動揺する男。
「ハイン」
未だ慣れない、真夜中の問いかけ。
「どうしてあの子を連れて帰ってきたの?」
ハインは聞こえないふりをして、ただ息を殺していた。
「どうして探し出したのよ。いらないでしょう、あんな子。どうして? また私を置いていくの?」
声が震えている。それが怒りなのか悲しみなのか、ハインには区別がつかなかった。
「いいわよ……そのつもりなら、私――」
聞こえなくなった声。
「頼む、もうやめてくれ……」
ハインは大きく息をはいた。
* * * * * *
「おい、その辛気臭い顔を上げろ」
うな垂れたまま仕事をするハインを前に、ウォーカーは怒り狂っていた。
ところが、ゆっくりと上げられたハインの顔を見て勢いがそがれる。
「……大丈夫か?」
「怒りに来たのかと思いましたが」
「そのつもりだった」
しかし、ハインの顔はまるでエレーネが死んでしまった時と同じ、いや、それ以上に酷く見えた。
髪はペタッとしてボサボサだし、目の下のクマは酷い。唇も肌もガサガサしており、服だっていつかえたのかと思うほどだ。とても、いつものような女性を惹きつける魅力的な男性には見えなかった。
「俺は、お前が何をしたいのか分からない」
「私も自分で何をしたいのかわかりませんよ」
「……家には帰っていないのか?」
「帰れるはずがないでしょう。自分を殺すかもしれない男が一緒にいては、キリコは安心して眠ることもできない」
ウォーカーは少し顔をしかめると、小さくため息をついた。いまだ書類を見ながらペンを走らせるハイン。
「“昔を見た目で今のありさまを見なくてはならないとは”」
「……ハムレットですか。あなたにそんな情緒的な台詞が言えるとは思いもしませんでしたが」
一心不乱に仕事をしているのは、使用人も、そして仕事場の誰もが知っていた。そしてその理由までは分からずとも、これが良くない傾向であることも。
しかし、誰も声をかけられずにいた。
「……なあ、お前は今でもエレーネが好きなのか」
「……好きですよ」
「それは愛か?」
「前まではそうでした。でも、今は……キリコが来てから、どんどんエレーネの顔がぼやけて行くのです。私は……それが怖い」
大きく息を吐き出し、ペンを置くと両手で頭を抱えた。
「怖いんです……私の思いが、エレーネが、このまま風化していきそうで……」
「思い出なんてものは過去だ。過去にいつまでも囚われていると、来るべき未来を取り逃すぞ」
「忘れたくない過去は、あなたにだってあるでしょう。あなたがあの花妖精に執着しているように」
攻めるようにしてハインが睨みつけるも、ウォーカーは表情をかえることなく少しだけ首を傾げた。
「過去を思い出すのが悪いといっているわけじゃない。だがな、お前は今、また大事なものを失おうとしているぞ。いいか、ハッキリ言うが、お前のそれは好きだと思い込んでいるだけのように見える」
「何を……」
「お前がエレーネを語る時に、何かを恐れているような顔をしているのに気づいていないのか?」
その言葉に、ハインは心臓を握り締められたような感覚がした。
「あなたに……何が分かると言うのですか」
「わかるさ。なんでお前は自分のことがわからないんだ? バカだなお前」
「…………」
「なあ、頼むからこれ以上心配させないでくれ。お前の気持ちが今誰に向いているのか、本当は分かっているんだろう……?」
ハインは何も答えない。
うつむいて何も言わず、何かを押し殺したように呻く。
「……今日は絶対に家へ帰れ。いいな」
強い口調とは裏腹に心配そうな表情のウォーカーは、ハインの肩をポンと叩くと部屋を出た。
扉が閉まると同時にハインは舌打ちをする。
「心が誰に向いているのか分かっているからこそ、失う未来を想像して怖くなるんじゃないですか……!」
押し殺したようにそう言った言葉を、誰も聞くことはなかった。
* * * * * *
「みんなグルと言うわけか」
定時直後。
家から迎えの馬車が来たと、いつものように会社の受付から声がかかった。そう、いつものように。
最近は迎えを追い返しており、ここしばらくは“迎え不要”の連絡をして迎えすら来させなかったのに、と顔をしかめる。文句の一つでも言ってやろうと外へ出たら、従業員がハインの鞄を持って立っており、御者にその荷物を渡しているところだった。
帰るつもりはない、忙しい、と言うも、無理やり馬車に押し込まれた。
「ハイン様」
小窓が開いて御者が話しかけてくる。無言のままでいるも、御者はそれを全く気にせず話し続けた。
「キリコ様なのですが、最近随分とお痩せになりました。服のサイズも変わったようですよ」
それを聞いて、ジクリとハインの胸が痛む。
「それから、ボーっとすることが多くなりました。図書室で本を読んでいることもあるようですが、内容が頭に入っているかは分かりません」
「図書室……?」
「ええ。専属使用人のミーナが退屈しのぎにと」
そんなの知りもしなかった。
でもよく考えれば当たり前であった。なにせ、花妖精と絆が深まっていれば、情報は手にとるように分かるのである。こうしてわざわざ知らせる必要もないくらいに。だから、誰もキリコの近状を報告しようなどと思わなかったのだ。
しかし、この御者はよく喋る。
「あと、好き嫌いが出てきたようです。うなぎのゼリー寄せを作ったのですが、口に合わなかったようで」
ハインはなるほど、と思う。
自分達の絆が切れ、お互いのことが分からなくなっているなど、この御者にはお見通しだったのだ。そしておそらくは屋敷の全員が。
「…………」
ハインは過去、花妖精を育てる名手と言われていた。
ハインに育てられた花妖精は他のものと類を見ないほど輝き、能力が高かったからだ。
しかしそれは、全てエレーネを蘇らせるためだった。あの頃は、とにかく必死だったのだ。だから、どんな時でも嘘を塗り固めて絆を築き上げてきた。
確かに本当の絆も存在してはいたが、決して心を開くことはなかった。なぜならいずれ、自らの手でその命を摘み取るから――
「ああ、あともう一つ思い出したのですが、庭師のディックと仲良くなったようですよ」
そしてハインが花妖精との絆を失っているというのは、使用人たちにとって衝撃的な事件であった。
「先日、ディックが花輪を作ってやったら、すぐに全部食べた後『ごめんなさい! これ、頭に飾るためのものだ!』って顔を真っ赤にしながら大騒ぎをしていたとか」
使用人達はエレーネの事件以降、本当の意味で元気になり始めた主を何とか守りたいと思っていた。そしてその要ともいえるキリコが悲しまないように、どうにかしたいと。
「あ。ハイン様。あれ、見えますか? 女性に人気のスイーツ専門店。季節のフルーツを使ったタルトが美味しいそうですよ。今流行だそうで。若い女性に人気なんです。若い女性に」
わかりやすい御者のオススメ。
苦笑しながら馬車を止めさせ、ハインは財布を取るために鞄へと手を伸ばした。
* * * * * *
「ただいま戻りました」
大勢の使用人に出迎えられ、玄関ドアをくぐる。
ハインは少し緊張しながら辺りを見回し、キリコの姿を探した。しかし姿が見当たらず、すぐそばにいた使用人にキリコのことを問おうとした時のことだった。
鉄砲玉のような衝撃が横っ腹に加わり、思わず小さくうめく。
「ハ、ハイ、ン……さん……!」
目に入ったのは小さな頭。
キリコの小さな手が、ハインをきつく抱きしめる。
それを見た瞬間、ハインは胸が詰まったようになり、思わずきつく抱きしめ返してしまう。
「ハインさん……?」
「……ただいま、戻りました」
「お帰りなさい」
照れたような笑みを浮かべるキリコを見て、ハインはとんでもない罪悪感に襲われる。
殺そうとしていたのに、その命を詰もうとしていたのに、そしてそれを知っているはずなのに、この花妖精はなぜここまで自分を慕ってくれるのかと。なぜ自分に笑いかけてくれるのかと。
「キリコ……私は――」
「かがんで下さい」
「え?」
「早く早く」
言われるまま、かがむ。
視線を合わせると、少し緊張したような顔のキリコの優しい眼差しが見えた。
「あの、キリコ?」
「ハインさん」
「はい」
「……好きです」
チュッと軽いリップ音。
そして、鼻先に柔らかな感触。
「え……」
その瞬間、ハインはキリコ以外の人物が見えなくなっていた。
輝かんばかりのキリコの笑顔。辺りに舞うキラキラとした謎の光。絶対にありえないが、絨毯に花すら咲き始めたような気がして、ハインは思わずゴクリと唾を飲み込んだ。何度瞬きをしても、ハインにはキリコ以外、誰も見えない。
そしてようやく悟ったのだった。
自分はキリコのことが好きなのだと。
「キリコ……」
「魔法の、おまじないなんだそうです。主と花妖精が仲良くなれる」
照れたように笑うキリコが、可愛くて仕方がなかった。
「キリコ……すみません、家に帰らず……一人ぼっちにしてしまって」
抱き寄せればくすぐったそうに身じろぎするキリコ。
その胸に額を押し付け、大きなため息をついた。深呼吸すれば、甘い花の香りがする。いつの間にか、キリコの背には草と花でできた翼が戻っていた。
「キリコ……」
キリコが喜んでいるのが、ハインの心の奥へ伝わってくる。その温かい思いが全身を包み、お互いの感情がお互いの中を行き来する。
「ああ、キリコ……私は――……」
失われた絆は元通り……いや、それ以上に強まっていた。




