約束の龍の谷
高い山に深い谷。街を離れて森を抜け、海を越えた先のその先。
「あ、あ……」
岩場に小さな手で必死につかみながら、足は足がつくところを探しています。
小さな黒猫の子はうっかり足を滑らしてしまったのです。今にも谷底に落ちてしまいそう。
足をいくら動かしても、どこにもひっかける場所はなさそうです。
「落ちる……うーん! うーん!」
猫の子はちらりと下を見ました。
下は谷底。
暗くて深い谷が口を開けています。
底がどんな風になっているのか、猫の子には見えません。
猫の子は思いました。
もしかしら下には尖った岩がたくさんあるのかも、もしかしたらとても流れの早い川があるのかも、もしかしら底がなくてずっと落ち続けるかも、もしかしたらとっても大きくて怖い怪物がいるかも……。
猫の子はぶるぶる震えながらしっぽを丸め込みました。
谷は大きな口で小さな猫の子の体に何度も息を吹きかけます。
「誰か、誰か助けてぇ」
猫の子は叫んだつもりでしたが、もう力が残っておらず、大きな声がでませんでした。
「あ……」
猫の子の手が岩を離れ、猫は谷底に投げ出されました。
「わわ!?」
猫の子はいつか大人の猫がやってみせたように空中で体を回転させて足を地面の方に向けました。
けれど、これは地面が無ければ仕方がありません。
もし、地面があったとしてもこんな高さからおりてうまく着地できるのか、自信もありません。
だって、いくら猫の子だからって、一度もこんな高さから降りたことなどないのですから。
猫の子は、猫のお兄さんに言われたことを思い出しました。「低いところで練習して、少しづつ高くしていくんだよ。いきなり高いところからしてはダメだからね」と。
ダメだって、言われてたのに!
猫の子は後悔しました。
だって、まだ少しも練習をしていなかったのです。これからやろうと思っていたのです。
猫は恐くて怖くてぎゅっと目を閉じました。
「……?」
あれ?
猫の子が気がつくと、猫は地面の上に立っていました。
「あれれ?」
今度は声に出していってみました。
どうやらしゃべれるようです。
猫の子は自分の手足を見ました。ケガはしていませんでした。
周りをみると、大きな湖に小さな花がたくさん咲いています。
今度は上を見上げました。
高い高い崖。いつのまにか、谷の口の奥底に猫の子はいたのでした。
「大丈夫かい、猫の娘」
「……!?」
猫は突然声をかけられ、驚いて振り向きました。すると、そこには大きな、大人の猫よりもずっとずっと大きな黄色い龍が猫を見下ろしていました。
「あなたは? もしかして、あなたが助けてくれたの?」
「ええ、そうよ。あぶなかったわね」
龍は少し疲れたように言いながらゆっくりと体を横にしました。
「ありがとう、龍さん」
猫はペコリと頭を下げて、龍にお礼を言いました。
「いいのよ。今度は気をつけなさい。ここの道は狭いからね。さあ、早くお帰りなさい」
「うん」
と、猫は頷きました。
返事をしたものの、猫はどうやって森に帰ったらいいのかわかりませんでした。
すると、龍はすぐに気がついたのか、帰り道を教えてくれました。
「あそこに細い道があるでしょう? 猫のあなたならその道を通ることができるはず。その道は少し長くて暗いけど、森に抜けることができるはずよ」
「ありがとう龍さん。私、龍さんに何かお礼をしたいの。だって龍さんは私のこと助けてくれたでしょう?」
「そう、でも、私はもうすぐ死んでしまうの。何かをしてほしいことなどないのよ」
「ええ!? 龍さん、もうすぐ死んじゃうの」
猫の子は急に悲しくなり、涙をポロポロ流しました。
「どうして泣くの、猫の娘」
「だって、龍さん、死んでしまうんでしょう? せっかく知り会えたのに、お別れになってしまうなんて、悲しいもの」
「龍はとても長生きなの。私は何百年も経ってまた龍に生まれ変わるの」
「龍さん、龍に生まれ変わるの?」
「そう、体が変わるの。だから、生まれ変わる前の事を覚えてもいるのよ」
だから、龍はとても物知りでした。
だから龍は知っていたのです。
猫が今流した涙も感じた気持ちも、やがては忘れてしまうということを。悲しい事を忘れるように、きっと猫は龍のことも忘れてしまうに違いないということを。
龍がそう考えていると、猫がパッと顔を明るくしていいました。
「覚えている? じゃあ、生まれ変わったら、また龍さんとお話できるのね?」
「……」
さっきまで泣いていた猫の子は今度は大喜びしました。
しかし、龍が生まれ変わってまたここに来ることができるのは何百年も先の話。
まだ子供だから、猫の子にはそれがどれほどのことかわからないのだろう。
そう龍は思いました。
「龍さん、私とお友達になってくれる?」
「ええ……」
「あたし、またここに遊びにきてもいいかしら?」
「かまわないわ」
「本当? よかったぁ」
こうして猫と龍は友達になりました。
次の日、一匹でいる龍の元に猫の子は姿を現しました。
「龍さん、遊びにきたよ~」
約束通り猫はやってきました。抜け道を使い、龍のもとに遊びに来たのです。
「よく来たわね」
龍は猫の子の事を不思議に思っていました。
体が大きくて、大きな牙も鋭い爪もある龍を普通は恐がったりするものです。
それなのに、猫の子は少しも恐がりません。それどころか、猫の子は龍と平気で話をしています。
猫の子は龍のもとに食べ物や龍の広場には咲いていない花などをおみやげに持ってきたりしました。猫の子が持ってきてくれるような食べ物を、龍は食べなくても平気なのですが、猫の子がもってきてくれた時には二匹で食べたりしました。
物知りの龍は色々な話を猫の子に聞かせてあげました。猫の子は龍の話を聞くのがとても好きでした。
そして龍も猫の子が話しを聞いてくれるのがとてもうれしかったのです。
だって、誰かがいないとお話をすることができないでしょう?
それから、猫は高い所から飛び降りる練習もしました。龍に見てもらいながら、練習をしたのです。
けれど高い所から降りるのは、なかなか上手くなりませんでした。
ある日、龍は猫に訪ねました。「もう十分に高い所から降りることができるわ、どうしてまだ練習をするの?」と。
すると、猫の子はいいました。
「だって、崖の上から来た方が早くここに来ることができるんだよ」
龍は驚きました。猫は最初に落ちた高さを降りようと思っていたのです。
しかし、いくら猫が降りるのが上手くなったとしても、とてもできるように高さではありません。
月日が流れ、猫がお嬢さんからお姉さんになり、前よりもさらに少し高い所から降りることができるようになった頃、龍はほとんど動くことができないようになっていました。
龍の元気がなくなってくると、猫は悲しみにくれてポロポロと涙を流しました。
「猫の娘、なぜ泣くの?」
「だって龍さんが……」
「ただ、生まれ変わるだけよ。ずっとずっと長い時間をかけて、またここに戻ってくる。それに、私が死んだことなど、すぐに忘れてしまうから大丈夫」
そう言って龍は少し笑い、そして思いました。次にここに来る時には、もう猫はいないだろう。
また一匹になってしまう。また私の事を知るものがいなくなってしまう。
猫の娘との時間は楽しかったなぁ……。と。
「猫の娘、もしどこかで、他の龍に会ったなら、その子とも仲良くしてやってくれる?」
「うん、もちろん。あと、あとね、私、黄色い龍さんのことも忘れないよ」
「ええ」
「またここでお話聞かせてね」
「ええ」
……猫の命は短いもの、あなたが忘れなかったとしても、生まれ変わった私があなたに出会うことはないだろう。と龍は思いました。
「ありがとう、猫の娘。短い間だったけど、楽しかった」
そう言って龍は瞳を閉じ、体を残して旅立っていきました。
龍の大きな体が土となり、木となり、コケが生え、それがもとは龍だったとわからなくなる頃、世界のどこかで大きな大きな卵がかえりました。
龍の広場からとてもとても遠い、誰も行くことができないような場所で黄色い龍が生まれたのです。
卵からかえって見ると、幼い龍の周りには誰もいませんでした。
それから龍は雨の日も風の日も一匹でした。
ふと猫の娘のことを思い出しました。
猫の娘はどうしてしまっただろう? もう何十年も経っているから、あの子は生きていないだろう。
あの子と話がしたいな……。
龍はやっぱりさみしい気持ちになりました。
またあの広場にいくと、誰もいないのところで何年も何年も過ごさなければならないのです。しかし、それは龍の仕事のようなものでした。時がくれば、あの龍の広場にいなければなりません。
やがて空が飛べる時期になると、龍はそこに卵を産んで飛んでいきました。
龍があの広場に帰った時、前に龍が死んでから何百年も経っていました。
龍は猫と最後に過ごしたところに腰かけ、あの時のように、無駄だとわかっていても猫が訪ねてくるのを待ってみました。
もちろん、猫がこないことなどわかっていたけれど。
「……?」
「わわわっ!?」
「うん?」
どこからか、声が聞こえました。龍が空を見上げると、ポンっと龍の体に何かが降ってきました。
「ああ、びっくりしたぁ、降りる順番を間違えちゃった……あっ!」
「……?」
それは小さな黒猫でした。
黒猫は毛が逆立つほどに驚きました。
「空から?」
まるであの猫と初めてあった時のような小さな小さな猫の子でした。
龍は慌てて威厳のある難しい顔をしようとしました。
だって、いくらあの時と同じ黒猫だと言っても、あの猫とは別の猫。龍のことを知っているはずがないのですから。
「どうしてこんなところににきたのかしら? 迷子になったのなら……」
「黄色の龍さんだ! 本当にいたのね、ずっとずっと待っていたのよ」
猫の子はパッと顔を明るくしました。
「えっ?」
「すごく長生きの物知りの黄色い龍さんでしょう?」
「……?」
龍は喜んでいる猫を不思議に思いながら、ハッとして龍の広場を見回しました。
すると、どうしたことでしょう。広場はまるで、あの時龍が死んでしまった時と少しも変わらず綺麗なままでした。
「これは? ずっと……?」
「そう、ずっと。私のおばあちゃんのおばあちゃんのおばあちゃんよりもずっと前から、ここに命の恩人の黄色い龍さんが来るって、だから、黒毛の子は毎日通う決りなの」
「黒毛の子が毎日?」
「龍さんが見たらすぐわるように、黒毛の子がいいって」
前に龍が死んだあと、猫の子は本当に龍のことを忘れませんでした。
黒猫は約束を忘れず、あれからもここに通って龍を待ちました。
やがて、猫に子供が生まれるとその子供に龍に助けてもらったことを話しました。
子供はやっぱりここで龍を待ちました。
その子供もここで龍を待ち、そしてその子供も待ちました。
「あのね、龍さんが来たら伝えなくちゃいけないことがあるの」
「……?」
「どう? うまく降りられるようになったでしよう? って」
「ええ、そうね……」
「少し失敗しちゃったけど、私のお母さんもおばあちゃんもとっても上手だったのよ」
「ええ、わかるわ」
猫の子は無邪気に笑いました。
「龍さん、ありがとうね」
「どうして、私にお礼を言うの?」
「だって、またここに来てくれたでしょう?」
「……」
「それにね、お母さんもおばあちゃんも言っていたの、龍さん、お友達になってくれるのでしょう?」
「……ええ」
龍は猫を見下ろし、ゆっくりと頷きました。
長く長く生きて、色々な事をたくさん知ってた龍は知らなかったことを知りました。
それから龍はまた長く長く生きました。
それからたくさんの猫と友達になりました。
けれど、龍は友達の事を忘れたりしませんでした。
おわり