枕語り(1)
時代背景とかは気にしないでほしいでござる―
嫁ぐとは何だろうか?
一人の人間と一人の人間が寄り添い生涯をともにする。
死が二人を分かつまで。
男と女が心を通わせともにお互いを求める。
精神的にも肉体的にも。
ならば私は嫁いだことが一度もないのではないか。
三度嫁ぎ、三度の死別。
一度も夫と呼ばれる殿方の腕に抱かれ朝を迎えたことはない。
私は三度嫁ぎ、夫こそ変われど嫁と言う立場に10年間いたのに、そう10年間いたのだ、10年間いたのに一度として殿方に体を許したことはない。
それは私が望んでしたことではない、私は夫となる殿方に体を許すことを拒んだことはない。
一度として求められなかっただけだ。
10年間三人の男性に一度として夜を求められない。
これは嫁いだといえるのだろうか?
私は京都の生まれで、公家の娘。
ただこの事を誇ったことは一度としてない。
この武士の時代、徳川の時代、公家などとほざいても庶民と何ら変わらない。否、庶民より生活は苦しいのだ。
私の家はその中でもかなり貧しかった、困窮していた。
私は朝から一刻ほど歩き百姓の家に野良仕事の手伝いに行った。労働の対価として野菜や芋を分けて貰うためだ。
私は朝から日が暮れるまで畑で働き、帰りに少しばかりの野菜と芋、そして藁をいただき帰るのだ。家ではいただいた藁を使い朝市で売る藁馬や草履を作った。
そんな生活、そんな毎日。
母は公家だから働かず、父は公家だから働かなかった。そんな生活、そんな毎日が15年間続いた。
15年続いたある日、私に輿入れの話が舞い込んできた。
父がある日、金の入った袋を片手に酒に酔い帰ってきた。
父は私に古着屋で買った見窄らしい着物を放り曲げ、「お前の婿殿が決まった、輿入れにはこれを着て行け」と言った。
相手は武家、18万石の大名だと言う。これぞ玉の輿ではないか、と言い父と母は大いに喜んでいた。
つまり私は父が持っている袋の金と交換に売られたのだ。
私は見窄らしい着物を着て、相手方の迎えの駕籠に乗り暖かい西の国に嫁いでいった。
これが15歳の時、今から10年前である。
私が嫁いだのは18万石の大名家、大名家ではあるが当主ではなかった。
先の当主。先代の当主。つまりは隠居された65歳の老人の元に嫁いだのだ。
金のない貧乏公家でも公家は公家、そう思い私を買い求めたのであろうが、やってきた私は農民の娘にも劣る痩せぎすで、爪が割れ、肌が日に焼けて牛蒡のように黒い田舎娘で、家をあげての騒動となってしまった。
私は家を愚弄したとの罪で危うく死罪になるところだったのだが、助けてくれたのは亭主となる大殿様だった。
「儂の女房に何をするか!」
と、啖呵を切り、私を庇い隠居先である屋敷に迎え入れてくれた。
大殿様は私に『暮葉』と名前を与え大層可愛がってくれた。
しかし、それは孫娘に対する愛情のようなもので、男女の愛情では無かった。
私と大殿様は毎朝朝食を共にし、昼は読み書き、算盤、和歌、俳句、を教えていただき、夕食の折りには歴史上の豪傑武士の武勇伝を聞き、別々の部屋で寝る。
そんな生活を5年。
私は公家としての常識を公家の家ではなく武家の家、大殿様に習った。
私が少しでも公家らしく見えるのであればそれは大殿様のおかげであろう。
私は15から20までそんな生活をしていた。
幸せであったかと言われれば幸せであったかもしれない。
大殿様は私に時に厳しくそして常にお優しく心の底から可愛がってくれた。
大殿様に守られ、包まれていた日々。
そんな日々は5年で終わりを告げた。
5年たったある日、寒い冬の日、大殿様は庭で倒れられた。
それ以来、大殿様は左手左足が動かず。言葉も辿々しくなられた。
床からは起きることは出来ず、寝てばかりで背中が腐っていった。
時に癇癪を起こし私を殴りつけ、時に赤子のように私に泣いてすがった。
それから私は毎日大殿様の下の世話をし、体を拭き、着替えさせ、痛がる所をさすり、擦り潰した食事を与え、殴られ、泣いてすがられた。
亡くなられるまで3年、私は片時も離れず、大殿様と過ごした。
私は23歳になっていた。
大殿様が元気であった最初の5年を、幸せと言えるか私には分からない。
でも、最後の3年は不幸ではないと断言できる。
京都で過ごした15年は私はただ誰の役にも立たず、生きるためだけに生きてきた。
最初の五年間も生きる為に生きてきた。大殿様に気に入られるよう、粗相をしないよう、捨てられないよう、自分のために、生きるために生きてきた。
しかし、大殿様が倒れてから過ごした3年は、間違いなく大殿様に必要とされていた。
誰かのために生きる。
これほどの幸せがあるだろうか。私は誰が何を言おうと幸せだったと言える。
私は幸せだった。
大殿様がなくなられて私は藩の厄介物になった。献身的に大殿様に尽くし最後を看取った才女、口では誉め称えるが心では何かしらの見返りを求めるに違いないと皆が思っていた。私は仏門に入るつもりでいたが、寺からとやかく藩の政治に口を出すのではないかと不振が募っていた。
そして私は厄介払いに嫁に出されたのだった。
二度目の夫とは会ったことがない。顔も見たことがない。私が嫁ぐ朝、死んでしまったからだ。
二番目の夫は5000石の旗本だった。妻に先立たれ3歳になる息子を抱え、後添を探していたところに私の話が転がり込んだと言うわけだ。
夫は私を迎え入れる当日の朝、女中をしている女に包丁で刺されて死んだ。
手折った女中に必ずお前を女房にすると約束をしていたらしい。
女はそれ反故にされ怒り夫を刺したのだ。
夫はあっけなく死んだ。困ったのは夫の家だ。家の不祥事で当主は死んだため、もういりませんと私を突き返すわけにも行かず、しかしそのまま家に置いておくわけにも行かず、どうしたものかと考えたあげくに3歳の息子と私を結婚させたのだ。
3歳、片言ながら言葉がしゃべれる程度。
まだ赤ん坊を終わっていない。
子供ですらない夫。
母もなく、父もなく、独りぼっちの夫。
私は賢明に育てた。
言葉を教え、読み書き、行儀作法から着物の着かた、風呂の入り方、用のたしかたに至るまで私は幼い夫に賢明に教えた。
そのようにして過ごした3年。私は26歳になっていた。
ある晴れた日。夫は家臣達に連れられ鷹狩に出かけた。私は家で待っていた。
「今日は兎をつかまえまする」
それが幼い夫の最後の言葉となった。
夫は落馬し帰らぬ人となった。
家臣に良いところを見せようとしたらしい。
一人で馬に乗れるところを見せようとしたらしい。
そして落馬した。
私は初めて声を上げて泣いた。人前で声を上げて泣いた。
夫の亡骸は小さく、細く、白く、冷たかった。
私は死を決意した。
これ以上誰かの死に立ち会うことはできない。これ以上誰かに賢明には尽くせない。私はもう死んでいる。大殿様と死に、幼い夫と共に死んだのだ。なのになぜ私は生きているのだろう。
もう死ぬしかないのだ。
私の妻としての役目は終わった。
妻として生きるしかない女という生き物が役目を終えたのだ。死ぬしかあるまい。
私は死を決意した。
そこに来た今回の嫁入り話。
四度目の縁談。
私は初めてお断りすることにした。
私はこの10年懸命に生きた。ここでで終わらせてはくれまいか。
この先、ただ生きる屍のように過ごす。そんなことは今までの夫達に対する愚弄ではないか。
私は私を終わらせたい。ただそれだけだ。ただそれだけだった。
それをあの方は許してはくれなかった。