旦那様、怒る(完)
このお話はここまででござるー
道太郎様は夕飯時に帰ってこられた。
お玉を連れて。
お玉はお七に、道太郎様に買って貰った半襟を見せている。
可愛らしい桜色の半襟、可愛らしいお玉には良く似合うだろう。
「今日は倒れられたそうですね」
道太郎様は私の前に座り、私の目をじっと見る。怒っておられるのだろう、倒れた上に道太郎様の大恩人であるお高様のお手を煩わせたのだ、怒ってないはずがない。
「申し訳ございません」
私は深々と頭を下げる。
「お高様のお手を煩わせ、道太郎様の顔に泥を塗るようなことをしてしまいました。お詫びのし様がございません」
「その様なことはよいのです。何故体の調子が良くないときに外出したのですか?」
「申し訳ございません、以後この様な事がないようにします」
より深く頭を下げる。
「お七がいけないのです! お七が若奥様をお誘いしたのです、どうか若奥様をお叱りにならないでください」
「お七は黙っていてください。いけないのは私です」
「しかし若奥様……」
「もう、この様な事無いように、勝手な外出はいたしません。悪いには私一人でございます。どの様な罰も受けますので、お七はお許しください」
「私はその様なことを言いたいのではないのです」
「どうかお許しください」
道太郎様のため息が聞こえた。
「今後気を付けてください」
道太郎様は立ち上がり、部屋を出て行かれた。
私は一人、部屋で夕食をとるとお七に告げる。
道太郎様は私となどと夕食は食べたく無かろう。夕食はお七に運んでもらった。
なにを食べても砂を噛んでいるようだ。なにも味がしない。
夜寝るときはお七達の部屋で一緒に寝かせてもらおう。道太郎様もそのほうが気軽であろう。
「入ります」
道太郎様が部屋に入ってこられた。
「お七から話は聞きました。三岳先生と奥様にご挨拶へ行ってくれようとしていたのですね、頭ごなしに叱る様なまねをして申し訳ありません。
しかし私は怒っています。
何故体の具合が悪い中出かけたりしたのですか? 貴方の体に何か有ったらどうするのです? 嫁御様は少しご自愛が足りません」
嫁御様、ね。
「申し訳ございません」
「謝られてもしょうがないのです。そんなことではないのです」
「申し訳ございません」
「そうではないのです」
「申し訳ございません」
「…………」
「申し訳ございません」
「謝って欲しいわけでは無いのじゃ! 儂はお前のことが心配で言っておるのじゃ!」
私は驚き顔を上げ道太郎様を見た、美しいかんばせを歪められ、目には涙をため、まるで今にも泣き出しそうな子供のような顔だった。
「何じゃ! こんな物!」
畳に何かを投げつけ、道太郎様は部屋を走って出ていった。畳には可愛らしい和紙で包まれた蛤の中に、紅が入った物が転がっていた。
貝は割れ紅がこぼれていた。
「若奥様! 今、道太郎様が走りお屋敷を出て行かれましたが何か……!」
お玉は部屋に転がる紅を見て驚いている。
「なぜこんな事に……」
お玉は自分の懐から手ぬぐいを出しそれで紅を包む。
「あんなに若奥様にお渡しになることを楽しみにしていたのに」
私に道太郎様が紅を?
「道太郎様は若奥様に何か贈り物をしたいと私を連れて、小物屋などを何軒も回られて、どれもこれも若奥様には似合わぬと、何軒も何軒も回られて、これをひいた若奥様をさぞ可愛かろうと、あんなに楽しみにされていたのに」
私が可愛いと?
こんな私が可愛いと?
それなのに私はそんな道太郎様に何をしたのか?
焼きもちを焼き、倒れて迷惑をかけ、叱られては拗ねて共に食事もとらず、最後には道太郎様のお優しい心を台無しにした。そう、悪いのは全部私、馬鹿で愚かな私だ。
「お玉! 道太郎様はどちらに行かれたか分かりますか?」
「いえ、私には……」
とりあえず、謝らねば、私は下駄を履き屋敷を出る。
どちらに行かれたのだろう? 土地勘がない私には見当がつかない。
「若奥様!」
お七!
「そんなに慌てなくても大丈夫ですよ。道太郎様の行く先は見当がつきます」
「本当ですか!」
「はいなぁ、道太郎様は嫌なことが有ると決まって、神社裏のそば屋に行くのです。あそこはそばの汁に絞り生姜をたっぷり入れているので道太郎様のお気に入りですよ」
「案内してもらえますか」
「はいなぁ!」
道太郎様は泣きながらそばを食べていた。
「道太郎様入ってくるなり『そばを出せ!』と言われまして、それからずっと食べっぱなしの泣きっぱなしで、こんな事は道太郎様が可愛がっていた猫の生姜が死んだとき以来なもんで」
店の主人がお七を見つけ、店の外まで出てきて話してくれた。
「お七、ここで待っていてくれませんか」
お七は私の手を握り、笑顔で頷いてくれた。
私は店に入り道太郎様の横に座る。
「何をしに来たのじゃ、儂はお前と話すことなど無いのじゃ」
道太郎様はそっぽを向く、その仕草が本当に愛くるしい。
「道太郎様、紅を有り難うございました」
「…………」
「道太郎様、今日は本当に申し訳有りませんでした、私のために色々お考えくださっていたのに全部台無しにしてしまって」
「…………」
「道太郎様にこんなにお優しくしていただいているのに私は拗ねてむくれて申し訳有りません」
「…………」
「離縁されますか?」
道太郎様が私のほうを振り向く。がばっと。
「お前は離縁したいのか?」
「私はしたくありません。末永くお側に置いていただきたいと思います」
道太郎様の顔が耳まで赤くなる。
「そ、それならば儂の近くにいれば良かろう」
「よろしいのですか?」
「良いと言えば、良いのじゃ!」
またそっぽを向かれてしまった。
「一つお願いがあるのです、私に名前を付けてくれませんか?」
またこちらを向く。
「名前? 何故じゃ?」
「道太郎様に名前を付けていただきたいのです。その名前で私のことを呼んで欲しいのです」
「儂でよいのか?」
「道太郎様につけていただきたいのです」
私は道太郎様の手を握る。私も耳まで真っ赤だろう。
「そ、それじゃあ儂が一番大好きなもので」
いやな予感がする。
「そして儂をいつも励まし、慰めてくれるもので」
おや、あれではないのか? 少し安心した。
「そして何より美味しい!」
絶望的だ。
「今日からそなたの名前は佐治生姜じゃ!」
目の前が真っ暗になった。
死んだ猫も、生姜って名前だったじゃん。