絆。
「…………」
雨が降っていた。
この巣に来てから二日経っている。
空腹で衰弱しきったキリコに、助けの手を伸ばすものはいない。カラスは初めにここへ連れてきてから、一度も戻ってきていないのだ。恐らくは自分のことなど忘れてしまったのだろうと思ったキリコは、早々にカラスのことを脳内から追い出した。
「寒い」
初めこそ大きくなって下に降りようと考えていた。しかし、あれから元のサイズに戻ることができなかったのだ。食事を抜いた体の弱いキリコに、もう一度大きくなる力は残っていなかった。
雨が降り始めた頃には巣に置いてあった瓶の蓋をかぶっていたが、やがて巣全体が濡れてからは瓶の蓋も意味を成さないほど服がびしょ濡れになっていた。
もう二日も何も食べていないキリコの体は、寒さとあいまって限界まで来ていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ハインさん……」
あふれた涙が温かいと感じる。
「……ごめ……なさ――」
歪んでいく景色の中に、キリコはハインの姿を見た気がした。
* * * * * *
「キリコ! キリコ!!」
ハインがようやく見つけたキリコは、親指サイズになってカラスの巣の上でびしょ濡れのまま倒れていた。
なぜこんなところに、どうしてこんなサイズに……言いたいことは山ほどあったが、今はただ、この小さな命が消えてしまうかもしれない恐怖の方が大きかった。
キリコが死んでしまうかもしれない――……
そう思うと、いずれ自分でその命を摘もうとしていたのに、ハインは今までに感じたこともない程の恐怖を感じていた。
「キリコ……あなたは絶対に死なせない……!」
ハンカチに丁寧にキリコを包み、胸ポケットへ入れる。
そして深呼吸をすると、動かしづらい足で木を蹴った。地面に転がり泥まみれになるハイン。ようやくその動きが止まったとき、ハインは額から血を流していた。はうようにして起き上がり、地面に転がっている杖をつかむ。それを軸にしてなんとか立ち上がると、荒い息のまま歩き出した。
「キリコ……なんて馬鹿な真似を……なぜこんなことを……」
ハインは知らない。
あの日、キリコが扉の外にいたことも、キリコがハインのことを好きになっているということも、自分のためにキリコがここまで来たのだということも。
「ハイン様!」
雨の中、傘もささずに駆け寄ってきたミーナに肩を支えられ、ハインはとうとう膝から崩れ落ちた。
「私のことはいいですから、キリコを……!」
荒い息のまま、胸ポケットから取り出したハンカチを渡せば、ミーナは息を飲み込んで恐る恐る手を差し出す。そして真剣な表情のハインを見て、ミーナは一度頷くと大きく深呼吸した。
「森の外に、ウォーカー様の馬車が来ました。ハイン様のお迎えはウォーカー様に頼んでありますから、わたくしはこのまま屋敷に戻らせて頂きます。馬車をお借りしてもよろしいですか?」
「頼みます。治療方法がわからなかったら、私の本棚をあさりなさい。白い背表紙の本は全て花妖精の医療に関することです」
本当は自分でやりたかった。
「私のこの役立たずな足では、家に帰る前にキリコが死んでしまいます。どうか……どうか全力で……! 女性に、それも雨の森の中でこんなことを頼むのは間違っていますが、どうか馬車まで全力で走って下さい!!」
力強く頷いたミーナは、一度も後ろを振り返らずに全力で駆けて行った。
その後姿を眺めながら、ハインは大きなため息をついて頭を抱える。
「キリコ……どうか、死なないで下さい……」
「それはエレーネのためか?」
いつの間にか近づいて来ていたウォーカーの声に、ハインは顔を上げないままボソボソと答える。
「エレーネ……? キリコのために決まっているでしょう……!!」
「どうだかな。二日前まで“エレーネのためにキリコを生かしている”って話をしていたやつの台詞なんざ信じられるか」
「キリコが死んだら……困るんです……」
「そうだろうな。足の自由を奪われてもなお助けることのできなかった婚約者のエレーネを、生き返らせることができなくなる」
その台詞に、ハインの顔がゆがむ。
「あのお嬢ちゃんは……エレーネを生き返らせる可能性を秘めた花妖精なんだろう? 他のクローゼットに押し込んだ“役立たず”と違って」
「……なぜ、クローゼットのことを……」
違う、と言いたかった。しかし、そのつもりでキリコを育てていたのは事実だ。
あの異世界から来た種は今まで見た種の中でも異質だったのだ。もしかしたら、この種ならば……そう思わずにはいられなかった。
ウォーカーの辛らつな言葉が胸に突き刺さる。
「花妖精を使って人を生き返らせるだなんて人のなす業じゃない」
「そんなのは解っている!」
「ならなぜ……! なぜ、お前は! 花妖精を殺し続けているんだ!! 花妖精を育てる名手と言われたお前が、なぜそんな非道なことをする!! お前がひたすらに隠そうとしているそれを、俺が知らないとでも思ったか!」
怒鳴り声が森中に響き、そして雨の音以外は何も聞こえなくなる。
「……一つ良い事を教えてやろう。あの日、俺が部屋を出た時、茶の乗ったお盆を抱えたキリコが走り去って行ったぜ?」
「!」
何を言われても顔を上げなかったハインが勢いよく顔を上げる。
その顔には絶望の色しかなかった。




