25話:森の中へ
1階への階段を下りきって数歩、ピタリと萩原の足が止まった。
視線は玄関、あとから続いた月島も何事かとそちらを見やる。
玄関の光が届く範囲、外を小柄な人影が走っていた。
ポニーテールを揺らして森方向へと向かうそのシルエットに、2人は確かに見覚えがあった。
「トモウトだよね……」
「なにしてんだアイツ?外出禁止のこのクソ寒い中」
不機嫌そうに顔を歪めた萩原が走り出す。
上履きのまま構わず、前だけを見て玄関の外へと走る。
小さな人影を見失わないように暗闇で目を凝らしながら、極寒の夜空の中、全速力で追いかける。
「おいっ」
「……豊?!なんでここに?」
「いやお前がなんでここに居んだよ」
懐中電灯を持った左腕を捕まれ驚き振り返った恵。
胸元の右腕が大事そうに、何か白い布に包まれたものを抱えているのが目に入った。
「ちょっと用があって。すぐ戻るから離してよ」
「用ってこんな所に?ありえないっつの」
押さえられた左手を振りほどこうとするが、萩原は離さない。
追い付いた月島はいまいち状況が掴めないようで、2人の手前で立ち止まり躊躇する。
「お願い。ホント大したことじゃないの。ちょっとしたら戻るから放っといて!」
早口でそれだけ言うと萩原のヒジ辺りを白い布に包まれた物で、カツンと突く。
「ぐっ……ファニーボーン……」
ぶつけると電流が染み渡るような刺激が走るスポット、ファニーボーンを突かれた。痛い、これは痛い。
その攻撃は捕まれた腕を解放するのに充分なものだった。
ごめん、と小さく言い残し、森の中へと駆けていく。
「え、ちょ、なんで森?!」
月島が慌てて追いかける。
くそ、と小さく吐き捨てたあと萩原もコンクリートを外れ、森の中へと足を踏み入れる。
「……ついてこないで!」
白い息を後ろへと流しながら、鋭い声で叫ぶように拒絶を表す。
だが一分一秒を惜しむように、振り返ることはない。
髪をなびかせ森の奥へと、迷いのない足取りで走る。それを追いかける男2人。
端から見れば鬼ごっこ、いやむしろ女の子が暴漢に襲われて、逃げているようにも見える状態だ。
運動能力の高い恵だがやはりそこは女子。足の速さにそれなりに定評のある男2人には適わない。
何度か腕を捕まれるが、素早く、有無をいわせぬ力で振り払う。
湿った雪の上を、苔むした樹の根の上を、鹿のように軽やかに走り続け、数分が経った。
「ちょ、トモウトッ!なにがしたいかくらい、教えてよ!じゃなきゃ追いかけるの、やめないっ……て、うわっ!?」
話すことに気をとられたのか、足を滑らせた月島がズシャーッと転倒する。
横っ面を地面に打ち付け、見るも無惨なずぶ濡れ人間となる。
それを一瞥し走り抜けた萩原が前を見ると、恵が徐々に減速するのが見てとれた。
そしてついにはピタリと足を止める。
「はぁ……はぁ……」
白い息を苦しげに吐き出しながら、左右にキョロキョロと顔を動かす。
焦り、不安、恵には似合わない感情が暗がりの中でも伝わってくる。
右か左か、求めているものがどちらか、わからなくなってしまったらしい。
「おい……」
「帰って!……こなくていい!」
裏返った声で排他的なセリフを吐き捨てる。
萩原へと向けられた背中から、精一杯彼を切り離そうとする壁が立ちふさがっているように見えた。
「……どっち?……どうしよ」
混乱は相当なようで、困惑した声が小さくもれていた。
他を排除し、1人で勝手に行動し勝手に悩み、立ち止まって動けなくなってしまっている姿は、ひどく痛々しく見えた。
萩原はチッと舌打ちをすると恵の肩に手を置いた。
にわかに体が揺れ、チラリと恵が振り返る。
「どうしたんだよ。言ってみろよ」
暗がりのなか確かに目が合う。
数拍、沈黙が訪れる。
冷たい森を揺らす風の音が、静かに現状の不気味さを伝えていた。だがそれも少しの間で、肩に置かれた手から逃れるように、恵が一歩前へと踏み出す。
「言えない。ただお願い……豊はここに居て」
恵はそう言うと、決意したように懐中電灯をギュッと握りしめ、左側を選んだ。
ポニーテールをしならせ、10時方向へとターンを切る。
萩原は、彼女の切に願う声色の拒絶を受け、地に繋ぎ止められたように動けなくなっていた。
だがこの現状、放っておけるわけがない。
危険な森の奥へ、頼りない女1人が行こうとしているのだ。止めないわけにはいかない。
正直どうしてこんな状況になったのか、理解不能なのだが。
躊躇いつつも動き出した足が雪の上の小さな足跡に重なる。
「……くそっ」
引き留めることは諦めた萩原、それでも彼に追いかける以外の選択肢はない。
上履きは水浸しの土まみれ。体は冷えきっていて震えがとまらず、鼻が耳が指先が千切れんばかりの痛みを放っている。
男の萩原でも苦行だというのに、さすがに速度は落ちたものの、恵に立ち止まる気配はない。ただ前を向き走り続ける。
再び恵のスピードがぐんと上がり、数十メートルほど進むとようやく走るのをやめた。
何を思ったか懐中電灯を消し、さくさくと雪を踏みしめて歩く。
ゴール地点なのか巨木に手をつき、死界となっている木の後ろ側をそっと覗きこんだ。
「……うそ……ちがう……」
何かを確認した瞬間、恵はふらついたように一歩後退る。
小さく呟かれた声は落胆、絶望がにじみ出ていた。
「……っ!?」
後ろから何事かと覗きこんだ萩原は、そこで見たものに対し絶句する。
「豊、下がって……あれ……葵はっ?」
恵がハッとして振り返る。
萩原は視線を恵の奥から外せぬまま、声を出さず呆然と、ただ首を横に振った。
そんな萩原の姿に、恵は混乱を見てとったようだ。
「あ……大丈夫だよ、豊。だから豊はこの木のそばに居てね」
心配そうな顔で、優しく諭すように恵が囁く。
だが萩原の混乱は治まらないようで、まさに開いた口がふさがらない状態だ。
彼の目に映るものは、それだけの混乱を起こさせるに足るものだった。
彼が見たものは――
しゃがみこんでパキパキと何かを貪る、人の影だった。