友の苦悩。
「…………」
あれから数日。
ハインはキリコと会話をする頻度が下がっていった。しかし絆は途切れず、全幅の信頼を置いているであろうキリコの思いが時折伝わってきてハインを苦しめる。
「……キリコ」
キリコのいた痕跡が少しずつ、しかし確実になくなっていった。
まず最初に消えたのはキリコの庭道具だ。あれは庭師に貰ったもので、その小さな長靴と手袋とスコップが消えた。庭師はキリコが倉庫に仕舞うのを不審がっていたが、キリコがニコニコ笑って気にするなと言うので何も言えずにいた。
そして次に消えたのはキリコのお出かけ用クッションだ。馬車移動では尻が疲れるだろうとハインが用意したもので、それを物置に仕舞っているのを見て御者が不思議がった。
「私へのあてつけですか」
こんなのは逆切れだと良くわかっていた。
しかし、どうしたらキリコに思いが伝わるのか分からなかった。意地悪な言い方をしてしまったと思っているのに、言われた本人は怒らない。怒らず、いつも微笑んで穏やかな目をする。
「そんなことはないですよ。ああ、そうだ。いつですか?」
だから、ハインは流される。
「……一週間後に」
そして、口からでまかせを言ってしまう。
ニッコリ笑ったキリコがわかりました、と大人しく従う姿を見て、自分で言ったことなのに強烈な怒りが湧き上がった。
* * * * * *
「お前は何をやっているんだ」
表情を消したウォーカーがハインのことをにらみつけている。
「今は正論を言われたくないので帰って下さい。何をすべきかは分かっているんです」
「なら動け! とまるな!!」
「私だってとまりたくてそうしているわけじゃない!!」
ウォーカーがやってきたのは深夜。
ハインの寝室の窓から忍び込むと、一言もなしにハインの頬を殴りつけた。殴られても倒れても、ハインは文句一つ言わない。
「本当に何をやっているんだお前は……」
「…………」
「お嬢ちゃんから聞いたぞ。一週間後、お前はまた過ちを繰り返すそうだな」
「……本気で言ったわけじゃありません」
「馬鹿だなお前は」
「…………」
怒りを押し殺したような声。
唇から血を流すハインを見ても、ウォーカーはこれっぽっちも悪いとは思っていなかった。
後ろにいるハクとレンも珍しく顔をしかめている。普通、他人のことには関心を寄せない花妖精が、怒りをあらわにしているのだ。その姿を見て、ハインはクローゼットの中の花妖精を思い出した。
濃い、花の匂いがする。前までは嫌だと思っていたそれが、キリコの「花妖精が主を嫌いになるはずがない」という言葉のおかげで好ましいものに思われた。
「何をそんなに臆病になっているんだ」
「……あなたには……見えないんですか。私の足をつかむエレーネが」
「何……?」
ウォーカーが顔をしかめれば、スッと頭を上げたハインの目に深い闇があるのが見えた。
「私だけ幸せになるのが許せないと、足をつかむエレーネが見えないんですか。毎夜私を責めて、キリコを殺すというあの女が、あなたには見えないんですか」
「……お前」
ウォーカーは、ハインが狂ったのだと思った。
それほどにハインの目には深い深い闇があった。やがて、エレーネの死のときでさえ涙一つ流さなかった男の目に涙が溢れ出して床を濡らしていく。この男のそんなに弱った姿を初めて見たウォーカーは、言い知れぬ恐怖を感じていた。
「キリコを殺されたら困るんです。殺されるくらいなら、私が殺します。あんなのに……あんなのに殺されるくらいなら、私がキリコを殺す」
「おい、ハイン、お前は――」
「分からないでしょうね……あなたに、この気持ちは。八方塞もいいところですよ。四面楚歌、孤立無援、背水の陣――……もう万策尽きました。もう殺すしかありません。もう、キリコを守るには……これしかないんです」
「何を言っているんだ。エレーネは死んだ。お前はもう――」
「ハインさん?」
突如聞こえた小さな声。
二人が同時に声の方に視線をやれば、不安そうな顔のキリコが立っていた。
「……ハインさん……大丈夫ですか?」
「……キリコ」
ハインがそっと手を伸ばせば、キリコは戸惑ったようにして、それでも静かに部屋へキリコが入ってくる。
その手を引き寄せキリコを抱きしめるハイン。大きなため息をつきながらしばらくキリコを抱きしめ、やがて一定の呼吸をし始めた。
「……寝たのか」
「……もうずっと寝ていないみたいなんです」
キリコの言葉にウォーカーは息を飲む。
「いつからだ」
「分かりません。気がついたら、こうでした。気がついたのは極々最近で……たまたま部屋の前を通ったときに知りました。何かと話をしていて、それを怖がっているみたいなんです」
部屋が静まり返る。
まさか友人がこんな状態になっているとは、ウォーカーは夢にも思わなかった。
「お前は、死ぬのか」
「はい」
「なぜだ」
「ハインさんが一時でも安心できるから」
「一時だけだぞ」
「そうですね」
もう誰も何も言わなかった。
部屋には再び静寂が訪れ、やがてウォーカーは来た時と同じように窓から出て行った。




