22話:午前2時、午前4時
合宿一日目の午前2時。
丑三つ時といえば幽霊話でよくイベントの起きる時間帯だが、学習室に缶詰の学生達はただただ現実に追われていた。
「う……うひぃい!」
情けない悲鳴を上げ生徒がまた1人、教師に襟首を掴まれ消えていった。
居眠りをした生徒には強制的に『心頭滅却、三分間雪上修行』が執り行われた。
キンキンに冷えた夜の空気のなか着のみ着のまま放り出され、3分間閉め出しをくらうのである。
真夜中の暗い森を見ながらの3分間だが、ホラー要素を感じ取る余裕など無い。
ただ、凍死という二文字を脳へと届ける、大自然の脅威を感じる3分間コースなのだ。
「問7解説してやろうかー?」
「たのんますー」
いかにも空元気といった明るい声がグループ学習室から聞こえてくる。
夕飯前と同じ場所で固まった仲良し六人組は、完全に深夜のテンションだった。
「ストップりっちゃん!そこの読みはツツジだよ!」
「やるじゃない恵!」
「へっへっへ!夜になると頭が冴えさえなのだー!」
脳内アドレナリンが迸り、一様に目を爛々とさせ、もはや異常の域に達していた。
一日中勉強した結果がこれである。
そんな中で1人、明らかに浮いてグロッキーな人物がいた。
「なんで4にならないの……ありえない……ありえない」
目を虚ろにさせて暗いオーラを放つ、光だった。
答えが合わないらしい答案に向かって、もう5分以上ブツブツと何やら呟いている。
ペンを片手に微動だにせず、集中して口だけを動かしている。
しかし何事か、突然サッと素早い動きで顔を上げる。
口を引き結び瞳孔を開いて前方を見据える様子は、警戒した猫のようだった。
「お、おーう。お前らー、勉強するのはいいが、もうちょい声落とせー」
光の視線の先には、まさにちょうど六人組を注意しようと、離れた位置から方向転換した教師が居た。
光の睨みに思わず足を止めると、その場で聞こえるように声をかける。
教師がこちらへ向けた敵意のようなものに、光は鋭く反応して顔を上げたのだ。その行動は、危険にさらされた野生動物のようだった。
「光、野生化してる。気を確かにっ」
「気は確かだもん」
なだめる恵に口を尖らせて言い返した光の姿は、トモネエトモウトの関係が逆転したようだった。
「みんな覚えといて。光は夜になるとバカになります」
「ああ。ついでにトモウトが、夜になるとその穴を埋めるようにマトモになるのも覚えとく」
「昼だってマトモですー。もう……うるさい豊。余計なこと言う暇あったら頭使いなよ」
そう光をまねて言った恵には、姉の風格まで湧き出ている気がした。
目を細めた薄笑いの表情が偉そうで、普段の恵の姿を考えると小憎たらしい。
「うわうっぜ、お前にだけは言われたくない」
「うわー、なんてひねりの無い言い返し。言われた通り頭使えば?お馬鹿さん」
「調子に乗んじゃねえよ、脳ミソにシワの一本も無いツルツル野郎」
「一本はある!確実に一本はある!さっき頭使ったから」
「じゃあ見せてみろよ」
始まってしまった萩原月島によるバカ狂騒曲バージョン深夜。当然教師は反応するわけで。
「おいうるさ……」
再びギロリと光の鋭い眼光を浴び、教師はその場でフリーズする。
普段の礼儀正しい優等生姿を知るがゆえ、先生はどう反応すればいいのかわからない。ただ何だか反抗的な態度に、ちょっぴり泣きそうになる。
「……静かにやれよ」
光の威嚇のおかげで6人は、それなりに恵まれた環境で学習できているようだ。
恵まれた環境下とはいえ、寝たらさすがに罰則は免れない。
深夜のテンションはいつまでも保っていられるわけではない。
午前4時が近づきオールに慣れていない彼らは、魂が抜けたように燃え尽きていた。勉強でのオールだということがさらに辛い。
「俺、もう、寝る」
「私も」
谷のやっと紡ぎだしたような声に藤井が賛同する。
「一緒に寝るなんてラブラブね」という冷やかしを言うはずの仲間たちも、今や廃人のようにただ起きているだけだった。
「あー……俺ももうムリー」
あまり考えなくてすむ、英単語書き取りに移行していた月島がパタンとノートを閉じる。
荷物をまとめ3人が立ち上がると、おぼつかない足取りで部屋を出ていった。
寝る、と一言言い残し30分ほど前に光は退室している。
つまり座敷に居た6人組は、今や萩原と恵の2人だけとなっていた。
「萩原寝なくていーの?」
退席した分の空席を詰めずに、斜め前の離れた位置から恵が尋ねる。教師は離席しているので、堂々と話しても心配の必要はない。
「あと30分やって7時まで寝られるコースにすれば、そのまま朝礼出れて睡眠時間が稼げる」
「あ、同じ作戦だ。朝礼って仮眠室でやるもんね。みんなが7時になって、勉強部屋から仮眠室に移動してくる間、寝て待つ作戦でしょ」
「そこで睡眠時間5分稼ぐ計算。それに2時間半睡眠で起きて、いきなり勉強とか俺……ムリ」
普段「ムリ」やら「出来ない」など滅多に言わない萩原。疲れでプライドストッパーが外れているのか、ぽろりと「ムリ」が口からもれた。
「うわ、萩原が素直だー」
驚き目を輝かせた恵が、萩原の前の席へと、膝をついたままトタトタ移動する。
机を挟んで向き合い、両肘をついて手のひらに顔を乗せる。視線を落とし、びっしりと文字の書かれたノートを見る。
「………」
トントンとシャーペンを人差し指で軽く叩き、萩原の手は止まっていた。
「わかんないのー?なに、古典?」
「頭まわんねえ」
「これさっきやったヤツだ。えっと、このはべりはー……」
なんということでしょう。恵が萩原に勉強を教えています。
視界を邪魔する髪を耳にかけ、さらさらとテキスト上にペンを走らせる。恵のくせに、とってもクールだ。
「だから答えはAでしたー。わかった?」
「ああ。……ふふっ……くくく」
「え、なに笑ってるの?」
耐えきれずといったように、笑い声をもらした萩原。ついに疲れで変なスイッチが入ってしまったのかと、不安げに恵は尋ねる。
「お前が俺に勉強教えるとか……」
「うわあ、自分が頭良いの前提。いくら学年一位でも、疲れきった理系に得意分野じゃ負けられないよ」
「ピエロ女」
「へ?」
「お前頭の回転早いくせに、なんでいつもバカばっかやってんの?」
「私のことそんなふうに思ってたの?買いかぶりすぎだよ。ピエロじゃないよ、私はちゃんといつでも素だよっ」
ふうん、と感情薄く相づちを打つと勉強を再開する萩原。
だが少しして再びペンが止まる。
「……何見てんだよ。気が散るんだけど」
萩原が頭を上げた先には、じっと見返す恵の顔があった。
「へへ、私の目力におそれをなしたか」
「は?」
「豊はかわいいなーって、見てただけだよ」
「……は?」
自分に該当しようのない耳を疑う褒め言葉に、目を点にする。
女子の『可愛い』は挨拶のようなものとはよく言うが、何もした覚えのない今、言われる筋合いは無い。
しかも普段恵は、可愛いをすぐ連呼するタイプの女子ではない。
「今の発言はちょっと引くぞ。なんかバカにされてる気分になるしな」
「だって実際バカにしてるもん!」
そう小馬鹿にしたように笑う恵を睨むと、ため息を吐いてノートに視線を落とす。
話を続ける気が失せたらしい。
「豊、子どもみたい」
萩原の聞く耳を持たない態度に構わず、恵は続きを口にする。
しっかりと聞き取ってしまった萩原は片眉をピク、と持ち上げ、俯いたまま不服そうな声を出した。
「的確に俺が腹立つ言葉言いやがって」
「だってホントのことだもん」
「……なんだよ、珍しく攻撃的だな」
「ピエロだなんて、思わないでよ……私いつも素直だもん」
静かな声で言ったその声は、不思議と萩原を責めるように響いた。萩原が顔を上げる。
少し俯いた恵は珍しく無表情だった。
「……お前、怒ってたの?」
そう尋ねるとむ、と口を尖らせて不機嫌な表情となった。
「そうかも……」
(言われなきゃ気付かないのかよ……こいつ、頭の回転は早くても自分のことになるとホント鈍いんだな)
「……何笑ってるのさ、こっちは怒ってるのに」
眉間のシワを深くして恵が睨むが、萩原は笑みを引っ込めない。
「全然素直じゃねえじゃん。自分の感情もスムーズに出せないなんてよ」
その言葉に恵は一瞬ポカンとした表情になった後、困ったような笑顔をつくる。
「本当だ、だめじゃん私。なんだか疲れた豊はいつもより相手のこと見るね」
「いつだってみんなの心配ばっかしてる優しい委員長だろ?俺は」
「嘘つけっ」
早くも恵の怒りはどこかへ行ってしまったらしい。楽しげに笑っている。
そして突然、ハッとイタズラを思いついた子どもの表情になる。
「そっか!……そうだねー、見栄っ張りで悪ぶってるだけだもんねー豊はー。優しい委員長だよ、うん」
「はあ?」
「よしよし」
子どもをなだめるように頭を撫でる恵に萩原は舌打ちをするが、手を振り払うことはなかった。