26
青薔薇の園のようなサロンのなかには、目隠しをした男達が十数人、並んでいた。
直立不動の彼らの上には、林檎がのっている。艶艶と熟した、唇のように真っ赤な果実。
貴族達は、彼らから距離を取り、弓を番えた。
そして、そのまま、弓を放つ。その弓は流星の軌道を描き、目隠しの男の肩を貫いた。
ごろりと鈍い音を立てて、林檎が転がる。
「もう、きちんとおあてになってくださいまし」
「これが存外、難しいのだよ、お嬢さん」
「そんなこと言われないで。勇猛な姿をわたくしに見せて下さいな」
絶叫を上げる男を一瞥することなく、貴族は軽やかに会話の応酬をしている。
絶叫を上げる人数は一人ずつ増えていく。貴族達は、いたぶることが目的なのか、目的の林檎に照準を合わせようともしない。
肩の次は手。脇腹、太腿、足。釘を打つように、次々と傷付けていく。獲物を追い詰める狩人の瞳で、残虐な笑い声を上げて、手負いの彼らを容赦なく嬲る。
気がつかないわけがなかった。薄汚れた服。櫛で梳かしてもいないだろう髪は絡まったまま、ゴミ屑をつけている。産まれたての小鹿のようなか弱さで、床に突っ伏し、血を絨毯に吸い上げられていた。呻吟の声は、亡者の吐息に似ている。容易く、その痩せた首を刈り取る鎌を死神が振りかぶりそうなほど。
貧民だ。貧民なのだ。貴族に、虐げられている!
なんだ、これは。
なんで、こんなことに?
あまりのことに本気で意識を失いかけた。なぜ、という言葉が頭の中を何周も走り回っている。
とにかく、この蛮行を止めなければならない。扉近くにいた令嬢の肩を叩く。億劫げに振り返る令嬢は、私の姿を捉え、円満の笑みを浮かべる。
「やめなさい」
「なぜ? こんなに面白い催しありませんわ」
こいつ、正気か?!
こんな、このことのどこが楽しいというんだ。人の流血を笑う、それがどれほど非人道的な行いなのか、分からないのか。
「貴女もおやりになる?」
……埒があかない。
顔をしっかりと覚えて、サラザーヌ公爵令嬢を探す。サラザーヌ公爵令嬢は、自分で弓矢をひき、取り巻き達と騒いでいた。
ずんずんと近付く。
取り巻き達が私に気が付き、そのあとすぐにサラザーヌ公爵令嬢が気が付いた。弓矢を台に置いて、彼女が悠然と距離をつめてきた。
青いドレスが魚の尾びれのようにひるがえる。
その姿は、夜会の女王と思えるほど、凜然としている。
緩く、唇を引き結び、ニタリと凄絶な笑みを見せる。
私は、挑戦的な視線を向ける彼女の頬を張った。青薔薇を体現したような華々しくも弱々しい体がぐらつき、普段、誰にも見せない足首を晒し、倒れ伏す。戯れに貧民を痛めつけていた貴族達が何事かと視線向けてきた。
非難の視線がほとんどだった。信じられない!
彼らは私を邪魔物扱いしている。
「何をなされるの?」
倒れ伏したまま試すように、サラザーヌ公爵令嬢は尋ねた。暴挙に出ている自覚はあった。
夜会の主を、辱めている。貴族は、恥を嫌う。自尊心が高いからだ。相手を踏み躙ることを当たり前と捉えているから。
だが、これはなんだ。この部屋で行われる行為は?
単純に貧民を踏み躙る、ということでは断じてない。椅子にするのとも違う。明確な敵意が潜んでいた。
「不愉快なのよ、ここで行われていることが!」
「だから、暴力に訴えるの? 野蛮だわ」
「どちらが、より野蛮だというの?」
「これは、お遊戯ですわ」
「流血沙汰のどこが、遊戯だというの!」
取り巻き達の手を借りて、サラザーヌ公爵令嬢が立ち上がる。
なにも分からない子供を侮蔑するような視線で私を貫くと、髪を払い、頬骨を浮き上がらせる。
「では、躾と言った方がいいかしら。獣に立場を分からせているのですわ。どちらが、上で、どちらが下か」
拍手が起こる。サラザーヌ公爵令嬢は、したり顔で私を見つめた。
「獣? どちらが、そうだと? 倒れ伏す彼らが、お前達か! 鏡でよく見てみるといい! 臭いを嗅ぎあうといい! 獣の証が、お前達に纏わりついている。今度はお前達でどちらが上か下か争そうの?」
「わたくしたちが獣だとおっしゃりたいの?」
「お前たち以外に、獰猛で、残酷な獣はいないわ。この貧民達がなにをしたというの? こうも嬲られる理由は?」
興奮したまま、詰め寄る。サラザーヌ公爵令嬢の瞳には鬱屈した光が乱反射していた。墨を垂らした髪を払い、私をその目で見下していた。
「なにをなさっている?」
サラザーヌ公爵令嬢の顔色が輝く。振り返ると、視線を巡らせながらギスランが近付いてきた。
サラザーヌ公爵令嬢を見た後に、私をじっとりと粘つく視線で見つめる。
「カルディア姫?」
名前を呼ぶ声は、蜜を垂らしたように甘い。名を呼んだ瞬間、ギスランの瞳が仄暗く翳った。
ギスランは躊躇うことなく接近し、私の肩に手を置いた。
「リスト様はどこに? 一緒では?」
「隣のサロンよ。……そんなことより、ギスラン、お前からもこの女に言ってやりなさい」
「言ってやる? なにをでしょう」
緩慢に首を捻るギスランを叩いてやりたくなる。貴族連中は、この地獄にいるような呻き声を平然と聞き流せるのか。
「悪趣味なこの地獄絵図を見て、お前はなにも思わないと?」
ギスランは、はじめて周りに貧民達が倒れていることに気が付いたと言わんばかりに床を一瞥した。
そして、肩を竦ませ、猫なで声で私に媚を売ってきた。
「そのように険しい顔をされないで。私が一緒にいなかったことがそれほど嫌だった?」
「……ふざけないで。お前の戯言に付き合っている場合じゃないのよ」
「戯言ではないのですが。なぜ、貧民のことを貴女様が気になさっている?」
「なぜ、ですって?」
一々、説明しなければ分からないのか。
「貧民など、どうでもよろしいでしょうに。今までとて、貧民に心を砕かれることなどなかったでしょう?」
それは、そうだ。
しかし、いかに私とてこうやって意味もなく痛めつけられているのを容認できない。
「嘘ばかり。貧民が椅子扱いされても、鞭で叩かれていても、反応などしておられなかった。貴女様の心には、不愉快な思惑があるようだ」
何があるといいたいのだ。
ギスランは口を開けて、舌を唇にゆっくりと這わせた。唾液で濡れた唇がてらてらと光沢を放っている。
「いいことを教えて差し上げる。この遊びは貴族の間で流行っているのですよ」
「なぜ?! そこまでされるほど、貧民が何をしたというの?」
「当たり前では? ここにいるのは、何もしなかった者達ですので」
「何もしなかった?」
どういうこと?
どいつもこいつも、含みのある言い方ばかりして。人が混乱するのを楽しんでいるようじゃないか。実直で、すんなりと言葉を発する奴が欲しい。
「ここにいる貧民は、マリカ嬢の近くにいて、彼女の手を振り払った者達ですわ」
サラザーヌ公爵令嬢が棘を押し付けるように言葉を放つ。
「ーーマリカ嬢」
口から出る吐息が震えた。
鳥人間の犠牲になった一人。
「か細い彼女の手を振り払い、悲鳴をあげる彼女を助けなかった。零れ落ちる涙も、怪物に穢される体も、見ないふり。これが、獣の所業よ。これこそ、獣の所業だわ!」
呻き声を上げる彼らを見てしまう。
本当にそうなのだとしたら、なぜ、助けなかったのだ。どうして、むざむざ殺させた?
「天帝が彼らの上に天災という怒りを振り上げたのも分かろうというものよ。浅ましい身には罰を! だれも罪業から逃げられはしないの」
だが、彼らの正当性を認めてしまうわけにはいかない。たとえ、そうだとしても、貧民を虐げてどうするのだ。
でも、彼らは助けることが出来なかった。だから、罰する。正当なのではないのだろうか。
心の天秤が急にぐらつき始めている。何度も、正解はどちらか問うているのに、定まらない。
どちらも正しいのでは?
どちらも間違っているのでは?
心の中で、矛盾した言葉が叫ばれている。
それでも初志貫徹をするために貴族達を批判した。だが、心はあやふやだった。ただ、主張を曲げてしまえば、子供のただのように受け止められる。そうなれば、今後、話をきいてくれる人はいなくなる。あいつは考えなしだと軽んじられるのだ。
強烈な自尊心が操縦出来ずに暴れ出す。
これでは、ギスランに靴を舐めさせた時と同じだ。
分かっているのに、止まらない。自分本位で、なにも変わらない。同じところをぐるぐる回っているようだった。
「それでも、やり過ぎだわ」
「ーーマリカ嬢は死んだのに? それでも、やり過ぎなの? では、どんな辱めを受けたら、貧民を甚振っていいの?」
「彼らは、痛みを与えずとも理解できるわ! 己の失態を。獣ではないのだから」
「いいえ、それは高望みというものだわ」
高望み。口の中でその言葉を呟いた。ぬちゃりとした泥を味わうような、不快感が口のなかに広がる。
「命を取られぬだけましと感謝するべきよ。見殺しにされたマリカ嬢の無念、教え込まねば」
言い合いをしても、変わらない。
暴れ回っていた自尊心が、急に動くのをやめた。
貴族は教え込まなければならないと思ってしまっているのだ。どうしようもない。強固な意思は時に戦争を起こすよりも、解きほぐすのが困難だ。
この場において、対話は意味を持たない。ただ、他人の意見を否定する、それだけに力を注ぐ。相互理解など、夢のまた夢だ。
ならば、私はしたいことをするだけだ。
私はギスランの手を払い、一番近くにいた貧民に近付いた。貧民の周りは血塗れだった。水溜りを踏んだような、水音がした。腕も足も、何本も矢が刺さっている。
唇を固く閉ざし、歯と歯をこすり合わせ痛みに耐えていた。
薔薇の芳醇な香りとオーデコロンのかぐわしいにおい。
そして、二つと混ざり、腐りかけの果実のような臭いに変化している、血の臭いが鼻腔を苦しめる。けれど、そんなことで怯んでいる場合ではない。
まず、目隠しをといた。貧民は警戒するように私を見つめた。また、なにかされるのではないか。疑心が見て取れた。
「私は、治療などしたことがない。だから、お前を治せない」
「……?」
小首を捻る貧民は無防備だった。
顔は幼い年下だろう。ハルみたいな生意気そうな顔つきをしている。
話しかけられたことに困惑したのか、居心地悪そうに目を巡らせ、そして仲間が同じ目にあっていることに気が付き、私を睨み付ける。
「でも、ここからは逃がしてあげれる。今日ははやく眠るといい。傷を癒すために」
彼の腕を持ち上げる。払いのけようとしたが、力が入らないらしい。小さく「やめろ」と訴えられたが聞かなかったふりをして、自分の首に腕を巻きつける。
貧民の体は重かった。鉛のように。一人で運べないと泣き言を言ってしまいそうになる。
だが、ここいる誰も私に手を貸そうとはしないだろう。ギスランさえ、渋面をして拒むはず。ならば、私が一人でこんな醜悪な場所から逃がしてやるべきだ。
「だめ、みんな、いる。助けなきゃ」
貧民は慌てて私に静止を促す。痛みに耐えながら、喘ぐような声で。
「大丈夫、皆、運ぶわ。痛くても我慢しなさい」
「……あなたが?」
「任せなさい。女に二言は存在しないの」
正直、私一人でこいつを運べるかも怪しいものだ。サロンを出るまでの道のりは山道のように険しいものに思えた。
いや、そんな弱気でどうする。気持ちを強く持てば大丈夫。
何時間かかろうと、運びきってみせる。
「カルディア姫」
「手伝ってくれる気でも起きた?」
ギスランの氷塊のような声を背中に受ける。
どう思っているのだろう。日頃から罵倒し、靴を舐めさせ、恥をかかせることしかしない婚約者が、また恥をかかせているのだ。
憤慨し、いい加減にしろと怒鳴りつけるだろうか。ギスランにそんなことが出来る?
「いい加減にしなさい、恥ずかしい。あなたは王族の恥よ。貧民風情に肩入れする。我らのことを道化かなにかと勘違いしているの?」
サラザーヌ公爵令嬢の怒気を孕んだ声が耳に滑り込む。
「誰が要因だと思っているの。誰のせいでマリカ嬢が死んだと。それを偽善の仮面で覆い隠すつもりなの。一人だけ、穢れなき顔で笑んでいるおつもり?」
なぜ、そうなる。自分の罪の重さぐらい、わきまえている。
だいたい、偽善だというのは承知の上だ。だが、人を助ける、救うという行為はそこに利害が発生しようと必要なものではないのか。
下心なしに誰かを助ける聖人君子がいたら、それは人形か物語のなかの登場人物だ。人が生きている限り、心が動き、体も連動してしまう。
そのあと後悔するとしても、自分がしたいと思ったことをして何が悪い。
「それともその心、豚に売り渡してしまわれたのかしら。だから、そんな汚いものに触れても、なんとも思われなくなってしまった?」
「うるさいわ」
「ああ、穢らわしい。貴女など王族ではなく豚よ。卑しい、その口で醜い鳴き声を出すのでしょう。出してみて下さる?」
「黙れ」
私が言う前に、誰かに言葉を盗まれた。
歩みを止めないまま、横目でサラザーヌ公爵令嬢を覗く。その顔は強張り、白目を剥きそうなぐらい目を見開いている。
ギスランは相変わらず、涼しい顔をして私だけを見つめていた。
「不愉快な口だ。焼き鏝で上下くっつけてしまいましょうか」
一瞬、私に向けられた言葉だと思い頭に血がのぼった。だが、先ほどからまくし立てているのはサラザーヌ公爵令嬢の方だ。私ではない。
「耳が腐る、貴女の言葉は。悪魔が呪詛を振りまいているよう。とても素面では聞けないもののようだ」
私を見つめながら、ギスランはサラザーヌ公爵令嬢を非難している。奇妙な行為だった。
なぜか、ギスランの視線から目を逸らせない。
澄んでいるようで、濁っているようでもある、紫の瞳。
ふいにギスランの焦点が揺らいだ。
「子爵、もうこられたのか」
「もう、待てぬ。待てぬぞ、ギスラン様。はよう、妻をこの手にかき抱かせてくれ」
「仕方がないお方だ。もはや、止めてもお聞きになりませんでしょう。こちらへ」
唐突に扉から小太りの男が小躍りしそうなほど陽気にギスランに近寄っていく。さきほど、ギスランを呼びつけた子爵らしい。
状況を確認しようと思ったのだが、急に肩に担いでいた男が気絶した。比重が狂いバランスが乱れ、座り込んでしまう。
尻を打ち付けた。摩りながら、立ち上がろうとしたとき、近くの貧民に声をかけられた。
「貴いお方。俺の目隠しを外してくださらないか。どうか、貴女の勇気ある行動を手伝わせて欲しい」
素早く目隠しをとってやる。
周りの貴族達は、私よりギスラン達に夢中だ。
ギスラン達のことが気なったが、こちらを貧民達の誘導を優先すべきだ。
貧民は簡単な礼を述べると、私にもたれかかる男を抱えた。どうやら、そこまで深い傷を負っていないらしい。血は出ているが、動けないほどではないようだ。
「俺が運びましょう。貴女様は他の奴らを助けて下さるか。俺のように動けるものもいるでしょうが、こいつのように無理な場合もあるだろう」
「分かったわ。でも、このサロンを出ても貴族の目がある。血塗れのお前達を背の皮がめくれるまで、鞭で打つものもいるかもしれない」
それでは意味がない。だが、私の名前で貴族が抑制できるとは思えない。サラザーヌ公爵令嬢に面と向かって、豚になったと皮肉られるのだ。貴族に対する抑止力の効果は薄いだろう。
「リストがお前達を退出させたのだと言いなさい。邪魔立てするものはいないはずよ」
「リスト様。貴女様のお名前か?」
「いいえ、でも、お前達にとって私より価値のある名よ」
貧民は気を失った貧民を抱え直し、ふやけたように笑った。警戒を解いた子供がみせる、甘酸っぱい表情だ。
「だが、貴女様の存在は、その名より価値がある」
貧民は、畏まった礼をした。ハルが跪いたときと同じようなぎこちなさで。
「感謝を。我ら、この夜のことを死ぬまで忘れない」
転がる林檎を足で払い避けながら、貧民達の目隠しを外し、容態を探る。そのなかの数人の貧民に助けられ、全員運び出す算段をつけた。
中には抜け目ないやつもいて、貴族の矢を避け、致命傷を負わないようにしているやつもいた。目隠しをしていたのに、器用なことだ。
気にしないようにしていたギスラン達に目を向ける。
サラザーヌ公爵令嬢は、青ざめた、血の気のない顔でギスランを凝視している。ギスランが何か喋るたび、ゆるゆると首をふっている。
ギスランの隣にいる子爵は、ニタニタと膨れた頬を緩ませていた。
どうするべきか、迷った。
ギスラン達が何を話しているのか気になるが、貧民達のことも気になる。きちんと脱出できただろうか。
貧民達には、女の私に手伝われたほうが心配だと言われ、戦力外通告をされた。
だが、気になるものは気になる。無視して手伝ってしまおうか。
ギスランと貧民達を交互に伺う。
「お母様!」
歓喜の声とともに、小柄な子爵令嬢の体が貴族の間から踊り出た。
走り寄り、サラザーヌ公爵令嬢の細い腰に纏わりつく。まるで頬擦りをするように顔をドレスにうずめている。
サラザーヌ公爵令嬢はあっけにとられ、子爵令嬢を見つめている。
「ああ、お母様、お母様! わたくしのお母様!」
サロンの中が火をつけたように騒然となった。
「サラザーヌ公爵令嬢ーーいいえ、ミッシェルお母様。わたくし、お母様とこうやって抱きしめあって、お話出来ることを心待ちにしておりましたの」
「な、なにをしているの! やめなさい、下級貴族が!」
「お母様、お母様も、わたくしと同じ子爵を名乗るのですわ。ミッシェル子爵夫人! ああ、なんて甘美な響きなのかしら!」
「その妄言をやめなさい! わたくしが母ですって!? 軽挙妄動もいい加減になさい!」
いいえと、ギスランは首を振る。
「先ほどからお話しています通り、サラザーヌ公爵令嬢は、子爵とご結婚されるのですよ?」
ギスランは、サラザーヌ公爵令嬢になにを言っているのだ?
結婚って、子爵とサラザーヌ公爵令嬢は一回りどころか二回りほど年齢が違う。
そうでなくとも、サラザーヌ公爵令嬢と年の変わらない娘がいるじゃないか。
ぞくりと背筋が凍った。嘘よね?
本当に、結婚するつもりなの? 子爵と?
ーー純粋な想いを踏み躙られる屈辱も、貴族には耐えられない。
リストの皮肉げな口調がよみがえる。
ギスランの企みを悪趣味だ、とリストは言っていた。
「ミッシェル、わしの妻はこの子が小さい頃に流行病で亡くなった。しかし、これは貴女ならば母親と敬うと申しているのだ」
「わたくし、お母様のことお慕いしておりましたの! ほら、ご覧になって。お母様とお揃いなの、この刺青」
「わしも貴女のように美しい妻を娶れる光栄、嬉しく思うておる」
虫を払うように、サラザーヌ公爵令嬢は子爵達を振り払おうとする。ギスランに注がれる眼差しは、おどおどと縋るようなものだった。
だが、ギスランはそれを一向にせず、私を手招いた。糸で引っ張られるように、ギスランの元に辿り着く。
「嘘よ、嘘よ!」
「サラザーヌ公爵とは話をつけておるよ、我が妻よ。持参金はいらぬといえば、公爵は喜び勇んで娘を差し上げる、と」
「お父様はそんなことを言わないわ! 悍ましい妄想よ、ギスラン様を巻き込んで、そんなことを言うなど!」
「お母様、わたくしの頭を撫でてくださいまし。前のお母様のように優しく撫でてくださいまし」
「黙りなさい! わたくしが、お前の母親なわけがないでしょう! わたくしは、ギスラン様と……!」
ギスランは私の手をとって、口付けた。
手袋は、血で汚れている。
首元に手を滑らされ、あやすようになぞられた。
サラザーヌ公爵令嬢の狂乱など、構うことなく、ギスランはおかしいぐらいに私を見つめている。
「この首に、貧民が触れた?」
恐怖を感じるほど、平坦な声だった。
「頷け。本当のことでしょう?」
高圧的な物言いに、つい頷いた。
「ギスラン! あれは、どういうこと?」
せせら笑うように、ギスランは目を細める。
愉しむように囁くような声で、私に話しかけてくる。
「あの女のことなどどうでもいいでしょうに。貴女様は、ギスラン以外の男に触られたのだから、私の機嫌をとること以外考えてはいけないのですよ?」
「ギスラン!」
「淫らに、ここで口付けを交わしましょうか。酩酊するほど、濃厚な。あの女にも見せてあげましょう。きっと、カルディア姫は優越感で夜も眠れなくなる」
「……サラザーヌ公爵令嬢は、お前のことが好きなのよ」
「ええ、ですから、私が子爵を導いて差し上げた。借金ばかりの公爵家に、貴方の私財で援助差し上げればいかがかと。報酬はうら若き乙女、悪い話ではないでしょう?」
天使のような笑みで、悪魔みたいなことを言っている。
「公爵家の借財は、このような夜会を催している場合では決してないほどなのですよ。しかし、見栄を張りたがる彼女が、より豪勢にしてしまった」
それは、私が挑発したからではないのか。
取り巻き達の前で借金があるとばらしてしまったから。
「しかも、魔薬の売買まで関与しているという。おそらく、高利貸しが、利子を待つかわりに悪事に加担させたのでしょう。貴族を抱え込めば、どんな悪徳も快楽のうちだ。……貴族の面汚しが」
サラザーヌ公爵令嬢を見る目は冷酷だった。
まるで死にかけた虫でも見ているようだ。
「ならば、醜い者同士で番わせなければ。子爵は、若い娘に目がないのです。他に何人も若い娘に孕ませているらしい。お似合いの二人だ」
祝福して差し上げましょうと、ギスランは手を叩いた。空虚な乾いた音がした。
「ギスラン様!」
サラザーヌ公爵令嬢は、へばりつく二人を引きずって、ギスランに手を伸ばした。
「助けて下さいまし! わたくしは貴方と結婚を」
「おや、困ったことをおっしゃいますね?」
ギスランは私の頭を抱え込み、胸に押し付けながら、サラザーヌ公爵令嬢へ向けて首を竦めた。
「もうすぐ人妻になろうという方が、そう言われてはいけません」
「わたくしのことを愛していると! 恋しいと仰ったのに! わたくしを捨てるおつもりですか!」
「……サラザーヌ公爵令嬢、私は貴女に期待していたのですよ? 貴女ならば倒れかけた公爵家を復活させることが出来ると」
擦れる上等な服は滑らかだった。息をするために顔の向きを変える。貴族達がよく見えた。こそこそと隣同士で話し合っていた。みんな、どうしてか嬉々としている。
サラザーヌ公爵令嬢の不幸が、面白いの?
「しかし、不可能だった。私は貴女の才能に目をかけていましたのに。裏切られた。子爵は貴女の救世主なのですよ。貴女を娶れれば、公爵家にも援助して下さると。慈悲深きお心だ」
父になりかわり窘めるようにギスランは続けた。
「サラザーヌ公爵令嬢。貴女は彼の妻とならなくてならない」
「わたくしは、ギスラン様と」
「私は、カルディア姫の婚約者ですよ? なぜ、貴女と結婚せねばならないのか」
「ーーそんな」
サラザーヌ公爵令嬢は髪を掻き毟り、嘘だと譫言のように独りごちる。理性がかき消えた獣の咆哮にとてもよく似ている。
「もう、遊戯の恋は終わり。そういうことでは、サラザーヌ公爵令嬢?」
私は、初めて恋が粉々に崩れる瞬間を目の当たりにした。サラザーヌ公爵令嬢は、魂まで床に叩きつけられたかのように茫然と床にへたり込む。ばらばらになった欠片を拾い集めるために指を床に這わせ、一点を凝視している。
私が妬ましいと思ったサラザーヌ公爵令嬢の姿はそこにはなかった。
絶望が彼女に這い寄ってくる。舌をだらだらと出し、美味しそうだと狙いを定めている。
「ああ、ミッシェル、わしと新しい恋をしよう。なに、わしはお前のような艶のある、綺麗な娘が好きだ」
子爵が顎の肉を震わせながら肩を叩いた。子爵令嬢も、腰に纏わりつきながら、陶然と頬を赤らめている。
「お母様、お母様、わたくしをお茶会に呼んで下さいまし。ねえ、わたくしは、お母様の隣に立てるような立派な令嬢ですわよね?」
覆いかぶさる二人はサラザーヌ公爵令嬢から生気を吸い上げているような恐ろしさがあった。二人の化物がサラザーヌ公爵令嬢を食らっているよう。真っ白に柔肌に指を食い込ませ、捕食しているみたいだ。
ギスランは、くすりと艶然に笑った。
私の耳に唇を寄せ、囁く。
「夜の女王様。サラザーヌ公爵令嬢が取り乱し、髪を振り乱す姿、滑稽でしょう?」
まじまじとギスランを見つめずにいられない。
「私の心はカルディア姫のもの。思い上がり、自分が愛されているなどと、浅ましきことだ。私からカルディア姫を奪おうとするなど、罪深い。それでなくとも許せませんのに」
心音は、私だけが異常に早かった。この世界で起こることがゆっくりと流れているような気になる。
どっどっと音が鳴るのに、胸は温度がないように冷えていた。逆にギスランは、服越しでも体温が伝わってくるほど熱い。
ギスランは加虐的な色気を零れ落ちそうなほど放って、上品に微笑んだ。弱者をいたぶる貴族の顔だ。
ああ、でも。
ギスランのその顔は、今まで見たどのギスランより美しかった。
「畜生のように機嫌だけ伺っていればいいものを。身の程知らずな女」
ギスランの沸騰寸前の体温が、指先から私に流れ込んでくる。熱の奔流に戸惑いながら、皺が寄るほど服を掴む。
貴族達の騒めきが酷くなり、サラザーヌ公爵令嬢や子爵達を揶揄する声が、どこからともなく聞こえてくる。低く、仄暗い響きを持ったそのなかで、特に脳髄に響く言葉があった。
「サラザーヌ公爵令嬢は金で買われたぞ!」
ギスランが熱っぽい吐息を落とす。
オークションで、買われた絵画を思い出した。『買われた娼婦』。
金で売買される、サラザーヌ公爵令嬢。
あの絵は彼女だったのではないのか。
彼女の末路、そのものだったのではないか。
嗚咽が聞こえる。遠いのか、近いのか、分からないような、小さな悲鳴だった。
落札者のための木槌が高らかに振り下ろされた音がした、気がした。