僕と鬼
どちらの道に進もうか。
開いたハサミのように分かれる道路の、ちょうど分岐点に僕は立っていた。
右側の道は商店街に続いている。美しいオレンジ色に染まったそこで、買い物袋を持ったおばさんたちが往来しているのがここからでもよく見える。
左側の道は、見たところ住宅街の奥地に続いているようだ。毛細血管のようにびっしりと張り巡らされているだろうその道に、否応なしに未知への冒険心をくすぐられる。
僕は左肩から右腰にかけている大きなエナメルのバックを、両手でぎゅっと握った。
さぁ、僕は一体どちらの道に進んだら良いのだろう。
「こっち?」
目が向いた先は住宅街への道。いつも通りの帰り道だ。住宅街に出た後に左に曲がり、直進した先に程なくして左側に見える豆腐屋。そこが僕の家。
僕は豆腐が嫌いだ。どこがと聞かれれば、全て、と答えるのが一番手っ取り早いと思う。
ぶるぶるした食感、口の中に広がる豆臭さ、食べにくさ、腐臭が漂ってきそうな字体。嫌悪している、といっても過言ではない。胃に摂取したとたんにそれは体内を駆け巡るのだ。そして僕を汚染する。確信があった。だから僕は豆腐が嫌いなんだ。
「それじゃあ、こっち?」
僕は顔は動かさずに、目だけをそちらへ向けた。
怖かったのだ。住宅街のせいで夕日が遮られたそこは、丑三つ時よりも一際暗かった。
その暗闇はあまりに深くて、もしかしたら鬼がそこに潜んでいるのではないかと疑ってしまう。
鬼は恐ろしいのだ。人はいつでも鬼に見つめられている。彼らはねっとりとした、油っこい視線を絶え間なく向け続けている。隙あらば人を喰らおうとしているんだ。
でも僕はその暗闇をちらちらと見る。恐ろしいからこそ、好奇心をくすぐられる。
プールの授業があった。そのとき僕はまだ小学生で、着替える時は男女ともクラスで一緒だった。
全くの偶然だった。僕が教室のドアを開けると、目の前で女の子が前傾姿勢になっていた。彼女のタオルは幾分か緩かったらしく、次の瞬間僕の目に飛び込んできたのは、初めて見る同級生の恥部だった。
僕は凝視することなく、何事もなかったかのように自分の席へと戻った。
僕は興奮していた。
一歩間違えば変態扱いされてクラス中からさらし者にされる恐れがあった。にもかかわらず、僕がしたことは誰にも気づかれていない。目先を掠める恐怖と甘美な背徳感に全身が震えた。
目の前の暗闇はその時の同級生の恥部に似ている。
決して見てはいけないと分かっている。だからこそ見てみたくなる。
しかもそれは、がむしゃらにもがいて手に入れられるものではなく、僕がたった一歩を踏み出すだけで手に入れられる状況にある。
そう、誘っているのだ。暗闇が、鬼が誘っているのだ。
鬼の世界はまるで麻薬のようだ。知ってしまったら抗うことはほぼ不可能に等しい。
だから僕の足が暗闇に向かうのは当然のこと。
また、大きなエナメルのバックをぎゅっと握った。たまにはこっちから帰ろう、と呟いてから、僕は暗闇の中へと歩を進めた。
「おはよう、父さん」
昨日の夕飯で余ったローストチキンをもしゃもしゃと食べながら僕は言う。
「豆腐、いらないから」
父さんは返事をしない。いつものことだ。
僕は新鮮で骨太な肉と格闘しながら、ああ、次はローストチキンじゃなくて酢豚にしよう、とぼんやり考えていた。
テレビをリモコンで点けると、キャスターがさも痛ましい事態かのように今日の不幸な人を発表している。僕はそれを見てキャスターに同情し、全国の人もそれぞれ反応を示し、出先で話のタネにするのだろう。
「昨日S県S市の住宅街で、女性が死亡しているのが見つかりました。現場の状況などから、S県警は今月に入ってから相次いでいるS県S市連続殺人事件の新たな犠牲者と見て、捜査を進めています。……あり、……親族…………。また、発見時の遺体はこれまでの被害者同様、頭部のみの状態だったということです。S県警は……」
この物語はフィクションです。
少しでもお楽しみ頂けたなら幸いです。
ご読了、ありがとうございました!




