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《 3 》

 それから俺達は、グルグル回って帰ることも止めてしまった。俺が正直に金のないことを告白したせいだ。


「分かりました。では駅でサヨナラします」


 けれど駅でサヨナラするのも、週に一度ほどに減ってしまった。ジュディがどうしてもと頼み込み、居残りで日本語の教師と勉強をしているせいだ。

 俺達が別れたという噂が校内に流れた。まあ、その前に付き合ってもいないけれど。

 どっちでもいいやと否定も肯定もしなかったら、俺が振られたという噂に変わっていった。だから、なんで告られた方が振られるんだと、心のツッコミは一応入れておいた。

 俺達はちゃんとスマホという現代技術の結晶で繋がっていた。毎晩ジュディからはメールが届く。彼女のスマホには日本語機能がないから、全てローマ字。本当は英語の方が楽だろうに、思った以上に彼女は頑固だ。

 話の内容は殆ど、その日勉強した日本語の復習だ。それをローマ字で書いてきて、俺が添削をする。例えば、


“Subarashi hon tono deaiha jinseio tanosiku suru”


こんだから読む方も結構必死だ。それでも何とか読み取って、言い回しが正しかったか間違っていたかは口頭で伝えた。



 クリスマスが来て、正月が過ぎた。

 とは言っても、何があったわけもない。ジュディとは小さなクリスマスプレゼントを交換しただけ。俺は例の白猫ストラップの別バージョンをあげて、彼女はニンジャキャラのキーホルダーをくれた。

 そんな物をどこで手に入れたのかと驚いていたら、「お父さんに、パソコンで注文してもらいました」と、まるでネタばらしをする手品師のように得意げに教えてくれた。


 そしてとうとう、二年生最後の期末がすぐ目の前に迫ってくる季節となった。ジュディ達留学生は今まで、試験とは殆ど縁のない生活を送っていたが、三学期の期末だけは別だ。日本で一年間過ごし習得した日本語の知識を試される。その成績がそのまま向こうの学校の半期分の成績となるので彼女達も必死だった。

 三年生は殆ど学校に顔を出さなくなっている。センター試験が終わり、私立大学の試験がボチボチ始まり出したからだ。

 そんな空気が、二年生もいよいよ本格的に将来のことを考える次期に入ってきたという気持ちにさせ、あちらこちらで進路について語られるようになってきた。


「カカシは大学行くんだろ?」


 休み時間、柳瀬がそんなことを尋ねてきたのも、きっとそのせいだろう。


「うーん、まだはっきりとは決めてないけど、少し考えていることはあるんだ」


 ジュディに打ち明け話をした時から、漠然と考えて始めている未来だ。


「そっか」

「柳瀬は?」

「俺も、まだはっきりとは決めてないけど、少し考えていることはある」

「真似すんな」

「真似じゃねぇよ」


 お互いにそれ以上言わなかったのは、どちらも迷いがあったせいだろう。俺はもし決意したら、早い時期に柳瀬には打ち明けようと思っていた。



 そんなこんなで最後の期末も何とか切り抜け、ジュディ達が帰る日が刻々と迫っていた。

 俺はまだ彼女にちゃんとした答えを言っていない気がしていた。確かに嫌いとは言ったが、アメリカ人が嫌いと言っただけで、彼女が嫌いだとは言わなかったから、それはたぶん答えではなかったはずだ。

 けれど、ジュディにとってはどちらも同じことだったのかもしれない。そんなふうにウダウダと考えて過ごすうちにとうとう三月になってしまった。

 少しだけ春の気配を感じ始めたその日、家に帰った俺は相変わらずTシャツに短パンの姉と話をしていた。


「マドカ、そんな格好するなら、暖房を切って、長袖を着ろよ」

『だってこの格好の方が楽』


 ホントに地球に優しくない女だ。


「母さんは?」

『ママはおじいちゃんの家。明日、何かの行事があるんだって。ホウ、ホウ……』

「法事?」

『そう、それ』


 日本語と英語が飛び交うのはいつものこと。十八までアメリカにいた彼女にとって、英語の方がずっと表現しやすいのだろう。


「またピザかよ」

『ピザはアメリカ人の命よ』

「お前はアメリカ人じゃないだろ」

『アンタこそアメリカ人なのに、英語使わない』


 そんな会話を交わしていると、スマホが鳴った。

 きっとジュディからだと思い、四角い画面を見ると驚くことに沙織からだ。彼女から電話をもらうのはほぼ一年ぶりだった。いったい何の用事だろうという疑問を抱いていたせいか、「もしもし……?」と語尾が妙に上擦っていた。


“畑毛くん、今、家?”

「うん、家だけど?」

“近くの駅に来てるんだけど、出てこれる?”

「いいけど……」

“お願い”


 その声になぜか悲痛な叫びのようなものが含まれている気がして、俺は電話を切ると、慌てて自室に行って私服に着替え、駅まで猛ダッシュした。


 駅前のロータリーで待っていた沙織は、キョロキョロと俺を探しているようだった。相変わらずクリクリッとした瞳をして可愛らしい。人の彼女と知りながら心が少し躍っているのは、まだ彼女への気持ちが何処かに残っているせいかもしれない。

 息を切らしながら沙織の前に立つと、彼女は大きな眼を更に大きくして驚いた顔をした。


「走ってきたの?」

「寒いから待たせたら悪いかなって……」

「見かけによらず優しいよね、畑毛くんって」


 なぜか淋しげに微笑んだ沙織の顔は、人の彼女だとは思いたくないほど可愛かった。


「“見かけによらず”は余計。で、話って?」

「あそこに移動しようか?」


 彼女が指さした先には、駅の隣に隣接している小さな公園だった。


 公園に移動してすぐ、彼女はブランコの上に腰を掛けた。すぐ上には蕾を膨らませ始めた桜の木がある。冬とも春とも呼べない乾燥した風が、そんな桜の幹に纏わり付いていた。


「話って何?」


 いつまでも黙っている沙織に業を煮やし、俺から先に切り出していた。


「今日ね、秀吾とケンカしちゃったんだ」

「珍しいね。二人は上手くいってるもんだと思ってたけど?」

「秀吾が一人で勝手に色々決めるから、何か腹が立ったの」

「勝手に決める? 何を?」

「将来のこと」


 まさか結婚とかそういうことなのか。

 気持ちが顔に表れたのか、沙織は俺を見ながらフフと笑った。


「秀吾ね、サッカー留学したいんだって」

「サッカー留学?!」

「この間の県大会で、かなり活躍したでしょ? それで気が大きくなったみたい」


 確かに県大会は柳瀬の活躍により、準優勝というウチの高校ではかつてない場所まで上り詰めた。


「それでね、ドイツとかブラジルとかにサッカー留学を考えてるみたいなの。卒業してからか、それとも学校を辞めるか迷ってるって」

「学校を辞めるって……」

「全国大会で優勝したチームのボランチがJリーグ入りが決まったでしょ? 同じ年の子がプロになるって聞いて、秀吾、少し焦ってる」

「そうか……」


 日本全国にはサッカー少年など掃いて捨てるほどある。その中で上り詰めるのはきっと大変なことだろう。柳瀬の気持ちが分かって、俺には何も言えなかった。


「私ね、せめて高校は卒業してって言ったの。高校を卒業ぐらいしないと就職とか不利になるからって言っちゃったの。そしたら、“俺がプロになれないって決めつけてるみたいだ”って怒り出しちゃって、それで“そんなに簡単にプロになれるんなら、みんな苦労してない”って言い返して、喧嘩になっちゃった」


 心と言葉の行き違いが手に取るのに見える。俺達みたいに言葉も心も通じないのも不便だが、二人のように心も言葉も繋がりすぎるのも大変なんだなと改めて思った。


「で、何で俺に電話してきたの?」

「ちょっと思い出そうかなって思って」

「何を?」

「文化祭委員をしていた頃のこと。凄く楽しかったから……」


 三人で企画して、クラスのみんなをまとめて、予算通して、色々大変だったけどやりがいがあった。一年生だったせいもあり、高校生活を楽しもうという意気込みがあった。グダグダのボロボロだった今の二年生のクラスより俺達は上手くやったと、これだけは声を大にして言えるほどだ。


「最初はメイドカフェをしようって言ってたのに、秀吾が猛烈に反対したよね?」


 そうだった。きっとあの頃から柳瀬は沙織が好きだったに違いない。好きな子にメイドの格好をさせて、他の男の接待なんてさせたくない気持ちは、今になれば手に取るようによく分かる。

 そのせいで企画が何度も変更され、最終的にお化け屋敷になってしまったけど、かなりリアルに作ったので好評だった。


「畑毛くんって、私のこと好きだったでしょ?」


 俺は頭を少し反らして、驚きを表した。けれど前振りのない話に少し慣れてきたせいか、それ以上は大げさに驚かずに済んだ。


「何でそう思った?」

「だって、私のこといっつもジッと見つめてきたし、それに時々赤くなってた」

「あっ、もしかして、俺が先に告ったら俺と付き合ったって言いたいとか?」

「それはないない」


 両手を胸の前に振りながら沙織はきっぱりと否定した。


「何だ、違うのか。俺はモテ男だって思おうとしたのに」


 ふざけて返したけど、本当はちょっとだけ悲しい気分になっていた。完全否定はさすがに傷付く。


「私、秀吾に片思いしてたから、告白されて凄く嬉しかったな。文化祭委員に立候補したのも、秀吾が先に決まったからだし」

「そうだっけ?」

「そうよ、覚えてない? 男子達でじゃんけんして秀吾が負けたでしょ? それで女子を決めるときに私が立候補したのよ」


 言われてみればそんな記憶もある。それで柳瀬が“部活があるから出来ない”ってゴネて、じゃあ、フォロー役を付けようってことで、二番目に負けた俺が委員補佐になったんだっけ。まあ、なんだかんだ言いながら、結局、柳瀬は委員の仕事も頑張ってこなしてくれた。たぶん沙織への想いがそうさせたんだろう。


「ってか、もしかして沙織って最初から柳瀬が好きだったわけ?」

「うん、入学式の時に一目惚れ」

「なんだ。最初から俺には勝ち目がなかったのか」


 勝てない勝負に挑まないで良かったと、ホッと胸をなで下ろした。

 その後、しばらく二人であの頃のことを語り合った。楽しかったこと、大変だったこと、そして喧嘩したことなど、記憶の断片が繋がっていく。そんなに昔のことではないのに、人の記憶とは曖昧なものだ。そのくせ、嫌なことだけはリアルに思い出せるから嫌になる。


「畑毛くんと話せて良かった。秀吾のことを考えてドキドキしてたあの頃がちょっと戻ってきたみたい」

「お役に立てたようで良かったです」


 沙織が幸せそうにクスクスと笑ったので、俺はまあ良いかと言う気分になった。少なくても柳瀬の役には立ったはずだ。


「そう言えばさ、俺がこの駅を使ってるって教えたことあったっけ?」

「聞いたと思うけど自信がなかった。だからね、ジュディに聞いちゃった」

「ジュディに?!」

「彼女なら絶対に知ってるって思って。そういえば彼女、最近ちょっと元気ないみたいだから畑毛くんが、あっ、ジュディ!」


 最後の叫び声は、沙織が駅の方を見た瞬間に上げられたものだ。彼女は立ち上がり、公園の入口の方へと駈け出していった。それからロータリーに向かって大きく手を振っている。その向こうに金髪の少女が立っていたことは、俺にもしっかり見えていた。

 ジュディは沙織に気付いたようで、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきている。その片手に大きな紙袋が握られていた。


「私は帰るわね、お邪魔しちゃ悪いから」

「お邪魔って……」

「畑毛くんがジュディと別れたんじゃないって秀吾には報告しておくね。何か、凄く心配してたし」


 ロータリーの方へと歩いて行った沙織は、途中ですれ違ったジュディと何か会話を交わし、それから駅の中へと消えて行ってしまった。

 ジュディが公園の入口近くまでやってくる。けれどそこで立ち止まり、何か言いたげな表情で俺を見つめていた。

 そんな彼女を凝視しながら、俺は公園を出てそばまで歩いていく。少し前で立ち止まり、彼女の方から何か言うのをじっと待っていた。


「あの……タカシ……」


 ためらうような言葉は、ジュディには似合わないと思った。


「ん、何?」

「ママが、これをタカシにあげるって。もらってくれますか?」


 紙袋を俺の方へと差し出した。

 そっと受け取り中を見ると、そこには凝った柄のクッションが入っていた。たぶんこれが例のパッチワークだと思われる。


「素敵な柄だね、ありがとう。早速使う」


 英語で言えば格好いいセリフも、日本語にすると鈍くさく聞こえるのは何故だろう。


「喜んでもらえて、嬉しいです」


 顔を上げたジュディは微笑んではいるが、瞳の奥にどこか淋しげな色が見えて、俺はどうしたのだろうと首を傾げた。


「でも、俺の家を知らないのに来ちゃって、どうするつもりだった?」

「電話して聞こうと思いました」

「わざわざ持ってこなくても俺が取りに行ったのに」

「どうしても来たくなったのです」

「ふぅん。じゃあ、これからウチに来て温まってく? 家の中が夏みたいになってるよ」

「ワタシ……」


 ジュディが下を向く。今日の彼女は本当に変だ。


「ワタシ?」

「ワタシ、今日は帰ります。これを渡しに来ただけです」

「あっ、しまった。定期もお金も持って来なかったから送れねぇじゃん」

「大丈夫です。一人で帰ります。ここでお別れします」

「でも……」

「また明日」


 ジュディは肩を落としたような様子で、トボトボと駅の方へ歩いていく。

 元気がないのは、やっぱり送っていけないからだろうか? 今から家に戻って金を持って来るまで待たせた方がいいんだろうか?

 どうにも決断がつかずに悩んでいるうちに、ジュディの姿は駅の中へと消えていってしまった。


「……まあ、いいか。帰ったらメールしよう」


 踵を返し、歩き始めて約二分。背中に何かがドスンとぶつかってきた。腹に回された手がジュディのものだとすぐに気付く。何故か知らないが、俺はいきなり羽交い締めにされたようだ。


「やっぱりタカシの家に行きます。行きたいです」

「気が変わるの、早いな」

「一人で帰るのは淋しいです」



 心変わりしたジュディを連れて、俺は家に戻った。が、玄関の前でマドカのことを思い出し、どういう顔で中に入るか悩んでしまった。


「どうしました?」

「家の中に妙な生き物がいるが、気にしないでくれ」

「生き物? ペットですか?」

「怪獣だな、あれは」


 玄関を開け、リビングを横目に、そろりそろりと二階に上がろうとして、早速マドカに見つかってしまった。

 リビングと玄関を仕切るドアが勢いよく開くと、南国みたいな空気とともに、常夏姿のマドカが現れた。普段は出迎えなんて絶対にしないのに、何でこういう時だけは勘が働くんだろう。


『隠れることはないでしょ?』

「別に隠れているわけじゃ……」

『彼女が噂のジュディね? こんにちは、私はマドカ。よろしくね』


 英語で挨拶をされ、ジュディは戸惑っているようだ。もう英語は話さないと言った以上、どう返事をしていいのか分からないようだ。


「別に英語で答えてもいいんだぜ? マドカだってその方が喜ぶし」

『英語で答えてもって、それ、どういう意味?』

「ワタシ、タカシの前では英語を話せません」


 マドカの片眉がぴくりと動く。何か嫌な予感がした。


『タカシ! いったいどういうこと? そんなこと、彼女に強要したの?!』

「してねぇよ。ジュディが勝手に決めただけだよ。俺は喋っていいって言ったぜ?」

『言い方が偉そうだったんでしょ? 態度がでかかったんでしょ?』

「そんなことない。俺は優しく言ったつもりだ」


 マドカは上から下までジュディを眺め、ついでに俺もジロジロ眺め、そして最後通告のように階段を指さすと「Go up the stair!」と俺に命令した。


「言われなくても……」

『あなただけが行くのよ、タカシ。私はジュディとだけ話したいから』

「ちょ、ちょっと待て。なに、勝手に決めてるんだよ」

『私には決める権利があるでしょ? 私が日本にいる理由を彼女に話しておきたいのよ。さあ、行って!』


 痛いところを突かれてしまった。確かにマドカには日本に来る理由など何一つなかったのに、それを強要してしまったのは俺と、それから母だった。


「余計なこと喋るなよ」


 捨て台詞を吐いて、俺はリビングから外に出た。

 けれどやっぱりマドカが何を話すのか気になって、階段に座って中の声にそば耳を立てる。つまらない家族の話なんて始めたら邪魔しに行こうと、そう決めていた。


『タカシが何で英語が嫌いなのか、聞いた?』

『話してくれたけど、日本語だったのであまり分からなかったわ』

『そう。だったら私がちゃんと英語で話して聞かせるね』


 それからマドカは俺が日本語で話した内容と同じようなことをジュディに話して聞かせた。

 虐められていたなんて過去を彼女に知られるのは、何だか恥ずかしい。電車の中で話した時は、日本語が分からないだろうと思っていたのでスラスラ喋ったけれど、改めて英語で説明されると、本当に自分がWimpになった気分だった。


『そうだったんですか。だからタカシは金髪の女性が嫌いなんですね』

『それだけじゃなくてね、ママが……』


 母親のことを持ち出され、俺は我慢が出来なくなって、扉のノブに手を掛けた。


『……変になったのは、自分のせいだって思ってるのよ、あの子』


 続けられた言葉に、俺は動けなくなってしまった。


『私達の両親はね……』


 父はハーフだが、母は純粋な日本人だった。

 マドカが三歳まで日本にいたが、父のビジネスがアメリカで軌道に乗り、三人で向こうに移り住んだ。

 マドカが五歳の時に俺が生まれた。でもその頃はまだ母も幸せだった。

 最初に住んでいたのは、ロサンゼルスの日本人街だった。だから母も日本と同じような環境にストレスをためることもなく、俺達も楽しく暮らしていた。

 けれどオフィスの移転に伴って、俺達は州北部にある町に引っ越した。そこは殆どが白人系でアジア系はあまり住んでいない場所だった。

 英語があまり得意ではなかった母だったが、何とか地域に溶け込もうと頑張った。けれど頑張れば頑張るほどどこか浮き始めて、子供の俺にもそれが感じ取れた。


 そんな折、俺への虐めが始まった。アジア系で大人しすぎた俺は、奴らにとっては格好のターゲットだ。小学生だからと言って手加減などない。

 それが辛すぎて、俺はとうとう登校拒否をした。

 学校から呼び出された母は、教師と長いこと話したそうだが、残念ながら半分も話は聞き取れなかったらしい。だがその時はまだ父がそばにいたので、代わりに父が教師達と話し合ってくれた。


 ところが中学生になり、俺も少し小知恵が付いた。虐めてた奴らとつるめばいい。そうすればターゲットにはされないはずだと。

 治安が悪い町ではなかったが、どんな社会にも悪はいる。上級生に誘われてマリファナも吸った。童貞を捨てたのもその頃だ。もっとも日本では六年生というガキだから、相手をした方も遊び半分だろうけど。

 母の状態は悪化の一途を辿っていた。父はビジネスが忙しくなり、アメリカ中を飛び回り、母が取り残されていたことを、家族の誰も気付かないでいた。


 そんな状態の中、その日はやってきた。

 俺の変貌ぶりに母はとうとう耐えきれなくなり、日本語で俺を責め立てた。それに対して俺は、あのオージーに言った言葉よりももっと汚いスラングで母を罵った。

 母には俺が何を言ったのかは分からなかっただろう。分からなかったが、汚い英語を喋っていると言うことだけは感じ取れたようだ。

 その夜、母は睡眠薬の過剰摂取で病院に担ぎ込まれた。

 医者は鬱だと言った。福祉局は母には俺を育てられないので施設に預けろと言った。けれど父は母を思って、俺を思って、俺達を日本に帰すことを決めた。

 でも本当は、マドカが一番の被害者かもしれない。彼女はあっちの生活にとてもなじんでいて、日本には行きたくないと何度も泣いたけれど、最後は母のためを思って一緒に来てくれたのだから。


 俺達は母の前では英語は使わないことにした。マドカも俺の前では英語を使いまくっているが、母がいる時は日本語しか喋らない。俺はそんなに器用ではないから、英語は完全に封印することに決めた。それがせめてもの罪滅ぼしだと、そう思って……。


 俺は握っていたノブから手を放し、自室にあった財布と乗車カードを握りしめ、再びリビングへと戻った。けれど扉を開けた時、ジュディの顔をまともに見られず、「そろそろ帰ろう」と呟くように彼女に言った。



 電車の中で、俺達は何も喋らなかった。今日はグルグル回る必要がないので、七つ先の駅で降りて、ジュディの家にひたすら向かう。もう夜の帳はすっかり下りていた。


「ワタシ、駅で少しシットしました」


 ふとジュディが言った。


「嫉妬?」

「沙織にシットしました。彼女は日本人だからタカシとオハナシがいっぱい出来ます。でもワタシは出来ません。それがとても悲しかったです」


 あの時の表情はそれだったのかと、その時になってに俺は気が付いた。


「沙織の話はほとんど柳瀬のことだったぜ?」

「そうですか……」


 呟くように返事をして、ジュディは空を見上げた。

 民家の庭から伸びた桜の枝の間から、満月がチラチラ見える。その光に映った蕾の影が、もうすぐ春だと教えてくれていた。


「出発までには咲きそうもないな」

「何がですか?」

「桜だよ。この木は桜なんだ。というか、あっちこっちにあるけどね。桜が咲いたら日本中がピンク色だから綺麗だよ。あ、去年見たか」

「見てないです。去年日本に来た時は、もう終わっていました」

「ああ、そうか。去年は暖冬で今頃もう咲き始めちゃってたな」

「ワタシ、日本の桜を楽しみにしてたのに残念です。もし願いが叶うなら、来年の桜を見たいです」


 その希望が叶えばいいなと、俺は心の中で思っていた。



 家の前に到着すると、やっと息を吹き返したようにジュディが俺の顔を真っ直ぐに見つめてきた。


「今日は、ありがとうです」

「あのさ、ジュディ。もしも言いたいことがあったら、英語を使ってもいいよ。別に俺は気にしないから」

「ダメです、約束しました」

「俺はジュディのことをもっと知りたいから、だから話して欲しい」


 すると彼女は大きく息を吸い込み、目を閉じるとしばらく何かを考えていた。

 やがて青い瞳を開くと、静かで穏やかな美しい英語で彼女の物語を語ってくれた。


『私の父はユダヤ系なんです』


 俺は、その言葉で彼女の物語の半分を聞いたような気がした。


『とても厳粛な家族で、私はそういう中で育ちました。でも学校では私は少し浮いた存在でした。あなたのように虐められることはなかったけど、皆に溶け込めなくて、変わった子だと言われました。たぶんそれは私が臆病で気が小さいからではないかと、そんな風に自分では思ってました。

 そんな時、チャーリーが日本のアニメを好きになり、私も一緒に見るようになりました。そうしているうちに日本にとても興味を持ち、インターネットで色々調べ、日本人がとても行儀が良くて大人しいと知ると、私のいるべき世界はきっと日本ではないかと、そう思うようになりました。

 日本への留学については、家族には初めは反対されました。けれど、震災で日本の人達がいかに礼儀正しく我慢強い民族だかを知って、私を喜んで送り出してくれました。

 あなたのことを最初に気が付いたのは、日本に来てすぐです。日本の人は優しいからいつも微笑んでくれます。けれどあなたは私を見てちっとも笑わなかった。廊下ですれ違っても、まるで他の日本人が通り過ぎる時と同じように、私を特別に見ることはなかった。

 だから凄く気になって、あなたの名前を友達から聞きました。そして私の好きなキャラととても似ていると知って、きっとこれは運命だとそう思いました。

 あなたに話しかけた時、本当はあんなふうに言うつもりではなかったんです。“私とおつきあいしてもらえますか?” そう言いたかったけれど、日本語でそれをどう言ったらいいのか分からなかった。誰かに聞くのが恥ずかしくて、だから声をかけるのに半年以上かかってしまいました。

 でもあなたは笑いもせず、怒りもせず、正直に驚きの表情をしてましたよね? それを見て、ああ、あなたは本当に正直で優しい人だと心から思いました』


 そこで言葉を切った彼女は、悲しげな表情でうつむいた。


「ワタシ、日本語を頑張って勉強しました。でもテストの点数はあまりよくありませんでした。それに今も英語を話してしましました。本当は日本語で話したかったです。ワタシ、頑張っても上手になれません。それでもワタシを彼女にしてもらえますか?」


 俺は手を伸ばし、彼女をそっと抱きしめていた。


「まだそんな心配してるのか、馬鹿だな」


 しばらくそうして抱き合っていると、頭上から厳しい声が降り注いできた。


「そんな暗がりで抱き合っているのはルール違反よ、畑毛くん」


 見上げれば、少し高い位置にある玄関の前で松本さんが俺達を見下ろしていた。




 一週間後、ジュディ達が帰国する日がやってきた。ホームステイ先の松本さんとは昨夜のうちにサヨナラをしたそうだ。

 今日は学校でフェアウェルパーティをしてから京都で見学をして、そのまま関西空港に行ってそれぞれの国に帰る予定らしい。

 教師達の退屈な挨拶から始まり、俺達の代表が英語でスピーチをし、留学生の代表が日本語で挨拶をした。俺達が唄い、彼らが聞く。

 妙に形式張ったパーティはそうして終わった。


 体育館から外に出ると、それぞれのクラスメイトが彼らを取り囲んで別れを惜しんでいる。残念ながら二年E組は留学生がいなかったので、何だか取り残されていた。

 俺はジュディと話したかったが、周りをガッツリと固められているその中心に分け入って、彼女と話す勇気など出てこない。遠目に、春の日差しに輝く金色の髪を見つめるしか他になかった。

 するといきなりポケットのスマホが鳴り出した。何事かとチラリと見ると、柳瀬からメールが届いている。ヤツは背後にいるというのに、いったい何を考えているんだか。

 そう思いながらメールを開くとそこには、ただ一言“ライン”とだけ書いてある。

 意味が分からず、今度はラインに繋げてみると、そこにはウザい文字がズラズラと並んでいた。


“ほら、いけよ、カカシ!”

“いつ行くか、今でしょう!”

“男ならガッツリ抱きしめろ!”

“お前が漢になるのは、今だけだ!”


(うぜぇ……)


 そう思いながら振り返ると、柳瀬やその他数人の友達がニヤニヤを笑いながら、俺に向かって親指を立てていた。

 俺はグッと奥歯を噛みしめ、それから力足を踏んで前に進む。C組の集団の前に来ると、息を吸い込んで勇気を振り絞った。


「ジュディ!」


 俺の叫び声に、柴田やその他大勢が振り返る。もちろんジュディも俺を見つめてくれていた。


「ジュディ、俺は……」


 言いかけて、言葉を切った。

 ちゃんと伝えたいから、だから言葉を換える。どう思われようと、ジュディに伝わればそれで良かった。


『ジュディ、色々ありがとう。傷付けちゃったことは謝る。それとジュディとグルグル回った時間も俺には楽しかった。

 俺さ、高校を卒業したらアメリカの大学に進学しようと思ってるんだ。でもテキサスから遠いかもしれないから、あまり会えないかもしれないけど。それと、もし来年日本に戻ってくるなら桜の咲く前に来いよ。その時……』


 そこで言葉を切り、俺はもう一度心の奥から勇気を絞り出した。


「I’ll kiss you」

「ハイ!」


 ジュディが明るい笑顔を見せてくれた。

 それを見るだけで、俺は幸せな気分になれるから……。


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