聞こえてくる声。
「ん……」
温かな温度を感じ、キリコは目を覚ました。
「……これは……何の匂いだろう……花?」
とっても濃い、花の匂いがする。むせ返るようなそれは、どこか悲しげな香り。
そして何か膜に包まれた感覚がするが、あたりは真っ暗闇で何も見えない。もうずっとこんな感じで、キリコは誰にも会わずに過ごしていた。
「不思議な空間だなあ」
キリコは、ここが種の中だと気づいていなかった。
「お腹……すいた……また、食べ物、落ちてこないかな……」
ボーっとする頭でブツブツと呟く。
この誰もいない空間に異変が起こったのは、事故が発生してから数日経ったときのことであった。キリコは何日経過したのか全く気づいていなかったが、突如くぐもった男の声が聞こえ、近くに誰かがいるのだと知った。これは例の種を拾った花の種屋の店主であったが、そんなことをキリコが知る由もない。
「一番最初に出てきたのはコーヒーだったけ」
キリコはその誰かに助けを求めた。しかし、キリコの声は店主には届かなかった。
しばらくすると、暑さがやってきた。真夏の砂漠に放り出されたような暑さに耐えかねて倒れる。流れる汗、渇く喉。もう駄目かと思われたとき、今度は真冬の寒さが襲った。
一体どんな超常現象だと体を抱えて震えるキリコであったが、この時、花の種屋の店主は種に暑さと寒さを与える実験をしているところであった。
「食べ物の他にも色んな事が起こったなあ」
その後も店主が液体肥料を与えれば、悪臭を放つ液体がキリコの全身に浴びせられてのたうちまわるはめになり、かと思えば固形の肥料を与えた店主によって、キリコのいる空間は硬くて丸くて小さい何かで満たされ、体を圧迫された。この実験は、じつに三日間ものあいだ続いた。
「結構大変な目にあってる気がする……」
そして弱ったキリコが、また死ぬかもしれないと思い始めたときのことだった。目の前にスポットライトがあたり、そこに一つのカップが現れた。それは非常に良い香りを立てており、恐る恐る近寄れば温かな湯気を立てるコーヒーだと気づく。
すがるような思いで飲み干せば、じんわりと体中に熱が伝わり思わず涙した。それから定期的にご飯が湧き出すようになったのだ。
「ここ最近は何も起こらないなあ」
この頃、何をやっても弱っていく種に疲労困憊した店主が、居眠りをしてコーヒーを零していた。眠りから覚めてコーヒーまみれになった種を見て店主はザッと血の気が引いたが、生き生きとしている種を見て、ある一つの思いが浮かんだ。
もしかしたら、この種は人と同じものを好むのではないかと。
こうして、この日から店主は自分のご飯を少しだけ種に与えるようになった。
「そう言えば、前に食べた時は、マッシュポテトだったな。いつも一品しか出てこないから、何品か出てきたらいいのに」
もはや“なぜ食材が沸いて出るのか”とか、“ここはどこなのか”とか、そんな現実的なことを考えるようなことはしなくなっていた。
最初こそ、寝ても覚めても同じ景色であることから、もう私は本当に死んでしまって家族には二度と会えないんだ、という実感がジワジワと沸いて泣き暮らしていたが、それもしばらくすると諦めがついた。
「お腹いっぱいご飯が食べたい……」
元来、諦め癖がついているキリコだ。死の瞬間もあまり覚えていないし、どうせ死んでも家族はそんなに悲しまないだろう、という思いに至ったキリコが、家族に申し訳ないなと思いつつも悲しむのをやめるのは当たり前のことであった。
実際にキリコの死を知った家族が多いに悲しんでいるということは、キリコは知る由もない。
そんなキリコに、初めて“理解できる言葉”が聞こえたのは、空きすぎたお腹を撫で回している時のこと。
『ほら、食事にしましょうか。それに広いところへうつさないと。今まで箱にしまわれていたのですから、窮屈だったでしょう?』
柔らかくくぐもった声が聞こえ、スポットライトに照らされた食事がテーブルと椅子とともに与えられた。
ちなみに、本来種の食事と言えば店主がやっていたように水と肥料だけである。空間に満たされたものを種の中の魂が吸収処理していくが、ここにテーブルと椅子、また食器類が出るあたり、ハインが種を育てる名手といわれる所以であった。
主の種を育てる資質が、種の中の環境を種の望む形に変えるのだ。
「……え」
それは初めて聞く男性の声。温かな声は、この誰もいない空間に響いてキリコへ安心感を与えた。
なぜ声が理解できるようになったのか、この声の主は誰なのかは分からない。しかし、腹ペコのキリコにとっては、そんな疑問よりも目の前に現れた美味しそうな料理を、はたして自分が全て食べてしまってもいいのかどうか、という方が重要であった。
「ご、ご飯……!」
ゴクリとキリコが生唾を飲み込み、お腹が音を立てる。
肉汁の滴る分厚いステーキに、マッシュポテトとインゲン豆の添え物。野菜がトロトロになるまで煮込まれたポトフには、キャベツやニンジン、キノコ、ベーコン、それからジャガイモなどが入っている。金色のスープが温かな湯気を立て、キリコの食欲をあおった。またその他にも適度に温められた丸パンがあり、指でつつくとフンワリ沈む。パンから指を離せば生地はゆっくり戻っていき、辺りに焼けたばかりのパンの香りが広がる。デザートにフルーツが添えられたプリンまであった。
「食べて……いいんだよね……私のだよね……?」
食べないなんて選択肢は無い。
椅子に座って両手を合わせ、かるくお辞儀。そしてナプキンを膝に置くと、礼儀無視でかき込むようにして食べる。
一口大にきったステーキにマッシュポテトを乗せて食べれば、肉の脂身とポテトが合わさって口の中に楽園が広がった。
「美味しい……信じられない……」
スプーンですくったポトフは、喉を通るたびに鼻にまで香りを運んでくる。ベーコンの香りが鼻に広がり、キリコは大きく息を吸い込みながらスープを飲んだ。ゴクリと喉が鳴る。
ジャガイモなんかはスプーンで軽く力をこめるだけで砕けるほどに煮込まれていた。
「凄い……! こんなに美味しいご飯、久しぶり……!」
弟と妹が山ほどいると、落ち着いてご飯を食べることもできない。こんなにじっくりご飯を食べるのは、久しぶりのことであった。
香りの良いパンを口に押し込み、その柔らかな生地に驚く。ずっと舌の上に乗せておきたいそれを惜しみながら飲み込めば、鼻を抜ける呼気はすっかり焼きたてパンの香りになっていた。
「美味しかった……」
あっという間に食べきり、食後のデザートであるプリンを食べる。食べ終わるのがもったいなくてスプーンでチビチビ食べるも、口に広がる新鮮な卵とバニラエッセンスの香りが、『早く食べたいでしょ? もっと食べたいでしょ?』とキリコを急かす。
「…………」
キリコは、もう限界であった。
我慢できず一気にプリンを流し込むと、目を閉じて大きく深呼吸した。
「……幸せでした……ご馳走様でした……」
再び手を合わせてお辞儀。椅子から立ち上がれば、スポットライト共に全てが消えた。満足げに深呼吸して床に座り込む。キリコは死んでから、かつてない程に満たされていた。
『おや、もういいのですか? なるほど。与えた食事はしばらくすると土の上から消えるのか』
キリコは、声の主が何かを言っているのには気づいていた。しかし食後すぐに襲ってきた睡魔によって、目がどんどん閉じていく。やがて体がゆっくり傾き、地面へごろりと横になる。
『感情測定器が静かになっているな……ああ、これは種が夜に眠るのと同じ波形だ。なるほど、食事を与えた後に眠くなるのは他の種と一緒と言うことか。この分だと昼寝をしそうだな』
クスクス笑う声が響き、キリコは自分が笑われているのだと知る。しかし、その声にこたえるのが非常に難しく、キリコはやがて睡魔に身をゆだねた。