空を走る虹。
「……?」
暖かな部屋の柔らかい布団に寝かされているキリコのまぶたが震えた。
薄っすらと、キリコの目が開く。
「……いき、てる?」
キリコは、その魂を再び体の中に取り込んでいた。
あの泉での願いは叶えられ、二人は再び家へと戻ってきていたのだ。
「ここは……」
しばらくボーっとして、ふと横を見る。
すると、見慣れた金髪が目に飛び込んできた。
ベッドに伏せて寝ているハイン。その頭をそっと撫でれば、まるで生まれたての子供のような柔らかい感触が手に伝わる。
「ハインさん?」
優しくそうささやけば、ピクリとハインの殻が動く。そしてゆっくりハインは体を起こし、目を見開くと、その目に涙をためてポトリと落とした。
「どうしたんですか……? どうして、私は――」
ゆっくりと手を伸ばしたハインに抱きしめられ、キリコは話すのをやめた。
まだ頭がボーっとする。何も考えられなかったキリコは、考えることを放棄した。
「ハイン、さん……」
ドアがノックされ、しばらくしてからミーナが入ってくる。
そして起き上がっているキリコをみとめ、手に持っていた水差しを落として割った。
「キリコ様!」
駆け寄ってきたミーナは、いまだハインが抱きついているのに気づいて何とか自分を制すると、その頭に手を伸ばしてひたすらに撫でる。抱きつきたいのを堪え、目からあふれ出る涙を拭おうともせず、ひたすらキリコの頭を撫でた。
「どれほど……心配したかっ」
「……ミーナ、さん。私、どうしてここに……」
「……キリコ様……キリコ、様!」
どうして――そう問うと、ミーナは痛ましそうな顔をした。
その顔に何も思い当たることはないが、キリコは嫌な予感がした。
「ハインさん、どうしたんですか。どうやって私を助けたんですか? 私は確かにあの時、命を使いましたよね? ねぇ、どうやって私を助けたんですか?」
肩を揺さぶるも、顔を上げたハインは答えない。少し困ったように笑う。
やがて、震えていたミーナが、ゆっくりと口を開いた。
「キリコ様」
「…………」
ゆっくりと、キリコがミーナの方へ視線を向ける。
「ハイン様は、声を失ってしまったのです。永遠に」
世界から色が消えたような気がした。
何の色も音もない世界に、ハインとキリコとミーナしかいないような気になった。
「どういう、ことですか……」
ひきつれる喉から、無理やり声を出す。
「ハイン様は、ある筋から情報を得ました。それは、大精霊の泉に行けば願いが何でも叶えられるというものです。しかし、人間はそれに含まれない……つまり、精霊や妖精と違い、人の願いには代償が必要だったのです」
キリコは自分の血の気が引いていくのが分かった。
「雨の中、ハイン様はキリコ様を背負って山へ入った行かれました。私たち使用人は……誰もそれに気づかなかった……」
ボタボタと大粒の涙を零しながら、自分を責めるような口調で吐き捨てるようにそう言う。
ハインはピクリとも動かず、ただ黙ってそれを聞いていた。
「気づいた時は焦りました……ハイン様はキリコ様を失って臥せっておられましたので……わたくしたちは……てっきり……」
誰もが一緒に死んだのだと思った。
しかし、二人の捜索が始まってから三日経ったある日のこと。ハインがびしょ濡れの泥まみれでキリコを背負って歩いている姿を窓の向こう側に見つけ、使用人の数名は仕事を放り出して外へと飛び出していったのだ。その光景を何事かと思って野次馬しに行った者が、迅速に温めた風呂と温かい飲み物の手配をし、大量のタオルを持ってこの屋敷の主の到着を待ち構えた。
「ハイン様が戻られてから、二日です。キリコ様が目を覚まして下さってよかった……」
ミーナが何かを言っているのは聞こえていた。しかし、それを理解するに至らない。
なぜ声を失ってしまったのか。なぜ、そうしてしまったのか。
『キリコ』
「!」
かけられたハインの声に飛び上がるほど驚き、泣きそうな表情のままハインを見つめた。
「キリコ様……? どうされましたか」
不思議そうな顔をしたミーナが首をかしげる。
『キリコ、私は後悔していません。声を失っても、大精霊があなたと意思疎通する手段は残してくれましたから』
「本当に……大精霊に会えたんですか……?」
会話をしているような雰囲気に、ミーナは黙り込んでキリコとハインを見つめた。
『ええ。相当に怒られましたが。三日間水中で怒られっぱなしで、さすがに死ぬかと思いました』
苦笑するハイン。しかし、キリコは全く笑えなかった。
「何があったんですか……」
『……別に。ただ、あなたの魂を返してほしいと願っただけです』
我慢できなかった涙がポトリと落ちる。
「そんな……私を生き返らせるためにだけに……声を……?」
『それは違います、キリコ。私は声だけで済んでよかったと思っている。私の命はあげたくなかったんです。だって、そうじゃないとあなたが苦しむでしょう? 私だって、あなたが生きていても一緒にいられないのは耐えられなかったのです』
「そんな……そんなこと……私なんかのために……」
『私にとっては……そんなことじゃないんですよ、キリコ。大事なことだったんです』
大きくため息をついて、キリコはうな垂れる。
「すみません……ホント……ああもう……本当に何で……」
ハインの優しい手がキリコを撫でる。
窓の外は、雲ひとつない快晴だった。




