綺麗な花になりたい。
「……あれ、寝ちゃったんだ」
寝た記憶はなかった。
ただ、あの場から逃げた後にミーナが見つからなかったので、食堂にお盆を置いてその場にいた使用人にミーナへの伝言を頼んで一目散に部屋へ戻ったのだ。
それからベッドに潜り込んで、濃厚な花の臭いに胸を悪くしながら震えていた。
しばらくすると寝ている間にミーナとハインが部屋を訪れたが、眠っていたキリコを見て出て行った。
そして朝だ。
「……ご飯、食べ損ねちゃったな」
音を立てて鳴るお腹を押さえ、窓の外を見つめる。
まだ朝と言うには早い時間ではあったが、外はもう明るくなっていた。
「花の香りがしない」
言葉通り、あんなに濃厚に香っていた花の香りは一切しなくなっている。しかし、クローゼットの中から無言の圧力が出ているような気がして、キリコは顔を引きつらせながら窓を開けた。
爽やかな朝の空気が部屋へと流れ込む。淀んでいた部屋の空気も、心なしか軽くなったような気がした。
「……空気が綺麗」
空を見ながら、ポトリと一粒の涙が落ちる。大きく深呼吸すれば、鼻が少しだけ痛くなった。
「…………」
昨日ハインの口から出たエレーネの名前が頭から離れない。
「もっと……綺麗になりたい……異世界に来たのに、花になれたのに……私は結局、中途半端で……こんな思いを抱えて……醜いままだ……」
一度浮かんだ涙は次々に生産されていった。ポロポロとこぼれるそれを、キリコはそのままにしていた。
「綺麗になりたい……」
『なれるとも』
上の方からかけられた声に肩を震わせる。その瞬間、黒い影が窓辺へと降り立った。
「……カラス? 今、あなたが喋ったの?」
『そうだぜ、お嬢ちゃん』
「綺麗に、なれるって……どうやって?」
花妖精は動物とも話すことができるのかと内心で驚きつつ、カラスの言った言葉が気になっていた。
『山の向こうにある大精霊の泉に入りゃあいい。あそこには何でも望みを叶えてくれる大精霊がいンのさ。この世界なら子供でも知ってる有名な話なんだけどよ、人間は誰一人としてその泉を見つけられないがなあ』
「……なら、私にも見つけられる気がしないわ」
『言っただろう? 人間はって。お嬢ちゃんは花妖精なんだから。人間には見えないものが見えるのさ。きっと見つかる』
「本当……?」
『もちろん! 動物、妖精、精霊は誰も居場所を知っているんだから。感じるんだ。わかるだろう? 濃い大精霊の気配が』
自信満々に頷くカラスを見て、少しだけ目を閉じてみる。すると、かすかに清らかな気配がはるか向こう側から伝わってきた。
今まで気づきもしなかったが、恐らくはそれがカラスの言う大精霊の気配なのだろうと思った。キリコは満面の笑みを浮かべる。
「あ、でも……行くならハインさんに許可を取らないと。だってハインさんがいないと外には出られないし」
『ハイン? ここの主かい? そんな暇はないぜ?』
「どうして?」
『だって、朝のこの時間にしか泉が出現しないからさ。ここからだと、俺のひとっ飛びで五分くらいか? まあ、ギリだな』
「そんな……」
『大丈夫。今のお嬢ちゃんなら、主との絆が浅くなってるから泉に行ける。花妖精ってのは主との絆が弱まると離れていても平気になるんだろう?』
落ち込むキリコにカラスが擦り寄る。キリコは、絆が浅くなっている原因が嫌と言うほど分かっていた。
『そんな顔するなよ。俺が連れてってやるって。ようは、お嬢ちゃんの主に見つからなきゃいいんだから』
「でも嘘をつくことになるから……」
『嘘じゃない。言わないだけだ。綺麗になりたいんだろ? 綺麗になって、主に好かれたいんだろう? そうすりゃ主との絆だって深まるもんな』
言わないだけ。
綺麗になりたいだけ。
綺麗になれば、ハインがエレーネじゃなくてキリコを見てくれれば、失われつつある絆が取り戻せるかもしれない。
一緒に生きる未来が、あるかもしれない。
自覚した思いは今や隠し切れないほどキリコの中で大きくなっていた。
「……本当に……連れて行ってくれるの?」
『もちろん。さあ、背中に乗せて飛べるくらい、小さくなって。願えば小さくなれるから』
目を閉じて小さくなるよう願った次の瞬間、キリコは大空へと飛び立っていた。
* * * * * *
「……キリコは、人間じゃない」
そう言ったのは、ハイン自身だった。なのに心の奥がギリギリと痛む。
いつもハインの家に来たら必ず晩御飯を食べていくウォーカーは、何も食べずに帰っていった。
初めて心を許せる友人とした大喧嘩に、ハインは内心で激しく動揺していた。
とにかく心を落ち着けようとキリコの部屋へ行き、キリコが寝ているのを知ってがっかりしたのだ。そしてそれは小さな怒りに変わる。
なぜ起きていてくれなかったのかと。
しかしすぐ愚かな考えであると思い至り、ハインはキリコの額を撫でると部屋を出た。キリコの頬に涙の筋があることも気づかず。
「……キリコ」
今日も、いつもであれば部屋に行ってキリコを起こす時間だというのに、部屋へ行くことができなかった。ゴロゴロとベッドの上を転がっていると、ふとキリコの気配がしないことに気づく。
「…………」
血の気が引き、勢いよく飛び起きる。
何の間違いかと思って気配を探るが、昨日まで感じられていた気配は今や全く感じられなくなっていた。
「キリコ……?」
部屋を飛び出し、キリコの部屋へ向かう。
ノックもなしに開け放った扉の向こうには、開け放たれた窓と風に揺れるカーテンしかなかった。
* * * * * *
「ねえ、泉に連れて行ってくれるんじゃなかったの……」
震える声でそう言えば、カラスはキリコを口にくわえたまま急降下する。
森の上で急降下され、どんどん迫ってくる木々にキリコは悲鳴を上げる。カラスはすいすいと木を避け、やがて小枝でできた巣へと降り立った。小枝が腕に、足に、顔に刺さって肌が赤くなる。居心地の悪いそこをカラスは小さく跳ねながら移動し、時折ゴミを外へ放り出していた。
「ここはどこ? もう朝日は昇りきったし、あれから五分以上経ってる!」
『俺の巣』
カラスはキリコの方を見もせずに言う。
「私は泉に行きたかったのに……!」
『頭の弱い可哀想な花妖精。主が愛想を尽かすのも頷ける』
ため息をつきながら頭を振るカラスを見て、キリコはザッと血の気が引いた。
キリコは、ようやく自分が騙されたのだと知った。
「泉の話は嘘だったわけ……?」
『いいや。泉はちゃんとあるぜ、お嬢ちゃん。ただ連れて行かなかっただけだ。花妖精のコレクションが欲しかったのさ』
「コレクション……」
なんて馬鹿な真似をしてしまったのだろうと落ち込む。
しかし、もう事は起こってしまった。
「なんてことを……」
もう、あの場所には帰れない。
そう思うと、心臓の辺りをギュッとつかまれたような気になった。
「なんて……ことを……」
足から力が抜け、座り込む。
その時に膝へ枝が刺さったような気がしたが、キリコはそれどころではなかった。
* * * * * *
「ハイン、ようやく邪魔がいなくなったわね」
太陽が輝いている時間の問いかけ。
苦々しい顔で息を殺す。
日中にこの声が聞こえるのは、久しぶりであった。最近は夜中ばかりだったと思っていたのに、と胸の中にドロドロした何かが湧き上がっていく。
「ハイン、顔を見せて。ハイン」
そしてふと気づく。
聞き間違え出なければ“邪魔がいなくなった”と言った。
「あの子がいなくなったんだから、また一緒にいられるわね」
なぜ、この声の主が知っているのだろうかと考えると、ハインは嫌な予感がした。