26話:湖
萩原と恵が足を止める数分前、左か右かで恵が迷っていた地点。
そこに、おぼつかない足取りの月島が現れた。
すっ転んだ時に足を挫いたらしく、早足でしか移動できなくなってしまった哀れな月島。
「……いつっ」
しん、と静まりかえり月明かりもほとんど入らない冬の森。足元さえほとんど見えない。
そのなかでの1人行動は絶望に包まれる。
孤独感と恐怖で押しつぶされそうになる。
地面間近に顔を近付けて時折確認する、2人の行き先を知る足跡が月島には命綱のように感じた。
「……ん?」
しゃがみこんだ視線の先に、今まで真っ直ぐ続いていた恵の足跡は無かった。
少し後退り、続きを求めて辺りを確認する。
「あ、こっちか」
鼻水をすすりながら左10時方向に足跡の続きを見つけ、安堵した声を出したその時、
「っ!?」
ふわりと、冷えきっていた背中が温かくなる。
極寒のなか温める術など持たない月島にとって、どう考えてもあり得ない現象だ。
しゃがみ丸めていた背中を勢いよく伸ばし、立ち上がりながら焦り振り返る。
はらりと背中から何かが離れ、雪の上に落ちたのを視界の隅に捕えたが、それよりも月島の目を奪ったものは、
「トモネエ!?」
背後の暗闇の中に見えた、曖昧なシルエット。
さすがに腐るほど顔を合わせているだけのことがあり、月島には光と判断出来たらしい。
「なんで」
こんなところに?
月島の混乱した頭の中がくるくると踊り、意図もせず答えを見つけだそうとする。
――わざわざ極寒の夜にくりだし、鬼気迫る表情をして走る恵。目の前に現れた光。光は先に森に入っていた?
「……トモネエ、1人で森に?」
立ったままその場から微塵も動かない光の方へ向き直り、先ほど落ちた布を拾う。
孤独から解放された嬉しさと、理解不能な現状に複雑な心境だが、月島はとりあえず冷静を装う。
拾い、差し出した布は光が着ていた上着らしかった。
「これトモネエの上着?俺別にいらないって。そんな薄着を見てるほうが寒いっ……」
話の途中、突如月島が後ろへとよろめき、声がぷつりと途切れる。
「………」
無言のままの光が、体温を分け与えるように月島に抱きついていた。
彼女の体は冷えきっていたが、確かな人の体温が、触れたところから月島へと伝わる。
「ちょ……トモネエ?」
上着を持った手を前に出し、時が止まったように固まっていた月島が、さすがに平静さを保てず震えた声を出す。
だが光の返事は無い。離れもしない。
「ねえねえ友野さんてば、どうしちゃったの?」
仕切り直して月島が平静を装った声を出すと、肩胛骨あたりに顔を埋めていた光の頭が僅かに動く。
「ってぇ!」
鋭く刺すような痛みを首に感じ、月島が視線を右下へと動かすと、光がそっと頭を離したところであった。
疑問符を頭に浮かべた月島。
光が体を離し解放された右腕で、痛みを感じた首筋を押さえる。
「え?」
しかし押さえた瞬間、急に体に力が入らなくなったようにガクンと膝を折った。
そのまま座りこんだ月島を静かに光は見下ろす。
「は?……立てない」
立ち上がる努力はしているらしいがピクリとも動かない。
しばらく奮闘したあと、目は動かせるようで呆然と光を見上げた。
だがその視界すらふさがれる。
ばさりと先ほどの上着を頭から掛けられ、色々な意味で目の前が真っ暗になる。
ふわりと上着からいいにおいがするが、そんなことに気を取られている場合ではない。
残念なことに月島の頭は一瞬気を取られたわけだが。
光は月島の両腕を掴むと、ずるずると引き摺りはじめた。女の細腕で60キロほどのものを、軽々と運んでいく。
首から下の感覚が無く視界もふさがれた月島は、引き摺られていることに気付くまで、だいぶ時間がかかったようだ。
「ちょ……ちょおっ!?……まじかよ」
気付いた時の驚きようと言ったら、まあない。
引き摺られ、着いたのは湖であった。
木々が捌け月明かりが注ぐ、小さな湖だ。
畔まで引き摺り手を離すと、光は湖を向いてうつ伏せる月島の脇にそっとしゃがみこんだ。
そして被せていた上着を頭から取り去る。
「湖、綺麗でしょ」
「うお」
月島と森で出会ってから初めて口を開いた光。
いきなり耳元でした声に月島は驚く。素でビビる月島に、サプライズ大成功と柄にもなく喜ぶ光。
「マジ?サプライズなのこれ?」
答えず光はくすくすと笑い続ける。
「いや……笑ってないでさ、この動かない状態治してよ。どうなってんのコレ?」
聞く耳持たずにくすくすと笑っていた光だったが、突然ふ、と無表情になる。
月明かりを浴びたその顔は、いつもより青白く冷たい。
体が動かずその顔を見ることは出来なかったが、月島はわかっていた。
様子がおかしすぎる光とこの状況が、ただのサプライズであるわけが無いのだと。
沈黙。
耳に、ちゃぷちゃぷという水の音がやけに大きく届いた。
「トモネエ……?」
「……もう疲れた」
「え?」
「辛くて苦しくて……もう耐えられなくなって……」
気だるげに目を伏せて呟きはじめた光の表情は、陶器のようで温度を感じさせない。
「死んでしまおうと思ったの」
静かに立ち上がり月島を見下ろす光。
「でも……でもね……」
血の気の無い顔は変わらないが、目だけが薄暗がりのなか怪しく光るように、狂気を感じさせた。
「1人で死ぬのは、淋しいの」
地べたにうつ伏せて動けなかった月島の上体が浮き上がる。
再び光が引き摺りはじめたのだ。
「……っ!?」
視界に迫る黒い湖。
顔の真下に水面が迫った時、光の両手が月島から離れた。
「一緒にいこう?」
バシャンと水音を立てて月島の顔が湖へと落ちる。
もちろん彼の体は動かないままだ。
光はそれをわかっていて、本気で殺す気らしい。立ち上がり、傍観の姿勢だ。
がぼがぼと泡を上げて月島が焦るが、抵抗の術はない。空気を早く減らし、死に近づくだけだ。
氷のような水の中へ、意識を残したまま、体を動かせぬようにして突っ込むなど、常人に出来ることではない。
そんな拷問を課す光の表情は冷酷か恍惚かと思いきや、悲しげに歪んでいた。
「ごめんね……ごめんね……」
見ていられないとばかりに水面から顔を背けると、俯いて目を閉じる。
少しして必死でもがく水音が消え、光がうっすらと目を開けた。
その時、
「きゃっ?!」
がしり、と足首を掴まれた。
おそるおそる足元を見る光。
「や……なんで……?」
自分の足首を掴む腕と、水浸しの後ろ頭がそこにはあった。
「げほっ……げほ」
水を吐き出し咳き込みながら、地面に這いつくばるのは、確かに月島であった。
「動けるわけない……ひゃっ」
ぐい、と強い力で手首を引かれ、ぺしゃりと地面に座り込む光。
手を引いたまま、むくりと月島が緩慢な動きで体を起こすと、視線を光に合わせた。
「くうっ……!」
再び首元を狙い、顔を近付ける光。
だがそれよりも早く月島が光の肩を強く押し地面へと倒した。
「いっ」
それから両腕を押さえつけ、起き上がれないように足にものしかかる。
動けず逆の立場となった今、光が諦めたように無表情で月島を見上げる。
水を滴らせながら見下ろす月島は怯えでは無く、怒りと悲しみが混ざったような顔をしていた。
「ねえ……なんで……そんなおかしくなっちゃったの?」
「おかしい?」
「どう見ても。そんな風になるまで、何があったの?」
「……ふふ……ふふふっ」
「トモネエはさ、言わないからわかんないんだよ。勝手にため込んで1人でパンクしてさ。バカなんじゃないの?」
髪から滴った水が、渇いた笑い声を上げる光の頬にポタポタと落ちる。
聞こえているのか聞こえていないのか。おかしくなった光は笑い続ける。
相対するように月島の表情は苦渋に満ちたものだった。
「――離れてっ!!」
突如、高く鋭い少女の声が、湖に響き渡る。
タタッと一瞬足音が聞こえた気がして、湖を背に正面を見た月島。
向いた瞬間、ゴッと押し寄せる風に目を瞑ると、重い衝撃波を受け後ろへ吹き飛ばされる。
「うぐっ」
「え……!?葵っ!?」
尻餅をついた月島がすぐそばでした声に目を開ける。
月明かりに照らされ目の前に迫っていたのは、驚愕に目を見開いた恵。
「じゃあ……襲われてるのが……!」
恵の背後で、むくりと光が起き上がる。
その気配に急ぎ振り返った恵は、躊躇いもせず手刀を光のこめかみへ向けて放つ。
パシッと光はそれを受け止めると、手放さず噛み付こうと口を寄せる。
だが恵は焦りもしない。
押さえられていない手からカチャと音をさせ、黒い筒状の物を落とす。
そして蒼く煌めく物を居合いのように、光へと向けて打ち出す。
「うぐっ!」
それはザッと光の肩下から肩上を斬り上げた。
ジュッと焼けるような音とともに、白く眩しい燐光が血のように飛び散る。
恵の右手が振るったものは、刃が青く鈍く光る短刀だった。
「は……?」
月島の目がぼんやりと短刀に釘付けになる。
視界の奥には肩を押さえ、血のように吹き出す輝きに呆然とする光の姿。
「大丈夫だよ葵。あれは光じゃないから」
「は?」
どこからどう見ても光だ。
そう言おうとして恵の顔を見た月島だったが、喉に出かかった声をごくりと飲み込む。
なんてことない、とでもいうように笑う恵があまりに自然で、場違いなのは自分の発言のような気がした。
からりと笑うその背中へ再び光が飛び掛かる。
ふっと瞬時に笑みを消すと、恵は見返りもせず後ろ手で剣を突き立てた。
引き抜くと、白くまばゆい燐光が辺りを照らしながら吹き出した。
「光のばか……よわむし……!」
笑顔から一転、振り返った恵は怒った様子で光と対峙する。
光に対して一言申さないと気が済まないといった様子だ。
刺された箇所を押さえながら憎々しげな目つきで光がにらみつける。
そんな光をビシリと指差すと、恵は大声を張り上げた。
「こんな弱っちいお化けに憑かれるなんてバカ!悔しくないの!?」
なんだか突拍子もないことで怒っているようだ。
「……お化けに憑かれる?どういうこと?」
よくわからない恵の言い分に、光ですら食い付く。
「むうー、光もバカだけど……バカ幽霊!自覚ないだけでもう死んでるんだよ!今、人にとり憑いちゃってるんだよ!」
「死んでる?私が?うそでしよ。生きてるじゃない」
「それが生きてないんだってば……ちゃんと顔は見た?自分の顔じゃないと思うよ?」
「なら何でこんなに辛いの?死んだらそんなの感じないでしょ。自由になるはずでしょ?だから死にたいのに、死んでるって……ふふっ、冗談やめてよ」
「うう……それはそういうモノだとしか言いようがない。あのね、お姉さんは確かに幽霊で、無意識にとり憑いちゃってて」
「ふふ、おもしろーい」
「しかももう完全に悪霊なんだよっ。だから悪いけどもう、かえってもらうね!無理矢理にでも!」
短剣を構えなおし悪役のようなセリフを放つ恵。
一瞬のうちに、問答無用で横一閃の一撃を光へと浴びせた。
よろける光。躊躇わずさらに短剣を振り上げ、肩口から斜めに体を切り裂いた。
「うっ……」
その一撃で立っていることさえ出来なくなったのか、ふらふらと地に伏せる。
恵は構えの姿勢を解き、足元に落ちていた鞘を拾い上げる。
カチリと刀身を仕舞い、倒れた光のそばにしゃがみこむ。
「お姉さん、もう辛くないでしょ?すっきりした気分じゃない?」
散々斬りつけておいて、恵が外道のようなセリフを吐く。
あれだけの目にあわされてスッキリした気分になるなど、Mに目覚める他にない。
「……うん。もう辛くない……」
目覚めてしまったのだろうか。
毒気の抜けた穏やかな顔をした光の体は、全体が白く滲むように発光している。
「うん……おやすみ」
スッと手を伸ばし瞼を優しく閉じさせる。
白くぼんやりとして体にまとわりついていた薄明かりが、ふわりと天へ浮き上がる。
蛍のような光の粒を散らしながら、幻想的な光景をつくりだす。
ついには夜空に溶け入るように消えてしまうまで、恵は静かに見つめていた。