胸が、じくじくする。
「なんだかなあ……」
大きなため息をついて、キリコはベッドへと寝転んでいた。
今日はせっかく楽しい一日になりそうだったのに、と顔をしかめる。
「…………」
あの部屋を追い出されてから、もう3時間ほど経っていた。
外はすっかり夕暮れ時になっており、キリコは仕方がないと思いつつもモヤモヤする気持ちが抑えられない。
すると、部屋の中にまた例の花の香りが広がった。
「……この香りは、なんだろう」
暇になったものだから、俄然興味がわいた。
香りのする方向はなんとなくわかる。それに前々から気になっていた場所でもあるのだ。
クローゼットの隙間に鼻を近づければ、濃厚なその香りが肺いっぱいに広がった。むせ返るようなそれは、クローゼットに近づいて初めて気づいたが、かすかにすえたような臭いがする。
「…………」
恐る恐る扉を開けるが、そこは別段変わったところのないクローゼットだ。
「やっぱり……ここから、一番強く香るんだけど……」
なぜか、緊張でじわりと汗がにじむ。
「……よし」
意を決して、クローゼットの中へ足を踏み入れた。
そこは思ったよりも広く、キリコのために用意されたドレスや靴、帽子などが綺麗に並べられている。天井には三レーンの洋服をかけるためのパイプが通っており、そこには沢山のドレスや普段着がかけられていた。
洋服や靴、帽子の他にもアクセサリーのコーナーがあったりして、まるで小さな店が一つ入っているかのようだった。
「こっち、かな?」
香りはクローゼットの奥から漂ってくる。クローゼットをずいずいと進んで最奥までたどり着いたとき、キリコの顔は恐怖に歪んだ。
「…………」
隠された布。その隙間から見える、小さな手。小さな足。髪の毛。
そっと布に手をかけると、そこからは大量の壊れた人形が現れた。
「ひぃっ……」
ジリッと後ずさり、一気に駆け出してクローゼットから飛び出した。そして勢いよくクローゼットを閉める。
その閉めた手が震えているのに気付いた瞬間、大量の汗が一気に噴出した。
「なに……」
どうしても、ハインに会いたくなった。
「何、今の……」
しかし、きっと今は忙しいはずだ。
キリコは再び駆け出すと、部屋を飛び出した。ここにはいたくなかったのだ。あのすえた臭いが後を追いかけてくるような気がした。
「ミーナ、さん……! ミーナさん!」
お客様がいるからと思い、そんなに大きくはない声でミーナを探す。今自分が縋ることができるのはミーナしかいないと思ったのだ。
しかし、こんな時に限って誰も人が通らない。
「どこ……誰か――」
角を曲がった瞬間、何かにぶつかったキリコは弾かれて床へ転がった。
「きゃっ……あら? まあまあ! キリコ様じゃありませんか! どうしたのですか? 怪我は? ないですね。まったく! 廊下を走ったら危ないですよ!」
少し怖い顔でそう言うのは、お盆の上に茶器をそろえたミーナであった。
キリコの目にじわりと涙が浮かび、今にも零れ落ちそうになる。
「あらあら……痛かったですか? やっぱり怪我を――」
泣きそうな顔で何も言わずに抱きついたキリコを見て、ミーナはわずかに動揺した。どこか怪我をさせてしまったのではないかと思い様子を見ようとするも、キリコはべったりと張り付いて離れなかった。
「さあ、キリコ様。怪我をしていないか確認させて下さい」
「ち、ちがっ……痛いところはないんです……」
キリコはあの光景を説明しようとして、ふと嫌な予感がした。
ミーナはアレを知らないのだろうか、と。
使用人であれば片付けるときに間違いなく気づくはず。それなのにあの大量の人形が残っているのは、わざとそうしているか自分にしか見えないに違いないと。
「キリコ様?」
であれば、その理由は何か。
「どうされましたか?」
あれは果たして、本当に人形だったのだろうか。
「……夢を……」
スッと涙がひいていった。
「……怖い、夢を見たんです……」
「まあ」
アレがあそこにある理由はわからない。
突き詰めて考えてはいけない気がして、さっき見たものを、キリコは誰にも言わないことに決めた。
「でも、もう大丈夫です……」
背中にあった翼は、いつの間にか消えていた。
* * * * * *
「さあ、蜂蜜ミルクですよ」
あの後、濁った目をしているキリコの様子が気になったミーナは、お茶運びをやめてキリコを食堂へ連れて来ていた。
「ありがとうございます」
鼻いっぱいに匂いを吸い込めば、ミルクのなんともいえない良い香りと蜂蜜の香りがする。火傷しないように少しだけ吸い込めば、口の中に甘いものが満ちていった。
「おいしい……」
「そうでしょう、そうでしょう。それはミーナの得意料理の一つですから」
自分でうんうん、と頷くと、ミーナは胸を張って鼻を鳴らした。
「あら、そうだ」
ミーナはポンと手を叩くと、キリコの両肩に手を添えて悪戯を思いついた顔をする。
「そうだ。キリコ様、私の代わりにお茶を持って行ってくれませんか?」
「え? 私が……ですか?」
「あの方達は話し始めたら長くて……でもキリコ様がお茶を持っていけば、そろそろ夕飯を食べる時間だと思い出すでしょう? いつものようにウォーカー様は夕食を食べていかれると思いますからね」
ミーナは名案だと思った。
なぜなら、キリコがハインと引き離されて退屈していると思ったからだ。だが、良い子のキリコが来客対応中のハインの元へ自分から行くことは考えられない。であれば、自分がキリコのために切欠を作ってやればいいと思ったのだ。
そして思惑通り、キリコは少し頬を上気させて目を光らせる。しかし、その顔はすぐに曇っていった。
「で、でも、私が行っても大丈夫でしょうか?」
「大丈夫ですよ。使用人である私が入ることができるのですもの。入りづらかったらまた戻ってきてくださいませね。その時には私が一緒に参りますわ」
拳で力強く自らの胸を叩くミーナを見て、キリコはようやく笑顔を浮かべた。
「さあ、そうとなったらお茶を入れなおさないと。少々お待ち下さいませ」
スキップでもしそうな勢いで駆けて行くミーナを見て、キリコはようやくハインに会える嬉しさに胸を高鳴らせた。
* * * * * *
「ちょっと緊張する……」
キリコはお盆を抱えて客間の前にいた。
先ほどミーナに教えてもらったことを思い出す。
ノックをして、返事があってから声をかける。そして向こうから入室許可が出て初めてドアを開けられるのだと。あとはキリコの姿さえ見えれば、中の二人は口うるさいことは言わないだろう、とミーナは言っていた。
「ふー……」
大きく深呼吸をして、ノックをしようと手を上げたときのことだ。
『では、お前の心にいつまでも居続けるエレーネはどうするつもりだ!』
『キリコとはそういう関係にありませんから、エレーネは関係ないでしょう。キリコは花妖精です。人間ではありません。あれは、エレーネのために生かしているだけです』
『……また、言い訳か。エレーネの時も言い訳をしていたな……お嬢ちゃんもまさか、自分が殺されるために育てられているとは思いもしないだろうよ。お前がそんなふうになるとは思わなかった。お嬢ちゃんは――』
『それ以上、口を開かないで下さい』
『――お前は……もう、手の届かないところまで堕ちたようだな』
中で人の動く気配がした。
キリコはビクリと肩を震わせると、一目散に駆け出して、ただ前を見ながら心の中で何度もミーナの名を呼んだ。
“キリコは花妖精です。人間ではありません”
当たり前の言葉が心に刺さる。
“お前の心にいつまでも居続けるエレーネはどうするつもりだ!”
聞いたことのない女性の名に、心が痛む。
「私は、エレーネのために生きている……? ハインさんが私を大事にしていたのは、エレーネのため……? 殺すために、生かされて……」
キリコは、ようやく自分がハインを好きになりかけていたのだと知った。
そしてその思いは一生実ることがなく、いずれ自分はハインによって殺されるのであろうとも。
それも、ハインの心にいる女のために。




