社交界の洗礼。
「まあ、見てあの顔」
少し前。
会場内に入ったハインは椅子にキリコを座らせると、飲み物を取ってくると言って離れていった。
その瞬間に女性陣が近づいてきて、声が届く位置でキリコのことを言い始めたのだ。キリコは“これが噂のいじめか”と思い、怒りよりも悲しみよりも驚きの方が勝って、思わず聞き耳を立ててしまう。
「随分と珍しい顔ね」
「まったくだわ。あんな変な――失礼。凹凸のない顔なんて見たことがないわねぇ。どこを可愛いと思えばいいのかしら」
「鼻も目も口も小さいなんて。どれも小さいのに頭の大きさは私たちよりも大きいんじゃなくて? 胸は小さいし、全体のバランスが……こう、ねぇ?」
オホホホホ、とあざ笑う声。
それを聞いたキリコは、自身ではどうにもできない部分であるため、なんとも言えない気持ちになる。しかし、ある意味割り切っていたので傷ついてはいなかった。
しかし――……
「あんな平凡な女が、どうしてハイン様の隣にいるのかしら。ハイン様の隣に並んで恥ずかしくないのかしら。ハイン様に恥をかかせていることもわからないなんて、随分厚顔ですこと。ハイン様もご趣味が変わったのかしらねぇ」
「家も服も持ち物もセンスのいいハイン様が、まさかこんなのを連れて歩くだなんて」
これだけは駄目だった。
自分がいくら言われても我慢できる。しかし、ハインが話題に出てくると、とんでもない罪悪感に襲われるのだ。自分せいでハインが巻き込まれた。そう思うと心臓の辺りをギュッとつかまれたような気になる。
やはり来なければ良かったとすら思ってしまうのだった。
「ごきげんよう」
沈んだ顔をしていると、先ほど会場の入り口で出会ったヘンミルが立っていた。
「あなたは……」
「先ほどはどうも」
睨み付けられるようにしてそう言われ、思わず後ずさるキリコ。一体自分に何の用事がといぶかしんでいると、ヘンミルは先ほどのうろたえがまるで嘘のように堂々とした態度でこう言い放った。
「率直に申し上げますと、ハイン様の本日のお相手を私にお譲り頂けないかと思って参りましたの」
「え? 何故ですか?」
あまりにも唐突な物言いに思わず聞き返してしまう。
すると、それが気にくわなかったヘンミルは顔をしかめて不機嫌そうな顔になる。
「あなたより私の方が隣に並ぶのにふさわしいでしょう? エスコートを譲って欲しいと言ってますの。あなたからハイン様にお伝え下さいな」
一気に周りの視線が集中した気がした。
ところでヘンミルはキリコが花妖精だということには微塵も気づいていなかった。なぜなら会話が成り立つからだ。普通の花妖精は主意外と会話ができない。
当然、この会場にいる誰しもがキリコは人間だと思い、いったいどこのご令嬢なのかと噂をしていたところだ。見たこともない顔であるから外国人であろうと話をしていたが、女の噂がとんとなかったハインが甘い顔を向けるのだから、ハインを狙っていた家は気が気じゃない。
だから、今目の前で起こっている“見世物”はとっても面白い催しになると、そう思った。
「……エスコートを交代……と、言われても……」
聞き耳を立てられているのが手にとるように分かる。
こんな時に限ってウォーカーは挨拶回りでいないし、ハインはいまだ飲み物を取りに行ったままだ。
恐らくは誰かにつかまっているのだろうと放置していたものの、今はただ帰ってきて欲しいと思わずにはいられなかった。
「もちろん、あなたの代理も用意致しますわよ。もし代理が気に入らないのなら、お帰りになれば?」
「か、帰る?」
そういう選択肢が出てくるのか、と素直に納得する。
というより驚いていた。どうしてそういう思考になるのだろうと妙な感動すら覚える。早くハインが帰ってこないかなと思いつつ、小さなため息をついた時のことだった。
「ノードーデン様」
何も言わないキリコにじれったくなったヘンミルがカーテンのところへ声をかけると、垂れ目のニコニコ胡散臭い笑みを浮かべる男が出てくる。
「えーと、あなた……名前は?」
向けられたヘンミルの困惑顔に今それかと半ば呆れながら名乗れば、少し顔をしかめられる。その顔はどう見ても変な名前だと思っている顔であった。
「こちらがノードーデン男爵よ。あなたのお相手の。ああ、もちろんハイン様もご存知でしてよ。先ほど許可を頂きましたの。エスコートの代わりを見つければ、交換してもいいと」
「初めまして、レディ。キミのような可愛らしいお姫様をエスコートできて僕は幸せだよ」
一瞬、ヘンミルが何を言っているのか理解できなかった。
先ほどの話ではキリコからハインに伝えろと言っていたはずだと首を傾げる。
しかしそうやってポカンとしていると、現れた男は素早くキリコの手を取り、その手の甲へキスをした。気持ち悪くて手を引こうとすれば、その手をギュッと握られて引き寄せられ腰を抱かれる。
「離して……!」
「あとはよろしくね、ノードーデン男爵」
「ま、待って下さい!」
去っていくヘンミルを見て、キリコは血の気が引いていく。
近すぎる距離のノードーデンを見ることはできないが、周りの人の顔を見る限りノードーデンは良くない顔をしているようだった。
生温かい呼気が頭に、首筋にあたり、思わず身震いする。
「震えているのかい? 小さな子猫ちゃん」
「離して、ください!」
ずるずると力任せに引っ張られていく。
キリコが助けを求めようと周りを見るが、視線があった人はことごとく目をそらしていく。
もう、どこかへ続くドアは間近に迫っていた。どんどん息が荒くなっていくノードーデンの姿を見ていると、そのドアは嫌でも地獄の入り口なのだと思い知らされる。
と、そこへ――
「何をしているのです」
ドンと衝撃音が鳴った後、聞き覚えのある声が響く。そしてノードーデンの歩みが止まった。
引きずられるようにして歩いていたキリコはよろけるが、なんとか持ち直して前を見るとノードーデンの眼前に杖があった。
ああ、この杖で通せんぼをされたのか、と気付いた瞬間、再び聞きなれた声が横からかけられた。
「何をしているのか、と聞いているのですが」
通せんぼをしたのは、鬼をも殺す勢いでノードーデンを睨みつけているハインであった。
「誰に許可を得て、私の連れに乱暴をしているのですか?」
「……これは、ハイン侯爵。まさかあなたの連れとは思いませんでした。失礼を」
侯爵という単語を聞いて驚いたのはキリコだ。貴族だとは分かっていたが、まさかそんなに身分が高いとは思いもしなかった。
しかし、今はそれどころではない。
「知らなかったと仰るのですね。そうですか」
視線がキリコへと向けられる。
鋭さはそがれているが、相変わらずその視線は強い。
「それで、あなたはなぜこんな男にのこのこと着いて行っているのですか」
そう言われた瞬間、キリコは今まで自分が怒っていないと思っていたけど、実はそれが気のせいだったと知った。
「あ、あ、あなたが……! ハインさんが、私を放ってどこかに行って、いつまでも戻ってこないからじゃないですか!!」
この世界の淑女にはありえないほどの大声。
会場がしんと静まり返ったのにも気づかず、ハインが目を見開いたのにも気づかず、キリコは怒りで震える声で再びハインを怒鳴りつけた。
「私だって、こんな変な人についていきたくなかったのに! あなたが、飲み物を取りに行くといってなかなか戻ってこないから! さっきのヘンミル嬢にエスコートを交換してくれなんて言われるし!」
「こ、交換……?」
「それに元はと言えば、あなたが行かないとまずいからって無理やりここに連れてきて……そ、そりゃあ確かに綺麗なドレスを着られて嬉しいし凄く素敵な場所だと思うけど、こんな誰も知らないようなところで私を放って――」
「アハハハハ!」
「なっ……何がっ……おかしいんですか!!」
突如大声で笑い出したハインを見て、キリコはとうとう涙目になった。
それを見たハインが慌ててキリコを抱き寄せる。
「ああ、すみません、キリコ。だって女性が怒っているのがこんなに可愛いなんて知らなかったんです。あなたはどうして怒ってても可愛いんでしょうね」
「なんですかそれ!! 知りませんよ、そんなの! 酷い……!」
いまやすっかり静かになった会場であったが、この二人はまるでそんなの関係ないとばかりに大騒ぎをしている。ようやく異変に気づいたウォーカーが走ってきたのは、すっかり機嫌を損ねたキリコを、ハインが必死になだめているときであった。
「すみません、キリコ。許して下さい。別にあなたを馬鹿にしたわけではないのです。本当に可愛いと思ったから――」
「誤魔化すの、やめて下さい! いつもそうやって許して下さいとか、許して頂けますかとか! 謝ったらすむ問題と、そうじゃない問題があります!」
ウォーカーはそりゃそうだと思う。
そして面白い催しが始まったのだと気づき、しばし傍観することに決めた。
「飲み物を取りに行った時に主催につかまりましてね。そいつがなかなか離してくれなかったのです。ああ、一応私の友人なのですが――」
「そんなの当たり前じゃないですか。あなたは人気があるようですから。主に女性に」
すっかり拗ねたキリコの言葉に、ハインはグッと言葉を詰まらせながらかろうじて口を開く。
「キリコ……あなたが勘違いしているようなので申し上げますが、私は別に女性が好きでここに来たわけではないのですよ。ウォーカーじゃあるまいし」
これを聞いて納得いかないのはウォーカーであるが、言いたい言葉を飲み込んで傍観に徹する。
「ねえ、キリコ。こちらを向いて下さい。もし私を哀れんで頂けるのなら、言い訳をする時間くらい頂きたいのですが」
どこまでも、そして自然に傲慢な言い方をするのを聞いて、この人は根っからの貴族なんだなと妙な関心をする。
しかしそれはキリコにとって気分の悪い言い方ではなかった。これが惚れた弱みかと思いつつ、寸でのところで助けに来られたのが随分と嬉しかったのだとわかった。
「とにかく、場所を移動しましょう。ここは人目が多すぎる」
すっかりさらし者になっているのを思い出し、キリコは苦い顔をする。
そのキリコを隠すようにしてハインは歩き出した。
「主催がね、私を長く捕まえたお詫びに、奥の休憩室を使っていいと言われているんです」
耳元に近づけた唇が耳すれすれのところで言葉をつむぐ。耳が、ぞくぞくした。
「一緒に行って頂けますか? そこで、私に弁解の時間を下さい」
こう言われてしまっては、キリコは頷くしかなかった。
呆然と立ち尽くすノードーデンを放って、二人は扉の向こう側へと消えていった。
* * * * * *
「キリコ」
ハインは部屋に入ると、後ろ手にドアを閉めて鍵をかけ、ジッとキリコを見つめる。
そして先ほどあったことを思い出していた。
ようやく挨拶する声をかわして飲み物を持ち帰れば、お目当ての場所にキリコがいなかったのだ。ザッと血の気が引いて辺りを見回すも、あの可憐な姿はどこにも見えない。
絆を追ってようやくその後ろ姿を見つけた時、その腰に手を回す存在がいるのを見て、激しい嫉妬心が湧き上がってきた。
鬼気迫る表情で追いかけ、怒りに任せて壁に杖を突き立てる。驚いたような安心したようなキリコの顔を見て、ハインはようやくキリコが望んでそうしているのではないのだと気づき、安心したと言うわけだ。
「……ああ、そう……か……」
そして、気づいてしまった。
心から心配し、激しく嫉妬するほど、この存在に入れ込んでいたのだと。自分だけのものだと思っていたものが取り上げられそうになって、身勝手な嫉妬をしてしまったのだと。
自分はキリコを盗られるのが嫌で動揺している。そう気付いた瞬間、ハインは頭を抱えて座り込んでしまった。
「え……? あの、大丈夫ですか!? 足、痛みますか?」
これに驚いたのはキリコの方だ。嫌味の一つでも言ってやろうと思っていたのに、突如ため息をついて座り込んでしまい、しかも頭まで抱えて唸っているハインを見て病気だと思った。
「いえ……違うのです……違う……すみません、私は……私は凄く身勝手な感情であなたを――」
キリコは何を言っているのか全く分からなかった。
しかし、ハインが苦しんでいることは分かったので、しゃがみこんで顔を覗き込む。
「あの……大丈夫ですか……?」
そしてその顔を見て、キリコは何かを迷っているようであることに気づいた。今、ハインが迷っていることがあるとすれば、きっとエレーネのことだと思い至る。
だからキリコは口を開いた。
「エレーネを――エレーネさんを生き返らせるのに、私は丁度いいんですよね。だから、いなくなって欲しくなかったんですよね。ごめんなさい、勝手に出て行こうとして……もう、どこにも行かないから、安心して下さい」
そうキリコの口から出たのを聞いて、ハインの顔から表情が抜け落ちていく。
「なぜ……そんなことを」
「わかりますよ。だって私はあなたの花妖精ですから」
悲しそうに笑うキリコを見て、ハインは自分の過ちのせいで、もう取り返しがつかないところまで来てしまったのだと知った。




