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どうやら私はバッドエンドに辿りつくようです。  作者: 夏目
一章 『夜の女王とミミズク』
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残酷・流血描写注意

 


 茫然とする私に気付かず、ハルは熱心な眼差しで口を開いた。


「『聖塔』は平民賛美の組織だよ。商家や海運業の主人が主体となって抗議デモや反王政の集会を開いている。俺は別に平民こそ、この地を統べるに値する存在だ、なんて思ってはいない。前例がある。どんなに苦労に苦労を重ねたところで、王政は覆らないんじゃないかな」


 イルが言っていた。二百年前の革命後のこと。ハルも、イルと同じように、覆らないと思っているのか。

 だとしたら、なおさらおかしい。ハルが『聖塔』に参加する理由がないじゃないか。


「それでも、いい。殺す機会を与えてくれるなら。それでいい。平民にだって媚びへつらってやる」


 ーーああ、と言葉が体の深い部分まで落ちてくる。ハルは、第四王女を、私を殺すために『聖塔』に入るのだ。だが、なぜ?

 私が、ハルにいったい何をしたというのだろう。

 どこからともなく、どろっとした感情の塊が現れる。私は夜会で、貧民達を助けたじゃないか。自慢や虚勢を張るために助けたわけではないのに、夜会での出来事を利用してハルに好感を持って欲しいと思った。なぜ、第四王女だからとハルに殺したいほど恨まれねばならないのだろう。

 私は健全なことしたはずだ。ハルの同胞を助けた。

 言ってきかせてやりたくなる。そうしたら、『聖塔』に参加せず、退学もせず、私の側にいてくれるだろうか。

 そうだといいと心のなかで声が聞こえた。自分の思い通りにいかなければならないという、傲慢で無慈悲な声だ。


「どうして」

「どうして? ーーそんなの決まってる」


 ハルはリストがたまに浮かべる自嘲に似た笑みを湛えた。


「第四王女のために、貧民がどれだけ死んだと思ってるの。俺たちが、鳥人間にーーあの化物に、惨たらしく殺されていたのに、お姫様は悠々と、部屋で微睡んでいたんだ」


 目玉がころっと転がり落ちそうなほど、目を見開く。

 貧民がーーなんだって?


「みんな死んだ。マリアもジョイもラマもシグマも、アキも、ヤマも、ルイも、マイケルも、ロナウドも、ヤンも、シシィも」

「待って! だって、死んだのは、貴族令嬢六人だけって」


 そうだ、リストが言っていたじゃないか。六人の生徒が殺されたって。全部、私に似た髪型をした女だったと。


「俺たちは、人間じゃないから。だから、死んだうちにも入らないんだね」


 吐き捨てるようにハルが言った。


「その六人の他にも、襲われた貴族はいっぱいいる。そいつらを守って、貧民が沢山死んだよ」


 夜会で貴族達に虐げられていたのは、貴族をむざむざと殺させてしまった貧民達。ならば、その反対に貴族を庇って命を落としたものをいる。

 今まで、なぜ、気がつかなかったのだろう。リストの言葉に縋り、なにも考えないようにしてきたせいか。六人だけだ。それ以上いるわけがない。そうでなければ耐えられなかった。

 貧民が死んでいる。ならば、平民だって巻き込まれて死んでいるのではないのか。

 どれだけの人が犠牲になったのだろう。軽く数えようとするだけでも気が遠くなる。何十では足りない。

 きっと、何百人と死んでいるのではないか。そうだ、貧族の家に行った時、ハルがそんな話をほのめかしてはいなかったか。


 ハルの手をぎゅうと握り返す。


「リュウも、殺された」

「リュウ」

「俺の一歳上で、冷酷無比、貧民なのに態度がでかくって。厄介者って言われてた」


 リュウ。その名で思い出すのは、粘着質な声だ。サガルの劇団員。


「この学校に入ったはじめの頃、ほとんどの貧民は洗礼を受ける。古参は偉く、新参者は奴隷のように言うことをきく。年功序列っていう名の洗礼。俺、その古参のめんどくさい奴に目をつけられたこと、あって。それをリュウが助けてくれた」


 ハルの声は、曇った硝子を覗き込んだような、不透明な響きを帯びていた。喜びと悲しみを内包した箱を手にとって耳をあてているみたいだ。

 年功序列。洗礼。怜悧狡猾な貴族連中でさえ、私には恭しく頭を垂れる。二心あろうとも、面と向かって歯向かうのは稀だ。

 目をつけられるの意味だって、ハルと私とはちがうのでは?


「リュウは性悪だし、冷酷無比だし、すっごく、嫌な奴」


 貶しているのか、悪口を囁いているのか分からなかったハルが、急に、冷酷なほど無慈悲な視線をよこした。


「死んだんだ。鳥人間の拳で、頭が弾けた。モニカを庇って。一瞬だった」


 悲鳴を上げそうになった。

 あの大きな拳が振り下ろされる瞬間が容易に想像できてしまう。

 じわじわと首を絞められていた私は、特別だったのだ。柘榴が弾けるように、あの腕は簡単に人を殺してしまえたのだ。


「モニカ、その日、リュウに告白する気だったんだ。でも、目の前でリュウが死んで、それから声が」


 掠れた吐息を落とす。私はモニカがハルを好きなのだとばかり思っていた。でも、そうではなかったのだ。目の前で愛しい人が残忍に殺されたところを目撃している。


 誰が殺した? 第四王女が殺したのさ。

 違う。私が殺したわけではない。だが、モニカを前にして、ハルを前にして、言えるのだろうか。自分は悪くない。鳥人間が殺したのだ。だから、許せ、と。言ってしまいたい。なぜ、被害を受けた私が、加害者のように責められねばならないのか。

 けれど、どうだろう。ハルにとって、いや、死んでいった人々にとって、私一人の命を捧げることで、死なずに済んだとしたら。私を憎み、恨んでも仕方ないのではないのだろうか。

 だって、一人でその他大勢を助けられるのだ。

 私が死ねばよかったの。


「分かってる。第四王女を殺しても、どうにもならないんだって。八つ当たりだって。でも、カルディア」


 ハルは、揺らぐことのない決意を打ち明けるように、顔を近づけ、よく通った声を私に浴びせる。


「死んでから一週間もしないうちにお茶会に参加した、鬼畜な女だよ」

「それはーー」

「一週間、貧族は喪に伏した。かわりばんこに弔った。けれど、お姫様はしなかった。お姫様のかわりに狙われた人を庇って死んだのに、弔いの言葉さえなかった」



 月曜日の水葬は嘆くものがいない。火曜日の水葬は金の心配がない。水曜日の水葬は丁寧で、恵まれて。木曜日の水葬は鐘の音とともに。金曜日の水葬は親愛に溢れ。土曜日の水葬は夜に行われ。日曜日の水葬は聖職者が祈りを捧げてくれる。


 一週間。あの歌は、死んだ貧民達をおくった歌なのか。

 無意識のうちに首を振る私に、ハルが不機嫌になっていく。庇うのかと目で問われる。ハルは、私がその第四王女だと言うことを知らない。第四王女を擁護する貴族だと思われているのだ。違う、と首を振る本当の意味が伝わっていない。

 貧族のことなど、知らなかった。たくさん、たくさん、人が死んでいるなんて、知らなかった!


「血が通っていない傲慢な女なんて死んで良かったんだ。でも、リュウは違う。確かに、酷い奴だけど、他人を庇って死んだんだ。どっちが、本当は死ねばよかった?」


 血が逆流し、毛が逆立つような感覚がする。怒りが湧き出し、悲しみが溢れ、次に恐怖が顔を出した。放心したように口は開けっ放しだ。だらりと唾液が流れ落ちる。浅ましく息を吐き出す。

 隠れなければと思った。ハルに殺されるのではないかとさえ考えた。ナイフを持って、駆け出してくるのではないか。

 ハルの行動から目が離せなかった。

 ハルは困ったように眉を寄せて、「気分が悪いの」と尋ねた。私への気遣いが言葉から滲んでいる。

 最悪の気分だ。ハルを、悪者に仕立てようとした。そんなわけない。ハルは、私を第四王女だとは知らないのだ。

 心の中がめちゃくちゃだ。ハルを引き止めたいのに、早くこの話題を終わらせてハルから逃げ出したい。この学校にいて欲しい、そばにいて欲しい。けれど、自分が第四王女だとは知られたくない。


「カルディア?」


 うだうだと悩んでいたときだった。

 驚いた声に引きづられ、振り返り絶句した。

 なんだって、こんなところにリストが!?

 いつも通り、優雅な服を着こなしたリストの姿がそこにはあった。腰に帯刀していた。

 赤い瞳がだんだんと冷ややかに尖っていく。腕を組んだリストが、鮮やかに笑んだ。

 ぞっと背筋が凍った。何事かとハルがリストを見遣った。

 リストはハルを見るなり、嘆息した。


「お前、馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、筋金入りの馬鹿だったか」

「なんですって?」


 つい、言い返した。リストは躊躇うことなくずんずん近づき、私の手首を取る。


「身分が低い奴と関わるな。やはり、一度監禁したほうがいいか?」


 はあと反抗的な声を上げる。なぜ、リストに監禁されねばならないのか。私が、どこでなにをだれとしていようと自由じゃないか。

 ハルが何かを察して目を伏せた。体を屈め、頭を下げ、恭順を示す。

 嘘でしょう?

 地面擦れ擦れの状態で、ハルが停止した。顔を上げない。


「ハル!」

「申し訳ありません。このお方は、俺がお引き留めしていたのです」


 首を振る。なぜ、貧民らしく振舞うの。

 やめろと睨みつける。でも、ハルは地面に顔を下げたままだ。


「ほう、すべてはお前の責だと?」

「はい。どんな罰も受けます」

「ならば、鞭打ちか。ああ、だが、あいにくと剣しか持ち合わせがない」

「ならば、剣でも。ただ、このお方にはなんら責はないとお認め下さい」


 遅れて、気がつく。ハルは、私のために頭を下げているのだ。ハルの憎む相手なのに、そんな女のために頭を下げて、許しを乞うている。

 許しを乞うべきなのは私なのに。


「貧民が、滑稽にもカルディアに懸想しているのか」


 高圧的にリストが尋ねた。馬鹿にするような、低い声だった。


「お前のような奴僕が? 卑しい性根が垣間見える。俺が、剣でうちのめしたぐらいでお前を許すと思っているのか」


 リストの腕を叩いた。ハルになんてことを言うんだ、こいつは!

 リストが軽く振り返り、真っ赤な髪の毛の奥から、血のように暗い瞳でこちらを見た。

 額を指で弾かれる。冷え冷えとした、無機質な顔が近付いてくる。頬に、吐息が触れた。


「こいつを、俺が始末してしまって構わないだろう?」


 きっと睨みつける。リストは薄く笑みをたたえた。


「リスト、場所を移動して、話しましょう」

「俺の部屋で?」

「ええ」

「俺は、構わないが。お前には言いたいことがいろいろあるしな」


 リストめ、何をピリピリしているんだ。

 ハルを一瞥し、リストは鼻を鳴らした。


「あの貧民の部屋にも、のこのこついて行ったんじゃないだろうな」


 リストに腕を引っ張られる。ハルはこわごわと顔を上げた。あとでと目配せする。だが、すぐに顎を掴まれ、強制的にリストの方に向かせられた。


「ふしだらな女だ」

「貧民達は一人部屋じゃないのよ」

「貧民の家に行ったのか?」

「ハルとはそんな関係ではないもの」

「ハル?」


 気に入らないと、眉が上がる。さっきから、リストはなにをいらついているんだ。軍の任務が上手くいかないからといって私に八つ当たりか?

 踵を返して、リストがハルへと戻ろうとする。腕を掴まれている私を引きずってだ。

 おしとどめようとしてもびくともしない。

 男の力に、負けてしまう。


「リスト!」

「カルディア姫!」


 後ろから、凄まじい力で、腕をとられる。

 振り返った先には、血走った目をしたココがいた。


「カルディア姫、カルディア姫!」


 名前を呼ばれるたびに、ぐわんぐわんと目が回る感覚がした。ハルの「姫?」という言葉が聞こえたからだ。

 ココは憔悴しきっていた。


「リスト様に会わせて下さい!」


 リストなら、ここにいると指差そうとして、唐突に、彼女の腹が気になった。ぽこりと、何か詰め物をしているように少し膨らんでいるのだ。


「あたしの赤ちゃんが」


 ーー赤ちゃん?


「平民風情が、カルディアに触れるな」


 言葉で腕を切り落としてしまえそうなほど、強い怒気を孕んだ声が飛ぶ。リストは私を引き寄せると、萎縮してしまうほど威圧的な眼差しをココに向けた。


「ああ、リスト様!」


 リストの威圧的な眼差しを物ともせず、それどころか歓喜に打ち震えながら、ココがリストに縋り付いた。蔦のように絡みつき、頬擦りする。


「この鼓動、感じていますか? あなたの子供ですよ」

「リスト?!」


 慌てて声を上げた。まさか、リスト、ココと姦通していたのか?!

 顔を真っ赤にさせて、リストがいきり立った。ココを力任せに突き飛ばし、眦を吊り上げる。


「痴れ者が! 俺がお前と契ってなどいるものか。その口には邪婬の神が宿るのか。ならば、その口、二度と開けないようにしてやる」


 柄を握り、リストは抜刀しようとした。

 驚き、リストの腕を掴んだ私と同じように、ハルがココを庇った。リストが、どうして止めたと言わんばかりに、私を強烈に睨み付ける。


「ココ様、どうして」

「ハル」


 ハルは、ココと知り合いなのか?

 疑問が浮かんだのは一瞬だった。次の瞬間、ハルの体は押し倒されていた。ココが馬乗りになり、ハルの首に手をやりぎちぎちと締めている。声を上げる暇もなかった。


「お前がリスト様に入れ知恵をしたな! カルディア姫に取り入り、あたしの悪口を吹き込んだんだ! だから、リスト様がこんなにも冷たい態度を取られるんだ。なんて恩知らずな、お前達のような薄汚い貧民を、うちの店で雇ってやっているというのに。お前の叔母もぐるなんだね? あの糞女、絶対に殺してやる!」

「ち、ちがっ……」

「黙れ! あたしがリスト様に捧げるはずだった服の生地を、なぜお前なんかが着ている! 姫の寵愛をかさにきて、あたしの家まで乗っ取るつもりだろう! 貧民というのは、だから信用ならない。貧民窟から救ってやった主への恩さえ忘れるのだから!」


 凶行に走るココを止めたのはリストだった。ココを何なく持ち上げ、ぽいっと地面に転がす。

 リスト、よくやった! 急いでハルの背後に回る。

 げほげほと咳き込むハルの背を摩る。

 ココの言葉は醜い。澱み、黒く変色した嫉妬の塊。自分より下の人間が優遇されることへの激しい憎悪。貴族のものよりも生々しいのは、平民と貧民の距離が近いからだ。


「よく回る口だ。俺が、その貧民の言を聞き届けたと? ありえない。王族たる俺が、一介の貧民の声に惑わされるわけがない。妄言を口にするな」


 リストは、矜持を傷つけられたのか、ひりひりと肌を刺すような声で告げた。

 ココはおいおいと泣き始めた。ハルを罵り、死んでしまえと叫ぶ。

 落ち着いたハルは私の腕を押し返しながら、立ち上がり、ココへと足を進めた。なにをしているんだ。さっき、殺されそうになったばかりじゃないか。あんな歪んだ眼差しを向けられたのに、なぜ、逃げないの。

 ハルは膝をつき、リストにしたように頭を下げる。


「叔母さんは関係ありません。ココ様、俺のことはどう罵倒しても構いません。だけど、叔母さんは俺の恩人なんです。なにも関係はありません」


 ココは立ち上がり、ハルの頭を踏みつけた。腹を抱えてけらけらと喜悦を含んだ笑い声を上げる。


 ココは明らかにおかしかった。ハルは地面に額を擦り付けてなおも、身じろぎひとつしない。

 ありえないと憤る私の腕を誰かが掴んだ。そのまま、後ろへ引っ張られる。温かな体温を感じた。腕のなかに閉じ込められる。目の端に見えるのは鮮烈な赤髪。

 こんなこと、間違っている!

 なぜ、言いがかりを受けたほうが、恥辱に耐えなければならないのか。貧民だから、地に頭を擦り付け、許しを乞えと? 馬鹿げている!

 ならば、生まれだけで、罪を背負って生きているようなものじゃないか。ただ、泣き寝入りするしかないのか。ハルはなにもしていない。すべてココの妄想だ。私が軽率に、貧民達に服を譲ったせいで、ココが誤解しただけだ。


 もがく私の横を誰かがかけていく。三度瞬きを繰り返してようやく誰であるか気が付いた。子爵令嬢だった。

 なにかぶつぶつと呟きながら、ココに近付いていく。二人の体が重なった。そして、すぐに子爵令嬢が離れた。子爵令嬢は甲高い金切り声で吼えた。


「貴女のせいで……!」


 ココは唖然としながら、子爵令嬢をみつめた。


「オリヴィア様?」


 ふと、何かに気が付いたようにココが腹部に手をあてる。どろりとした赤いものが、腹部からこぼれている。


「この売女! お父様を誘惑したのでしょう。恥知らず! 貴女のせいで、お母様から嫌われて……!」


 ぽろりと子爵令嬢の目から涙がこぼれる。

 ココがゆっくりと倒れた。

 鮮やかな花達に赤い液体が飛んだ。それを血だと判断したのは、鼻腔をくすぐる独特の臭いが私まで漂ってきたからだった。

 子爵令嬢の手には赤く染まったナイフが握られていた。持つ手がぶるぶると小刻みに揺れている。ハルは、顔を上げ、驚愕の眼差しで子爵令嬢を見た。


 嘘でしょう?

 どうして、こんなことに。


 頭痛がする。まるで、あのときのようだ。記憶の扉が音を立てて開いた。小さい子供の私が、今の私と重なる。

 お茶会の優雅な香り。令嬢達の忍笑い。

 私の誕生日に母が殺された。実の妹に殺された。私をかばい、ナイフで腹部を刺されて。


 ーー死を願え。

 ーー人は最期、地獄に堕ちる。女神の叡智も慈愛もそこには届かぬ。

 ーー骸骨を捧げよ!


 狂ったように、女が歪に笑った。ナイフで何度も何度も母を貫いた。血塗れの彼女は、母の体からなにかを取り出した。鼠のような小さいなにかだ。母と紐で繋がっている。

 きょうだいが増えるのよと母が言っていたことを思い出した。父が、腹に耳をあてて、動いた、動いたと少年のようにはしゃいでいたことも。

 てらりと日光に照らされた母の臓腑が見えた。

 あの女がなにかを嚥下する。そうして、腹をさすった。愛おしそうに。


 女の悲鳴。強い衝動。温かな体液。

 私は悲鳴をあげて、誰彼構わず助けを求めた。兄が日傘の下で、無慈悲なほど冷徹に私を見下ろしている。縋り付いた服に血が付着した。


「助けて」


 兄は首を振る。命が、こぼれ落ちたような感覚だった。振り返れば、あの女がけたたましく笑い声を上げている。母に馬乗りになり、汚い言葉で罵っている。

 母の顔は血飛沫で真っ赤だ。童話を読んでくれた唇がどこにあるかも分からないほど。

 母に手を伸ばした。

 兄が私を押さえつけた。

 いいね、カルディア。僕から逃げたら、お前を嫌いになる。

 がむしゃらに兄を押しのけた。ふわりと日傘が舞った。不気味なほど晴れ渡った空。太陽に焼かれて、悲鳴が上がる。

 視界は鏡が割れるように歪み、砕けた。目をぱちぱちと瞬かせる。目の前にいるのは、そばかすの浮き出た少女だ。

 気がつけば、私はココの手を握り、縋っていた。手も服も真っ赤だ。いや、彼女はココだっただろうか、お母様ではなかった?


「助けて」


 助けなければ。命が吹き消えてしまう。死神の鎌は容易く命を奪いとる。どれだけ拒絶しようとも耳を傾けることはない。


「助けて!」


 だれでもいいのだ。助けてよ。こたえたのは、もじゃっとした髪の男だった。


「助ける」


 本当だろうか? だって、母は死んでしまった。お茶会にいた人々は、誰も助けてなどくれなかった。父も、母が殺されたというのに、いまだにあの狂った女を正妃として受け入れている。

 いつか、私も母のように惨たらしく死ぬのだ。ナイフで貫かれ、中身を咀嚼され、それでも助けなど見込めない。

 だれもかれも、見ているだけ。私の声を無視して、木のように佇むのだ。手で口をおさえ、か細く悲鳴をあげながら。だれが、本当に、助けてくれるというのだ。


「助けるよ、カルディア姫」


 視界が明瞭に開けた。ハルが、苦しそうに私に微笑んでいる。意識が正常に戻る。耳を疑った。

 ーーカルディア姫。


「ハル」

「助けるから。大丈夫」


 ハルに手をとられた。自分の真っ赤な手のひらを凝視する。

 リストは子爵令嬢を捕縛し、警邏を呼んできたらしい。引き連れてきた人のなかに、こっそりとイルが紛れていた。ハルが私を手放し、イルへと歩いていく。

 地面がひび割れ、亀裂が走り、ハルと私を隔てる谷間になってしまったようだった。

 ハルとすれ違いながら、リストが小走りで私に近づいて来た。額に汗が浮かんでいる。


「酷い顔だ」


 覗き込んできたリストの顔こそ、真っ青だ。


「助けて」


 なにか言わなくてはと思ったのに、壊れてしまったようにその言葉しか出てこなかった。ココは大丈夫なのか。どうしてこんなことが起こったのか。リストに尋ねなければならないのに。

 リストは、くしゃりと顔を歪めて、私の頭に手を置いた。子供を寝かしつけるような、優しい手つきだった。


「眠れ」


 眠くなどない。起きていなければならない。なのに、体は意志に反して徐々に弛緩していく。真っ赤な血が、瞼の裏にしみのように浮かぶ。


 人は最期、地獄に堕ちるーー。あの女の声が、こびりついた泥のように張り付いて落ちない。







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