新世界を見た。
『さあ、日光浴の時間ですよ。ガラス天井からも日はあたりますが、お前も直で浴びた方が気持ちいいでしょう』
相変わらず、何もない空間でキリコはのんびりと過ごしていた。そして相変わらず、たまに濃厚な花の香りが漂ってくる。この香りがなんなのか分からないが、匂いをかぐと少しだけ落ち着かない気持ちになった。
「ああ……」
自動的に出てくる食事、丁度いい温度と湿度。ただ寝て食べて過ごす毎日――……そんな毎日に、キリコは少し飽き飽きしていた。
「……なんか私……ペットか何かになって、育てられているみたいな気になってきた。あーあ、退屈だなあ……」
実際に植物として育てられているのだが、キリコには周りの状況が見えていないため、何も分かっていない。
しかし、視界が失われているのでその他の感覚には敏感になっており、実際、昨日なんかはいつもの声とは違う声も聞こえたとわかるほどだ。だが、そちらの声はボンヤリしていてよく聞こえなかった。
聞こえるのは、ただハインの声のみ。
「暖かい……気持ちいい……でも退屈……」
何もない空間で伸びをする。
「ん?」
ふと、何かが手に触ったのに気づいた。行き止まりなど無いと思っていたこの空間に、もしかして限界があるのかと一瞬ドキリとする。
再び手を伸ばしてみた。
「……やっぱり何かある!」
立ち上がり、手に触れた何かへ向かって近づく。すると、すぐにその何かへ額をぶつけて倒れこんだ。
「いたっ……なんだろう……なんか、広い。壁……? 部屋みたいな感じになっているのかな。ゴロゴロ転がっている間に端っこに来たのかも。どうして今まで気づかなかったんだろう……」
壁に触りながら歩き続ける。そうやってずっと歩いていると、しばらくして部屋の角と思われる場所にたどり着いた。そこで折れて再び歩き出す。ちょっと小走りで、しかし先ほどのように額をぶつけないように手を前に差し出しながら。
「ずっと平面でさえぎるものが無い……ここは本当に何もないのかも。でも中央にはあるかもしれないのか。電気欲しいなあ……」
そうやって四回折れて五回目の角にぶつかった時、ようやく部屋を一周し終えたのだと感覚でわかった。結局何もなかったことに落ち込み、壁を背にずるずると座り込む。
「……終わりのある部屋……ってことは分かったけど……つまんないなあ」
『おや、今日は随分と退屈そうだ。しかし困りましたね。種はどうすれば楽しめるのでしょう?』
ここ最近聞きなれた優しそうな、そして少し笑っているような気配が伝わってくる。
「そうなんですー、退屈なんですよ。もう暇で暇で……やることが全然ないんです。あの……今更なんですけど、ここどこですかね? あなたは誰ですか?」
キリコは返事を期待しないまま話しかけた。あまりにも退屈だったものだから、話しかけてみようと思ったのだ。しかし、やはりハインには言葉が聞こえなかった。キリコとハインの大きさにはあまりにも差があったので、その声が届くことはなかったのだ。
『ん……? ああ……残念ですが仕事が入ったようです。窓は開けていきますから、あなたはしばらく日光浴をしていなさい。時間がきたり天候が変わったら窓がしまるようになっています。では、行ってきますね』
優しい気配が離れていく。
それに少し寂しさを感じながら、キリコは“いってらっしゃい”と声をかけた。
『ああ、そうでした。念のために言っておきますが、決して種を蹴破るだなんて乱暴な真似はしないで下さいよ』
「種? 種ってどういうことですか? こんなに暗かったら見えないのですが……間違えて踏んじゃうかも――ん? 蹴破る? 踏むじゃなくて?」
返事は無い。気配も遠ざかって行き、キリコは小さくため息をついた。
キリコは種が床に落ちているのだと思ってそう言ったが、まさか自分が種の中にいるのだとは夢にも思っていなかった。
「……うーん、あの人は私の声が聞こえていないみたいだけど、一方的に話しかけているってことだよね……いったい私はどういう状況になっているんだろう。ここはどこなの……?」
突然、恐怖に襲われた。
何も知らず、何も見えない。しかしお腹がすいたころには食料が与えられ、温度も適温に保たれている。
与えられた食事が見えるので視力に異常があるわけではないことを知っていた。だが、魔法のようにポンと現れては消えていく何か。それが本当に食べても大丈夫なものなのかと考え始めると、途端にキリコは吐き気に襲われる。
「……私、なんであんなに普通に食べてたんだろう……あれは、なんだったの……? ここはどこ? あの人は誰なの……?」
混乱しながら壁を叩く。そして、硬いと思っていた壁は、意外にも柔らかい素材でできているようだと気づいた。
「……これ、もしかして壊せるのかな?」
さらに力をこめる。
しかし、壁はきしむだけで壊れそうもない。壊れそうで壊れないもどかしい強度。
「ど、ど、どうしよう……なんで、こんなところに……私は死んだと思っていたけど、本当は誘拐されてどこかに閉じ込められているとか? でも、ならどうして食事だけ見える部屋で何もされずに閉じ込められているんだろう……」
今ではすっかりパニックなったキリコは両腕をさすりながら荒くなってしまった息をなんとか抑えようと深呼吸した。
なぜ今までぬるま湯に浸かっていたのか、なぜ今まで何も疑問に感じなかったのか……甘えきって考えることを放棄していた自分を叱咤しながら、キリコは大きく息を吸い込む。
「…………」
そして、目を閉じて大きく息を吐き出した。
「……ここを、出よう」
目を開け、足首を軽く回転させる。そして思いっきり足で壁を蹴りつけた。
何度も何度も蹴りつけ、壁がギシギシと音を立てる。
そして何度かそうやって、汗だくになり、息が切れ始めたときのこと。
軽快な音と共に、かすかに壁の向こう側から明かりが見えた。
「やった!」
亀裂に手をかけ、思いっきり壁を引っ張る。なかなか壊れないそれは、やがて軋み始め、更に力を加えれば勢いよくはがれた。その衝撃で尻餅をつくも、キリコは満面の笑みで再び起き上がる。
そしてまた亀裂に手をかけて壁をはぎ、はいでは欠片を捨て、それを何度か繰り返し――
「…………」
壁の向こう側が柔らかな土であると気づいて、絶望した。
「埋められてる……? どう、して……」
土が入ってこないように慌てて穴へ手をそえると、思ったよりも柔らかかった土がボロボロと空間の中に入り込んできた。それを見て生き埋めになると思ったキリコは、大慌てで体を自分であけた穴に押し付ける。
「え……これ、え……どうしよう……」
柔らかな土が、背中にどんどん入り込んでいく。しかし、ふと薄っすら入り込んできていた明かりを思い出していた。
そっと土から背を外し、土をながめる。
「あ!」
土からは、かすかに明かりが見えていた。
「光が見えるってことは、地上が近いってことだよね」
土は柔らかく、明かりは見えている。であれば、思ったよりも自分は酷い状況ではないのではないかと思えてきた。
両手で慎重に土を掘る。どんどん部屋の中に入ってくる土を端へ寄せながら、ただひたすら土を掘った。
そして、やがて終わりが来る。
「眩し――」
目をつぶす勢いで光が入ってきた。汚れた手で目を押さえ、ようやく光に目が慣れた頃、キリコは恐る恐る手をどかす。
「青空……? 綺麗……」
土の向こう側には、雲一つない、綺麗な青空が広がっていた。