秘め事の欠片。
『綺麗な翼ね』
『綺麗な翼だわ』
馬車の中、女性の声が響き渡る。しかしここには無言のハインと何か言いたげなウォーカーしかいない。
キリコが辺りを見回せば、満面の笑みで頬杖をついてキリコを見つめるウォーカーの花妖精たちがいた。
「…………」
キリコはごくりと生唾を飲み込む。
どう考えても言葉を発したのはこの二人だ。しかし、返事を返してもいいものか悩んだ。なぜならいまだに馬車の中には険悪なムードがただよっており、平然としているのはこの二人の花妖精だけだったからだ。
「…………」
あの後にウォーカーが拝み倒して馬車に乗せてくれるよう粘り、可哀想になったキリコがとりなして渋々ハインは同行を許可したのである。
『お花と草の翼なのね』
『お花と草の翼だわ』
何より、この言葉はキリコ以外に聞こえていないようだった。
『主の友がそうあれと望んだのね』
『主の友がそうあれと望んだのだわ』
「どういうこと?」
思わずキリコがそう言えば、不思議そうな顔をしたウォーカーの視線を浴びる。
「あ、えっと……」
「あなたはこの男の花妖精と会話できるのでしょう? 別に不思議なものではありませんから、女性同士お話しているといいですよ」
ちょっとだけ拗ねたような言葉に、キリコは思わず苦笑する。
『私たちは主が望む姿をとる』
『私たちは主が好む姿をとる』
ハクとレンは怪しげに微笑み、主に好かれたいからだ、と声をそろえてつぶやいた。
「それは……つまり……」
『この姿だって主の好み』
『この姿だって主が望む』
少し息をのんで、納得の声をあげた。
キリコは前々からウォーカーのちょっとアダルティな一面が気になっていた。なんとなく、女性の扱いが上手いような気がしたのだ。
ナイスバディの花妖精たちは、その四肢を見せ付けるように踊りだす。それは女性のキリコから見てもとっても魅惑的で、思わず視線をそらした。
『もっと見てみたい?』
『もっと見せてあげる』
ポンと可愛らしい音がして、馬車が急に狭くなった。
「ウォーカー! その下品な花妖精を縮めなさい!!」
馬車の中にハインの怒声が響く。
しかし、人として当たり前の大きさになった花妖精は、両側からキリコを挟みこんで豊かな胸をグイグイとキリコに押し付けていた。
「あ、あの! あの!!」
すっかりパニックになったキリコが真っ赤な顔で叫ぶと、ハインは舌打ちをしてキリコへ手を伸ばす。しかし、その手は花妖精によって防がれ、キリコの手足にからみついたハクとレンがさらにキリコの羞恥心を煽る。その手はどんどん衣服の下に潜り込み、とうとうスカートを捲り上げようとしていた。
「ひぃっ……!」
「ウォーカー!!」
「わかったわかった……!」
ちょっと焦った顔のウォーカーが何か合図を出すと、ハクとレンは顔をしかめて不満げにつぶやくと、キイキイ鳴いて小さくなった。
真っ赤な顔のまま、胸に手をあてて肩で息をするキリコ。
「大丈夫ですか、キリコ」
「だ、だ、大丈夫……です……」
「どうやら気に入られたようだ。だが、お嬢ちゃんにはちょいと刺激が強かったな」
困ったように笑うウォーカーに、ハインは目を細めた。
「殺されたいようですねあなたは。いつでも馬車から降ろして差し上げますが。ああ、そうだ。置いていくわけには行きませんから、紐でくくって差し上げましょうか」
殺伐とした空気が流れる中、馬車はようやくハイン邸へと到着した。
しかめっ面のハインがウォーカーを伴って屋敷へ行くと、連絡を受けていた使用人達はギスギスした空気を感じ取り呆れ顔になる。しかしそれを顔に出さないようにしながら一礼をし、ウォーカーを客としてもてなすことにした。
「でかっ……!」
突然大声を上げたキリコに、あたりは一瞬静まりかえる。
「……キリコ、どうかしましたか」
思ったよりも大声が出たことに顔を赤くしながら、キリコは慌てて言葉をつむぐ。
「あ、いや、あの……なんかこんなに大きなお屋敷だとは思わなくて……」
「なんだ、お嬢ちゃん。住んでいるのにわからなかったのか?」
「その……家の中は自分の部屋しかいたことがなかったので……今日初めて家を出たのですが、外観を見るより先に馬車が目に入ってしまったので、お屋敷は見てなかったんです」
それを聞いて驚いたのはウォーカーである。
「なんだって? おい、ハイン……お前、まさかとは思うがこの子を閉じ込めていたのか?」
「人聞きの悪いことを言わないで下さい。養生していたのですよ」
「お前のやっていることは軟禁と同じだ。養生だと? サナトリウムじゃあるまいし!」
キリコは“サナトリウム”と言うのは言いえて妙だと思った。
体の弱いキリコはここで養生している。それは確かだ。外部との接触を断ち、食事を与えられ、日々をゆったり過ごす。まさにサナトリウムであった。そしてハインの存在が、体だけではなく心も癒しているのだと理解している。
だから、ここはキリコにとって肉体的にも精神的にも“サナトリウム”なのであった。ここにいれば、ハインの傍にさえいれば、キリコは永遠に生温い温度の中で養生できる。
それはゆるく蝕む毒のようでもあった。これが良いのか悪いのか、キリコにはまだ判断がつかない。
「お前はまた、あの時のように――……す、すまん……」
苦々しげな顔をして、うつむくウォーカー。
大きなため息をついたハインは、ウォーカーをにらみつけると黙って屋敷の中へ入っていった。ウォーカーの周りを二人の花妖精が心配げに飛び回る。
「……ウォーカーさん……ごめんなさい」
「お嬢ちゃんが謝ることじゃない。今のは、俺が言ってはいけないことを言いかけただけだ。ああ、それが何かなんて酷いことは聞くなよ」
キリコは何度か頷き、そして少し考えてからウォーカーに中へ入るよう促した。
使用人の導きで客間に通され、キリコは黙ったまま下を向いて座るウォーカーの傍にいる。もうずっとこの息苦しい時間が続くのかと思ったとき、無表情のハインが部屋へと入ってきた。
「それで。例の件の報告は?」
「あ、ああ……それがな――」
「その前に……キリコ」
「はい!」
ビクリと飛び上がり、脈打つ心臓の辺りを押さえる。いくらか強張ってはいたが、先ほどよりも優しい音色でハインはポツリと呟いた。
「大事なお話なので、お部屋に戻っていて頂けますか? あとで行きますから」
「……はい」
お仕事だとはわかっている。しかし、キリコは少しだけ寂しい気持ちになった。
「おい、離れられるのか?」
「忘れたのですか? 屋敷内に花妖精を連れてくる者もいますから、どこに行っても影響がない距離を保てるような構造になっていると言ったでしょう」
「ああ、そう言えばそんなことも言っていたな」
「それでも、体同士がくっついていないと駄目な者は胸ポケットに仕舞ったりしていますが。それに、私はまだ彼女と――」
言いかけた言葉を飲み込む。
しかし、心が薄っすらとつながったキリコには何を言いたいのかがわかった。そして長年一緒にいるウォーカーにも。
“私はまだ彼女との絆が薄いですから。多少離れていても問題はありません”
飲み込まれた言葉を思い、キリコは静かに部屋を出た。




