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花酔いサナトリウム。

「キリコ、今日……」


 その言葉だけで、キリコには全てが伝わった。

 一週間後だとは言っていたが予定が変わったらしい。


「はい」


 ニコリと笑うキリコとは裏腹に、ハインの顔には感情がひとつもなかった。




* * * * * *




「…………」


 夜。

 キリコはハインの部屋にいた。


「……ハインさん。今までありがとうございました。私を育ててくれて、ありがとうございます。ハインさんとの時間は、とても楽しかったです」


 静寂の中、キリコの声が響く。


「ウォーカーさんにお別れの挨拶をするのを忘れていました」


 ハインは何も答えない。

 ただ、絨毯を取り去った床にカリカリと魔方陣のようなものを書き続けている。そしてそれを、キリコは黙って見ていた。


「そうだ。ミーナさんにも言い忘れました。そう言えば誰にも言ってないな……お世話になったのに駄目ですね。でも、私の使っていたものの片付けは終わっているから、掃除は大変じゃないと思うんです。あ、いや、元々綺麗だったんですけど……」


 床に魔方陣を書いているカリカリと言う音が途切れる。

 そして、ハインはゆっくり顔を上げてキリコを見た。


「あ、出来上がったんですね。あとは私がその中に入るだけでしたよね」

「……キリコ。あなたは……死ぬと分かっていてなお、抵抗せずに私のところにいますが」

「はい」

「それはなぜでしょうか」

「……だって私、ハインさんが悲しむ顔を見たくないんです」


 そう漏らした瞬間、感情の抜け落ちていたハインの顔に怒りとも悲しみともつかない表情が広がる。


「今、悲しんでいるのがわからないのですか!」


 ハインは自分勝手なことを言っているという自覚があった。しかし、既に正常な考え方ができなくなっていた。


「なぜ、みな、私のそばから離れていくのですか! あなたもそうやって離れて、エレーネや花妖精たちのように私を攻め立てるのですか! 私は、いつ、解放されるのですか! もう、もう私は――」

「どうしてそんなことを言うんですか」


 ポツリとつぶやかれた静かな声。

 しかしそれは、確かにハインの耳に届いていた。

 肩で息をして激情に駆られているハインと違い、静かにこちらを見つめているキリコ。しかしその目には、怒りと困惑と悲しみが入り混じった複雑な感情が浮かんでいる。

 そしてそれを、ハインは怖いと思った。


「どうしてですか? だって、私を殺すと決めたのはあなたでしょう?」

「私が、本当にあなたを殺したいと思っているとでも……? 自分勝手なことを言っている自覚はあります……でも、私は……私はもう、頭が――」


 消え入るような声に、キリコは顔を伏せた。


「……私、どうして記憶が残ったままこの世界にいるんだろうって、前に考えたことがあるんです」

「…………」

「そして、最近気づいたんです。どうして私に記憶が残っているのか」


 ハインは何も言わない。

 答えや反応を期待していないキリコは、ハインを見つめたまま話を続けた。


「私の世界には輪廻転生って言葉があります。魂はきっと、死んだ時に長い時間をかけて記憶を洗い流していくんだと思います。そして完全に記憶が洗い流された時、人は次の世に生まれる」

「それが……なんだと言うのです……」

「つまり、私は記憶が洗い流される前に転生したということです。きっと、ハインさんに強く呼ばれたから、世界すら超えて、輪廻の概念も超えて、私はあなたの元に来たんだと思います」


 そう呟いたのを聞いて、ハインはわずかに目を見開いた。


「私はあなたが好きです。ハインさんは刷り込みだって言うかもしれないけど、それでも、今私があなたを好きだという気持ちに変わりはないんです。だから私は、私を大事にしてくれたあなたの力になりたいんです」

「……キリコ」

「でも……」


 キリコが目を伏せる。


「……今のあなたは、囚われすぎている。本当にあなたを置いて行っていいのか、ちょっと不安です。私に……猫のようにたくさんの命があったら良かったのに」


 泣きそうな笑顔を浮かべながら、キリコがハインを見つめる。

 それを見た瞬間、もう、ハインは限界だった。キリコを抱き寄せ、その首筋に鼻を埋める。


「キリコ……!」

「大丈夫ですよ、ハインさん」


 ハインの背に手を回し、ゆっくり撫でた。温かい温度が伝わってきて、キリコの目にもじわりと涙が浮かぶ。


「ハインさん。なんか……私、寂しいみたいです」


 震えるキリコの声を聞き、ハインのキリコを抱きしめる手に力がこもった。


「ハインさん。私、今まで、家族に相手をされなくて、いない存在なんだと思っていて、それが結構寂しかったみたいなんです。気づかなかったんですけど、ここに来て……ハインさんが私を必要としてくれて、初めてそれに気づきました」

「……キリコ」

「それと同時に、私なんかを必要としてくれたハインさんにどんどん惹かれていって、あなたの役に立ちたいと思ってしまった」


 涙が止まらなかった。

 震える声で、でもしっかり伝えないといけないと思い、キリコは涙を堪えて必死に話す。


「ここは私にとって、前の世で傷ついていた私の心を癒す温かなサナトリウムでした。だから……だから、私が恩を返すとしたら、今なんです」


 ドンッと力いっぱいハインを突き飛ばし、キリコはハインが描き上げた魔方陣のような物の上に飛び乗る。

 キリコが最後に見たのは、極限まで目を見開いて絶望の表情を浮かべるハインの顔だった。


「笑ってくださいよ、ハインさん」


 そう言った台詞がハインにちゃんと届いたのか、キリコに知る由はない。

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