すれ違い。
「…………」
ハインの指が、小さいまま眠り続けるキリコの額を撫でる。
キリコの看病が終わってしばらく、ハインはウォーカーと共に屋敷へ戻ってきていた。しかしウォーカーは家には上がらずそのまま帰宅し、ハインも使用人によって風呂場へと押し込まれた。
カラスの行水のようにして風呂場を飛び出せば、待ち構えていた使用人に再度風呂場へと押し込まれ、たっぷり三十分は湯に浸かるはめになった。
「…………」
扉がノックされたが、ハインは反応しようとはしない。そしてそれを予測していた扉の向こう側の人物はゆっくりドアを開ける。
「失礼します。ハイン様、もうずっと寝ていらっしゃらないのですから少しは休んで下さい」
「別に……私のことは――」
「よくありませんよ! キリコ様が起きた時にハイン様がふせっていたら、キリコ様はさぞかし悲しまれることでしょうね」
嫌味っぽくそう言われ、ハインはゆっくり立ち上がる。一瞬感じた眩暈をやり過ごし、ハインは静かに部屋を出て行った。
「……キリコ様。早くお目覚めになって下さい。もうハイン様は限界ですわ」
ポツリと呟き、痛ましそうな表情を浮かべたミーナがキリコを見つめる。キリコをジッと見つめていると、ミーナは胸元でゴソゴソと動く気配を感じた。
「そうだ! キリコ様、今日はわたくしの花妖精を連れて来ましたのよ」
満面の笑みを浮かべたミーナが取り出したのは、親指サイズのキリコとそう変わらない大きさの猫であった。しかし、その猫はどこか怯えている。クローゼットの方を気にしているのに気づき、ミーナはクローゼットを見た。
「あら、何かあるの?」
言葉が通じるわけではないため、花妖精が何を言いたいのかわからない。それよりもキリコに話しかけなければと思ったミーナは、何もなかったと自分を納得させてキリコに向き直った。
「キリコ様。花妖精同士は体力をやり取りできると本に書いてありましたの。せめてキリコ様の大きさが元の大きさに戻れば、ご飯を食べられるくらいに回復しますわ。ああ、それから鉢植えを! 生きた花は花妖精を活性化させると――まあ、これも本の知識ですわ」
そう言って一旦部屋の外へ出る。
再び戻ってきたときには両手に抱えたトレイに十個の鉢植えを乗せていた。どれも良い香りを放っている。ミーナの花妖精もその鉢植えを見てクルクルと周囲を飛び回った。それを見てミーナは本の内容が正しかったと知る。
「ほらほら、可愛い猫ちゃん。邪魔しないのよ。鉢植えで潰してもいいのならそこにいなさい」
そう言ってミーナが笑えば、花妖精は慌ててミーナの肩に避難する。そしてミーナが綺麗に鉢植えを並べていくのをじっと見ていた。
「さ、これでいいわね。猫ちゃん、このお姫様を守っていてくれる? 大切な方の大事なお姫様なの」
猫はミーナの柔らかい言葉に一声鳴くと、布団の中に潜り込んでキリコを温め始める。
「よろしくね」
布団の中から小さく返事が聞こえたのを確認し、ミーナは部屋を後にした。
* * * * * *
「……はあ」
キリコがカラスに連れ去られてから一週間。
キリコはようやく目を覚ましていた。体調もすっかり回復しており、体型も元のサイズに戻っている。しかし、二人が屋敷内で会うことはない。
何も起こらなかったのだ。あれから一度も会っていない。そして使用人たちは、自分達の主と花妖精のギスギスした関係に気付いて心を痛めていた。
「あの……今日、ハインさんは……」
「今日は宮殿の方へ呼ばれているそうですよ」
笑顔でそう答える使用人。
誰に聞いても仕事が忙しいようだとはぐらかされる。キリコも最初こそ本当に忙しいのだと思っていたが、そのうちおかしいと気づいた。そして気づいてしまってからは避けられているとしか思えなくなってしまった。
そうやってキリコがっかりした表情を浮かべるたび、使用人たちはこっそり憐みの表情を浮かべていた。
「……私たちは話し合う必要があると思うんだけど」
「よう、お嬢ちゃん」
聞き覚えのある声に振り向けば、ウォーカーが笑顔で立っていた。
「具合が悪いと聞いたが、思ったよりも元気そうだな」
「あ……」
会いたくなかった。
今、この男に会ってしまったら、自分が本当に殺されるために生きているのだと確信してしまうから。
あの会話さえ聞かなければ、もしかしたらもっと違う未来があったのかもしれないとすら思うが、それがどっちに転べばみんなが幸せになるのか、キリコには答えが出せないでいた。
「だから言っただろう? 逃げろって」
「…………」
ズキリと胸に痛みが走る。
そして遅れて怒りがわいてくる。
「あいつはな、人が変わったんだよ。もう昔の花妖精を愛していた男じゃないんだ。いや、最初から愛して育てていたのかすらわからんがな」
「どういう意味ですか」
「それを俺に聞くのか?」
意地悪だと思った。
ヒントを小出しで与えてくるくせに、肝心なことを教えず高みから嘲笑っている。
やさぐれていたキリコはそう思ってしまった。
「一つ良いことを教えてやろう。お嬢ちゃんを助けたのはハインだ。あの平地を歩くにも苦労する足で、デコボコだらけの森を歩き回り、雨でぬかるんだ場所で何度も転び、切り傷も擦り傷もお構いなし。そしてようやくお嬢ちゃんを見つけた。木の上だ。どうやって登ったと思う?」
笑っているのに、どこか怒っているような顔。
キリコは少し身じろぎをした。
まるで自分が一方的に怒られているような気がして、なんだかとても居心地の悪いような、そして怒りのような何かがわいてくる。自分のせいではあるし他人に迷惑をかけてもいる。
しかし、納得いかない気持ちもあるのだ。
「あんなに細くて書類の束もまともにもてねぇような優男が、腕の力だけで登ったと思うか?」
「…………」
「木には弦が巻きついていた。その弦は歯形でボロボロになっていたよ」
「あなたは私を責めに来たんですか」
思わず語尾が強くなる。しかし、ウォーカーは気にした風でもなく鼻で笑った。
「責める? 違う。お嬢ちゃんが状況を把握するために必要な情報提供と、場合によっちゃ説教だ。お嬢ちゃんが考えなしに部屋を飛び出して行ったのが、どうしてなんだろうなと思っただけさ」
「考えなしに飛び出したって……逃げろと言った人に言われたくありません」
「なんだ。本当に逃げるつもりだったのか?」
「違います!! ハインさんから逃げるなんて……そんなこと……するわけないじゃないですか!!」
耐え切れず涙が溢れだす。
ウォーカーはそれを見ても表情を変えず、ただ黙ってキリコを見ていた。しかし、次に出たキリコの言葉に思わず目を見開く。
「カラスが……綺麗になれるって言うから……」
「カ、カラス? カラスがなんだって……?」
いぶかしげに顔をしかめたウォーカーなんて気にもとめず、キリコは震える声で続ける。
「森の奥に泉があって……大精霊がなんでも願いを叶えてくれるって……私は、綺麗になりたかったんです……」
「お嬢ちゃん、ちょっと意味がわからないんだが……それは子供の御伽噺のことか?」
「御伽噺なんかじゃありません! 本当に……あるんです……強欲な思いが強い人間には見つけられない泉が……大精霊の気配が、確かにするんです……」
キリコはウォーカーの困惑を無視して話し続ける。その目からは、絶えず涙が溢れていた。
「私はずっと平凡な女だった……勉強もできないし、顔だってパッとしないし、自己主張もしないし……そんな平凡な私が、異世界に来て花の種になってて、素敵な人に優しい言葉をかけられて、大事にされて……この人に見合うような女になりたいって、横にいて恥ずかしい女だと思われたくないって、思ってしまったんです……! 生まれ変わったら、きっと全てが上手くいくんだと思ってた!!」
睨みつけるようにしてウォーカーを見れば、ポカンとした顔でキリコを見つめている。キリコが何を言っているのか、ウォーカーにはあまり理解できなかった。というより、混乱していたのである。
キリコの言葉が真実だとすれば、キリコが異世界の記憶を持ったまま種になった存在であると言える。ウォーカーはキリコを疑っているわけではなかった。しかし、そんなことはありえないという思いが強かったのだ。記憶を持ったまま種になんてなってしまったら、それはあまりにも残酷だと思った。
「まさか、そんな……ハインは、お嬢ちゃんが記憶を持っていると知っているのか……?」
「……はい」
「……あのバカ!」
記憶が残っていると知っていて、ハインはキリコを殺そうとしていた。
つまり、二度も死の苦しみを味わわせることになるのを承知していたということだ。
「やっぱり今すぐここを出ろ」
「無理です……どこにも行きたくない。ここにいたいんです。それにハインさんから離れられるはずが――」
「ハインは今どこにいる」
「え……宮殿だと聞きましたが」
「宮殿が歩いていける距離だとでも? ここからだと、馬車でしばらく行かないといけないくらいに遠いんだぞ。普通であれば花妖精と離れられない距離だ。つまり、もうお前たちの絆はとっくに切れているんだよ。今ならどこへ行こうが自由だ」
ウォーカーの言葉にキリコの血の気が引いていく。
「どういう……意味ですか……絆が切れた……?」
「良いか。俺は今日、お嬢ちゃんに気づいてほしいことがあってここに来た。あのバカは確かにお嬢ちゃんを利用しようとしていた。それも最低最悪の方法で。それを知っていた俺は、これ以上あいつに馬鹿な真似をしてほしくなくて、お嬢ちゃんに逃げろと言った。それはわかるな?」
「はい……でも、あの時、あなたは私のためを思っていったわけじゃなかった」
「ああ、そうだ。正直、俺は俺以外の花妖精がどうなろうが気にならない。人間ではないしな。多少可哀想だとは思うが、どうでもいい。だが今は別だ。お嬢ちゃんは、確実にあいつの心へ影響を及ぼしている。そんな存在を失うわけにはいかなかった」
ウォーカーの言葉はキリコに興味を持っているようで持っていない。
少し考えて、キリコはゆるく首を振った。
「そんなことありません。だってあの人は、私じゃなくてエレーネを見ているもの」
「いや、そんなことはない。確かに前は見ていたかもしれないが、今は違う」
「…………」
「俺はあいつを守りたい。そのためなら、利用できるものはなんでも利用する。だが、俺はお嬢ちゃんのことも大切なんだ。あの堅物を変えることができる唯一の存在かもしれない。どっちにも辛い思いをしてほしくないし、ましてや殺す殺されるなんてありえない。そんなことをすれば、あいつはまた心が死ぬし、お嬢ちゃんは二度と目を開かないだろう。だから俺は――」
「ねえ、知っていますか」
キリコが強引に会話を切ったのに、ウォーカーは少し驚いて言葉を引っ込めた。
「私の部屋のクローゼットに、花妖精の亡骸がたくさんあるんです」
「……見たのか」
キリコの言葉はウォーカーを戦慄させた。
やはり自分の考えは正しかったのだと。ハインは花妖精を使って、エレーネを蘇らせようとしており、しかもその研究はだいぶ進んでいたのだと。
そして、それを哀れなキリコが見つけてしまったのだと。
「人形に魂を込めて、何かをやったんだと思います。たぶん、エレーネに関する何かを……あれが花妖精かどうかなんて聞いたことないけど、きっとそうです。だってあんなに濃厚な花の匂いがするのに、だれも気付かないんですよ? 花妖精にしか、わからないんです。私も、ああなるのかもしれません。それでも――」
開いている窓から、室内に風が流れ込む。
「私、あの人のために、この魂を使いたいと思ってしまったんです」
そう言ったキリコの顔は、晴れ晴れとしていた。
「なぜ……そこまで……目を覚ませ! 花妖精は主に強く惹かれる。それはお嬢ちゃんの恋心や愛情じゃない。主従関係と言う名の足枷なんだよ!!」
「これが本当に花妖精の性なのだとしても、私はハインさんのことが好きなんです。それに、ウォーカーさんだって本当はこの感情を足枷だなんて思っていないでしょう?」
いつの間にか外へと飛び出してきていたハクとレンが、ウォーカーの周りを不安そうに漂っている。
「大事にしているじゃないですか。その二人を。人間と同じように好きなんじゃないですか? だって、その二人からとても温かい思いが流れてくるんです。ウォーカーさんへの深くて濃い思いが」
「……ったく」
大きなため息をつきながら、ウォーカーが頭を抱えて床にうずくまる。
「どいつもこいつも……自分を犠牲にするのはやめてくれ……!」
「犠牲にしてまで得たいものがあるんです。大事なんです、あの人が」
「別の方法があるかもしれないだろう!」
「もう、決めたんです。私が……このぬるま湯みたいに温かいサナトリウムで花になれるとしたら、それは――」
突風が部屋の中を吹き荒れ窓がガタガタとなってキリコの声を消し去る。
“あの人のために命を使うことなんじゃないかって”
しかし、その声は音にならずともウォーカーには伝わった。
ハクとレンの飾りが音を立てて揺れる。
「それが、あの人にできる最大の恩返しだと思ったから……私はだいぶ、このサナトリウムで養生できました。今度は、あの人が養生する番なんです。その時に隣にいるべきなのは私じゃない」
ウォーカーは絶望した。
もう、この目の前の小さな女の子に何を言っても無駄だと分かったから。キリコは完全に死のうとしていた。
否、その命をハインのために使おうとしていた。それが最善なのだと本気で思っている顔だ。
「…………」
何も言えないまま、ウォーカーは静かに部屋を出ていく。
その後ろ姿を、キリコはいつまでも黙ってみていた。




