第四王女カルディアだった。

 ハルに会う前も後も変わりなく、王族だった。

 それを忘れていた。貧民になりたいと、本気で思っていた。

 愚かな妄想。考えなしで滑稽だ。劇に出て来る道化みたい。喉の奥で自嘲する。


「興が乗ったから、お前で遊んでいただけ。もしかして、私がお前に好意を抱いていると? この私が?」


 ハルの顔が強張った。怒り、悲しみ、苦しみ、負の何もかもが混ざった表情だった。そうだ、ハルの顔に出やすいことが、とても好きだった。


「ありえないわ。私には、お前が馬に見えるもの。無様に鳴き声をあげる家畜。賤の屋で暮らす、卑しい動物」


 いっそ、本当に馬になって欲しい。

 見ているだけで胸が締め付けられる。あくあくと呼吸を乱しそうになるぐらい、つらい。

 どうして、そんなに泣いているのよ。怒り狂っていればよかった。殺してやると、凶器を突きつけられたほうが、どれほどよかったか。


「あんたも俺も、人間だよ」

「いいえ、お前は人間ではないわ」


 一緒にミミズクと森を彷徨った。

 貧民の家に連れて行ってくれた。

 花の名前を教えてくれた。

 カルディアと名を呼んでくれた。

 私も、ハルと名前を呼んだ。

 家族のことを教えてくれた。

 歌をうたってくれた。大切な人にしか歌いたくないって言っていたのに。

 ハルは人だ。人にしか見えない。馬になんか、見えるものか。家畜でも、椅子でもない。

 それでも、ハルは家畜なのだ。椅子なのだ。踏み付けても、痛みも感じない地を這う虫のような存在なのだ。そうでなくてはならないのだ。


「だから、お前達が何人、何十人、何百人、死んだところで胸が痛むことはない」


 ハルは首を何度も振った。嫌いなものを無理矢理食べさせられている子供のような態度だ。

 ハルの肩を掴んだ。

 正面で見つめ合う。ハルの顔は、見ていられないほどぐちゃぐちゃだ。こんな顔、させたくない。涙を流す姿を見たくない。

 それでも、見なくては。


「お前達の葬式を肴に紅茶を啜ったの。令嬢達と囁き合ったわ。なんて滑稽な友情ごっこ! 葬式にいく時間があれば、仕事をせよと命令しなくては!」


 けたけたと悪意を込めて笑ってみせる。


「私はお前達の屍の上で恍惚と微睡むことが出来るわ」


 王座に腰掛け、愉悦に浸る。

 血塗れの王座の間。穢れた私に似つかわしい場所だ。

 ハルの心に穴を開けたのが分かった。大きく開いた穴から溢れていくように、ハルの表情が消えていく。


「私のこと、殺してやりたいでしょう」

「殺してやりたい」


 ハルの掠れた声がしっかりと耳に入る。

 その言葉に、笑みを深める。


「ならば、どうして殺さないの。お前は、私が憎くないの?」

「憎い。でも」

「でも? なにかに理由をつけて、でも、だってと逃げるの? ええ、逃げたければ、逃げると良い。そうして惨めに野垂れ死になさい。最期まで、私を憎み、恨み、自分の臆病さと非力さを悔いながら」


 ハルの背中に腕を回し、抱き締める。胸板に頬を寄せた。心臓の音が聞こえる。ハルの音がする。どくりどくりと早鐘を鳴らしている。

 ぴったりと縫い付けられたように、ハルと私は重なり合った。

 恋人同士の抱擁のように、私は激しくハルを束縛した。


「それとも、私が愛人にでもしてあげましょうか。一生、お前の屈辱に歪む顔を見つめてあげる。きっと、何年たっても飽きないでしょうね」


 ハルに抱きしめ返された。背骨が折れてしまいそうなほど、強い力。息が浅くなる。ハルの瞳が近寄ってきた。

 ハルの吐息があたる。花の香りがした。ハルの匂いだ。


「今すぐ、あんたの喉を噛みちぎってやりたい」


 そう言ってハルは、本当に私の喉に噛み付いた。歯が肌に突き刺さる。生温かいハルの唾液が鎖骨へ落ちていく。もがく私に爪を立てて、ハルは唇を離した。後退する私に見せつけるように唇を舐めとり、殺意が籠った眼差しで私を見下ろした。


「その首は必ず、俺が貰う」


 ハルの唾液がついた首筋にひやりとした風があたる。


「殺したあんたの骸の上で、王族らしく振舞うよ。王族を虐めて、遊ぼうか」


 真っ赤な目のハルが、にっこりと笑った。


「そうして言うんだ、あんた達は人間じゃない。だから、こんな目に合うんだって」


 風に舞い上がる花弁は、ハルにいつか教えて貰った花達のものだった。


「それまで、首を洗って、待っているといい」


 赤、青、黄、なんて綺麗なんだろう。名前を知ってしまった、無垢な花。この、花達になりたかった。ハルに愛でられ、気まぐれに風に舞い上がる。そんな自由な生き方をしてみたかった。

 花弁が私の手のひらに落ちてきた。なのに、すぐに風に乗って、どこかへ消えていく。

 ハルが、機械を抱えて私の側を通り過ぎた。

 一瞥もなかった。私は、ハルの後ろ姿を見送り、くたりと地面に座り込む。



 だんだんと笑いがこみ上げてきた。

 ハルと出会って、貧民を知った。彼らがどんなに私と同じか、直に触れることが出来た。彼らと平等になる夢を見た。独善的な夢だ。

 出来るかもしれないと、思ってしまった。

 だけど、どうだ。結局、平等になど、どこにある?

 同じだと?

 ありえない。だって、ハルは王族ではない。私が経験したことを知らない。私が、ハルの経験したことを知らないように。


 ハルは今日、殺す準備をしてこなかった。

 約束したわけではない。けど、ハルはきっと私がくると思ったはず。

 私がハルに会いに行かねばならないと思ったように。

 それなのに、武器も持っていなかった。

 ハルは、話を聞こうとしていたのだ。

 貧民を殺す原因をつくった女の話を。

 なにか、理由があるはずだと、信頼してくれた。

 そして、その理由は、ハルを納得させるものだと思ったのだ。ハルは、許すつもりでいた。きっと、心から許すつもりでいたはずだ。

 だから、その前に鎮魂歌をうたっていた。悔いを告白するように。

 これから、恨んでいた女を許すと、あんなに目を真っ赤にさせて死者に許しを請うていた。

 その時、気が付いた。きっと、ハルが私を許したら、この先、どんなことも許すだろう。

 例えば、ハルを小間使いにしたいと言っても、ハルは従ったはずだ。それはきっと、カルディアだからではない。カルディア姫だからだ。

 私は、王族だ。それを知られた以上、ハルは私に恭順の意を示すだろう。どんなに屈辱的でも、私の命令には逆らわなくなるだろう。


 そんな姿を想像して、吐き気がした。

 ハルにだけは、そうなって欲しくなかった。

 だから、突き放した。言葉でハルを貫いた。

 ハルに同情で側にいて貰いたくない。許されたくない。

 同情や憐憫で繋ぎ止めたくなかった。

 それに、私が言葉でハルを籠絡してしまったら、彼の体は抜け殻になってしまう。ハルの美しくて貴い矜持も、自尊心も、全て吸い取ってしまう気がした。



「赤い糸」


 手を太陽に翳す。あんな子供のような真似をしてまで、ハルと側にいたかったのに。指の先に絡まりついていた糸は千切れてしまったのか。

 ハルの匂いが、恋しい。

 気がつけば、森で迷子になったときのように、心寂しかった。

 ハルに対して理不尽に、よくもと憤りたい。あれだけ、ハルの心を傷付ける言葉を吐いたのに、未だに被害者面をしたいらしい。

 体を包むように優しく慰められたい。お前のせいではないよと言われたくてたまらない。

 地面に倒れ込む。土は水でしめっていた。一度頭が軽く跳ねる。ハルの一部である泥の香りがする。

 地を這う虫がとても大きく見える。花の裏側は汚れていた。とくに、花柄や花托に白いぶつぶつが浮かんでいる。よく目を凝らすと、汚れは虫の塊だった。虫にたかられているのだ。表面は綺麗なのに見えないところで食まれ、蝕まれている。吹き飛んでいった花弁の裏にも虫が張り付いていたのだろうか。

 なんだか、急に笑いがこみ上げてきた。綺麗なものなんてどこにもないのだろうか。

 神聖さも、優美さも、妖艶さも、ただの表層に過ぎず、根は誰もかも、汚いのでは?

 ならば、私がこんなに汚いのも、許されるべきだ。

 もし、ハルに殺されたら、私も地獄に堕ちるのだろうか。そこでならば、母に会えるだろうか。皆が地獄に堕ちるというのならば、誰だってへどろのような罪を抱いて生きているに違いない。

 綺麗なものは穢れてしまえ。皆、汚泥を浴びて、のたうちまわるような醜怪さに発狂してしまえばいい。

 そうしたら皆、平等だ。王族も貧族も関係ない。


「私は、第四王女カルディアだ」


 平等などまやかしだ。人類史に存在したこともない。人の歴史は差別の歴史だ。階級に支配された、連綿と続く果てなき世界。


「私は」


 もう、忘れてはいけない。甘い夢を見てはいけない。

 太陽に向かって手を伸ばす。自分の手は汚していないのに、私の手は血で真っ赤に染まっている。

 指先の股から見える陽射しの強さに目眩を感じた。幻想が瞼の裏に浮かぶ。

 虹が見えた。四枚の羽を持つ虫が飛び回る。色とりどりの花達。愛おしそうに水遣りをするハル。私は決して、あちら側にいけない。ああ、あそこは天国だ。神々が座す場所だ。私はじめじめとした地獄に堕ちて、無限の責め苦を受けることになるのだ。


「カルディア姫」


 手を退けて、声の主人を見つめ返す。見下ろすギスランの顔には、笑みが湛えられていた。

 足音、気がつかなかった。


「悪趣味、見ていたのでしょう」


 目線を逸らし、ギスランを責める。

 ギスランを責めていると、心が落ち着く。こいつは、私にとって、都合がいい存在なのだ。自分の趣味の悪さに絶望したくなる。

 八つ当たりしなければ、気持ちを保てない。


「ばれていました?」


 なんでもないことのように、ギスランも、綺麗な服のまま土の上に寝そべった。黒のズボンに水色の上衣の貴族服。この男はいつでも、宝石のように美しく、華がある。

 私の首に、手を伸ばしてきた。

 ちくりと痛みが走った。わざとハルに噛まれたところに爪を立てている。


「リストの部屋に見張りがいなかったでしょう。お前が、手を回した」

「ええ、そうです」

「お前は、私がハルに会うのが嫌だったのではなかったの?」

「そうですね」


 ギスランの声は穏やかだ。私の首を執拗に苛めている男の声とは思えない。


「子爵令嬢やココを焚きつけたのは、お前?」

「おや」


 獲物を捕らえる動物のようにしなやかな動きで、ギスランが体を乗り出してきた。私の顔を覗き込み、口の端を上げる。


「よくお分かりになりましたね? 証拠を残したつもりはないのですが」

「……道理で、連鎖的に起こると思った。あんな辺鄙な場所に偶然、私やハルはともかく、リストやココ、子爵令嬢が集まるわけないものね」

「ええ、そんな偶然、起こるはずがありません」


 ギスランがやったという証拠も、確証もなかった。だが、こんな回りくどい奸計を弄するとしたら、ギスランしかいない。


「あの貧民と決別されたようで安心いたしました」


 首を撫でられる。ふつふつとした熱湯のような憤怒がギスランの瞳の奥で高ぶっていた。


「貴女様が悪いのです。だって、ああでもしなければ、私の言葉など無視して、あの男に構っていたでしょう?」

「そうね。お前を二枚舌で欺いていたでしょうね」


 ギスランが再三忠告して来た。貧民には近づくなと。それを全て無視した。だから、ギスランは回りくどい手を使って、私とハルを遠ざけようとしたのか。


「ギスランだけのカルディア姫でいただかなくては。誰にも奪われるわけにはいきません」

「お前、本当に私のことが好きなのね」


 心外そうに眉を顰められた。今更、何をと思っているのだろう。私も、今更何を訊いているのだろうと思った。答えは、昔から提示されていた。ただ、そうではないと勝手に真実を捻じ曲げていただけだ。


「私のどこが好きなのだが。私、お前に好かれるようなことを何もしていないわよね?」

「救っていただいた」

「衣装棚のなかに入れたことを言っているのならば、それはお前の妄想だわ。私は救ったつもりはない」

「それだけではありません。カルディア姫の存在そのものが私にとって、救いだ」


 救い?

 喉の奥が痙攣した。

 私が、救いだと、馬鹿なことを口にした?


「ギスランは、貴女様がいなくては死んでしまう。貴女様以上に、綺麗な人はいない」

「綺麗?」


 血塗れの私が、綺麗?

 誰の血がこびりついているとも分からないのに?

 リストと同じことを言う。ギスランの目は節穴だ。


「私はあの貧民とは違います。誰を踏みつけようと、殺そうと、恨んだりしません。たとえ私の両親を殺されても、カルディア姫を疎んじたりしません。ギスランは貴女様が死なない限り、貴女様を恨みません」

「……私が死んだら、恨むの?」

「ええ。そして、国を道連れに後追いをします」


 壮大な後追い自殺だ。そうなったら、のちの世に私は傾国の美女と持て囃されているに違いない。現実味がない。喉の奥が痙攣した。


「だから、死んだりしないで下さいね。私は、カルディア姫を恨みたくはないのですから」


 ギスランの目には、私が死ぬつもりに見えるらしい。不安そうに、目を伏せていた。そんなわけない。私は死にたくはないのだから。


「死なないわよ」

「本当に?」

「ええ、私、死にたくないもの。誰かを犠牲にしても、自分だけは生き残りたい」


 利己的な願いだ。だが、本心だ。

 後悔しながら、最悪だ、最低だと罵りながら、結局は自分が生きていたいと願う。


「ならば、よかった」


 ギスランは、本心から安堵したようだった。

 美貌を持つ男が、私の言葉に一喜一憂している。自分の醜さに際限がないことを知る。どんな時になっても、この男を操れることに優越感を抱かずにはいられない。


「どんな者だって、貴女様に危害を加える者は、懲らしめて差し上げる」

「ギスラン」


 名前を呼ぶと、首を撫でるギスランの手が止まった。闇夜に浮かぶ星々のようにきらきらとした紫の瞳が、しっかりと私を見つめた。瞳のなかに紫に沈む私の姿があった。



「私、お前のことが好き。私のことが好きなお前が好き」


 優しく慰め、憐憫して、じゅくじゅくに甘やかしてくれるギスランが好きだ。

 私を崇拝し、敬愛し、女神のようだと讃える。

 私のためならば、何もかも思案の外になる。他の男に近付くことをよしとせず、独占欲を撒き散らす。

 この男と一緒にいると、私は価値あるものになれる。ギスランが、価値のある人間だからだ。

 美形で、聡明。大貴族の息子で、物腰も柔らかで、丁寧だ。女への対応もわきまえている。皆、私を羨ましがり、妬ましく思う。

 王女という身分にぶら下がるだけの私には不釣り合いだと。

 そんな男が、私だけを好きだという。私が死したら、後を追うとまで言うのだ。


 ギスランは奴隷のようだ。私という王に仕える、従順な。

 ーーもっと、私を好きになって。

 ずっと、私に愛を囁いていればいい。側に侍って、崇めて欲しい。

 ただのカルディアは死んだ。ここにいるのは、第四王女カルディアだ。

 第四王女カルディアにはギスランが側にいなくてはならない。誰から見ても魅力的な男には力がある。憎まれ、妬かれ、怨まれ続ける私を生かすだけの能力がある。

 こいつに愛されている間は、私は死なない。

 打算と優越感。ギスランは、私に負の喜びを教えこむ天才だ。


 肩を押さえつけられ、ぐっと唇が押し付けられた。

 ただ、強く口と口を合わせるようだった。歯と歯がお互いにがちんと音を立てた。頭を揺さぶるような振動だった。ギスランは、私に息をさせないように、同じ体勢でずっと口を吸っていた。目の前が白黒に点滅し、焦点が合わなくなる。ギスランの輪郭がぼやけていく。

 酸欠が続き、ここが、どこだか分からなくなる。あやふやな自我が、ギスランと混ざっていく。

 このまま、ギスランを道連れに、地獄に足を踏み入れてしまおうか。一人だと寂しいだろうが、こいつと一緒ならば気が紛れるだろう。

 ギスランは、ゆっくりと体を上げた。

 私はギスランの影のなかで浅く息を吐く。

 ギスランの温かさが消えて切ない。垂れた銀髪に手を伸ばす。

 ギスランの吐息に触れた。


「カルディア姫のせいで、私の計画が台無しです」


 唇をおさえながら、ギスランが恨みがましい視線でみてくる。


「こんな場所でするはずでは。もっと綺麗な場所で、それこそ、寝台の上で、忘れられぬような口付けをするつもりでしたのに。汚れた土の上で、なんて」

「お前からしてきたくせに」

「誘惑されたのは、カルディア姫」


 ギスランはとろけたように甘く微笑んだ。幸せの絶頂であると言わんばかりだ。


「私のことが好きなどとおっしゃるから、自制が」

「そうね、お前、獣のようだったもの」

「獣」

「言っておくけれど、私、挨拶以外で口付けしたの初めてよ。こんなに苦しいものだとは思わなかった」

「そ、そう?」


 恥じらうような仕草を見せたギスランに、こちらから口付けてやる。

 ギスランは目を見開き、ふやふやととけるような目をした。

 初心な反応だった。口付けぐらい、他の女にしたことがあるだろうに、拙い動きだ。


「好き」


 口を離したとき、無意識とばかりに言葉が落ちてくる。


「カルディア姫、愛しています」


 きゅうと胸が締め付けられるような、痛みが走る。私は、ギスランの好意を利用しようとしている。


「愛しています」


 生きる、ただ、それだけが、私にとって、難しい。

 ギスランを、本当に愛してみようか。そうすれば、こんな罪悪感を抱かずに済むかもしれない。


「お前、私と地獄に堕ちてくれる?」

「命令して下さらない? そうでなければ、うんと頷かない」


 命令されなければ頷かないだなんて、どれだけ、被虐趣味なんだ。下僕根性がありすぎる。

 呆れながら、命令を下す。


「私と地獄に堕ちなさい。どうせ、お前も私も、行き着く場所は同じよ」

「仕方がないから、一緒に行って差し上げる。カルディア姫にはギスランしかいませんものね?」


 ギスランは、私の頬骨を手で覆った。銀の髪が檻のように顔に降り注ぐ。


 この男に捕まった。この男を捕まえた。

 ふと、私の夢に出てきた男はこいつだと思った。「女王陛下」と呼び、私の靴に口付ける、従順な男は。

 ギスランの影のなかで、私は目を閉じた。男の喉が猫のように鳴った。



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